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天国の家  作者: せいじ
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第十五話  真希の家

 滝川さんは、私を駐車場に案内してくれた。

 そこには、公用車らしき車が用意してあった。

「あれ?滝川先生、その人は?」

「ああ、沢井さんです。本日、今回の事案の証人として同行して頂きます。ああ、紹介します。こちらは、武西署の近衛さんです。あと、私はもう先生ではありませんよ」

「失礼しました。ああ、どうも、近衛警部補です」

 握手を求めてきた。ちょっと意外だった。警察官なら、敬礼をするものだと思っていたから。刑事ドラマの見過ぎかな?でも、何でここに警察官が居るのかな?聞かない方がいいのかな?聞くなって、言われてるし。でも、滝川さんのことを先生って呼んでいたけど、何の先生だろう?

「柿田さんは、まだですか?ああ、お見えになった」

「お待たせして済みません。調整に手間取りました」

「いえ、まだ五分前ですよ」

 近衛さんは、早速運転席に乗り込んだ。滝川さんは私に後部座席に座るように誘導してくれたけど、柿田さんはその場を動かなかった。柿田さんはまるで、胡散臭いモノでも見るように、私を見ている。滝川さんは、やれやれという仕草をしていたけど、それでも柿田さんは私を見ていた。何で?私はこう見えても、善良な市民ですけど?ちゃんと、税金も納めてるし。

「確か、遠藤さんでしたか?何の御用ですか?」

 なんですか、そのあからさまな態度は?でもこの人も、私を覚えていたのか?服装も髪型も、ついでにメイクも変えたのに、記憶力あるなあ。もしかして、これが観察眼という奴なのかな?課長の名前を忘れる私とは、大違いだ。ええっと、確か家庭まるごと相談室だったかな?そんな態度で、相談員が務まりますか?とは、聞けないけど。

「車の中で話しますよ。今は一刻も早く、椎名さんのお宅に行かなくてはいけなくなりましたので」

「そうですね。一応、手配はしておきました」

 柿田さんは助手席に乗り込みながら、滝川さんにそう答えた。そこへ近衛さんが、なんだかちゃかすように意味深なことを言った。

「さっすが、キャリア!」

「ううっん!」

 柿田さんがせき込んだ。何だろう、キャリアって?

「では、参りましょう」

 柿田さんは助手席に座り、後部座席には私と滝川さんが座った。近衛さんが運転をするようだ。その柿田さんは私をチラッと見たけど、何も言わなかった。何だか、機嫌が悪そうだ。嫌だなあ。

「出発します」

 車は庁舎の駐車場を出発し、国道に出た。

「だいたいの内容は、皆さん共有していますね?」

「遠藤さんが何故、ここに居るのか以外は共有しています」

「すみません、訳あって偽名を名乗りました。本名は沢井と申します」

 本当にいやだなあ、柿田さんが後ろを振り向きながらまた睨んできたよ。チラッと、滝川さんの方も見たけど。滝川さんを見る時の柿田さんの表情は、どこか戸惑っているような感じだった。肝腎の滝川さんは、目を閉じていた。だから彼女は当然のように、疑問を口にした。私でもそう聞くだろう。近衛さんは、愉快そうにしているし。

「何のために?」

 私が答える前に、滝川さんが説明してくれた。目を閉じたままだけど。

「今は、そんなことを問い詰めている場合ではありませんよ。沢井さんは、今回の事案の大事な証人なんですから」

「証人ですか?初耳です。そもそも、そんな話になるなんて、私は聞いていません。近衛君は、何か聞いていますか?」

 運転しているその近衛さんは、ただ首を振るだけだった。何と言うか、興味ありませんという感じに見えたのだけど。

「今から、説明します」

「偽名を名乗る段階で、あなたを信用出来ません」

「さっすが、調査官」

「今は、家庭なんでも相談室の相談員です」

 ああ、そうそう。家庭なんでも相談室だった。良かった、家庭まるごと相談室なんて言わなくて。名前と役職を間違えたら、それこそ致命的だろうから。もちろん、社会人として。

「それって、仮の姿でしょう?だったら、柿田さんも信用出来ないよね(笑)」

「近衛君、それはあなたも同じではありませんか?」

「そうそう、この車に乗っている人は、みんな嘘つきということかな」

 え?どういうこと?嘘つきって、なにそれ?

