第十六話 少年のこころ
「あぶない!」
お母さんが、僕を突き飛ばした。
その瞬間、車が僕のお母さんとぶつかった。
お母さんが、飛んで行った。
お母さんは、倒れた。
お母さんは、手を伸ばしていた。
「お母さん?お母さん!」
僕は、お母さんに近づこうとした。でも、誰かが僕を止めた。見てはダメだと言う。でも、お母さんが必死に、僕の方に手を伸ばしている。僕はその手を、取らないといけない。お母さんの側に行かないとダメなのに、どうしてもお母さんの側に行くことができなかった。
だめだ、このままじゃ、お母さんの心臓が止まってしまう!
お願いだから、僕をお母さんの側に行かせて。
お母さんの胸に、手を当ててあげないと、お母さんが死んじゃうんだ!
お願いだから、お母さんの側に行かせて!
お母さん!お母さん!
僕は知らない誰かに、抱きかかえられてしまった。
お母さんから、どんどん遠ざかってしまった。
お母さんの心臓から、どんどん遠くなってしまった。
僕の手が、届かないぐらいに。
お母さんは、手を握りしめた。
僕も握りしめた手を必死に伸ばしたけど、お母さんに届かなかった。
お母さんの握った手は、地面に落ちてしまった。
それでもお母さんは、僕を見ている。
遠ざかる僕を、優しく見つめている。
お母さんが、何か言っている。
お母さんが、僕に語り掛けている。
大丈夫?と、そう聞いているようだった。
お母さんは、微笑んでくれた。
お母さんと、二度と会うことは無かった。
お父さんは病気で、ずっと入院していた。
僕はお母さんと一緒に、病院によくお見舞いに行った。
お父さんは退院したら、いっぱい遊ぼうと僕に言ってくれた。お父さんと僕は、男と男の約束をした。必ず、元気になるって。
握った手をお父さんの握った手とくっつける、グータッチをして約束をしたんだ。これは、元気になる印でもあるんだって。僕はいつも、最後に必ずグータッチをするんだ。お父さんの胸にも、手を当てるんだ。僕の元気を、お父さんに分けてあげたいから。
そんな時のお父さんは、元気をいっぱいもらったって、喜んでくれた。
でも、お父さんは元気になってくれなかった。
お医者さまが、お父さんの胸に手を当てていた。何度も、何度も、お父さんの胸に手を当てていた。お父さんが、起きてくれなくなったから。お父さんの元気が、無くなってしまったから。だから僕も、お父さんの胸に手を当てるんだ。そうすれば、お父さんも元気になると思うから。
でも、看護師のお姉さんが、お外に行こうねと言って、僕をお父さんの側に行かせてくれなかった。
お父さんを起こしたいんです、元気にしたいんですと言っても、また今度にしましょうねと言って、僕を外に連れ出そうとする。お母さんは、お外に行っていなさいと言っていたけど、お母さんは泣いていた。
お父さんは、二度と起きてくれなかった。
お父さんの心臓は、もう動いてくれなかった。
僕がお父さんの胸に、いくら手を当てても。
男と男の約束は、守ってくれなかった。
でもそれは、僕のせいだと思う。
あの時、お父さんの胸に、僕の手を当ててあげることが出来なかったから。
だからきっと、起きなくなったんだ。
約束を守れなかったんだ。
お父さんは、いなくなった。
お父さんは、どこに行ったのかな。僕は、お母さんに訊ねた。
「う~んとね、お父さんは天国に居るんだよ」
「天国?それって、どんなところ?」
「神さまが、いるところだよ」
「神さまが、いるんだ。でもでも、ならごはんはどうなるの?お母さんがいないのに、誰がごはんを作るの?お父さん、お腹ペコペコになるよ」
「そうねえ、でも大丈夫。天国には女神さまもいてね、みんなのごはんを作ってくれるんだよ」
「ホント!」
「だからね、お父さんも寂しくないんだよ・・・」
お母さんが泣いた。こういう時、僕はどうしていいか分からない。きっと、僕も泣いてしまうから。
だから僕は、お母さんの胸に手を当てる。僕の元気を、お母さんにあげるために。お母さんの心臓が、止まらないように。心臓が止まったら、お母さんも、天国に行ってしまうから。お母さんの心臓が止まったら、僕を置いて天国に行ってしまうから。お父さんもきっと、心臓が止まったから天国に行ってしまったんだ。だから僕は、お母さんの胸に手を当てるんだ。そうすれば、お母さんもきっと元気になってくれるから。
お母さん、元気だしてって。
お父さんは、天国で元気なのかな?
お母さんがいなくて、寂しくないのかな?
