令嬢、指先と心を取り戻す旅へ
わたしは今日も、ベッドの上で寝転がっている。
……というより、現実逃避している。
顔に冷たい布を当てながら、天井の剥がれかけた木目をぼんやりと見つめる。
「アルシェ様、……お茶、置いておきますね」
「うん、ありがと。飲む気力は、まだ戻ってないけど」
セレスタが小さくため息をついたのが聞こえた。
わかってる。みんながわたしに期待してたのに、あんな形で裏切った。
火炎瓶。群衆の罵声。庇ったセレスタの涙。
そして──動かなかった、わたしの指。
そんな空気を破るように、扉がミシリと軋んで開いた。
「起きてるか」
「寝てるふりをしてたわ。どうせバレるけど」
椅子を引く音。
バジリスクがわたしの枕元に座り、すこし黙っていた。
「帝都は……まだ燃えてない。お前が動かないからだ」
「……皮肉?」
「事実だ」
「ひっどい」
思わず笑ってしまった。少し、楽になった。
「……ねえ、バジリスク」
「なんだ」
「ちょっとだけ、逃げるわ」
「…………」
「……いいえ、“離れる”の。帝都から。
今のままじゃ、また間違える。わたし、自分を見失いそうで……」
しばらく沈黙が落ちた。
でも、バジリスクはわたしの手を取ったり、慰めたりなんてしない。ただ、こう言った。
「なら、行け。俺もついていく」
◇ ◇ ◇
夜明け前の帝都。
人気のない裏路地を抜けて、わたしとバジリスクは城壁の外へ出た。
「……これが、“逃亡劇”ってやつかしら」
「堂々と歩きすぎてる。逃亡じゃなくて、散歩だ」
「そういうこと言うから、賞金首なのに緊張感ないのよ」
でも、わたしは少しだけ笑ってた。
笑える余裕がある。これだけで、随分とマシになってた。
◇ ◇ ◇
昼頃、わたしたちはひとつの村に立ち寄った。
素朴な家並みに、畑と家畜と、子どもたちの声。
「……あ、旅のお方!」
ひとりの少年が駆け寄ってきた。
「お姉ちゃん、魔法使えるの? 剣とか持ってないのに、強そう!」
「ふふ。まあね。わたしの“武器”は──」
ツン。
指先で地面を軽く突くと、小石が吹き飛んで空中でパチンと弾けた。
少年の目が丸くなる。
「すっげぇえええええ!!」
「うるさい」
バジリスクの声が、ほぼ無意識に飛んできた。
そのとき──村の外れから、怒鳴り声。
「ほら、さっさと金出しな! ここらの村人はおとなしく払えばいいんだよ!」
「や、やめてください! 今月はもう、子どもたちの食料が──」
また、か。
村の入り口で、三人の盗賊風の男が年寄りを恫喝していた。
わたしはため息をついて、ゆっくりと歩み寄った。
「ねえ、あんたたち。指名手配犯に絡むなんて、勇気あるわね」
「なんだぁ? 女ひとりで──」
ツン。
地面に転がっていた枝を指先で小突く。
その瞬間、男は3メートル吹っ飛んで、逆さまに藁小屋へ突っ込んだ。
残る二人が顔を真っ青にして叫ぶ。
「に、逃げろぉぉぉぉ!!」
「“ワンパン令嬢”だあああ!!」
村人がわたしの方に駆け寄ってきた。
「助けていただいて……本当にありがとうございます。でも……本当に、あなたなんですね?」
「うん。ワンパン令嬢、ただいま田舎道を漂流中」
村人たちが少しざわつく。
「でも、帝都で指名手配って……やっぱり危ない方なのでは?」
そのとき、バジリスクが静かに言った。
「危ないのは、あの指だけだ。心は──意外と軟弱だぞ」
「おいこらバジリスク」
◇ ◇ ◇
その夜、わたしたちは小川のそばに野営地を作った。
焚き火のパチパチという音が、やけに心地よかった。
「ねえ、バジリスク」
「なんだ」
「……わたし、あのまま帝都にいたら、折れてた。
でも、こうやって歩いてるとね、“まだ立ってる”って実感できるの。
だから、行ってよかったのかもって」
焚き火越しに見た彼の横顔は、静かで優しかった。
「アルシェ」
「ん?」
「お前がまた立つなら……俺は、その横に立ちたい」
焚き火の灯りで、彼の言葉が胸の奥まで届いた気がした。
「……それって、もしかして……」
言いかけたわたしに、彼は少し視線を逸らして──
「意味は、あとで伝える」
「……やっぱりね。そうくると思った」
でも、そのときのわたしは、少しだけ顔が熱かった。
◇ ◇ ◇
一方そのころ、帝都。
宰相ナヴァロは、公開処刑の計画書に署名していた。
「支援者は見せしめに。吊るされれば、誰も逆らえなくなるわ」
書類の名簿に記された名前の中に──
セレスタ・ヴァルデンの文字があった。
令嬢は、指先と心を取り戻す旅へ。
帝都では、次なる“粛清の火”が灯り始めていた。