「沢井さん、この人はね、警察庁の人なんですよ」

「近衛君、いい加減にしてください。それは前職で、今の私は、武西市家庭なんでも相談室の相談員です」

「まあまあ。今は関係ありませんよ。大事なことは、被害に遭っている児童を、保護出来るかどうかです」

「同床異夢か、それとも、呉越同舟かな?」

「近衛さん、もういいでしょう。柿田さんもです」

「は~い」

「了解です」

 警察の人のわりに、軽いなあ。でも何だろう、この組み合わせは。ドーショーなんとかとかゴエツ云々って、一体何?何の喩えか分からないんですけど。それに柿田さんは警察庁って、警視庁と何が違うの?

「とにかく、目的は椎名真希さんの安否確認ならびに保護になります。それが最優先事項です。あなた方の目的は、その後になります。いいですね、ここでの優先権は、私にあります」

「もちろんです」

「了解で~す」

「あとで、説明して頂けますか?」

 私は、聞かずにいられなかった。真希の保護以外に、何か目的があるなんて、私は聞いていない。何だか、やばいことになっていないか?私一人で、真希の家に向かった方がいいような気がしてきたが、柿田さんがぴしゃりと言い放った。

「あなたには、関係ありません」

「沢井さんにはあとで、私から説明しますよ。今言えることは、我々三人は、職務に忠実な公務員だということです。そこは信頼してもらっても、大丈夫ですよ」

 滝川さんは、相変わらず目を閉じたままだけど、まっすぐに前を向いたままでもあった。でも何だか、私は柿田さんにすっかり嫌われたようだ。まあ、仕事の邪魔をするかもしれない部外者が同行するのだから、警戒するのも当然かな。 

「さあ、そろそろ着きますよ」

 滝川さんは、静かに目を開けた。まるで、今から何かが始まるように。

 真希の家が、視界に入ってきた。

 私は、身構えてしまった。以前この家を見た時は、どうとも思わなかったが、今は何だか違う風景に見える。

「本当に、ここにラスボスが居そうかも」

「お!いいですね、それ」

「近衛君」

「はいはい」

「さて、では皆さん、よろしくお願いします」

 滝川さんは、呼び鈴を押した。まるで、合図の鐘のように。

 私は、歯を食いしばった。


 家の中から反響してくる呼び鈴の音は、まるで何かの合図のようだった。

 今更だけど、私は後悔してきた。

「はい、どちらさまでしょうか?」

「ああ、どうも。児童相談所の滝川です。家庭訪問に伺いました。真希さんにお会いしたいので、中に入れて頂けますか?」

「真希は風邪で寝込んでいますので、またにして頂けませんか?」

「はい、その真希さんのお見舞いも兼ねて、お伺いしました。是非、会わせて頂けませんか?」

「真希が、嫌がっています」

「お医者様には、診せていませんよね。情報がこちらに届いていません。念のためですが、我々は児童の安全の為に、ご家庭内の調査権と児童の保護権があります。こちらには、警察の方もいらっしゃっています。真希さんの状態を確認しない限り、我々は帰る訳にはいきません。どうされますか?」

「・・・・分かりました。では、騒がないようにお願いします」

「ええ、もちろん」

「少し、お待ちください」

 児童虐待の関連資料を読むと、ここで引き下がる事例があるそうだけど、滝川さんは意外にも強引なようだ。警察官も居るとなると、相手も断れないだろう。報道では、児童相談所の対応に不備があるのではというが、一般家庭に無理やり踏み込んでもいいのかどうか、結果だけを論じても仕方が無いと思う。白か黒か、そんな単純な問題ではないと思う。責任問題だって、起こり得るから。

「では、どうぞ」

 しばらく待つと、玄関が開いて人が出てきた。初めて見る、真希のお母さんのようだ。何と言うか、目つきが怖い。神経質ぽそう。いやいや、先入観を持ってはいけない。

「真希は眠っていますので、静かにお願いします」

「失礼します」

「あの、こちらの方は?」

「ああ、そうでした。警察関係の方です。近衛さんと遠藤さんです」

 一応、会釈はするけど、私は警察の関係者ではないんですけど。でも、柿田さんも近衛さんも何も言わない。というか、ふたりの様子がちょっと変だ。表情が硬い。私なんか、あえて偽名のままだし。滝川さんだけ、いつもの温和な表情だ。

 何だろう、ここから逃げ出したい気分になるのは。胸がどきどきしてきた。ダンジョンに入るのって、もしかしたらこんな気分なんだろうか?どうしよう、不謹慎だけど、何か武器が欲しい。何も持っていないと、ちょっと不安を感じる。ひとりでなくて、本当に良かったと今は思う。私はこんな場所に、ひとりで乗り込もうとしていたのかと思うと、ちょっと世間知らずだったような気がする。