神さまや女神さまがいるんだから、きっと寂しくないよね。
お父さんが天国で寂しくないなら、お母さんは寂しいんじゃないのかな。
お父さんがいなくなって、お母さんには誰もいないから。
「大丈夫。お母さんには、真希が居るから」
お母さんは、僕の胸に手を当ててくれた。
ほら、心臓が動いてるでしょうと、優しく語り掛けてくれた。
僕はそんなお母さんの手が、とても大好きなんだ。
お母さんが寂しそうにしている時、僕はお母さんとグータッチをしてあげるんだ。入院していた時のお父さんと、僕としていた元気になる印なんだよって。だから、お母さんにもしてあげるんだ。元気になってねって。
お母さんは、いつも笑ってくれる。嬉しそうな顔をしてくれる。
その時のお母さんの顔が、僕には一番大事なんだ。
それでもお母さんは、悲しそうな顔をする。僕はそれが、一番嫌なんだ。そんな時、僕はとっても不安になってしまう。つい泣いてしまう。
「安心して、お母さんはいつまでも真希と一緒だから」
不安だった時、お母さんは僕を抱きしめてくれた。お母さんは温かくてやわらかくて、とってもいい匂いがする。お母さんが側にいてくれたから、僕は本当に幸せだった。お母さんの胸の音を聞くと、不安が消えて安心する。お母さんの胸の鼓動が、まるでお歌のように聞こえるから。
お母さんの、お歌のようだから。
そうか、お母さんが女神さまだったんだ。だから、お父さんや僕にごはんを作ってくれるんだ。
僕のおうちにいるお母さんが、女神さまなんだね。
時々お母さんは、寂しそうにしている。
僕は、それが嫌だった。
ずっと、笑ってほしかった。
どうすれば、あの時みたいに笑ってくれるだろうか?
お父さんが、いた時のように。
僕には、分からなかった。
早く、大人になりたかった。
ある日だった。知らないオジサンが家に来た。
「もう寂しくないよ。これからは、私が君のお父さんだからね」
僕は嫌だった。僕のお父さんは、お父さんだけだから。オジサンは違う人だから。でも、お母さんが悲しそうな顔をするから、僕はその人をお父さんと呼ぶことにした。そうすれば、お母さんが喜ぶから。
お母さんは、いなくなった。
お母さんは、天国に行ってしまった。
僕を置いて。
きっと、僕のせいだ。
僕のせいなんだ。
あの時、僕がお母さんを見捨てたから。
「大丈夫だからね。私が君を守ってあげるから」
僕がお父さんと呼んでいるオジサンは、僕にそう言ってくれた。でも、目が怖かったし、顔は笑っていた。
お父さんがいなくなった時のお母さんは、笑ってくれたけど泣いていた。笑っていたけど、悲しそうな目をしていた。でも、新しいお父さんは、泣いていなかったから、きっと、寂しくないのかもしれない。悲しくないのかもしれない。お母さんがいなくなっても、平気みたいだ。
どうしてだろう?
しばらくしてからだ。うちに女の人がきた。新しいお母さんだという。新しいお母さんには子供が二人いて、僕に弟と妹が出来た。僕は、それがうれしかった。ひとりでなくなったから。
弟は僕と口をきいてくれなかったけど、妹はおっきいお兄ちゃんと呼んでくれた。
妹は、かわいかった。
ある時、新しいお父さんに殴られた。いきなりだった。
弟が僕の自転車を使おうとしたので、それは僕のだからダメと言ったからだ。だから、殴られた。
独り占めは、悪い子の証拠だって。
僕の自転車は、僕の自転車ではなくなった。
気が付くと、僕の机や持ち物は、全部僕のモノではなくなった。
「お兄ちゃんなんだから、いいでしょう」
そう、新しいお母さんに言われた。僕はこの家では、よそん家の子供だからだ。弟が、僕にそう言っていた。僕はお兄ちゃんでもなんでもない、ここの子でもないんだって。
ある日だった、弟が僕の名前を馬鹿にした。女の子みたいだって、笑っていた。僕は怒って、弟を殴った。悪いことをしたら、殴らないといけないと思ったから。お父さんがよく、悪いことをした僕を殴ったから。だから、同じことをしたんだけど。
それに、僕に名前を付けてくれたお父さんとお母さんが、笑われたみたいだから。
それはとても、悲しいから。
でも、僕はその日の夜に、新しいお父さんにたくさん殴られた。僕は悪くないのに。悪いのは弟なのに。悪い子は、殴っていいんじゃなかったの?殴んないと、いけないんじゃないの?なんで?
