第七話 ふたりの遠足
泣いている子供がいる。
泣かないでと話しかけたが、遠くて届かない。
泣いている子供がいる。
その子供を慰めている子がいる。
その子は、真希だった。
また、変な夢を見た。なんだったのか、よく覚えていない。まあ、そのうちに思い出すだろう。
「う~ん、何時だ?」
時計を見るとまだ早い時間だし、今日は休みだからもう少し寝ていようと思って寝返りをうったら、そこに小さな顔があった。
「ふわ?」
口に手を当て、出そうになった声をなんとか抑えた。そうだ、真希を泊めてたんだった。
「うわあ、かわいい寝顔」
しばらく、真希の寝顔に見とれていた。ほっぺをつんつんしたくなるなあ。
周りをきょろきょろ見回し、誰も見ていないことを確認してから、真希のほっぺに指をそ~と近づける。すると、真希が寝返りをうった。思わず、ぎょっとした。
いや、びっくりしたなあ。ドキドキしていたら、急にあることを思い出した。
「そうだ、真希は学校があるんだっけ」
私は真希を起こさないように布団からそっと抜け出し、朝ごはんの用意をすることにした。朝シャンしたいけど、そこまでの時間は無いし。というかさ、ドラマで女優さんがこういった時、朝シャンしてるけど、あいつら何時に起きてるんだ?私には無理だよ。
大学に通っていた時、同じゼミでやたらと石鹸の匂いをさせていたオンナがいたけどさ、あれってどうよ?まるで石鹸を体中に塗りたくってるんじゃないかと思うぐらい、プンプンさせてたけど、男ってあれがいいのかね?私には理解出来ないけど。
・・・・・・真希って、そういうの気にするかな?ま、いいや。そのうち分かるだろう。
念のためにヘアミストを髪に振り掛けながら、キッチンをうろうろすることにした。はい、火気厳禁ですよね。気を付けます。
「さて、何にするかな?」
お米は昨夜のうちに炊飯器にセットしておいたので、もうすぐ炊けるだろう。あとは、おかずだ。
「鮭の切り身があるな。なら塩焼きにしよう。あとは豆腐を半分に切って、みそ汁に入れよう。残りの半分は冷ややっこにする。あとは、あとは、おしんこが無い。買ってなかったか」
次に買い物に行く時、何か買っておこう。海苔もあるから、これで日本のザ・朝食になるだろう。
「真希、真希、朝だよ。ごはん出来たよ」
真希はうめくような声を出して、目をこすりながら起きてくれた。私は内心、ヨシっと思った。前回泊めた時は、真希に起こしてもらったから。大人として、さすがにまずいと思うからね。でもさ、朝寝坊さんを起こすのって、何だか気分いいや。ほらあ、起きてえってやっている新婚さんの気持ち、今ならよく分かるなあ。
真希が私を起こすとき、彼はどう思っただろう?ま、それもいいや。いつか、分かるだろうし。分からなくてもいいや。だって、嫌なら起こさないだろうからさ。
「真希、おはよ~。着替えなさい、顔も洗っておいで。朝ごはんも用意するからね」
なんだろう、真希は私の顔をじ~と見ている。顔に何か付いているのかな?どうしよう、鏡の前に行きたいけど。ヘアミストだけで、お化粧まだだった。ええっと、加奈子で~す。分かるかな?
「おはようございます」
うん、寝ぼけてただけか。良かった、あなた誰って言われたら、ちょっと倒れるかも。
昨夜は、本当にぐっすりと眠っていたからねえ。ついでに私も。やっぱさ、男の子って、ホント温かいよね。真希もさ、温かく出来たのかな?出来たらいいなあ。
「さあさあ、朝ごはんにしよう」
真希と私は食卓を囲み、朝ごはんを頂くことにした。そういえば、こんな朝食は旅行に行って以来だ。ええと、自分で作ったのは初めてかも。だって、面倒でしょう?
世のお母さま方に、最大限の感謝を申し上げます。
「いただきます」
「はい、召し上がれ」
それにしても、真希は暗いなあ。でも、家に帰れないのに明るかったら、それはそれで変かな。
「お代わりあるよ。しっかり、食べておきな」
「はい」
う~ん、どうしたらいいだろう。食後のお茶を出しながら、思わず口にしてしまった。
「ねえねえ、真希。明日は日曜だから、学校お休みだよね?」
「はい、学校はお休みです」
「じゃあ、どっか行こうよ」
思わず、口を突いて出てしまった。
何をしている、私は。今はそんなことをしている場合ではないだろうに。でも、真希を元気付けたい。その思いは、間違っていないと思う。やり方は、間違っているかもしれないけど。
ならさ、いい方法を教えてよ。みんながハッピーになれる奴をさ。無いなら、私なりのやり方で、真希をハッピーにしてあげたいじゃん。そうじゃないかな?