「それで、真希さんはどちらですか?」

「はい、こちらです」

 案内された部屋は、いかにもな子供部屋だった。でも、何か違和感がある。何だろう、この部屋は、どこかおかしい。

 部屋にはベッドが二つ並んでいて、片一方にはぬいぐるみなどの、女の子向けのカワイイ小物も置いてあった。そういえば、真希には妹ちゃんが居たっけ。

 柿田さんが近衛さんの耳元に近づき、何か囁いていた。私には聞き取れなかったけど、目的は真希の安否だから、そんなのはどうでもいい。だから、私はもう一方のベッドに注目した。


 もう一方のベッドには、子供が寝ていた。真希だった。良かった、床に寝かされていなくて。でも、布団が顔半分まで被せてあって、表情がよく見えない。真希は確かに眠っているようだけど、何だろうか、どこか違和感がある。嫌な感じがするし、段々怖くなってきた。さっきから、胸がどきどきしている。息が苦しい。

 柿田さんが何かを察したように、今度は滝川さんの耳元まで近づき、囁くようにだけど先生と呼んでいた。それ以外は、早口でよく聞き取れなかった。でも滝川さんは、何の反応も見せなかった。ただ、真希のお母さんに、真希の状態を訊ねた。

「真希さんの容体は、いかがでしょうか?」

「いえ、たんなる風邪です。お熱があったので、大事をとって休ませました」

「病院に連れて行かない理由は、なんでしょうか?」

「真希は、病院が嫌いですので」

「そうですか、実は私も病院はあまり好きではないのですよ。やれ血圧が高い、やれ高脂血症だの、色々と言われます」

「そうですよね、私も好きではないんですよ」

「でもね、それは大人の都合であって、子供は違いますよ。それは、理解していますか?」

 滝川さんの口調が、急に険しくなった。表情も硬くなった。まるで、詰問しているようだ。でも、真希のお母さんも想定していたのか、すべるように答えてきた。想定問答集でもあるのか?

「もちろんですとも。お熱が下がらなければ、今日にでもお医者様のところに連れて行こうと思っていましたの。親の義務として、当然ですよね。ですから、手短にお願いできますか?これから、真希を病院に連れて行こうと思っていますので」

「そうでしたか。それで、今朝の体温は何度ぐらいでしたか?朝食は摂りましたか?」

 滝川さんが私の方を、チラッと見た。目くばせをしているという感じではないけど、何かの合図のような感じがした。柿田さんが滝川さんを見た後、再び真希のお母さんの方を注目していた。近衛さんは、スマホをいじっていた。

「え?ええっと、そう、38度ぐらいです」

「ほう、それは高いですなあ。ちなみに、38度何分ですか?」

「ええっと、38度5分だったと思います」

 そんな二人のやり取りを、柿田さんはまるで胡散臭い者でも見るような目で見ていた。真希のお母さんは、何だか少しだけど動揺しているような感じがした。近衛さんは、相変わらずスマホをいじっていた。

 誰も私を見ていないその隙に、腰を屈めながらそっと真希に近づいた。

 寝ているにしては、何か様子が変だ。真希の状態は、何かおかしい。まるで、生きていないように見えた。

 生きていない?

 え?何で!

 咄嗟に、私は叫んだ。

「真希!真希!」

 真希はうっすらと瞼を開け、こっちを見た。生きてる!

「か、かな・・こさん・・・・ダメ・です、ここに・・いては・・・・いけ・・ませ・ん。にげ・て・・・く・・ださ・・い。・・・だい・じょう・・・ぶですから・・・・・・」

 か細い声で、途切れ途切れに私に何かを語り掛けてきた。私は真希の顔の半分ぐらい掛かっている、布団を剥ぎ取った。真希のお母さんが、何かを叫んだ。柿田さんが、真希のお母さんを引き留めた。滝川さんも、割って入ってきた。

「お母さん、これはどういうことでしょうか?」

「ち、違うんです。違うんです。ええっと、この子がふらふら歩いていたら、転んで怪我をしたんです。ほ、ほら、お熱もあるから。この子は、私共の言うことを聞かないんですよ。ジッとしてくれなくて。ホント、困った子なんです。皆様に、ご迷惑を掛けて」