どうしてと聞くと、お前は人殺しだからだと言われた。
お父さんもお母さんも、お前が殺した。お前のせいで死んだ。お前は悪い子だと、そう言われた。
おっきいお兄ちゃんと呼んでくれた妹も、もう口をきいてくれなくなった。僕と仲良くすると死ぬから。だから、僕から話しかけるのもやめた。だって、かわいい妹だから。妹が死んだら、とても嫌だから。不安になるから。だから僕は、自分の胸に手を当てる。そうすれば、安心出来るから。
お母さんが大事にしていたブローチを、新しいお母さんが服に着けていた。
僕はダメだと言った。それはお母さんが、大事にしていたブローチだから。お父さんから貰った、大事な大事なブローチだから。お母さんが、そう言っていたから。
その日の夜、新しいお父さんに殴られた。蹴られた。お母さんに酷いことを言った、悪い子だと。
僕は、気を失った。
次の日、胸がズキズキするけど、僕は我慢して学校に行った。
胸に手を当てて、心臓が動いているのを確認した。まだ、僕は大丈夫だ。歩くのが辛いけど、息苦しいけど、家にいたくなかったので学校に行った。でも、気が付いたら病院にいた。
僕は学校で気を失って倒れたって、看護師のお姉さんに教えられた。
「もう、大丈夫だから」
たきがわさんというオジサンが、僕にそう言ってくれた。
でも、何が大丈夫なのか、よく分からなかった。
僕は病院を退院しても、家には帰れなかった。どこか知らない、病院みたいな建物に入った。ここなら安全だからって、知らないおねえさんにそう言われた。
でも、ここは嫌な場所だった。外には出られないし、知らないお兄ちゃんにからかわれたり殴られるし、学校にも行けない。だから僕は、外に出たいとお願いした。
たきがわさんが、僕と会ってくれて、僕の話を聞いてくれた。
でも、たきがわさんは、外に出ない方がいいと言った。
お母さんのブローチが、取られると思ったから、たきがわさんにお願いした。
これからは、いい子にしますからって。
だから、早く家に帰してって、たきがわさんにお願いした。
たきがわさんは笑っていたけど、お母さんみたいに泣いたような顔をしていた。
僕は、胸が苦しくなった。
僕は家には帰れずに、オジさんと名乗る人のおうちに行くことになった。
オジさんのおうちにいたら、すぐにおうちに戻れるからって。
オジさんの家は散らかっていて、たまにしかごはんを貰えなかった。
オジさんの家には知らない人がいつもいて、邪魔だと言って僕を蹴った。
オジさんの家にいつもいる、オバさんはたばこをよく吸っていたし、僕に煙を吹きかけて笑っていた。僕は、苦しかった。
たばこが、とても熱くて痛かった。
そんな時、オジさんたちはいつも笑っていた。
僕は、家に帰りたかった。お母さんのブローチを、取り返さないといけないと思ったから。取られたら、お母さんが悲しむと思ったから。
僕は、家に帰れた。
オジさんは、もう我儘言うなよと僕に言った。
僕が、何をしたのだろうか?僕が悪い子だからなのかな?我儘って、なんだろう?僕にはわからなかった。
どうすれば、僕はいい子になれるんだろう。
家に戻ると、もうそこは僕の家では無かった。
お母さんのブローチも、お父さんの万年筆も、全部捨てたと言う。
僕は抗議した。でも、何も聞いてくれなかった。
その日から、僕のごはんはどんどん減ってしまった。
真希はお兄ちゃんでしょう、弟や妹が先でしょうと言われたから。
僕は、お腹が空いた。お腹が空くと、とても悲しかった。でも、胸に手を当てていたら、少しだけ安心した。
学校から帰ったら、家に入れてくれなかった。鍵がかかっていた。僕は何度も何度も、入れてとお願いした。悪い子は、どこへでもいきなさいと言われた。
きっと僕は、何かしたのだろう。
僕は仕方なく、街を歩いた。
「君、こんな時間に何をしている?」
おまわりさんだった。僕は家に入れませんと正直に話したら、おまわりさんは家まで付き添ってくれた。新しいお母さんは、この子は家出癖があるんですよとおまわりさんに説明していた。おまわりさんは、それでも子供が外に居ていい時間じゃありませんよと、新しいお母さんに言ってくれた。
だから、謝ったのは僕だった。僕が、悪い子だからだ。
その日、新しいお父さんにお仕置をされた。縛られて、動けなかった。殴られなかったけど、蹴られなかったけど、トイレにも行けずに僕は泣いてしまった。胸に手を当てることが、出来なかった。
不安だった。とても怖かった。
弟は、そんな僕を見て笑っていた。
僕は、部屋を汚してしまった。
僕は、汚い子供なんだ。
学校から戻ると、また家に入れてくれなかった。
だから今度こそ、うまくやらないいけない。
僕は、そう決意した。
以前から、公園で宿題や勉強をしていたから、そこで一晩過ごすことにした。
ここなら、トイレも水もあるから。
明かりもあるから。
「坊や、こっちに来な」
公園に住んでいる、おじさんに声を掛けられた。
時々、僕に話しかけてくれる、優しい公園のおじさんだった。たまにお菓子をくれる、本当にいいおじさんなんだ。
公園のおじさんにどうしたんだと聞かれたから、僕は家には帰れないんですと話すと、公園のおじさんは僕にごはんをくれた。寝るところを、用意してくれた。
少し寒かったけど、狭かったけど、僕は幸せだった。
「坊や、辛くてもいつか、いいことはあるからな」
公園のおじさんは、そう言ってくれて、僕の頭をなでてくれた。
公園のおじさんは、笑ってくれた。僕も笑った。
あのオジさんとは違う、新しいお父さんとも違う、素敵な笑い方をしてくれる。
僕は公園のおじさんの、そんな笑った顔がとても好きなんだ。
まるで、お母さんの笑った顔みたいだから。
もしかしたら、この人は神さまなんだろうか。僕はそう思った。だけど、休み明けに公園に行ったら、公園のおじさんはいなかった。給食のパンをこっそり持ち帰って、公園のおじさんに渡そうと思ったのに。泊めてくれた、お礼にしようと思ったのに。
一緒にいてくれた、お礼をしようと思ったのに。
ある日、学校帰りに公園に立ち寄ったら、公園のおじさんのおうちが壊さそうになっていた。
僕は、公園のおじさんのおうちを壊そうとしているオジサンたちに、やめてとお願いをした。公園のおじさんが、ここに帰ってこれなくなるから、おうちを壊さないでって、たくさんお願いをした。
僕は頑張って、いっぱいいっぱいお願いをした。
ここは、公園のおじさんのおうちなんだよ。
お願いだから、公園のおじさんのおうちを壊さないで。
おじさんは、いい人なんだ。
とっても、優しい人なんだよ。
ダメだよ、そんな酷いことしないで。
本当なんだ、おじさんはいい人なんだよ。
信じてよ!
