令嬢、婚約破棄を問われる
わたしがスライムをワンパンした翌日、街は軽くお祭り騒ぎになっていた。
宿屋の前には「ワンパン令嬢に祝福を!」なんて貼り紙まで出てたし、酒場の壁にはわたしの似顔絵。しかもなぜか微笑んでる。誰よ、そんな描き方したの。
「……わたし、婚約者を探しに来ただけなんだけど?」
「派手に騒げば、当然目立つ。それが帝都というものだ」
バジリスクはいつも通りサングラスをかけて、隣でパンをかじっていた。
帝都一番のパン屋だって? わたしにはふつうの味にしか思えなかったけど、彼は黙々と三つ食べていた。実は甘党だったりするのかしら。
「それにしても、わたしってそんなに魅力的?」
「お前は……変だ。だが、目を引く」
「変って、誉め言葉として受け取っておくわ」
◇ ◇ ◇
その日の夕方。
“政略結婚パーティの騒動”を収めた英雄として、わたしはある貴族主催の復興支援集会に招かれた。
誘いの文面は丁寧だったけど、どうせ誰かの政略でしょ。めんどうだなぁ……と思いつつも、情報収集のために出向くことにした。
バジリスクは例によって「騒がしい場は苦手だ」と路地裏で待機。
「なにかあったら来てね。合図は、あれよ、指のアレ」
「了解。小突いたらいいんだな」
「ちがう、そうじゃない」
貴族邸の大広間は、きらびやかな灯と演奏、そして胡散臭い笑顔で満たされていた。
でも、ひときわ目を引いたのは──
「ようこそ、お嬢さん。あなたをお待ちしておりました」
──仮面の男。
右半分は笑顔、左半分は涙を流すデザイン。赤い仮面の下から覗く瞳は、底の見えない色をしていた。
「わたしはエルゼン。あなたの“本音”を導く者です」
「ふぅん。じゃあ、わたしの嘘を見破ってごらんなさいな」
「喜んで。その言葉、ほんの少しだけ不安が混じっていましたよ。
本当は、“こんなところ、早く帰りたい”と、そう思っていませんか?」
「……っ」
鋭い。……けど、それだけ?
「だからなに? 帰りたいけど帰れないのは、大人の事情ってやつよ」
「ふふ……実に正直なお嬢さんだ」
仮面の男はわたしの視線を外さず、ひとつずつ言葉を重ねてくる。
「たとえば──あなたの婚約破棄。あれは、本当に“正しい選択”でしたか?」
脳裏に浮かぶ、あのアレクセイの顔。森の彼方へワンパンで吹き飛ばした男。
「……ああ、いたわね。クズ界の最高峰。吹き飛ばして正解だったわ」
わたしは笑った。鼻で。指で仮面を小突きたくなるくらいには腹立たしい。
「本当は、傷ついたのではありませんか? それを、怒りで覆い隠しているだけで……」
「……あんた、わたしに説教しに来たわけ?」
そのとき、仮面の男が静かに背後に手を動かした。
ああ、そっちね。言葉じゃなくて、暗殺が本命。
「残念だけど、そういうの──」
──ドンッ!
扉が吹き飛んで、バジリスクが入ってきた。
「……遅かったか?」
「ギリギリセーフ。でも、いいタイミングだったわ」
「刺客だな。感じが似てる。ナヴァロの部下か」
「正解。……ふふ、さすがですね」
仮面の男──エルゼンは一歩、後ろへ退く。
「今日のところは引きましょう。
でもご安心を。わたしはまた、あなたに“本当の幸せ”を問うために戻ってきます」
そう言って彼は、仮面の片目から黒い煙を立ち昇らせ、姿を霧のように消した。
◇ ◇ ◇
その夜。
バジリスクとふたりで、帝都の静かな石畳を歩いていた。
「ほんっと、今日は面倒な一日だったわ……」
「だが、怪我はなかった」
「当然でしょ。わたし、誰にも負けないもの」
月明かりが白く石畳を照らす。わたしたちは並んで歩いていた。
この距離感。妙に落ち着く。不思議。
「……わたし、誰かと“並んで歩く”なんて、昔はなかったのよ」
「そうか」
「いつも一人で歩いてた。……もしくは、誰かの後ろを追ってた。
でも、あんたといると、不思議と並べるのよね」
バジリスクは何も言わず、数秒だけ黙っていた。
そして、ぽつりと呟く。
「……お前のこと、変な女だと思ってたが。今は少し、違う」
「……なにそれ。今のは“ときめけ”ってこと?」
「違う」
即答。でも、顔は少しだけ横を向いてた。
わたしもそれ以上何も言わず、そっと指を握りしめる。
この指で、たくさんのものを吹き飛ばしてきたけど──
この距離感だけは、吹き飛ばさないように、大事にしよう。
◇ ◇ ◇
一方そのころ──
帝国宰相ナヴァロは、エルゼンの報告を受けていた。
「……彼女は想定外の反応を見せました。仮面の術が効かない。恐らく、本音と建前が一致している」
「そんな人間、いるわけないじゃない……!」
ナヴァロは苛立ち、机の上のグラスを握りつぶす。
「もしあの女が──誰かを“本気で”好きになったりしたら……。
それこそ、帝都をひとつまみで吹き飛ばすでしょうね」
ナヴァロの目に、かすかな焦りが宿っていた。
恋を知らない令嬢が、指ひとつで世界を変えてゆく。
その隣には、無表情な魔眼の男。
ふたりの距離は、じわりと、確かに縮まりはじめていた。