 真希のお母さんの言葉は、もう私には届かない。届かなければ、何も言っていないも同じだった。だって、真希を労わる言葉が、何も無いからだ。ひとことも、ないんだ。

 真希の顔には、あざが出来ていた。明らかに、殴られたようなあざがある。しかも、息苦しそうにしている。虫の息とは、こういうことなのかと思った。真希は苦しそうだけど、私の胸も苦しくなってきた。どうしよう、どうしたらいい?苦しくて、吐きそうだ。

 落ち着け、私は何もされていない。されたのは、真希なんだ。甘えるな、私は何もされてない。

「真希、助けに来たよ」

 私は真希が横たわるベッドの側にひざまずき、彼の手を握った。冷たい手だった。握り返してくれない、何の反応もない手だった。私は真希の手を温めてあげないと、ただそう思った。懸命に手をさすった。息を吹きかけた。それでも真希は、私にここから逃げろと言う。

「に・・・げ・・・て・・・・」

「真希、ここには滝川さんやおまわりさんも来ているんだよ。だから、だから、もう大丈夫なんだよ。安心していいんだよ。私も側にいるよ。もう、離れたりしないよ」

「あのですね、私の話しを聞いてください。真希には、虚言癖があるんですよ。本当に困った子なんですよ。主人も、頭を痛めているんですよ」

「奥さん、我々はまだ何も言っていませんよ?柿田さん、ちょっと真希さんの身体の状態を見てください」

 柿田さんは真希のお母さんの側から離れ、でも目を離さずに真希の側にやってきた。真希のお母さんは抗議してきたけど、今度は近衛さんが制した。近衛さんの目も、何だか険しい。まるで、いかがわしい何かを見るよな、そんな目をしていた。

「何をするんですか?私の子に?」

「安心してください、奥さん。柿田は、看護師の資格を持っていますので」

 柿田さんは、慣れた手つきで真希のシャツをめくる。そこには、明らかに暴行を受けた後があった。古い傷痕の他に、新しい傷痕がある。

 私は、初めて真希の身体を見た。

 真希は、こんな身体だったのか?

「これって、暴行の痕ですよね?応援を呼びます。近衛君?」

「ま、待ってください。違うんです」

「何が違うかも、あとでお聞きしますね」

「主人が、主人がやったんです。真希が言うことを聞かないから、そう、これはしつけなんです。仕方がないんです。真希の為にやったんです。この子の将来の為なんです」

「椎名さん。しつけも虐待と認定される、そういう時代になったんです。前にも、ご説明したはずですよね?」

「わ、私は止めたんです。でも、必要だからって、主人が・・・」

「ふらふら歩いて転んだ、次は虚言癖がある、次は主人がしつけですか?おまけに今度は私が止めたですか?子供がこんな状態なのに、病院にも連れて行かずに、よく言いますよね。これはもう、典型的ですよね(笑)」

「近衛さん。今はそんなことを、言っている場合ではありませんよ。救急車の手配も、お願いします」

「すでに、応援を要請しています。間もなく、こちらに到着するでしょう。柿田さんの方は、呼ばなくていいんですか?」

「すでに、署の方に来ているはずです」

「さっすが、キャリア」

 私はそんなやりとりを、どこか遠い世界の出来事のように思った。

 私はただ、真希の手を温め続けた。まるで氷のように冷たい手に、なんとか熱を戻そうと、懸命に温めた。涙が出そうになるけど、必死に抑えた。辛いのは真希であって、私ではない。でも、こんなに辛いなんて。私が、代わってあげたい。何で、私ではないんだ。私でいいはず。こんな小さな手に、私よりも小さな身体に、何もかも背負わせるな。

 親は何をしている?

 お前は、真希に何をした?


 お前がやったのか?


 真希の保護者に対する、芽生えた殺意も必死に抑えた。今は、真希のことだけを思うことにした。真希以外のことは、考えないようにした。それでも、真希をこんな目に遭わせた保護者に対して、どす黒い気持ちを消すことが出来なかった。だから、真希の保護者は見ないようにした。声を聞かないようにした。真希の保護者は、滝川さんたち三人がなんとかしてくれるだろう。その為の、警察のはずだから。

「椎名さん。紫藤悟さんをご存知ですか?」

「え?」

「あなたの弟さんですよね。先日、強盗の容疑で逮捕されました。実は供述も始まっていまして、興味深いことを話しているんですよ。その件についても、詳しく話を伺いたいので、署までご同行をお願いします」

 いつの間にか、部屋の中に制服の警察官が複数人居た。真希のお母さんは、うなだれながら警察官に連れていかれた。私は、何で救急車よりも警察の方が先に来るんだと思った。そいつを連れて行くな、真希の方が先だろうと思った。早く真希を病院に連れていってくれと、強く願った。このままじゃ、真希は死んでしまうじゃないか!苦しんでいるこの子の方が、先だろう!順番を間違えている警察に対しても、怒りが渦巻いてしまった。 