お願いだから、僕の話を聞いて!
ねえ、分かってよ!
もう、やめてよ!
壊さないで!
お願いだから、もう僕から奪わないで・・・。
オジサンたちは、ここに住んでいたおじさんは、もう死んだんだと教えてくれた。
だからもう、公園のおじさんはいないんだ。
公園のおじさんのおうちは、いらなくなったんだ。
僕のせいで、公園のおじさんは死んだ。
僕に優しくしてくれる人は、みんな死んじゃうから。
だから、僕のせいだ。
僕がいなければ、公園のおじさんもお父さんも、お母さんも死ななくて良かったんだ。
公園のおじさんのおうちも、壊されなかったんだと思う。
僕は泣いてしまった。ひとりで、泣いてしまった。
取り返しのつかないことを、僕はしてしまったと気が付いたから。
ごめんなさい。ごめんなさい。
でももう、誰もいない。誰にも謝れない。
僕は、ひとりになった。
でもきっと、公園のおじさんは天国にいったんだと思う。天国で、女神さまが作ったごはんを、お腹いっぱい食べてると思うと、寂しいけど良かったと思う。
お礼は出来なかったけど。もう、恩返しは出来ないけど。きっと天国で、お腹いっぱいになっていると思った。
でも、どうしてか分からないけど、涙が止まらなかった。
おかあさん。
公園のおじさんのおうちの後には、お花畑が作られた。
ここがきっと、公園のおじさんのお墓なんだ。きっと、そうだ。おじさん、良かったね。
僕はこころから、そう思った。だって、こんなにキレイなお墓なんだもの。キレイなお花が、いっぱいなんだもの。まるで、天国のように。
「それに天国に行けば、女神さまもいるし、僕のお父さんやお母さんもいるから、大丈夫だよね。寂しくないよね。ごはんもいっぱい、女神さまが作ってくれるよね。お腹いっぱいになるよね」
僕はお花畑に、公園のおじさんのお墓に手を合わせた。
少し、泣いてしまった。
胸に手を当てても、涙が止まらなかった。
家に帰ると、たきがわさんが来ていた。
新しいお母さんと、何か話をしていた。
「真希さん、何か問題は無いかな?」
僕は胸に手を当てながら、大丈夫ですと答えた。
だって、新しいお母さんが、僕を見ているから。とても冷たい目で、とても怖い顔をして、僕を見ているから。新しいお母さんの冷たい目に、僕は怯えてしまった。それにおかしなことを言ったら、また酷いことになるから。
だから、たきがわさんは、もう来ないでください。もう、僕をほっといてください。
そう言えたら、良かったのに。
新しいお父さんに、いっぱい怒られた。余計なことを、言ったからだと。
僕は何も言っていませんと訴えたけど、生意気言うなと殴られた。
僕は、どうすれば良かったのかな?
もう、分からない。
神さま、教えてください。
僕はどうすれば、かしこくなれますか?
どうすれば、殴られずにすみますか?
どうすれば、お腹いっぱい、ごはんが食べれますか?
天国にいる公園のおじさん。
本当にいつか、いいことってあるのかな?
とにかく、気を付けること。注意すること。公園のおじさんは、もういない。お父さんもお母さんもいない。女神さまもいない。誰も頼れないし、頼ってはいけない。だって、死んじゃうんだから。
僕は、ひとりぼっちだった。考えると、涙が出るから考えないようにしていた。でも、胸がギューとなる。胸に手を当てても、不安な気持ちは消えてくれない。
そんな時だった。僕に声を掛けてくれる女の人が現われた。
僕の側にいてくれる、とってもキレイでカッコいい女の人だ。
お姉さんは僕に優しくて、とても温かかった。いい匂いもした。懐かしい匂いだ。まるで、女神さまのようだった。僕は、このお姉さんが好きになった。
だからこそ、僕は慎重にならないといけない。公園のおじさんのように、おうちが壊されるかもしれないし、お父さんのように天国にいってしまうかもしれないから。
お母さんのように、血まみれになって死んでしまうかもしれないから。
そんなのは、もう嫌なんだ。だから、僕はひとりでいいんだ。ひとりでいなきゃ、ダメなんだ。
それでも、お姉さんは僕から離れてくれない。まるで、お母さんのように。
だからこそ、お母さんのようになってほしくない。お母さんのように、死んでほしくない。お母さんのように、痛い思いをしてほしくないから。
だから、僕から離れないといけない。
それでもお姉さんは、僕から離れようとはしなかった。
名前を、教えてくれた。
加奈子さんて、名前を。
加奈子さんは、僕に名前で呼ぶように言ってくれた。
僕も、名前を呼んでほしかった。
でもそれは、けっして、望んではいけないことなんだ。
加奈子さんはとても優しくて、とってもキレイでカッコいい人なんだ。
僕はこの人の側にいたいと、こころから思った。でも、それだけはやってはいけない。僕にそんな資格はないから。だから、家に入れてもらえなくても、どこにも行くところがなくても、加奈子さんを頼ってはいけない。加奈子さんから、離れないといけないと思った。
でも、あの日は。
どうして僕は、加奈子さんのおうちに行ってしまったのだろうか?