「どっかって、どこへですか?」
何だろう、少し警戒しているような。図るような目をしている。真希のこんな表情は、初めてだと思う。いや、そもそも真希との付き合いは短い。まだ、私は真希のことを知らないし、真希も私のことを知らないよね?裸でうろうろする酔っぱらいと思われていたら、どうしたらいいだろうか?ああ、そうか、裸でうろうろする奴と思われてしまったか。それじゃ、警戒もするだろう。いやもう、これはショックで死ぬな。通報されるかも。
いい、真希。あれはねと、いちいち言い訳しない!やっちまったもんは、取り返しがつかない。だから、これからしっかりすればいい。
ええっと、それこそが言い訳ですかね?開き直るなって?
気を取り直そう。私のことなんか後回しだ。でも、後でなんとかしてね。
「そうだなあ、真希の行きたいところにしよう」
「動物園!」
お!やっと元気出てきたなあ。それでこそ、男の子!
「うん、いいよ。なら、明日は動物園に行こう」
「でも、家から出られるか分かりません。だから、約束は無理です」
思わず、チャンスと思った。
「じゃあ、じゃあ、今日学校が終わったら、真希のおうちに連れて行ってよ。お母さんに真希を動物園に連れていきたいと、お願いしにいくから。何だったら、お母さんと一緒でもいいし」
「ダメです!絶対にダメです!」
へ?何その拒絶は?
「だって、真希のご両親にご挨拶にいかないと、大人としてダメでしょう?」
「ダメです。絶対にダメです」
何だ?いったい何がダメなんだろう。怒っているよね?こんな真希は初めてだ。触れてはいけない、何かなのかな?もしかして、地雷踏んだか?
「理由を聞かせて?」
「ダメなんです。だからダメです」
いや、だから理由を知りたいんだって。
「う~ん、ダメなの?」
「はい、ダメです」
そっぽを向かれてしまった。それはそれでかわいいかもしれないけど、しょうがないか。いざとなればうちでごはんを食べさせれば、当面はなんとかなるし。最悪、真希が家を閉め出されても私のうちに泊めてあげれば、野宿も回避出来ると思うし。
もし真希の信頼を裏切ったら、もううちに来てくれなくなるかもしれないから、それはダメだろう。可能な限り、完全に目が届かなくても何とか見える範囲に居てくれないと、私が真希を保護出来ないから。
それには、彼との信頼関係は必須だし、絶対に無くしてはいけないと思う。相手は子供だからって、舐めてはいけないし、ぞんざいに扱ってもいけない。間違っても、保護してやってるんだと思ってもいけないし、真希に思わせてもいけない。
善意の押しつけは、誰だって嫌だろうから。私だって、そんなのは嫌だと思うよ。
私と真希との関係は、細い一本の糸でつながっているような、そんな頼りない関係だから。
だからこそ、根本問題をなんとかしないといけない。真希が私を振り切ったら、もう終わりだから。そう思うからこそ、私は慎重に行動しないといけない。
真希を裏切れない。
「分かったよ。なら、真希の家に行くのは無しね」
「はい」
俯く真希を見ると、ちょっと心が痛む。真希の為にすることが、真希を追い詰めることになる。どうすれば、WinWinになるだろうか?それって、甘い考えなのだろうか?犠牲無くして成果無しって、昔の先輩が言っていたような。でもそれってさ、中二病の話だろう?これは、現実の話しだよ。目の前で、起きていることだよ。
「じゃあ、この話は無しで」
「え?無しなんですか?」
うん?何でがっかりしている?ああ、遊びに行く話しか。それはそれだよ。
「ああ、動物園は行くよ。真希が家から出られたらね。それでいい?」
「はい!」
「じゃあ、学校に行っておいで。学校が終わったら、まっすぐうちに来るんだよ。お昼ごはんを用意しておくから。明日の動物園のことは、それから話そう」
「はい!」
おお!元気だ。良かった。というか、お昼何にしたらいい?世のお母さま方は、この難問をどう解決している?そうだ、本人に聞けばいい。
「お昼、何がいい?」
「加奈子さんが作ってくれるものなら、何でもいいです。何でも美味しいです。何でもうれしいです!」
おお!女子にもてるぞと思ったが、結局丸投げかい?でも、言い方うまいなあ。はい、私の負けです。頑張って、女子力磨きます。
「じゃあ、何か用意しておくよ。ほら、学校行っておいで」
「はい、行ってきます」
「車には気を付けるんだよ」
「はい!」
走り出す真希を玄関先で見送りながら、ふと思う。これじゃまるで、私が真希のお母さんじゃないかと思った。いや、そもそも真希のお母さんは、どこかおかしい。子供を一晩放置しておいて、それでいいと思っているのか?それこそ、真希に何かあったらどうする気だ?
