第六話 嘘
怖い夢を見た。
血まみれの女の人が、僕の手を取ろうとする。
血まみれの女の人が、僕をどこかに連れて行こうとする。
血まみれの女の人は、僕に話しかけてくる。
聞こえない、聞こえない、何も聞きたくない。
お願いだから、どっか行って!
久しぶりに見た夢だった。すっかり、忘れていた。思い出したくもない夢だった。
あれは、夢だったのだろうか?
「何時だろう?」
いつもより、早く目覚めてしまった。家の人は誰も起きてこない。薄暗い家の中は、何かいそうでちょっと怖い。だから、僕は家を早めに出た。
「寒いっ!」
でも、家の中よりはいい。血まみれの女の人が、いそうな気がするから。だから僕は、いつもの公園に向かった。まだ、夜が明けきっていない時間だけど、そこで加奈子さんを待とう。
「誰もいない」
こんな時間だから、誰もいるはずはない。遠くで電車の走る音と、新聞配達のバイクの音が聞こえる。それ以外は、何の音もしない。誰もいない。血まみれの女の人もいない。加奈子さんもいない。
胸に手を当てても、安心することが出来ない。
「怖い」
言いようもない感覚に襲われ、僕は走り出してしまった。
でも、どこへ行けばいい?
「はあ、はあ、はあ」
息を整える。胸に手を当てる。ドキドキが手に伝わる。そうしたら、少し落ち着いてきた。
いつの間にか、加奈子さんのおうちの前まで来てしまった。加奈子さんのおうちなら、安心だと思う。でも、どうして来てしまったのかな。
「あ!」
呼び鈴に指を掛け、そこで思いとどまった。
「加奈子さんはきっと、まだ寝ているはず。起こしたら、可哀そうだ」
だから僕は、加奈子さんが出てくるのを待つことにした。加奈子さんなら、必ず出てくれるから。
待つのは苦ではない。いつも、待っていたから。待たないといけないから。だから、僕は目を閉じて、加奈子さんが出てくるのを待つことにした。
僕は、耳を澄ませた。
とても、静かだった。
自分の胸の音が、聞こえてくるぐらいに。
しばらく待っていると、部屋の中で音がする。気持ちのいい音だと思う。まるで、音楽みたいに軽やかな音だ。寂しくないよと、僕に語りかけてくるような、そんな音がする。
生きている、そんな音がする。
その音に耳を傾けていると、玄関が開く音がした。僕は閉じていたまぶたを開け、出てくる加奈子さんに声を掛けた。声が弾むのを、抑えながら。
「おはようございます。加奈子さん」
「へ?真希?何で?」
驚く加奈子さんは、かわいいと思う。大人なのに不思議だ。でも、加奈子さんの顔を見たら、何だか安心した。もう大丈夫。ここなら大丈夫だから。胸に手を当てなくても、大丈夫だから。
だから、僕は嘘を吐いた。
「まだ時間があるので、お迎えに来ました。ああ、荷物持ちますよ」
本当は、怖くなってここに来たんだ。加奈子さんを迎えに来たんじゃないんだ。僕は、ここまで逃げて来たんだ。
僕は、嘘吐きなんだ。卑怯な子なんだ。悪い子なんだ。本当は、生きていてはいけない子なんだ。だから、血まみれの女の人が来るんだ。僕をどこかに連れていくために。本当は、行かないといけないんだ。でも、僕は逃げてきた。怖くなって、逃げて来たんだ。怖くて、加奈子さんのおうちに来てしまったんだ。
「ああ、ならうちでごはん食べる?味噌汁ぐらいなら、温かいのあるし」
加奈子さんは優しい。こんな僕の頭を撫でてくれる。でも、加奈子さんが僕の本当の正体を知ったら、どう思うだろうか?もう、優しくしてくれなくなるのかな?頭を撫でてくれなくなるのかな?口をきいてくれなくなるのかな?一緒にいてくれなくなるのかな?それは嫌だ。どうしても嫌だ。加奈子さんにだけは、知られたくない。
だから、僕は嘘を吐く。
