第八話 訪問者
おとうさんはどこ?
おとうさんは、どこにいったの?
おとうさんはね・・・・
加奈子さんに起こされた。人に起こされるのは、久しぶりだと思う。揺り動かされるのは、嫌いではないと思う。身体に触れる手の感触が、とても心地いいから。手が僕の身体に触れてると、ひとりじゃないと感じるから。ひとりだと、誰も起こしてくれないから。誰も、僕に触れてくれないから。
だから僕は、自分の胸に手を当てる。そうすれば、安心出来るから。
「ねえねえ、真希。明日は日曜だから、学校お休みだよね?」
突然、加奈子さんに聞かれた。でも、日曜がお休みなのは普通だから、普通に答えても別にいいと思った。
「はい、学校はお休みです」
「じゃあ、じゃあ、どっか行こうよ」
「どっかって、どこへですか?」
僕を閉じ込めるあの建物以外なら、どこでもいいと思うし、もしかしたら僕をそこに連れて行くのかな?でも、加奈子さんはそんなことはしない。だから、動物園でいいと言われるとは思わなかった。だって、家から出してもらえるか、分からないから。
「でも、家から出られるか分かりません。だから、約束は無理です」
だから、動物園には行けない。遠足だって、行けなかった。僕はどこにも行けない。天国にも行けない。お母さんにも会えない、お父さんにも会えない。僕はひとりっきりだ。
そんなことを考えていたら、加奈子さんは唐突に僕の家に行きたいと言ってきた。お母さんに会いたいと言ってきた。僕は、戸惑った。加奈子さんを、あの人たちに会わせてはいけない。加奈子さんを、あの人たちに知られる訳にはいかない。
「じゃあ、じゃあ、今日学校が終わったら、真希のおうちに連れて行ってよ。お母さんに真希を動物園に連れていきたいと、お願いしにいくから。何だったら、お母さんと一緒でもいいし」
「ダメです!絶対にダメです!」
そんなことをしたら、加奈子さんが酷い目に遭う。加奈子さんがあの建物に閉じ込められるかもしれないし、もしかしたら殴られるかもしれない。そんなのは、嫌だ。絶対に嫌だ。想像するだけで、気持ちが悪くなる。そんな想像をする自分を、僕は嫌いになる。
加奈子さんは、幸せになるんだ。不幸になっちゃいけないんだ。だから、加奈子さんを守らないと。でも、どうしたらいいんだろうか?なんだか、気持ちが落ち着かない。だから僕は、気付かれないようにそっと胸に手を当てて、落ち着こうとする。でも、落ち着かない。なんでだろう?
「だって、いつか真希のご両親にご挨拶にいかないと、大人としてダメでしょう?」
「ダメです。絶対にダメです」
「理由を聞かせて?」
「ダメなんです。だからダメです」
理由は言えない、だって、僕が悪い子が理由なんですと告白するようなものだから。加奈子さんに知られるのは、嫌だと思う。だって、悪い子に優しくすることって、いけないことなんだから。
それに、加奈子さんを知られたくない。家族に加奈子さんのことを秘密にしないと、ダメだと思うから。
「う~ん、ダメなの?」
「はい、ダメです」
胸がチクチクする。また、加奈子さんに嘘を吐いた。加奈子さんに嘘を吐くのは、本当は嫌なんだけど。でも、そうしないと加奈子さんを守れない。僕は無力だから。僕は、何にも出来ない子供なんだ。それでも、嘘を吐くことだけは出来る。
だから、出来ることを精一杯する。
「じゃあ、この話しは無しね」
「はい、え?無しなんですか?」
ちょっとホッとしたけど、動物園には行ってみたかった。加奈子さんとふたりで、行ってみたかった。ふたりでなら、どこへでも行ってみたいと思った。でも、仕方が無いと思った。けれど、そんな僕の気持ちを分かってくれたのか、加奈子さんは僕の願いを叶えてくれる言ってくれた。
「ああ、動物園は行くよ。真希が家から出られたらね。それでいい?」
「はい!」
「じゃあ、学校に行っておいで。学校が終わったら、まっすぐうちに来るんだよ。お昼ご飯を用意しておくから。明日の動物園は、それから話そう」
「はい!」
「お昼、何がいい?」
「加奈子さんが作ってくれるものなら、何でもいいです。何でも美味しいです。何でも嬉しいです!」
これは嘘ではない。本当に加奈子さんの料理は美味しいし、とっても温かい。僕にはもったいないと思うぐらい。でも、涙が出るぐらい切なくなるのが、本当に不思議なんだ。うれしいのに、悲しくなる。どうしてだろう?
