令嬢、心に火が灯る
「ワンパン令嬢さま! もうお聞きになりましたか?」
酒場に入ってすぐ、店主がわたしに駆け寄ってきた。
わたしが市民環状区のいつもの小さな酒場に顔を出すと、どうやらちょっとした騒ぎになっていたらしい。
「帝都の伝説ですよ! 魔物も貴族も、指ひとつで吹っ飛ばす美少女令嬢! ほら、もうポスターもできてまして──!」
カウンターの壁に貼られた紙には、妙に可愛くデフォルメされたわたしの似顔絵と、「英雄降臨!」の文字。
なによこれ、笑顔すぎない? こんな顔、わたししてた?
「……わたし、婚約者を探してるだけなんだけど」
「まあ、目立つ分には悪くない」
バジリスクがカウンターに腰掛けて、黙々とスープをすする。
彼はここに来てから、食に少しうるさくなった気がする。
「さっきの市民、“伝説婚約”とか言ってたわよ。
わたしたちで結婚すれば帝都中が平和になるとか──」
「……冗談にしては、妙に本気だったな」
「…………」
自分の口から出た言葉なのに、なんだか鼓動がひとつだけ跳ねた気がした。
バカみたい。何をときめいてるのよ、わたし。
◇ ◇ ◇
帰り道。わたしたちはいつもの路地裏を歩いていた。
冷えた夜風が頬に当たり、火照った顔にはちょうどいい。
だけど──風じゃない何かが、背筋に触れた。
「……来たわね」
石畳の影から、赤い仮面が現れる。
笑顔と涙の二面を持つ男、エルゼン。
「こんばんは。おふたりの邪魔をするつもりはありません。
ただ、アルシェ・クライン──あなたに、ひとつだけ伝えたいことがあって」
わたしは指を構えかけたが、バジリスクがそっと手を伸ばして制止する。
「……話させてみろ。妙に静かすぎる」
「ありがとう、魔眼の殿方」
エルゼンは仮面の下、目元を緩めた。
「わたしは──あなたの“幸せの可能性”に、嫉妬しているのです」
「……は?」
「あなたが誰かを信じ、愛し、そして愛される未来があるとしたら。
その感情の力は、理屈や政治を超えて、すべてを変えてしまう。
……だから、怖いのです」
彼は静かに、仮面の端を指でなぞる。
パキ、と音を立てて、片方の仮面が外れた。
覗いた顔は、悲しげな美貌。涙の跡が、左目の下にだけ残っていた。
「あなたのような人間を、本当は羨ましくてたまらない。
この仮面の下で、わたしは──いつも、誰かの“理想”でしかいられなかった」
わたしは、言葉を失った。
何かを返すべきかもわからない。心が、少しだけ揺れた──そのときだった。
「──離れろ」
バジリスクが、わたしの前にすっと出た。
彼の右腕がわたしを守るように広がり、サングラスの奥から、鋭い気配が走る。
「……お前は、何者であれ危険だ」
「……そうかもしれませんね。
では、せめて彼女に贈り物を──これで、気づいてもらえたらいい」
エルゼンが指を鳴らした。
次の瞬間、黒い魔力の矢が、わたしを狙って放たれた──!
「──っ!」
避ける間もなく、バジリスクが飛び出した。
そして、矢を──その肩で受け止めた。
ズバァン!!
「バジリスク……!?」
見れば、肩口に赤黒い傷が刻まれていた。息を詰めて、彼が言う。
「……たいしたことはない。浅い」
「バカ……っ、そんなの、痛いだけでしょ……!」
わたしの胸が、ぐらりと揺れる。
わたしのせいで、傷を負わせた──
その事実が、信じられないくらい、怖かった。
「──ふざけるな」
指を立てた。
わたしは、何も言わずに人差し指でエルゼンをツンと突いた。
彼は驚愕とともに身を引いたが、避けきれず背後の壁が爆裂。
建物の半分が崩れ、土煙が舞う。
その中で、エルゼンはわずかに微笑んで、霧のように姿を消した。
「……やはり、あなたは怖ろしい。けれど、それがあなたの“強さ”だ」
◇ ◇ ◇
帰り道。わたしはバジリスクの肩に包帯を巻きながら、ぽつりと呟いた。
「……ほんと、バカ。あんたが痛いだけじゃない」
「痛くても……守りたいと思った。それだけだ」
「……」
心臓がうるさい。
これって、わたし……。
風が吹いた。指先がわずかに震えていた。
「……なにこれ。わたし、どうしたの……」
その夜、初めて“感情”で眠れなかった。
◇ ◇ ◇
一方、宰相府。
ナヴァロは報告書を握りつぶしていた。
「感情でも、心理でも折れない……あの女、一体どこまで私の想定を壊してくれるのかしら」
彼女の視線が向いたのは、地下の封印扉。
中には、巨大な鎧──帝国騎士団が隠し持つ、古代の“魔装兵”。
「次は、理屈も通じない“暴力”で叩き潰すしかないようね」
ワンパン令嬢、ついに心を揺らす。
その揺れが、恋へと変わる日は──もう、すぐそこ。