「はい、真希。熱いから気を付けてね」
加奈子さんは、温かいみそ汁を用意してくれた。いつぶりだろうか?昔、お母さんが味噌汁を作ってくれた、あの時以来かもしれない。
僕は嬉しくなり、元気に返事をした。そうすると、加奈子さんが喜ぶから。加奈子さんが喜ぶと、僕も嬉しくなるから。でも、どこか寂しい。胸が痛くなる。
加奈子さんは、僕のほっぺたについたご飯粒を取ってくれた。いきなりでびっくりしたけど。なんだか恥ずかしいけど、懐かしい気持ちがする。懐かしくて、とても懐かしくて悲しくなる。
そんな僕を、加奈子さんは不思議そうに見つめていた。加奈子さんの瞳は、本当にキレイだと思う。加奈子さんの瞳がキレイなのは、いい人だからだと思う。
きっと僕の目は、汚れていると思う。僕は嘘吐きで、悪い子だから。卑怯で嘘吐きな僕は、汚い子なんだ。汚い子だから、僕は嘘を吐いた。嘘を吐くことで、どんどん醜くなるんだ。
「いえ、何だか幸せだなあと思っただけです」
「そう?それなら良かった。それで、昨日は大丈夫だった?」
「はい、いつも通りです。何もありません」
怖い夢を見たなんて、とても言えない。血まみれの女の人に、連れて行かれそうになったなんて、加奈子さんには言えない。だって、加奈子さんを怖がらせたくないから。僕を怖がって欲しくないから。だから、嘘を吐いた。嘘を吐くたびに、僕の中の何かが、ぽろぽろとこぼれ落ちていくような気がした。本当は、嘘は吐きたくないのに。
「そう、それなら良かった」
加奈子さんを安心させたい。心配掛けたくない。それだけが、今の僕の願いだから。だから、言葉を選ばないといけない。かしこくならないと、ダメだと思う。
もしかしたら、加奈子さんは僕の嘘を見抜いたかもしれない。さっきから、僕の顔をじーと見ているから。だから僕は、逆に質問をした。「大丈夫ですか?」と。
「大丈夫だよ」
本当だろうか?僕の嘘に気付いていないだろうか?僕の正体を、見抜いていないだろうか?どんどん不安になる。だから僕は、加奈子さんにお願いをする。自分の嘘を誤魔化すために。
「加奈子さん。僕の前では、嘘は言わないでください。辛いなら辛い、嫌なら嫌と言ってください」
本当は、加奈子さんが僕をどう思っているのか、それが知りたい。でも、知りたくない。知りたいのに、知るのが怖い。僕はどうしたいんだろうか?僕は僕が分からない。きっと、子供だからだ。大人になったら、きっと自分のことが分かると思う。
だから、早く大人になりたい。
「うんうん、大丈夫だよ」
「大丈夫禁止です。加奈子さんが僕と約束したんですよ」
「うん、分かったよ。でも、本当にだい・・・・・ええっと、うん、安心して。大人はね、色々と考えないといけないからね。ゴメンね、心配させちゃって」
「子供も色んなことを考えてます」
「ふ~ん、例えば?」
「ええっと、早く背が伸びないかなとか、早く大人になれないかなとかです」
また、嘘を吐いた。いや、嘘ではない。でも、本当でもない。どっちなんだろう。自分でも、よく分からない。
加奈子さんに笑っていて欲しい。これだけは嘘ではない。だって、加奈子さんはいい人だから。いい人は、幸せにならないとダメなんだ。お母さんも、そう言っていた。いい人は、天国に行けるって。いい人だから、天国に行けるんだ。
僕はいい人では無いから、天国には行けないけど。
「そう、早く願いが叶うといいね」
僕はいつか、加奈子さんに恩返しをしないといけない。でも、それまで生きていられるか分からない。僕は生きていてはいけない子供だから。血まみれの女の人が、いつか僕をどこか遠くて怖い場所に連れていくから。でも、出来たら、死なないで済むなら、いいなと思う。そうしたら、きっと・・・僕はきっと・・・