「やれやれ」
ふと食卓を見ると、真希のお母さんのお気に入りのお菓子が置いてあった。
ひとつ頂戴した。
「いや、これは美味しいかも♪」
今後を考えながら、ラングドシャをかじる。やはり、真希のお母さんと、直接話さないといけない。でもどうやって、話すか?真希を納得させるには、どうしたらいいのか?そもそも、真希はどこに住んでいるのか?まずは、住んでいる場所の特定が先だろう。でも、どうやって?
「真希のことを最優先に考えるなら、真希を裏切ってでもやらないといけないかもしれない」
それは何だか、嫌だなあと思った。真希に嫌われたくない。真希と一緒にごはんを食べたい。でもそれは、私のエゴだと思う。それだけは、やってはいけないと思う。
真希に恨まれても、真希に憎まれても、やるべきことをやらないといけない時が、必ず来るだろう。その時に、備えないといけないけど、今はまだ早い。少なくとも、真希が住んでいる場所を、私に教えてくれる、親御さんに会わせてくれる、その時までは慎重にしないといけない。
とりあえず、私は気を取り直して、テレビを点けた。
そこで流れているのは、児童虐待のニュースでもなければ、遠いどこかの国で起きている戦争のニュースでもない。
休日の朝らしく、のんびりした内容の番組だった。
「加奈子さん!象です!象ですよ!」
真希は、無事に家を出られたようだ。あれから私のうちに戻った真希は、お昼ごはんを食べたらすぐに自分の家に帰っていった。もし、家に入れてもらえなかったら、すぐに私のうちに来るようにと、真希に強く言い聞かせた。真希は何も言わずに、ただ頷いてくれた。
その時の真希は、ただ笑っていた。
私は、何だか不安になった。
彼をこのまま行かせては、いけないんじゃないのかと。
見送ってから、私は後悔した。
一応、公園まで見に行ったけど、そこには誰も居なかった。
結局、杞憂だったようだ。
「ほら!加奈子さん!」
なんというか、やはり小学生は元気だ。
「はいはい、今行くよ」
久しぶりに来る動物園は、休日らしく活気に満ちていた。そこら中に、家族連れが居る。その和気あいあいぶりを見ると、正直、私がここに居ること自体が場違いな気がしてくる。
「いや、これはこれで楽しいかも」
はしゃぐ子供が側にいれば、私も彼らと同じ仲間だ。でも、あんた何者と聞かれたら、何と答えようか?お姉さん?お母さん?おばさんは、ちょっと嫌だなあ。親戚のお姉さんが、一番落ち着くかな。そういやあ、真希は私のことをどう思っているのだろうか?
酔っぱらいの裸のお姉さんだったら、軽く死ぬな。
「加奈子さん、キリンです!見てください、キリンです!」
真希はひとつひとつの動物を指さし、私に知らせてくる。喜びを共有したいのだろう。
「SNSのイイネも、これと同じかな?」
でも、イイネで問題は解決はしない。ネットで共有なんて、幻想だと思う。その場に居るかどうか。空気感を共有出来るかどうか。そして、気持ちを共に出来るかどうかだと思う。
私って、古い人間なんだろうか?
「真希、走っちゃダメでしょう?」
「加奈子さん、早く早く!」
いや、本当に参った。あの子、足早い。
良かった、ジョギングシューズを履いてきて。とは言え、いつものビジネススーツやパンプスではないけど、それなりの格好だと思う。でも、ワイドパンツではなくて、動きやすいデニムパンツにすれば良かったかな。これだと若干、走りにくいし。
一応、真希とのデートだしね。最低限のお洒落ぐらいは、しないとね。
「真希?」
真希は急に動きを止め、檻の中の動物に見入っていた。何だろうと思い、一応声を掛けてみた。
「え?あ、加奈子さん?」
「何、熱心に見てるの?」
「ええっと、ああ、そう、そう、ハイエナです」
「ふ~ん。真希はこういう動物が、気になるのかな?」
「いえ、たまたまです」
「そう?ああ、餌を食べてるのか」
真希の手が、下にゆっくりと下りていく。お腹をさすっていたようだ。お腹空いたのかな?
お腹が空いたのなら、私に言えばいいのに。それだけ、動物に夢中だったということかな?