「じゃあ、何か用意しておくよ。ほら、学校行っておいで」
「はい、行ってきます」
「車には気を付けるんだよ」
「はい!」
僕は元気よく、走り出した。
誰にも追いつかれないように。
おまわりさんにも追いつかれないように。
血まみれの女に人に追いつかれないように。
僕は、全力で走った。
土曜日の学校は、午前中で終わる。いつもなら時間を持て余すけど、今日は違っていた。どこか、気持ちが軽かった。早く、加奈子さんに会えるから。
加奈子さんのおうちに戻ろうと教室から出ようとしたら、急に先生に呼び止められた。
家庭訪問のプリントを渡され、必ずおうちの人に渡すようにと、先生から念を押された。前のプリントはお母さんに渡したけど、ゴミ箱に捨てられてしまったから。おうちの人に、きちんと渡さなかったことになっていたから。
僕が、渡すのを忘れていたから。忘れていたことにしたから。
悪いのは、僕だから。だから、渡しても渡さなくても、本当は同じなんだと思う。
だから僕は、きちんと分かりました、お母さんにプリントを渡しておきますと先生に返事をした。
先生は、ちょっと変な顔をしていたけど、頼んだぞと言ってくれた。僕は嘘吐きだから、先生は嘘を信じてくれた。
でも、先生ごめんなさい。嘘を吐いて、ごめんなさい。本当のことを言えなくて、ごめんなさい。
先生は、何かあったら先生に言うんだぞと時々だけど僕に言ってくれるけど、そういう時の僕はいつも、何もありません、僕は大丈夫ですと答えるようにしている。その方が、痛い思いをしないで済むから。何かあったことを言っても、どうせ結果は同じだから。だから、僕は嘘を本当にするんだ。
だから僕はまた、今日も先生に嘘を吐く。いつも、嘘を吐くことで、僕はもっと悪い子になるんだ。悪い子は、天国に行けないから。
そう思うと、僕はいつも悲しくなる。泣いてしまった時もある。でも、これが自業自得というのだと思う。僕のせいで、みんな不幸になったから。
きっとこれが、僕の罰なんだろう。
僕はもらったプリントを丁寧に折りたたみ、ランドセルの中にしまった。
プリントをしまい終えたら、僕は少しだけど動けなくなった。
ほんの少しだけど、涙が出てしまった。
それから、僕は加奈子さんの家に向かって走った。
「美味しいです!」
加奈子さんの作るごはんは、いつも温かくて美味しい。スパゲティミートソースを用意してくれた。消化にいいから、これなら家でごはんが出ても食べることが出来るでしょうと言ってくれた。やっぱり、加奈子さんは優しいし、かしこいし、とってもカッコいい。僕も加奈子さんのような、優しい大人になりたい。でも、僕は悪い子だから、優しい大人になれない。悪い子だから、お父さんもお母さんもいなくなった。悪い子だから、閉じ込められた。そして今度こそ、一生閉じ込められるだろう。だから、いつか加奈子さんとも会えなくなる。嫌だけど、仕方がないと思う。
だから、今のうちにたくさん会っておくんだ。
僕がひとりっきりになる時まで。
そして僕は、きっと死ぬんだ。
「何時頃、うちに来れる?」
「ええっと、なるべく早く来ます」
「そう、なら待ってるね。何だったら、朝ごはんもうちで食べていきなよ」
「ありがとうございます。そうします」
僕は加奈子さんの家を出て、自分の家に戻ることにした。正直、戻りたくない。あそこはもう、僕の家では無いから。でも、加奈子さんを困らせたくない。心配を掛けたくない。