どうして僕は、加奈子さんが好きなんだろうか?
どうして僕は、生きているのだろうか?
どうして僕の側にいてくれる人は、みんな死んじゃうんだろうか?
分からない。
どうしても、分からない。
だから、どうしても天国に行ってみたかった。僕は悪い子だから、天国には行けない。天国で公園のおじさんやお父さん、お母さんがどうしているのか、幸せなのか確かめたかった。
女神さまに良くしてもらっているのか、どうしても知りたかった。
ごはんを食べさせてもらっているのか、知りたかった。
だから僕は、加奈子さんに行きたい場所を聞かれた時、ついスカイツリーと言ってしまった。スカイツリーが、天国に一番近い場所だから。そこならきっと、天国を見ることが出来ると思ったから。
そこなら、公園のおじさんやお父さん、そしてお母さんに会えるかもしれないから。
もし会えたら、僕は元気だから、僕は大丈夫って、伝えないといけないから。
心配を掛けたくないから。泣いてほしくないから。
本当は、天国に行ってみたかった。
嘘を吐いて、ごめんなさい。
天国にいる公園のおじさんに謝りたい。おじさんのおうちを守れなかったことを。
天国にいるお父さんに謝りたい。僕のせいで、死んじゃったことを。
天国にいるお母さんに、会いたい。会って、謝りたい。
お母さんの手を取ってあげなくて、ごめんなさい。
お母さんに会いたい。
でも、そんなことを望んじゃいけないんだ。
みんな、僕のせいで死んだから。
僕さえいなければ、みんな死ななくてよかったんだから。
だから僕は、女神さまにみんなのことをお願いしようと思う。
みんなのごはんを、いっぱい作ってくださいって。
スカイツリーに、行けなかった。
行ってはいけないって、新しいお母さんに言われたから。
もうすぐ、お父さんが帰ってくるから。
楽しみにしていなさいと、お母さんは僕にそう言っていた。
お母さんは、うれしそうにしていた。
お母さんと弟は、笑っていた。
きっと、もう外には出してくれなくなる、そんな予感がしたから。
きっと、僕はもうどこにも行けなくなるから。
だから、最後に加奈子さんとお別れしようと思った。でも、出来なかった。加奈子さんの顔を見れなかった。ずっと加奈子さんの胸を、心臓を見ていた。心臓さえ動いていれば、死なないと思ったから。
だから僕は、加奈子さんの心臓の音を聞きたかった。
心臓がちゃんと動いているか、確かめたかった。
それさえ聞ければ、僕は満足だった。
加奈子さんは、僕を抱きしめてくれた。
僕の頭をなでてくれた。
加奈子さんは、優しかった。
加奈子さんは、温かかった。
加奈子さんは、いい匂いがした。
お母さんの匂いがした。
加奈子さんは、お母さんのようだった。
僕は、泣いてしまった。
ごめんなさい、ごめんなさい。
加奈子さんも、泣いていた。
泣いてしまった。
泣かせてしまった。
僕のせいだ。
泣かないで、泣いたらダメ。
だから、僕は居なくなります。
そうすれば、加奈子さんはきっと幸せになります。
天国にいる公園のおじさんとお父さんと、そしてお母さんが加奈子さんに良くしてくれると思います。
僕は元気です。
僕は、お腹いっぱいです。
だから、僕は大丈夫です。
そう伝えてくださいと、加奈子さんにお願いしたかった。
でも、出来なかった。
僕は最後まで、かしこくなれなかった。
だから、バイバイしないといけないんだ。
さよなら。
さよなら、加奈子さん。
今まで、ありがとうございました。
僕のそばに居てくれて、本当にうれしかった。
僕は加奈子さんのおうちに向かって、バイバイをした。
僕がここに居たら、加奈子さんのおうちが壊されるから。
だから、今度こそ守らないといけない。
だから、バイバイ。
本当はね、ずっと一緒に居たかったんだ。
家に戻ると、お父さんが帰って来ていた。
僕が帰ってくるのを、ずっと待っていた。
すごく、ニコニコしていた。今まで、こんなに機嫌がいいお父さんを見たことが無かった。目も笑っていた。とても怖い動物のような目で、僕を見ていた。
動物園で見た、ハイエナのような目をしていた。
僕は、胸に手を当てなかった。
僕は今日ここで、死ぬんだと思った。
心臓が、止まるんだと思った。
いつか来ると思っていた、その日なんだと思った。
でも、何でだろう?