「僕、そしたら加奈子さんに恩返しがしたいです」
「今はいいよ。将来、大人になったら何かしてもらうから」
大人になれたら、大人になるまで、僕は生きているのかな?生きていていいのかな?血まみれの女の人は、僕を許してくれるのかな?きっと、僕を許してくれないだろう。誰も、許してくれないだろう。でも、加奈子さんだけは、僕を許してくれるかもしれない。
だからこそ、僕は加奈子さんに甘えてはいけない。加奈子さんを、不幸にしてはいけない。
「ほら、真希はまだ小学生なんだから、自分のことを最優先して。私もその方が、嬉しいんだよ」
加奈子さんは、やっぱり優しい。僕は自分のことしか考えていないのに。優しい加奈子さんに嘘を吐くような、僕は最低な人間なのに。加奈子さんが優しくしてくれるような、そんな価値は僕にはないのに。それでも加奈子さんは、そんな僕に声を掛けてくれる。優しい声で。
「さあ、学校急ごう!」
「はい!」
だから僕は、元気いっぱいに返事をする。駆け出す。泣いている顔を見られたくないから。でも、何で涙が出てくるんだろう?うれしいのに。加奈子さんに心配を掛けたくない。だから、顔を見られないように走り出す。走れば、加奈子さんは僕に追いつけないから。血まみれの女の人も、追いつけないから。誰にも、僕に追いつくことは出来ないから。
でも、最後は捕まるんだよね。いつまでも、逃げられないんだよね。
「先に行ってていいよ。でも、車に気を付けるんだよ。転ばないようにね」
加奈子さんはきっと、最後まで僕を見ていてくれる。それだけで、十分だと思う。血まみれの女の人が来ても、付いていけると思う。
加奈子さんに、バイバイ出来ると思う。
学校帰りに僕は、いつもの公園に寄らずに近くのバス停で待つことにした。何だか、公園が怖くなったから。でも、どうしてだろう。何で、怖いと思うのだろうか?胸に手を当てているのに、不安で仕方がない。早く、加奈子さんに会いたい。
バスが来るたびに、降りてくる人を見ていた。探していた。僕のひかりを。
「お帰りなさい、加奈子さん」
バスから降りてきた加奈子さんに、僕は声を掛けた。
また、会えたから。うれしくなった。でも、加奈子さんを驚かしたみたい。ちょっと、楽しいかも。
「うわ!」
加奈子さんの驚く顔は、本当にかわいく思えた。どうしてだろう、大人の女の人なのに。
「た、ただいま。もしかして、私のこと、ずっと待ってたの?」
「ちょっとです。平気です」
僕はまた、嘘を吐いた。本当は、ずっと待っていたから。加奈子さんは、そんな嘘吐きな僕の頭をなでてくれた。うれしくて、もっとなでて欲しい、いつまでも、なでて欲しいと思った。その手を離さないで欲しい。そう思う僕は、本当に悪い子だと思う。
僕と一緒にいると、みんな不幸になるから。
一緒にいたいと、思ってはいけないんだ。
それでも僕は、加奈子さんと一緒に歩いてしまう。それだけで幸せだと思う。それ以上、望んではいけないと思う。でも、僕は望んでしまう。悪い子だから。いい子になれないから。それでも、もっとたくさん、加奈子さんと一緒にいたいのに。
それだけで、いいのに。
加奈子さんは首に巻いていたマフラーを、僕の首にやさしく巻いてくれた。僕はドキドキした。マフラーを巻いてくれた時、加奈子さんの顔が間近になったから。僕は恥ずかしくて、目を伏せてしまった。加奈子さんの吐息を、加奈子さんの体温を強く感じてしまったから。
このまま、時間が止まればいいのに。僕は心からそう思った。
加奈子さんは、いつも僕をドキドキさせてくれるから。僕はドキドキを感じると、安心してしまうから。加奈子さんは、ドキドキしないのかな?