「じゃあ、そろそろお昼にしよっか」
「は~い」
芝生にゴザを敷いて、お弁当を広げる。なんとなく、こうした方がいいと思ったから、早起きしてお弁当を作ってみた。良かった、真希が家を出られて。良かった、真希がおうちに入れて。
「うわあ、これ全部、加奈子さんが作ったんですか?」
「全部じゃないけど、卵焼きとか唐揚げは、私が作ったんだよ」
「すごい!初めてです」
初めて?何が?お弁当が?卵焼きが?そんなことを聞く前に、真希は食べ始めていた。今までの、何を食べていいですかなんて、聞いてこなかった。聞く方が、どうかしている。
「ほら、いただきますは?」
「はい、いただきます!」
おにぎりを両手で挟んで、いただきますと挨拶する真希は、とても愛らしいと思う。手がむずむずしてくる。
撫でたい、撫でたい、撫でたい!抱きしめたい!ダメダメ、我慢、我慢。
「お茶も飲みなさい」
水筒に入れてきた温かいお茶を差し出すと、真希は受け取ってごくごく飲んでくれた。見ていると、何だか癒されるなあ。母親の気持ちって、こんなのかな?
こんなのを感じることが出来ないから、真希にあんな仕打ちが出来るのだろうか?それとも、別の感情があるのか?
分からない。どうしても、私には理解出来ない。子供を持ったことが無い私には、到底分からない話しなのだろうか?所詮は、他人事なのだろうか?
もし理由があったとしたら、私は納得しないといけないのだろうか?
「遠足みたいです」
「ふ~ん、そうなんだ」
「ふわああああ~」
「真希?」
真希は大きなあくびをした。うとうとしてきたようだ。お昼寝の時間かな?そういえば、私も眠い。早起きしたからなあ。マズイ、あくびが移ってしまった。
「お昼寝しよっか?」
今日はポカポカしているので、ちょっとやばいかもしれない。このままだと、帰りの電車で寝過ごしてしまうかもしれない。
という訳で、お腹も一杯、胸も一杯になったので、ふたりでお昼寝をすることにしました。
「はい~」
真希は倒れこむようにして、すやすやと眠ってしまった。私も真希の横で、少し眠ることにした。彼の頭を、ゆっくりと撫でながら。いいでしょう、これぐらい。
念のため、タイマーをかけておこう。起きたら、どっぷり日が暮れていたなんてことにならないようにしないと。私は大人だから。
誰かが倒れている。
真希が、何かを叫んでいる。
倒れている人は、血まみれだった。事故か?
私は真希に近づこうとするが、何故か近づけない。
真希!真希!
私は、必死に叫んだ。
「・・・こさん、・かなこさん、加奈子さん」
揺れている。揺り動されている。誰?誰なの?
思わず、ハッと飛び起きた。タイマーも鳴っていた。まだ、そんなに時間は経過していなかった。
「ああ、ゴメンね。起こしてくれてありがとう」
「いえ、何だかうなされていたので。大丈夫ですか?」
「うん、だいじょう・・・平気だよ」
大丈夫が使える日が、いつになったら来るのだろうか?
「う~ん、さあ、起きようか」
「はい!」
子供に起こされる大人って、ちょっとダメだろう。そう自己嫌悪しながら、オランウータンを夢中で見ている、真希を見ている。いいでしょう、別に。私だって、癒されたいんだから。
「あれって、親子でしょうか?」
オランウータンの親子のようだ。仲が良さそうだ。オランウータンの親の目が優しそう。オランウータンの子の方は、何だか好奇心一杯な目をしている。目を離すと、どこかに行ってしまうような、そんな危なげな目をしていた。
何だろう、どこかで見たような目をしている。
「いいなあ。いいなあ」
オランウータン親子を眺めている真希の瞳は、本当に羨望のまなざしだった。瞳がキラキラしている。本当なら・・・・・・・・・なら、その本当をなんとかする!