全然、怖くなかった。
「真希、この前の水曜日は、どこに行っていた?」
びっくりするぐらい、優しそうな声だった。それなのに、とても怖かった。だから僕は、嘘を吐いた。僕は逃げないと、そう決心したから。
僕に出来ることは、嘘を吐くことだけだから。それしか、出来ないから。
加奈子さんを、僕が守るんだ。
「公園に居ました」
いきなり殴られた。僕は、吹っ飛んで壁にあたった。お母さんが車にはねられた時も、きっとこんな感じだったのだろうか。
「お父さんは悲しいな。お前の嘘で、オレは傷ついたよ。どうしてくれようか?え?」
身体を踏まれながら、僕は不思議と冷静だった。
どこか、遠い別の世界の出来事のような気がしていた。
「お母さんから聞いたぞ。お母さんはな、お前を探しに公園まで見に行ってくれたんだよ。お前はいなかったって。お前を探しに行ってくれた、お母さんが可哀そうだ。お前は、優しいお母さんを傷つけたんだぞ。分かっているのか?え?この大嘘付きめ!オレを騙せると思ったのか!」
今度は蹴られた。僕はとにかく、身体を丸めた。胸に手を当てる。息苦しいけど、まだ生きている。心臓は動いている。まだ、大丈夫。
お父さんは僕の髪の毛を掴んで、頭を持ち上げた。僕の頭に触らないで。そう言いたかったけど、声が出なかった。僕の頭に触れていいのは、もう加奈子さんだけだから。加奈子さんしかいないから。触らないで!
「おい!お前、誰と会っていた?本当は、滝川の馬鹿と会ってたんじゃないのか?ええ?答えろ!」
良かった。加奈子さんのことでは無かった。でも、すぐに答えたら嘘だとばれる。そんなことになったら、今度は加奈子さんが殴られる、蹴られる。加奈子さんの心臓が止まってしまう。それだけは絶対に嫌だ。だから僕は、今は死ねない。
精一杯の嘘を吐く。
生きて、生きて、最後の嘘を吐いてやるんだ!
「誰とも会っていません。本当です。公園の茂みに隠れていたんです。前みたいに、おまわりさんに見つからないように・・・」
答え切る前に、床に頭を叩きつけられた。めまいがした。気を失いかけた。ダメだ、今はダメだ。耐えろ。しっかりしろ。
頑張れ、僕!頑張れ、心臓。
「茂みだと?オレにまだ、嘘を吐くのか?ええ?お前のことを、市役所で見たって教えてくれた人が居るんだよ。オレを馬鹿にしやがって。お前、気持ち悪いんだよ!」
市役所に行ったところを、誰かに見られた?そう考える間もなく、頭を持ち上げられ、また床に叩きつかれた。今度は耐えられる。痛みを感じないからだ。でも、次は持つだろうか?
ダメだ、諦めてはダメだ。加奈子さんの存在を隠さないと。どうにかして、誤魔化さないと。もう、誰も死なせない。加奈子さんを死なせたりするもんか!
僕はひとりで、市役所に行ったんだ。僕は、ひとりっきりなんだ!
「何をしに、市役所に行った?ええ?オレは全部知ってるんだよ。答えろ!このゴミが!殺すぞ!」
また、頭を床に叩きつけられた。気が遠くなる。頭がくらくらする。
ダメだ、しっかりしろ。まだ、死んではいけない。死ねない。死にたくない。お願い、もう少しなんだ。考えろ、考えろ!お父さんは、何を知っている?
「オレが居ないことをいいことに、好き勝手やりやがって。どれだけお母さんに迷惑を掛けたか、分かっているのか!」
「ごめんなさい。もうしません」
「聞いたことに答えろ!あの馬鹿に、何をしゃべった?滝川の馬鹿に、何を吹き込まれた?いいか、お前を育ててやったのはこのオレだ。行くところがないお前を引き取ってやったのは、このオレだ。この恩知らずが!人殺しが!」
髪の毛を掴まれ、頭を持ち上げられた。
「市役所に行きましたけど、誰にも会っていません」
頭を持ち上げられたまま、殴られた。口の中も切ったみたいだ。血の味がする。涙が出てしまった。でも、まだ大丈夫。
今ので、目が覚めたから。
「嘘を吐け。オンナと一緒だったと、見た奴が居るんだよ」
「え?」
僕は驚いた。何で?どうして?加奈子さんと一緒のところを、誰かに見られてしまった?
そうだった、僕は加奈子さんと市役所では、ずっと一緒だった。どうする?どうしたらいい?考えろ!
