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トラウマは丁寧に保管されています  作者: 続けて 次郎


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第十一章:白い部屋に落ちる影

精神科病棟の午後は、いつも時間がよく伸びたガムのようにぐにゃりと粘ついていた。


凪は面談を終え、白い廊下をゆっくり歩いていた。

壁に走る影は、まるで凪の心の奥にできたひび割れをなぞるように細く揺れている。


灯は、今日は観察室にはいなかった。

それだけで病棟の空気が、いつもより乾燥しているように感じられた。


「灯は、今日は外来室だよ」


背中から声がした。


振り向くと、年配の看護師がカルテを抱えたまま立っていた。

この病棟で日常的に見かける人なのに、凪はいつも体の奥が少しだけ固くなる。

白衣は、時に人を“診る側”と“診られる側”に分断する境界線のようだった。


「…具合、悪いんですか?」


自分でも驚くほど慎重な声が出た。

看護師は一瞬だけ視線を伏せてから、静かに言う。


「少し、調子を崩してね。あなたとはまた会えると思うけど…今日は面会は難しいかもしれないわ」


その言葉は、凪の胸に小さな針のように刺さった。

“難しい”という曖昧な助詞をまとった柔らかい拒絶ほど、残酷なものはない。


看護師は歩き去り、凪はひとり、足を止めたまま壁に寄りかかった。


灯がいないと、この場所は呼吸がしにくい。

白い廊下は静かなのに、耳鳴りだけがひどくなる。

“灯”という一点の色によって辛うじて保たれていた凪の輪郭が、急に揺らいだ。


――灯は今日、どんな顔で過ごしているんだろう。


その問いが頭に浮かんだだけで、胸がきしむ音がした。





凪は帰らずに、病院の敷地内を歩いていた。

敷地の端にある木立は、冬の風を溜め込むようにざわめいている。

木々の音は、耳を澄ませば誰かの呼吸にも似ていた。


ふと、金属音がした。


フェンスが、わずかに揺れた。


風のせいではない。

病院の裏手にある高い金網は、普段ほとんど動かない。


凪はゆっくり近づく。


――灯が、ここに来ていた?


根拠はなかった。

でも胸がそう言った。


フェンスの手前に、靴跡が二つ。

小さくて、軽そうな足の跡。

灯の靴跡に似ている。


凪はフェンスに触れた。

金属の冷たさが、凪の指先に刺さる。


まるで、“ここから先の世界にいくつの影が沈んだか知ってる?”と問いかけてくるようだった。

凪は思わずフェンスを握りしめた。


――灯、何かあったのか?


学校では感じない焦燥が胸を焼き、呼吸が浅くなる。

その瞬間、背後から音がした。


「……凪くん?」


振り向くと、白いマフラーを巻いた灯が立っていた。

息が白い。

頬が薄く赤らんでいる。


「どうして、こんなところに?」


灯は少し困ったような笑みを浮かべた。

凪は、胸が掴まれるように痛んだ。


「……灯こそ。調子、悪いって聞いて」


灯はほんの少し目を伏せた。


「うん。ちょっとね。でも、外に出たら、息が楽になった」


その言葉は、危うい透明さを持っていた。

風に触れただけで割れてしまいそうな。


凪は目をそらせなかった。


「灯……何かあったのか?」


音を立てずに、灯の瞳から色が抜けた。

まるで内側の窓がそっと閉じたように。


「……何もないよ」


一瞬。ほんの一秒にも満たない隙間。

灯の声に、微かに“濡れた音”が混じった。


凪は、胸がざわついた。

灯は嘘をつく人間ではない。

だからこそ、その“濡れた音”が凪に突き刺さった。


灯はフェンスの横のベンチに座った。凪も隣に腰を下ろす。


夕方の光は白く濁り、二人の影を不鮮明に溶かしていく。

まるで影さえ、この病院では落ち着いていられないみたいに。


しばらく沈黙したあと、灯が言った。


「……凪くんってね、誰かが落ちていく音に敏感だよね」


「……落ちていく音?」


凪は言い返す。灯は小さく笑う。


「心がね。見えないところで落ちるとき、すごく小さな音がするんだよ。階段の一段を踏み外したみたいな音。 凪くん、その音に気づく人なんだと思う」


灯は凪の指を、ほんの一瞬だけ軽く触れた。

温度は、冬の夜に灯る小さなランプに似ていた。


「だから――私、話したくなるのかもしれない」


「何を?」


灯はしばらく黙った。

その沈黙は“痛みの形を探している沈黙”だった。


そして灯は、ゆっくり口を開いた。


「私が入院した理由。……そろそろ、話すね」


風が止まった。

凪の胸の奥で、何かが静かに締め付けられる。


灯は白い息を吐き、それを追うように視線を落とした。


「私ね――」


言おうとした瞬間、病棟の方向から大きな声が響いた。


「灯さん!!どこですか!!」


看護師たちの声。駆けてくる足音。

灯はわずかに肩を震わせた。


次の瞬間、灯は凪の手を掴んだ。


「……ごめん、凪くん。 今日の話はここまで」


「灯――」


灯は首を振った。

その笑顔は儚く、どこか置き去りの子どものようだった。


「でもね、凪くん。 もうすぐ全部話すから」


看護師が駆け寄ってくる。

灯は「大丈夫」と小さく手を振り、引き返していった。


凪は、灯の背中が白い廊下に消えるのを見つめていた。


風が再び吹く。フェンスがわずかに揺れた。

揺れたのは金属か。それとも、凪の胸の奥か。


――灯はいったい何から逃げている?

――そして何を言おうとしていた?


白い病棟の窓が閉まり、世界が静かに夜を迎えた。

凪は立ち尽くしたまま、自分の影を見つめた。


影は細く、冷たく、揺れている。

まるで、“灯の秘密に触れようとするたびに、君も削れていくよ”と、警告しているようだった。

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