だから、あの家に行くんだ。
加奈子さんに会うために。
加奈子さんに会うためだけに。
だから、早く大人になりたい。
それまでは、死にたくない。
もっと、かしこくなりたい。
「誰だろう?」
玄関は、鍵が開いていた。僕はホッとしたような、残念だったような気がした。だって、鍵が閉まっていたら、加奈子さんの家に行けるから。また、加奈子さんに会えるから。加奈子さんと、一緒にいられるから。加奈子さんと一緒にいると、怖くないから。
温かい加奈子さんと、一緒に眠ることが出来るから、安心なんだ。
ひとりで床で寝るのは、本当は寒くて痛くて嫌なんだ。
それが僕の罰だとしても、本当なら受け入れないといけない。
でも本当は、僕は嫌なんだ。
そう思う僕は、本当に悪い子だから。
玄関には、見たことが無い靴が二足揃えてあった。
僕は咄嗟に、胸に手を当てた。
「お帰りなさい」
お母さんが、玄関まで出てきた。どうしたんだろう?いつもなら、僕を無視するのに。やけに機嫌がいい。
すると、お母さんの後ろから、大きな声がした。聞いたことのある声だった。
「やあ、真希さん。お帰りなさい。久しぶりだね、元気だったかな?たきがわですよ。私のこと、覚えていますか?」
僕は緊張した。胸に当てた手を、更に強く胸に押し付けた。僕をここから連れて行った、あのおじさんだった。そうか、僕を連れて行く気だ。あの建物に閉じ込める気だ。嫌だ、今は嫌だ。明日、加奈子さんと動物園に行くんだから。どうしたらいいだろう?
僕はお母さんに促され、おじさんに挨拶をすることになった。
本当は、ここから逃げ出したいのに。
おじさんの隣に初めて見る女の人がいたけど、ぺこりと頭を軽く下げただけで、何も喋らなかった。この人も怖い。
僕はうっかり、後ずさりしてしまった。
「おやおや、怯えなくていいんだよ。今日は家庭訪問だけだから」
「この子ったら、ホント人見知りなんですよ。おまけに、よく嘘も吐きますし」
なんだろう、この二人は。おじさんはよく喋るけど、女の人はずっと黙っている。でも、お母さんは怯えているみたいだ。いつもと違って、よく喋るし、愛想もいいから。
「どうかね、お父さんとお母さんとうまくやっているかい?」
また、僕に話しかけてきた。お母さんと話せばいいのに。僕はそういう時、どう答えればいいか分かっていた。どう答えれば、殴られなくて済むか、よく分かっていた。でも時々、間違えてしまう。ただ、何を間違えたのか分からなかった。分からないから、殴られるのかもしれない。
僕は愚かだから。かしこくならないと、また殴られるから。
かしこくならないと、みんなが不幸になるから。
「はい、うまくやっています」
僕はすぐに答えたが、おじさんと女の人の二人は顔を見合わせていた。お母さんは、ただニコニコしている。チラッと、僕を見るとき以外は。
おじさんも顔はニコニコしているけど、目がちょっと怖いような気がする。なんだろう、この感じは。
「お母さま。その後は、ちゃんとやっていますか?」
「はい、もちろんですとも。主人もこの子を大変可愛がっていますし」
おじさんしか喋らない。おじさんの隣に座っている女の人は、加奈子さんと同じぐらいのお姉さんだけど、一言もしゃべらない。笑ってもいないし、怒ってもいない。ただ、目が怖い。何だか、不気味な人だと思う。ずっと、お母さんを見ているけど、時々だけど僕を見ることがある。それが怖い。ふたりは出されたお茶も飲まないし、お菓子も食べない。いつもうちに来る人と、何か違う。