僕が驚いていることが、お父さんに気付かれてしまった。
お父さんは笑った。笑ったお父さんは、別人のようになった。
本物の動物のようだった。肉を食べていた、あの怖い動物のように。
急に僕は、取り返しのつかないことをしてしまったと、後悔しはじめた。
どうすればいいのか、もう分からない。考えても考えても、いい方法が思い浮かばない。
僕は、とても怖くなった。でもお父さんは、意外なことを話しはじめた。
「分かってるんだよ。お前と一緒に居たオンナは、柿田って奴だろう?滝川の馬鹿とつるんでる、あのブスだろう?どうだ、まだ嘘を吐くのか?オレを騙せると思ったのか?あ?オレはなあ、何でも知ってるんだぞ。隠しても無駄だぞ」
良かった。本当に良かった。加奈子さんと一緒にいるところを見られたけど、滝川さんと一緒に居た、かきたさんという女の人と間違われた。本当に良かった。これならもう、死んでも大丈夫だ。かきたさんなら、大丈夫だと思うから。だって、滝川さんが守ってくれると思うから。
でも、もう少し粘らないと。もう少しだから。あと、少しだから。頑張って、僕の心臓。お願いだから、まだ止まらないで。もう少しだから。加奈子さんは、市役所に居なかった。僕と一緒に居た女の人は、かきたさんと信じさせないと。
僕は悪い子だから。悪い子の僕なら、きっと出来るはずだから。
「ごめんなさい、ごめんなさい。すみません、かきたさんと滝川さんとあっていました。お話をしました。ごめんなさい」
「最初から、そう言えばいいんだ。それで、お前はあいつらに何をしゃべった?柿田のブスは、お前に何を吹き込んだ?滝川の馬鹿は、お前に何を聞いてきた?お前は、なんて答えた?言え!言えと言ってるんだ!!!」
オジサンは、歪んだ顔で笑っていた。笑いながら、僕を殴ってきた。とても、うれしそうだった。
「いいか、滝川も柿田も、お前のことなんか、これっぽちも考えていないんだよ。お前は、あいつらに騙されてるんだよ」
また、殴ってきた。とても、うれしそうにしている。
「お前のことを大事に思っているのは、俺やお母さんなんだぞ。あいつらはなあ、お前を利用しているだけなんだ。分かったか!」
本当にオジサンは、喜んでいた。
公園のおじさんの笑った顔と、全然違うなあと思ったら、僕は少し笑ってしまった。
僕に笑われたと思ったのか、オジサンの顔が急に赤くなった。
怒り始めた。
「オレを笑うな!」
強く、殴られた。
僕は、気を失った。
目が覚めたけど、身体を動かすことが出来なかった。
寒い、とても寒い。身体は熱っぽいのに、とても寒かった。痛みは無いけど、何も感覚がない。音も聞こえない。胸に手を当てたいけど、手が動かない。身体が動かない。僕はもう、死んでしまったのだろうか?これが、死なんだろうか?
妹が僕の顔を、覗き込んできた。でも、何も言わずに立ち去った。
ゴメンね、こんなお兄ちゃんで。
おっきいお兄ちゃんって呼んでくれて、本当にありがとう。
死なないでくれて、本当にありがとう。
足を持ち上げられ、引きずられている。
ずるずると僕を、どこかに連れて行こうとしている。
きっと、僕を捨てに行くんだろう。
捨てられたパンのように、僕を捨てに行くんだろう。
汚いゴミだから、ゴミ捨て場かな?
でも、どうせ捨てるなら、あのお花畑がいいな。
キレイなお花畑だから。
公園のおじさんのお墓だから。
でも、最後に加奈子さんを守れて、本当に良かった。
僕、頑張ったのかな?
加奈子さんにもう一度、会いたかったなあ。
加奈子さんに、頭を撫でてほしかったなあ。
加奈子さんに、もう一度だけ、抱きしめてほしかったなあ。
加奈子さん、心配していないかな?
スカイツリーに一緒に行けなくて、ごめんなさい。
みんな、ごめんなさい。
僕はもう、ダメみたいです。
あたりが暗くなったみたい。
真っ暗になったみたい。
もう、何も見えなくなった。
血まみれの女の人も見えない。
加奈子さんの顔も、思い浮かばない。
でも、全然怖くない。
やっと、終わるから。
もう、終わるから。
きっと、これが死なんだと思う。
死んだら、どこに行くんだろう?
天国に行けないなら、僕は地獄に行くのかな?
それは嫌だなあと思う。
でも、仕方がないよね。
だって、僕は悪い子だから。
みんな、僕のせいで死んじゃったから。
だから、みんな僕を置いていくんだね。
僕は、ひとりっきりなんだね。
僕は、守れなかったから。
僕は、守りたかったんだ。
僕は、加奈子さんを守れたのかな?
加奈子さんのために、頑張りたかったんだ。
でも、もういいや。
少し、眠くなってきた。
段々、沈んでいくような気がする。
もう、い・い・・や・・・
もう、い・・・い・・・よ・・・ね?
?
だ・・れ?
な・ん・・だろ・う?
何か・・聞こ・・える。
誰かが・・呼んでいる。
僕の名前を、呼んでいる。
お母さん?
お母さんが、何か叫んでいる。
大丈夫って、聞いてきてる。
応えないと。
僕は大丈夫って、言わないと。
お腹いっぱいですって。
心臓は動いてますって。
声が出ない。
お母さん。
お母さん!
違う。
お母さんじゃなかった。
加奈子さんだった。
加奈子さん!?
何で?
加奈子さんがいる!