加奈子さんに巻いてもらったマフラーは、とても温かくていい匂いがした。加奈子さんの匂いだ。加奈子さんの温もりだ。加奈子さんを感じると、僕はまた、涙が出そうになる。うれしいのに、泣きたくなるのが不思議だと思う。
僕は、本当に幸せだと思う。一緒にいるだけで、もう充分なのに。
加奈子さんと僕は、コンビニに入った。おでんを買うために。でも僕は、何かを思い出してお菓子コーナーに向かってしまった。何を思い出したのだろうか?
お菓子コーナーを見ていると、あるお菓子が目に入った。加奈子さんが教えてくれた、ラングドシャという名前のお菓子だ。でも、これは。このお菓子は。
「何でもいいよ、選んで」
「え?いえ、何でもありません」
とっさに誤魔化した。加奈子さんを傷つけそうな気がしたからだ。でも、どうしてそう思ったのだろうか?
「選んでくれないと、私も困るなあ。ねえ、選んで。好きなのでもなんでもいいから」
加奈子さんからお願いされた。それが何よりもうれしい。いつも、もらってばかりだから。いつも、優しくしてくれるから。加奈子さんに何か出来ないだろうか、どうして自分は何も出来ないのだろうか、そればかりを考えていたから。だから、一番のお菓子を選んだ。それが、ラングドシャというお菓子だった。加奈子さんは、うれしそうだった。加奈子さんも、このお菓子が好きなのかな?
「いいよ、好きなの?」
「はい、お母さんが・・・・・好きだったお菓子です」
思いだした。お母さんが好きだったお菓子だ。いつも、買い物かごに入っていた。
加奈子さんも好きなら、いいなと思う。
「そう、お母さんが好きなのか。いいよ、それもカゴに入れな。あと、おでんを選ぼう」
やっぱり、加奈子さんは優しい。お母さんも、きっと喜ぶと思う。だって、お母さんは優しい人が好きだと思うから。
僕のことは、きっと嫌いだと思う。だって、僕は悪い子なんだから。僕は、お母さんから逃げてしまったから。お母さんを、見捨ててしまったから。
だから、僕は許されない。
「ねえ、真希。明日は学校お休み?」
突然聞かれたので、何も考えずに答えてしまった。
「いえ、午前中ですけど学校はあります」
僕は加奈子さんのおうちで、おでんを食べている。少し冷めたけど、それでもあったかくて美味しかった。だから、油断したのかもしれない。
「土曜日なのに、学校あるんだ?」
「はい、あります」
「給食はあるの?」
「ありません、お昼前に学校は終わりますので」
「へ、へえ~、そう」
なんだろう?何が聞きたいのだろうか?答えを慎重にしないと。でも、どうしてだろう?
「お昼ごはんは、どうしてるの?」
あ?そうだった。僕はバカだ。でも、どうしよう。これ以上、加奈子さんに迷惑を掛けたくない。朝ごはんや夕ごはんだってもらっているのに。きっと、加奈子さんはうちで食べていきなさいと、そう言ってくれると思う。一緒に食べたいけど、どうしよう?うれしいけど、本当はダメなんだ。
「あのあの、でも何かもらえたりします。だから、だから、心配しないでください。僕は、僕は・・・平気です」
貰えないかもしれないし、貰えるかもしれない。それは分からない。お母さんの機嫌が良ければ、きっと何か食べさせてくれるから。でも、本当は加奈子さんと一緒にいたい。それはわがままだと思う。それでは、大人にはなれないと思うけど、思うけど。でも・・・
「学校終わったら、まっすぐうちに来なさい。何か用意するから」
気持ちを止める事が出来ない。嘘を吐けない。何で?どうして?僕がバカだから?子供だから?