よく見ると、食卓には小さなメモみたいな紙が置いてある。何が書いてあるか見たいけど、お母さんの目があるから見ることが出来ない。
「そうですか、それなら良かった。でも、カウンセリングには来て下さらないようですね?」
「すみません、とても忙しくて。それにこの子、お医者さまが嫌いですから」
「そうですか。それでも、連れて行くのも保護者の義務ですけど」
おじさんは目を細めた。女の人は無表情だったけど、眉が少し動いた。なんだろう、この二人は。危ない人なんだと、それだけは分かる。これ以上、ここにいるのは危ないと思った。でも、言わないといけないことがある。今しかないような気がする。
「僕、行ってもいいですか?宿題があるので」
「ああ、そうですか。宿題ですか。勉強は楽しいかな?」
「はい、楽しいです」
「それはいい。でも、勉強ばかりではダメだよ。遊びもまた、勉強のうちだからね。友達も一杯作らないと」
お母さんが何か言っていたけど、耳に入らなかった。ここにいてはいけない、そう思ったから。でも、今なら、今しか出来ない。
僕は胸に当てた手を下ろし、覚悟を決めた。
「お母さん、明日、友達と動物園に行きたいです。行ってもいいですか?」
お母さんの眉が、ほんの少しだけ動いたけど、ずっとニコニコしている。
「ええ、もちろんよ。でも、お夕飯前には帰ってくるのよ。お行儀よくするのよ」
「お金を少し頂けませんか?交通費が足りないので」
お母さんの眉が、また少し動いた。僕を、まっすぐ見下ろしてきた。とても、冷たい目をしていた。怖いと思った。後ろに下がろうとする足を、なんとか抑え込んだ。
怯える自分も、どうにか抑えた。それでも、お母さんは笑顔だけは崩さなかった。
「ええ、いいわよ。はい、これ」
お母さんはお財布から千円札を一枚取り出して、僕に手渡ししてくれた。
何もされなかった。僕は、少しだけホッとした。
「お母さま。この子の年なら動物園の入園料は無料でしょうが、千円では足りないのではありませんかな?友達とごはんを食べたり、飲み物を飲んだりとか、おみやげを買ったりと、まあ子供なりにお付き合いもあるでしょうからね」
「まあ、確かにそうでしたわね。気が付きませんでしたわ。はい、これ」
お母さんは満面の笑みを浮かべながら、わざわざ小さく折り畳んだ千円札を僕の手の平に押し付けけてきた。そのままお母さんは、僕の手を包むようにして、お金を握らせた。
お母さんは僕の握った手を、お母さんの手で覆うようにして強くぎゅっと握ってきた。
とても痛かった。手が潰れそうなぐらい、痛かった。お母さんの顔は笑っていたけど、目は笑っていなかった。とても、冷たい目をしていた。僕は我慢した。うめき声を出さないように頑張った。とても痛いけど、泣きだしてしまいそうだけど、僕は笑い返した。胸に手を当てたい衝動も抑えた。明日、加奈子さんと会える。それだけが希望だから。ここを、うまくやりすごさないと。だから僕は、にっこりと微笑むことが出来た。
出来たんだ。頑張ったんだ。
「お母さん、ありがとうございます。大事に使います」
「ええ、お金は大切だからね。」
「はい、では、失礼します」
僕は二人にぺこりと頭を下げ、台所を後にした。手がずきずきしたけど、顔には出さない、出してはいけないと思った。本当は僕には行くところがないけど、ここにいては危険だと思ったから。だから、弟と妹の部屋に行くことにした。そこしか行ける場所が無いから。