急に意識が、はっきりした。
加奈子さんが僕の側に居て、僕の手を掴んでいる。
ダメだ、こんなところにいちゃ。胸に手を当てたいけど、動くことが出来ない。
僕は必死に、加奈子さんに伝えようとした。
「加奈子さん、ダメです。ここに居てはいけません。オジサンに酷いことをされます。だから、早く逃げてください。僕は大丈夫ですから。先に行ってください!僕も後から行きますから!」
そう伝えたつもりだけど、加奈子さんは僕の手を取るだけで、そこを動いてくれなかった。いつまでも、動いてくれなかった。
僕は、手を動かせなかった。手は、何も感じない。加奈子さんの温もりを、感じる事が出来ない。
ダメだ!動かさないと。動け、動け!動け!僕の手は、身体はどうしても動かない。何で?どうして動かない?早く、動かないと。せめて、手だけでも動かさないと。加奈子さんに伝えないと。加奈子さんを、ここから連れ出さないと。
加奈子さん!加奈子さん!加奈子さん、聞いて!逃げて!
あの時、滝川さんに加奈子さんをお願いしておけば、こんなことにはならなかった。僕が加奈子さんを守れるなんて、本当に愚かな考えだった。何で僕は、あの時動けなかったのか?何で、加奈子さんを、滝川さんにお願いしなかったのか?
後悔しても遅い。今、なんとかしないと。僕のせいだから。何とか、加奈子さんに伝えないと。
加奈子さん、ここに居てはいけない。オジサンに見つかったら、酷い目にあう。加奈子さんが殴られる、加奈子さんが蹴られる。加奈子さんが床にたたきつけられる。
そんなのは嫌だ。
それだけは嫌だ。
絶対に嫌だ。
嫌なんだよ!
だから、逃げて。
お願いだから。
僕は、どうなってもいいです。
罰もいっぱい受けます。
いっぱい、いっぱい殴ってもいいです。
蹴ってもいいです。
いくらでも、酷いことをしていいです。
地獄にも行きます。
どんなところだって、僕は行きますから。
もう、我儘を言いません。
だから、だからお願いします。
神さま。
お願いですから、加奈子さんをここから連れ出してください。
加奈子さんを助けてください。
加奈子さんを・・・・・かなこさ・・・・・か・・・な・・・・・・・ん・・・・・・
大丈夫?
僕は、大丈夫だよ。
そう、良かった。
お母さんこそ、大丈夫?
お母さん、そろそろ行かないと。
どこに行くの?
お父さんのところだよ。
そうなんだ。じゃあ、天国に行くんだね。
一緒に居てあげることが出来なくて、ごめんなさい。
仕方が無いよ。僕もお母さんの手を取ってあげれなくて、ごめんなさい。
約束守れなくて、ごめんね。
ううん、もういいんだよ。
ひとりにして、ごめんなさい。
僕はね、加奈子さんていう女神さまと会ったんだよ。
一緒に居てあげたかった。
だからね、もう寂しくないんだよ。
ずっと、見守ってあげたかった。
僕をね、ずっと見てくれるんだよ。
もう、抱きしめてあげる事が出来ない。
だからね、僕はもう大丈夫なんだよ。
うん。真希はもう、本当に大丈夫なんだね。
僕はね、お腹いっぱいなんだから。
うん、いっぱいごはんを作ってもらってね。
だからね、もう泣かなくていいんだよ。
もう、泣かないよ。
だからね、ばいばい。
うん、もう行くね。
お父さんと公園のおじさんに、僕は元気ですって、伝えてね。
うん。
さよなら。
ばいばい。元気でね。
さよなら、お母さん。
ありがとう。
今まで見守ってくれて。
お母さん・・・
長い長い、とても長い夢を見ていたような気がする。
誰かと、たくさんお話ししたような気がする。
あれは、誰だったんだろう?
気が付いたら、僕は乗り物に乗っていた。サイレンの音がした。救急車の中だった。
加奈子さんは、僕の側で泣いていた。
加奈子さんは、無事だった。
無事で、本当に良かった。
泣いている加奈子さんを、なぐさめてあげないと。
加奈子さんの頭を、なでてあげないと。
僕は手を動かそうとしたけど、動いてくれなかった。
指を一本ずつゆっくりと動かしてみると、少しだけ動いた。
僕はなんとか、グーを作った。
僕は腕を加奈子さんに向けて、精一杯伸ばした。
加奈子さんは、驚いていた。
加奈子さんは、笑ったように見えた。
加奈子さんの笑った顔が、素敵で一番かわいいと思う。
加奈子さんの笑った顔が、僕は大好きなんだ。
僕のグーと合わせるように、加奈子さんもグーを出してくれた。
僕のグーと加奈子さんのグーが、仲良くくっついてくれた。
加奈子さんの手は、とっても温かかった。
公園のおじさんの、言う通りだった。
いつか、いいことあるって、本当のことだったんだね。
だって、加奈子さんとまた会えたから。
僕はもう、それで十分幸せなんだ。
だって、加奈子さんの笑顔を見れたから。
それから僕は、また眠ってしまった。
起きた時は、病院のベッドだった。
僕は、胸に手を当てる。
まだ、心臓は動いている。
僕は生きている。
死んでいない。
死ななかったんだ。
誰かいる。
誰かが、僕を見つめている。
加奈子さんが、見つめていた。
とっても、キレイな瞳だと思う。
女神さまのような、瞳だと思う。
やっぱり加奈子さんは、僕の女神さまだった。