「いい、お腹が空いたら、私に言いなさい。何か食べさせてあげるから。私の前では、我慢しないで」
どうしても、抗うことが出来ない。抗いたくない。一緒にいたいし、ごはんも一緒に食べたい。加奈子さんを見ていたいと思う。だから、僕は頷くしかなかった。頷いてはいけなかった。頷く資格は、僕にはないんだ。どうにも出来ない自分が、嫌で嫌で仕方がない。
大人になったら、変われるのかな?
「さあ、食べたらお帰り。ああ、お菓子持って帰りなさい」
「あのあの、いつもありがとうございます」
それしか言えない、それだけしか言えなかった。僕は無力だ。何も出来ない、愚かな子供だ。だから、早く大人になりたい。どうして、今すぐ大人になれないのだろう。どうやったら、大人になれるのだろうか?加奈子さんのような、カッコいい大人になりたい。
大人に、なれたらいいな。
「ごめんね、これだけしか出来なくて」
「いいえ、加奈子さんは、加奈子さんは、加奈子さんは・・・・」
加奈子さんは女神さまだから。そう口に出しそうになったけど、加奈子さんには聞こえなかった。聞こえなくて、本当に良かった。
僕は本当に幸せだと思う。こんなに悪い子なのに、こんなに嘘吐きなのに。いつか、罰があたるって、分かっているのに。今はただ、加奈子さんを見ていたい。もう、それだけで十分だ。十分と思わないといけない。巻き込んではいけないんだ。だから、加奈子さんが帰り際に持っていきなさいと言ってくれたマフラーを、本当は欲しかったけど断った。走って帰るから、邪魔になると言って。酷い言い方だと思うけど、どう言えばいいか分からなかった。だから、僕は振り返らなかった。
泣いてしまっているのを、隠すために。
僕は泣き虫だから。
僕は嘘吐きだから。
僕は、悪い子なんだから。
僕は加奈子さんのおうちを出て、走って家に帰ることにした。お母さんのお菓子を持って。
家に帰ると、家の中から人の気配がした。みんないるみたいだ。そうだ、このお母さんのお菓子を食べてもらおう。きっと、みんな優しくなるかもしれないから。だって、加奈子さんが買ってくれたお菓子だから。加奈子さんのお菓子だから。優しいお母さんのお菓子だから。
僕はドアを開けようとするけど、鍵がかかっていた。僕はドアを叩いた。返事が無い。
「あの、帰りました。真希です。あの、お母さん?開けてください」
呼び鈴を押しても、ドアをどんどん叩いても、誰も開けてくれない。中から、笑い声が聞こえる。大きな大きな笑い声が、こだまする。まるで、僕を笑っているように聞こえる。
中に入れない。冷たい風が吹く。とても冷たい風が吹く。とても、寒い。さっきまでと違って、何だか怖くなってきた。ここにいてはダメな気がした。僕はもう、ダメな気がする。
僕は、公園に向かって走った。
公園のあずまやに着いたけど、僕は立ちすくんでしまった。ここにいたくない。でも、ここ以外に行く場所が無い。僕は、どこへ行けばいいんだろうか?