「いいお子さんですね。本当に、よく出来たお子さんですね。とても、10歳とは思えないぐらいに賢い。いえね、私の子供も10歳なんですよ。これがまあ、やんちゃでしてね。遊んでばかりで、勉強もやらないんですよ。是非、真希さんを見習わせたいものです。お母さまが羨ましい」
そう聞こえた。大丈夫だ。僕が悪い子であることが、ばれていない。でも、お母さんを見ていた女の人は、今度は僕をジッと見ていた。これ以上見られたら、僕が悪い子だとバレるかもしれない。嘘吐きだと知られるかもしれない。だから、逃げるしかない。でも、おじさんと女の人は、すぐに立ち上がった。僕はそのまま、弟と妹の部屋に駆け込んだ。弟と妹は、僕を見ても何も言わなかった。僕は扉越しに聞こえる、おじさんとお母さんのやり取りを聞き逃さないようにした。
「では、お母さま、これで失礼します。また、伺いますね。何かありましたら、こちらの方に連絡をお願いしますね」
「あの、今度は前もって言って頂けませんか?いきなり来られても」
「お母さま。それでは家庭訪問になりませんよ。分かっていると思いますけど、我々はありのままの生活を見たいのですよ。ありのままの、真希さんの状態を。次は診断書も用意してください。保護者というのは、児童をちゃんと保護して初めて保護者なんですよ。分かって頂けますね?」
「はい」
「じゃあね、真希さん!また、来るからね。今度、ゆっくりお話ししましょう!」
とても、大きな声だった。
「動物園、楽しんできてくださいね!」
僕は、耳を塞いだ。
その日の夜は、久々に家族と一緒に夕食を食べた。お父さんはいなかった。弟も妹も、ただ黙ってごはんを食べていたけど、妹だけは僕をチラッと見ていた。
お風呂にも、お布団にも入っていいと、お母さんに言われた。その時の弟の視線が、ちょっと嫌だったけど。
「明日がある」
僕はそれだけを胸にしまい、眠ることにした。
夢は見なかった。
「加奈子さん!象です!象ですよ!ほら!加奈子さん!」
「はいはい、今行くよ」
僕ははしゃいだ。はしゃいで見せた。嘘じゃないけど、本当じゃない。昨日のことで、頭がいっぱいだったから。だから、加奈子さんに心配を掛けないようにしないといけない。嘘を吐かないといけない。嘘を吐きとおさないといけない。
「加奈子さん、キリンです!見てください、キリンです!」
叫べば叫ぶほど、はしゃげばはしゃぐほど、気持ちが冷めてくる。
ダメだ、集中しないと。加奈子さんに、ばれてしまうじゃないか。
「真希、走っちゃダメでしょう?」
「加奈子さん、早く早く!」
早く、早く、さよならする前に、もっと一杯遊ばないと。もっと、加奈子さんを見ないと。加奈子さんに見られないようにしないと。加奈子さんを元気付けないと。
だって、もう加奈子さんと会えなくなるかもしれないから。
僕は、足を止めてしまった。
肉のかたまりに食らいついている動物を、つい見てしまった。
動物の目を、見つめてしまった。
動物は、僕を見つめ返してきた。
僕は、身動きが出来なくなった。
僕は何とかして胸に手を当てたけど、それでも動くことが出来なかった。
動物が、舌なめずりをしていた。
僕に向かって、動物がゆっくりと歩きだしてきた。
僕を、食べる気だ。
動かないと、逃げないと。
でもどうしてだろう、動くことが出来ない。
どうしよう?
どうしたらいいだろう?