「ねえ、真希」
「はい、なんですか?」
「出来たらでいいの、本当に出来たらでいいの」
真希は、緊張した。
真希が警戒するのが分かる。表情が硬くなるのが、横顔からも窺い知れる。でも、言わないといけない。このオランウータンの親子を見てしまったから。真希に見せてしまったから。
「真希のお母さんに会わせて。今でなくていい。真希がいいと思ったらでいい。真希が会わせてもいいと思ったらでいいの。だから、覚えておいて。私は何があっても、真希の味方だから」
真希は視線をオランウータンの親子から、私に向けてきた。言いたいことがある、そんな瞳だった。でも、真希は何も言ってくれない。そんな時、真希は自分の胸に手を置く。時折、そんな仕草を無意識にやっているようだ。だから、それが真希の意思の表れなんだろう。
拒絶の。
それでも、私は。
「真希、前にも言ったよね。嫌なら嫌だって、言っていいと。でもね、それは我慢することじゃないんだ。嫌と我慢は同じじゃないと思う」
真希は、静かに聞いてくれている。むしろ、その方が怖い気がする。私をまっすぐ見つめる瞳に、私はたじろぎそうになる。まるで、すべてを見透かしているような気がする。
真希の純粋さが、真っすぐさが何だか恐ろしいモノに感じる時がある。それはかつて、私も持っていて、今は持っていないモノだから。だからといって、飲み込まれる訳にはいかない。飲み込ませてもいけないと思う。だって、それでも真希は子供なんだから。そうなんだ、彼は子供なんだ。
子供を怖がるな!子供の方が、怖いはずなんだから。
「私はね、真希に我慢して欲しくないんだ。私がやることでもしかしたら、真希を傷つけることになるかもしれない。真希が嫌がることをしてしまうかもしれない。ただ私は、真希に幸せになって欲しい。ただ、それだけなんだよ」
真希は、小さく頷いた。何だろう、何かを諦めたような感じがする。さっきまでの表情と違って、どこか悲し気な表情をしている。私が、悲しい表情をさせてしまった。まるで、ここに居なくなったような、そんな希薄さがある。
私は、何か間違えたのだろうか?
きっと、間違えたのだろう。
だって私は、正しい人間ではないから。
でも、このままでいいはずはない。いいはずでないのなら、何かをしないといけないと思う。だって、何もしないことが、正しいはずはない。何もしないことが本当に正しいなら、問題なんか最初から存在しないはずだから。
真希が、あんな状態になるはずはないから。
私は決意する。あのオランウータンの親子ように、親なら子供に慈しむような目を向けるべきだと思う。例え何らかの事情があったとしても、子供には自由がないのだから。子供は、どこにも逃げようがないんだから。子供が親から逃げられるようになるまで、その時までは、大人の責任を果たすべきだろう。
親だって人間だからっていうなら、子供だって人間だ。感情のある、ひとりの人間なんだ。
親の所有物なんかでは、私はないと思う。
真希は、オランウータン親子に視線を戻していた。ただ、さっきまでのように瞳をキラキラ輝かしていなかった。ただ、何かを諦めているような、そんな寂しい瞳をしていた。私は、真希にそんな瞳をして欲しくないと思ったけど、私がそう仕向けてしまった。そんな瞳をさせる人がいたら、何か言ってやりたいと思っていたからだ。
私自身に、言ってやりたい。
お前に、その資格はあるのか?
「真希、そろそろ帰ろっか」
「はい」
とても小さな声だった。その時だった、真希は私の手を取ってきたのだ。
弱弱しく握るその手は、それでも真希の思いを感じた。
私は、その手を強く握り返した。
ちょっと、泣きそうになった。
真希に夕飯を食べさせ、彼を家に帰した。何かあったら、必ずうちに来るようにと、もう一度念を押して。
「また、動物園に行こっか」
「はい」
う~ん、何か暗いなあ。ゴメン、私がダメだからだよね。
立派な大人になるって、どうすればいいんだろうか?頭がいい人なら、こういう時どうするのかな?立派な人なら、どうするのかな?
私は頭が悪いから、出来ないことを考えても仕方がないと思う。
なら、目の前のことをしよう。だって、それ以外思い浮かばないんだもん。
「じゃあ、指切りしよう」
「恥ずかしいです」
「何が?」
「指切りって、女の子みたいです」
そうか、女の子のように扱われるのは、嫌だったのかな?
「グータッチでいいですか?」
「ほえ?何それ?」
「こうやるんです」
真希が私の手を取ってグーを作り、真希のグーと合わせた。
ふんふん、なるほど。そういえば、社内のリア充や意識高い系がよくやっていたなあ。もしかして、流行ってるのかな?知らない私って、やばいんでしょうか?
正直、あいつらのノリって、私苦手なんですけどね。
「あのあの、次は水族館がいいです」
「うん、いいよ!約束だよ」
「バイバイ!」
「うん、気を付けて帰りなよ」
真希を、玄関先で見送った。何だか、日課のようになった。
そうだ、明日はどうする?朝、うちに来るのかな?朝ごはん何にしようか?
「まあ、いっか」
私は気楽だった。
真希が抱える問題を、本当に理解していなかった。
この時、真希が何を考えていたのか、その思いをまったく理解していなかった。