もう、僕がいていい場所は、どこにも無いのかな。
そんな時だった。
「君、何をしている?」
一瞬、加奈子さんと思ったけど、おまわりさんだった。明かりを向けられ、ちょっとまぶしい。怖い。怒っている。
「君、小学生だよね?こんな時間に、ここで何をしている?親御さんはどこにいる?」
怖くなった僕は、咄嗟に走り出した。
「あ!待ちなさい」
おまわりさんは追いかけてきたけど、僕はなんとか振り切った。前にも似たようなことがあった。その時は、捕まって酷い目にあった。知らない部屋に閉じ込められた。知らない子たちが、一杯いる建物だった。
僕を外に出してくれなかった。誰にも会えなかった。会ってはいけないって、そう言われたから。もう二度と、外には出られないと思った。だから、今度こそ誰にも迷惑を掛けてはいけない。僕は、生きていてはいけない子なんだから。
そう思うと、何だか悲しくなってきた。だから、僕はお母さんのお菓子を食べることにした。少しは気がまぎれると思ったけど、食べたらもっと悲しくなってきた。寂しくなってきた。もう、一緒にいてくれるなら、誰でもいいと思った。
涙が止まらなかった。
「血まみれの女の人が、迎えに来てくれないかな」
でも、あたりには誰もいない。おまわりさんもいない。音もしない。冷たい風が吹いている。明かりが冷たい。寒い。とても寒い。嫌だ、嫌だ。
ここにいるのが、本当に怖くなってきた。どうしようもない、不安に襲われた。ひとりは怖い。ひとりは嫌だ。心臓の音も聞こえない。胸に手を当てても、不安はもっと強くなる。どうしていいのか、もう分からない。
「もう、死のうかな」
死のうと思ったのは、初めてではない。何度も思ったし、死ねばよかったのにと言われたこともある。だから、死ぬしかないと思った。僕はいらない子供だから。悪い子だから。人殺しだから。嘘つきだから。色んな人に、迷惑を掛けたから。たくさんの人を、不幸にしたから。
きっと、これが罰なんだと思う。最後にお母さんのお菓子を食べることが出来たから、もう、いいと思う。いいと思わないといけない。
「死んだら、天国に行けるのかな?行けたら、いいな。天国には女神さまがいて、ごはんを作ってくれるから」
でも、僕は悪い子だから、天国にはいけない。女神さまに会えない。もう、誰とも会えない。
そう思うと、どうしていいか分からなくなる。どうしようもなく、不安になる。涙が止まらない。
いやだ、怖い!怖いよ!
誰か、お願いだから!
誰でもいいから!
僕をひとりにしないで!
行っちゃやだよ。
僕を置いて行かないでよ!
ひとりは嫌だよ!
ひとりは怖いよ!
お願いだから・・・
もう、お願いだから・・・
ひとりは、寂しいから・・・
おかあさん・・・
僕をひとりにしないで・・・
側にいてよ。
おねがいだから・・・
死にたくないよ・・・
死ぬのは怖いよ・・・
死ぬのはいやだよ・・・
はなれたくないよ・・・
加奈子さん・・・
誰も来ない、誰もいない。
僕は途方に暮れながら、最後に加奈子さんに会いたいと思った。加奈子さんの顔を見たいと思った。どうしても、加奈子さんの顔を見たいと思った。死ぬのは、それからにしようと思った。恩返しが出来ないことを、今まで嘘を吐いたことを、加奈子さんに謝ろうと思った。
それで、バイバイしようと思った。僕が急にいなくなったら、加奈子さんはきっと心配するから。もしかしたら、加奈子さんが泣くかもしれないから。
それだけは、嫌だと思ったから。加奈子さんなら、きっと大丈夫。僕がいなくなっても、大丈夫。
僕がいなくなったら、加奈子さんは泣いてくれるのかな?寂しがってくれるかな?死にたくないなあ。何でだろう?僕はおかしい。
僕は、本当はどうしたいんだろう?
加奈子さんのおうちの玄関前に来たけど、呼び鈴を押すかどうかためらってしまった。でも、中から音がする。声がしたような気がする。僕を呼ぶ声がしたような気がしたから、呼び鈴を強く押した。押してしまった。
僕は後悔した。
すると、中からばたばたする音が聞こえ、いきなり玄関が開いた。
加奈子さんだった。
裸だった。
僕は戸惑った。どうして、裸なの?