誰か、誰か。
「真希?」
「え?あ、加奈子さん?」
「何、熱心に見てるの?」
「ええっと、ああ、そう、そう、ハイエナです」
檻に表示してある、名前を口にした。そうか、ハイエナというのか。
「ふ~ん。真希はこういう動物が、気になるのかな?」
「いえ、たまたまです」
「そう?ああ、餌を食べてるのか」
加奈子さんは、僕がお腹を空かせたと思ったようだった。だから僕は、悟られないように振舞った。胸に当てていた手を、ゆっくりと悟られないように胸から離した。加奈子さんに気付かれなないように。だから、僕は明るく振舞わないと。元気に見せないと。
僕は、大丈夫だから。嘘なら、得意だから。
嘘しか、出来ないから。
「じゃあ、そろそろお昼にしよっか」
「は~い」
加奈子さんは広場の芝生にゴザを敷いて、お弁当を広げてくれた。
「うわあ、これ全部、加奈子さんが作ったんですか?」
「全部じゃないけど、卵焼きとか唐揚げは、私が作ったよ」
「すごい!初めてです」
遠足って、こんな感じなのかな?遠足に行っちゃダメだと言われたから、僕は留守番をした。あの時、みんなはどうしていただろうか、そればかりを考えていた。
考えていたら、その時は泣いてしまった。僕も、みんなと遠足に行きたかったから。
「ほら、頂きますは?」
「はい、頂きます!」
考え事をしていたら、挨拶を忘れてしまっていた。ダメだな、僕は。もっと、かしこくならないと。目の前のことに、集中しないと。今は、ごはんの時間だから。
おにぎりを食べる。海苔がしんなりしているけど、加奈子さんの作ったおにぎりはとても美味しい。もしかしたら、これが最後かもしれない。だから、この味を忘れないようにしないと。
「お茶も飲みなさい」
お茶は少し苦いけど、加奈子さんが持ってきてくれたお茶だから、何でも美味しい。
僕はうっかり、気持ちをつぶやいてしまった。
「遠足みたいです」
「ふ~ん、そうなんだ」
良かった、それ以上聞かれなくて。僕が悪い子だから、学校の遠足に行かせてもらえなかったことは、秘密にしないといけない。でも安心したら、何だか眠たくなってきた。
「ふわああああ~」
「真希?お昼寝しよっか?」
「はい~」
僕は横になる。加奈子さんが、僕の頭をなでてくれる。一緒に寝てくれる。ひとりじゃないんだ。
僕は、涙が出そうになるのをなんとか抑えた。
いつの間にか、眠ってしまった。
まき?まき?真希?
そんな声が、聞こえたような気がした。
その声は、加奈子さんのようで、違っていた。
アラームが鳴り始めた。僕はゆっくり起きたけど、加奈子さんは眠ったままだった。なんだろう、加奈子さんの顔色が悪いような気がする。
僕は急に不安になり、加奈子さんを揺り動かした。加奈子さんが死ぬかもしれない、そんな不安に襲われた。そんな時、どうすればいいんだっけ?思い出せない。分からないけど、とにかく起こさないと。
「加奈子さん、加奈子さん、加奈子さん!」
加奈子さんは起きてくれた。良かった。生きていた。
「ああ、ゴメンね。起こしてくれてありがとう」
「いえ、何だかうなされていたので。大丈夫ですか?」
「うん、だいじょう・・・平気だよ」
言いにくそうだ。でも、僕が加奈子さんの大丈夫を奪った。僕は奪ってばかりだ。本当は、与えたいのに。本当は、何も欲しくないのに。欲しいモノは、もう無くなってしまったから。
「う~ん、さあ、起きようか」
「はい!」
僕と加奈子さんは、動物園の見学を再開した。加奈子さんは、手を繋いでくれた。とても温かくて、とても柔らかい手だった。とても、優しい手だと思う。いつまでも、手を握っていたい。繋いでいたい。いつまでも、離さないで欲しい。でも、急に恥ずかしくなり、加奈子さんの手を振り払って走り出してしまった。
僕は、少し泣いてしまった。
泣いているところを、見られたくなかったんだ。
「あれって、親子でしょうか?」
オランウータンの親子だった。とても仲が良さそうだと思う。オランウータンの親の目が、子供を見守っているようで、とっても優しそう。オランウータンの子の方は、何だか好奇心一杯な目をしている。親を見上げている。
「いいなあ。いいなあ」
僕は夢中になった。そこにいきなり、加奈子さんが話し出した。
「ねえ、真希」
「はい、なんですか?」
「出来たらでいいの、本当に出来たらでいいの。お母さんに会わせて。今でなくていい。真希がいいと思ったらでいい。真希が会わせてもいいと思ったらでいいの。だから、覚えておいて。私は何があっても、真希の味方だから」
僕は加奈子さんを見た。加奈子さんを見つめた。オランウータンの子のようにではなく。だから、僕は胸に手を当てた。そうすれば、落ち着くから。落ち着かないと、また失敗するから。
「真希、前にも言ったよね。嫌なら嫌だって、言っていいと。でもね、それは我慢することじゃないんだ。嫌と我慢は同じじゃないと思う」
でも、そうしないと加奈子さんを守れない。僕は加奈子さんを守りたいんだ。どうしたら、分かってくれるかな?僕は加奈子さんの為なら、我慢は嫌じゃないんだ。加奈子さんが悲しむことが、一番嫌なんだ。でも、それは言えない。言ってはいけないんだ。
「私はね、真希に我慢して欲しくないんだ。私がやることでもしかしたら、真希を傷つけることになるかもしれない。真希が嫌がることをしてしまうかもしれない。ただ私は、真希に幸せになって欲しい。ただ、それだけなんだよ」
僕は頷くしかないと思った。それしか出来ないから。だって、僕は加奈子さんに幸せになって欲しいから。僕の願いは、もうそれだけだから。それしかないから。 他には、もう何もないから。
僕は、オランウータンの親子を見つめた。僕は、あの親子の子じゃない。あの親子のようになれない。もう、どうにも出来ないから。
僕は、ひとりっきりだから。
「真希、そろそろ帰ろっか」
「はい」
僕は加奈子さんの手を取り、強く握った。加奈子さんも握り返してくれた。加奈子さんの手は暖かくて、とても優しい手だった。僕の手は、どんな手だろうか?あの時のお母さんは、まるで握りつぶすように僕の手を握ってきたけど、それとは全然違った。
お母さんは、僕の手を握りつぶしたかったのかな。
だいぶ前に、誰かが僕の手を取ろうとしたのを思い出したけど、誰か分からなかった。思い出せなかった。
思い出したくなかった。
僕は加奈子さんと夕食を食べ、次の約束をすることにした。
「また、動物園に行こっか?」
「はい」
でも、次が来るだろうか?なんだか、もう無いような気がする。
「じゃあ、指切りしよう」
「恥ずかしいです」
「何で?」
「女の子みたいです。グータッチでいいですか?」
「ほえ?何それ?」
「こうやるんです」
僕は加奈子さんの手を取り、やり方を教えた。加奈子さんの手は、腕はとっても白くて、キレイだと思った。僕の手は汚いから、本当なら触ってはいけないと思う。でも、触れていたいと思った。いつまでも、触れていたいと思う。触れて欲しいと思った。僕の胸に、触って欲しいと思った。そうすれば、きっと安心するから。
安心して、死ぬことが出来ると思うから。
だから僕は、叶うことが無い約束をするんだ。
「あのあの、次は水族館がいいです」
「うん、いいよ!約束だよ」
「バイバイ!」
「うん、気を付けて帰りなよ」
本当に、気を付けないといけない。
僕はそう思った。
家に帰ると、普段はいないお父さんが家にいた。
僕は、身動きが出来なくなった。胸に手を当てることも、出来なかった。
「お帰りなさい。動物園楽しかった?」
お母さんだった。とても怖かった。声は明るいけど、顔も笑っていたけど、目がとても怖かった。
「お金はどうしたの?残っているわよね?」
「はい、残っています」
「じゃあ、出しなさい。ほら」