加奈子さんの身体から霧のような白い煙が出ていて、何だか神秘的な感じがした。加奈子さんの髪の毛や身体は濡れていて、まるで人魚のようだった。人魚のような加奈子さんの身体は真っ白で、透き通った感じがして、とってもキレイだった。まるで、映画の人みたいだ。映画の中の、とてもキレイな女優さんみたいなんだ。
女神さまみたいだ。
そうだ、そうなんだ、やっぱり加奈子さんは女神さまなんだ。加奈子さんは女神さまだから、僕にごはんを作ってくれるんだ。僕に優しくしてくれるんだ。そう思うと、僕はうれしくなった。
そんな加奈子さんに、僕は見とれてしまった。
だって、加奈子さんは本当にキレイだと思うから。でも、ちょっと恥ずかしいと思う。いつまでも見ていたいけど、女の人の裸を見てはいけないって、お母さんに言われたから。だから僕は、そっぽを向いた。胸は、ドキドキしていたけど。さっきまで聞こえなかった、心臓の音もはっきり聞こえてきた。加奈子さんに聞こえるぐらい、僕の胸はドキドキしている。
「加奈子さん。何か着てください」
「へ?うわああ、裸だった。ゴメン。お風呂に入っていたんだよ。というより、早く入って、入って。外は寒いでしょうから」
僕は言われるまま、加奈子さんの家の中に入ってしまった。僕はまだ、ドキドキしている。何だろう、この気持ちをバレないようにしないといけないと思っている。僕のこの気持ちが、とても恥ずかしい。この気持ちを、加奈子さんにだけは知られてはいけないと思っている。それなのに、加奈子さんを見てはいけないのに、ついつい見てしまう。恥ずかしくて、でもこころが温かくなる、不思議な気持ちを。
大事な、とても大事な気持ちを。
僕は隠さないといけない。
「どうしたの?寒かったでしょう」
加奈子さんの手が、僕の身体や顔に触れる。とても暖かい手だった。すごく、気持ちがいい。僕の手を、指をさすってくれる。いつまでも、さすってくれる。
いつまでも、本当にいつまでも触っていて欲しいと思うけど、何だか恥ずかしいと思う。加奈子さんの手を振り払って、ここから逃げ出したいと思う。僕は、おかしい。なんだろう、僕は加奈子さんに、何かを伝えようとしたのに。どうしても、思い出せない。もう、何でもいいや。
それでも加奈子さんの目は、僕をまっすぐ見ていた。僕の目を、まっすぐ見つめていたから。だから、つい嘘を吐けなかった。何かを伝えないといけないと、そう思ったから。
「家に入れませんでした」
「え?何で?」
「鍵がかかっていて、ドアを叩いても入れてくれません」
「まさか、帰れないの?」
「分かりません。でも、公園は寒いので、どうしたらいいのか分かりません。加奈子さんから貰ったお菓子で、なんとかなると思ったけど」
おまわりさんに追いかけられたことは、黙っておいた。おまわりさんに連れていかれて、閉じ込められるかもしれないなんて言ったら、僕が悪い子だって加奈子さんにバレてしまうから。
おまわりさんに捕まったら、罰を受けないといけないから。それはバレないようにしないと。
僕は最低だと思う。加奈子さんに嘘を吐くなんて。いい人を、騙すなんて。僕は最低だと思うけど、本当のことはどうしても話したくない。僕は悪い子なんだから。僕はどうしたらいいんだろう。
「真希、そんなときはうちに来なさいって、私は言ったよね?」
「でも、加奈子さんにこれ以上は迷惑を掛けたくありません。自分で出来ることは、自分でやらないと、大人にはなれません。ごめんなさい。本当は、来るつもりはなかったんです」
本当は、バイバイするつもりだった。でも、出来なかった。加奈子さんの顔を見たら、加奈子さんの手に触れられたから、バイバイするのが嫌になった。バイバイしたくなかった。でも、どうすればいいか分からなくなった。公園にはもう行けないし、おまわりさんは僕を探しているだろうから。
「じゃあ、とにかく今夜はうちに泊まりなさい。お風呂も沸いてるから、冷えた身体を温めなさい」
今は甘えようと思う。とても疲れたし、明日考えようと思う。明日、バイバイすればいいと思う。今は、加奈子さんの顔を見ていたい。一緒にいたい。それだけで幸せだと思う。それだけで十分だと思う。でも、バイバイしたあと、僕はどうすればいいんだろうか?やっぱり、おまわりさんと一緒に行くしかないのかな?一生、外に出られないのかな?知らない子に、殴られないといけないのかな?