僕はポケットから、千円札を二枚出した。お金は結局、使わなかったから。
「あれ?使わなかったんだ。どうして?」
僕は咄嗟に、嘘を吐いた。加奈子さんを隠さないといけないから。
「友達のお母さんと一緒だったので、お金はいいって言ってくれました」
いきなりだった。僕の頭は掴まれ、机に押し付けられた。
「お前な、断れよ」
「でも・・・」
もっと強く押し付けられた。お母さんと弟は、僕を見て笑っていた。妹はいなかった。
「すみません」
「俺が恥をかくだろう?せっかくお母さんがお金を出してくれたんだから、他人に出してもらうな」
痛い、とても痛い。でも、耐えないと。胸に、胸に手を当てないと。でも、手が届かない。
「お母さんが言わなければ、真希はお金を返さないつもりだったんでしょう?ホント、泥棒猫みたいね」
「違います。ちゃんと返します」
僕は悪い子だけど、盗んだりしません。人のモノを取ってはいけませんて、僕は大事な人から教わったから。でも、それは言えない。言ったら、もっと酷いことになるから。だから、僕に出来ることは黙っているか、謝ることだけなんだ。それだけなんだ。
「だいたいな、滝川の馬鹿が来ているのに、お前は何を言った?あ?」
「何も言っていません」
「言っただろう?何だったっけ、動物園に行くとかなんとか?」
「そうそう、お友達と行くってね」
「子供はなあ、勉強だけしてりゃあいいんだよ。動物園なんかに行きやがって。だいたいな、友達なんて要らないんだよ」
頭を持ち上げられ、机に叩きつけられた。
「余計なことを言いやがって。しかも、お母さんを困らせやがって、分かってんのか!」
「ごめんなさい。もう言いません」
「言えよ、いい家族に囲まれて、僕は幸せ者ですって。滝川の馬鹿に、もう来ないでくださいって、何で言わない?あ?馬鹿か、お前は!」
「ごめんなさい」
首を掴まれ、そのまま放り投げられた。僕はそのまま、壁まで転がってしまった。ダメだ、身体を丸めないと。胸に手を当てないと。
「お前がどんなに俺たちに迷惑を掛けたか、分かっているのか!」
お腹を蹴られた。僕はせき込んだ。苦しい。吐きそう。でも、我慢しないと。
「いいか、今度余計なことをしてみろ、次はもっときついお仕置をするからな。分かったか!」
今度は、背中を蹴られた。僕は耐えた。僕は謝った。
僕は、泣かなかった。
「いいか、みんなお前の為なんだよ。分かったか?分かったのか!」
「はい、分かりました」
必死に返事をした。何も分からないけど、どうしようもないから。
「いい、全部あなたの為なのよ。あなたがいい子になるために、お父さんは仕方なくお仕置をしてくれるのよ。お父さんに感謝しなさい」
「はい、ありがとうございます」
「悪かったなあ。お父さん、やり過ぎた。いいかあ、今度は素直になるんだぞ。そうしたら、ごはんだって食べさせてやるし、風呂にも入れてやる。お小遣いだって、好きなだけやるよ。優しいお父さんで、良かったなあ」
「あら、私だって優しいでしょう?」
「あはははは、確かにその通りだ」
「動物園にも行かせてあげたし、お小遣いだってあげたし。ごはんだって作ってあげるし。いいお母さんだと思わない?」
お父さんは大笑いしていた。お母さんも笑っていた。弟も笑っていた。妹は、いなかった。
「優しいお母さんもいてくれて、本当に良かったな。真希は幸せ者だなあ。そう思うだろう?」
「はい、ぼくはしあわせものです」
うめき声を出さないように、必死に胸を抑えた。お父さんとお母さんは、もう僕に関心が無くなったように、テレビの方を見ていた。テレビに向かって、三人は大声で笑っていた。
僕は震える手で、胸のあたりを触る。心臓が動いているか、確かめないといけないから。
ああ、心臓はまだ動いている。
僕はまだ生きている。
心臓の音が聞こえる。
僕はまだ、大丈夫だ。
僕は、泣かなかった。