死なないといけないのかな?
僕は、何がしたいんだろう。
かしこくなったら、分かるのかな?
「すみっこでいいんです。そんな迷惑を掛けれません」
すると加奈子さんは、僕の顔を両手でしっかりと挟んできた。とても光る目で、僕の目を見つめる。目をそらしたいけど、そらせない。そらすことが出来ない。
「いい、真希。私はそんなことを望んじゃいないよ。真希にはあったかくしていて欲しい。真希にはお腹いっぱいになって欲しい。これって、私の我儘だと思う?」
でも、でも僕は悪い子なんです。僕は人殺しなんです。そう言えたら、良かったのかな?おまわりさんが、僕を捕まえにくるって。でも、でも、それだけは言えない、言いたくないんだ。
「いいえ、いいえ、加奈子さんは優しい。加奈子さんはいい人です」
「そう、いい人なんだよ、私は。だから、真希を泊めるし、ごはんもあげる。お布団にも入れてあげる。でもね、それは誰にでもじゃない、真希にだけだよ」
僕にだけ?どうして?何で?悪い子なのに?おまわりさんが、悪い僕を捕まえようとしてるんだよ。僕は、刑務所に閉じ込められるんだよ。
僕には分からない。どうして、加奈子さんが僕に優しくしてくれるのか、本当に分からない。
だって、女神さまはいい人に優しくしてくれるんだよね。だから、何で?でも、僕は甘えたくなる。加奈子さんの側にいたくなる。僕は、どうすればいいんだろうか?もう、頭の中がぐちゃぐちゃになった。もう、何も考えたくなかった。
「ほら、お風呂に入りな。よく温まるんだよ」
涙が出そうになるけど、こらえないと。今は泣いちゃダメだ。だから、お風呂に入ることにした。そこで、泣くことにした。泣いているところを、見せたくないと思うから。加奈子さんは優しいから。加奈子さんはきっと、泣いている僕を助けようとしてくれるから。おまわりさんから、僕を守ろうとしてくれるから。でも、そんな資格は僕に無いから。お母さんを見捨てた、卑怯な僕にそんな資格は無いから。
僕は、加奈子さんのようにいい人では無いから。
湯船に浸かりながら、僕は胸に手を当てた。そうしていたら、安心したし気持ちも落ち着いてきた。
もう、大丈夫。僕は大丈夫。
お風呂から上がり、鏡に映る自分の姿を見た。
僕の身体には、汚れが付いていた。いくら洗っても取れない、醜くて汚い悪い子の証拠が、身体のあちこちにある。
いつもなら見たくないけど、今日はよく見ないといけない。
これが、僕なんだと。僕の本当の姿なんだと。
加奈子さんの真っ白でキレイな身体とは、全然違うんだ。
一目見れば、誰にでも分かる。
洗っても落ちない汚れがあるのが、僕なんだって。
だから僕は、醜い子なんだ。
醜い僕は、悪い子なんだ。
いい子ではないんだ。
いい人と、一緒にいてはダメなんだ。
だからこれ以上、加奈子さんに甘えてはいけないと思う。
僕の本当の姿を、知られたくないから。
秘密にしないといけないから。
だから僕は、精一杯の嘘を吐かないといけない。
加奈子さんを傷つけないように、僕が加奈子さんを守らないといけない。
だって、僕は悪い子だから。
僕は、天国に行けないから。
だったら、同じことだよね。
なら、加奈子さんの為にもっと悪い子になろう。
もっと、もっと、醜い子になろう。
そうでないと、きっと守れないから。
僕が、加奈子さんを守るんだ。
僕は涙をぬぐい、強く決意した。
僕はもう、泣いたりしない。
僕が、なんとかするんだ。