「沢井さん」

 柿田さんに声を掛けられ、急に現実世界に戻された感じがした。救急隊が来ていて、真希を運ぶ準備をしていた。

 むしろ、私が邪魔だったようだ。

「あ、はい」

 私は、真希の手を離した。

 真希は、家から運び出された。

 私はそのまま。真希を載せたストレッチャーと、一緒について行った。


 外は、騒然としていた。

 いつの間にか、マスコミも来ていた。

「保護者の方、ご同行をお願いします」

「あ、はい」

 私は無意識に救急車に乗り込もうとして、そこで躊躇した。私はまだ、この子の保護者ではない。

「では、私もご一緒しましょう。私は、児童相談所の滝川です。この子を、児相の保護下に置きますので、それでよろしく」

「ああ、そうですか。では、どうぞ」

「沢井さんもどうぞ」

 滝川さんは、私の肩に手を置いて、救急車に乗るように促してくれた。断る理由もないし、むしろ真希を見届けたいと思った。

 滝川さんの配慮に感謝し、私は救急車に乗りこんだ。

「あとを、お願いします」

「了解です」

 柿田さんの声だった。彼女の方が、遥かに冷静だった。私より、真希の役に立っていた。それが何だか、悲しくなる。

 本当に、私は役立たずだった。頼りにならない、大人だった。真希の方が、よく見ていた。 

 私は救急車の中で、真希を見続けていた。真希は眠っているのか、気を失っているのか、私には判別が付かなかった。でも、生きている。それだけが、救いだった。

「この子のお名前は?」

 救急隊員が私に聞いてきたので、咄嗟に答えた。

「椎名真希です」

「年はいくつですか?」

「え?」

「では、生年月日は?」

 私は知らない。

「血液型は?」

「私が答えましょう」

 滝川さんが答えていた。真希の誕生日が、8月8日であること。年齢は、10歳であること。血液型は、AB型であること。アレルギーは無いこと。

 私は、何も知らなかった。

 滝川さんと救急隊員は、しばらくやり取りをしていた。

 私は情けなくて、つい泣いてしまった。

 何も出来ない。真希の誕生日すら、私は知らなかった。

 大人の癖に、子供一人、守れなかった。

 肝腎なことが、何ひとつ出来ていなかった。

 真希、許して。

 ゴメン、真希。

 私のせいだ。

 私が、気付いてあげれなかった。

「加奈子さん」

 真希が目を覚まし、手を握って作ったこぶしを、私の胸の前に突き出してきた。

 その手は、少し震えていた。

「大丈夫です。もう大丈夫ですから。加奈子さんは、僕が守りますから」

 とても、本当にとても小さな声だった。私にしか聞こえないような、囁くような声だった。救急車のサイレンの音と、機材の音でかき消されそうなぐらいなのに、私にははっきりとそう聞こえた。

 私はこぶしを作って、真希のこぶしに優しく当てた。繋がった気がした。

 命が、繋がったと思った。

 私は真希のこぶしを手に取り、私の頬に当てた。

 私は、微笑んだ。

 真希も、微笑んだようだった。

 真希はゆっくりと手を開き、私の頬を優しく包んだ。

 私の流した涙を、そっと拭ってくれた。



 その後、私は真希の正式な里親になるために、そして退院後に真希を一時的に引き取るために色々と手続きをすることになった。幸い、会社は不祥事で業務が出来ず、私は自宅待機となっていたから、平日に色々と動くことが出来た。

 こうなると、不祥事の原因を作った、課長に感謝しないといけないかもしれない。とは言え、たまに出社することもあるけど。

「隼田の奴は、仕事は出来るんだけど、女性関係がねえ」

「丸山さんは、課長をご存じなんですか?」

「ああ、私と隼田は同期なんですよ。大学も同じですが、専攻は違いますけどね。でも、サークルは一緒でした。いい奴なんですけどね」

「いい奴ですか?」

「ええ、しかも大変優秀な奴で、同期では間違いなく出世するだろうし、将来は役員になると言われていたんですよ。でも、女癖がねえ」

「そんなに酷いんですか?」

「あいつの奥方は、取引先の関係者の奥方で、当時は大変な騒ぎでしたよ」

「え?それでよく、クビにならなかったんですね」

「まあ、色々と手を回したみたいですよ。奴は優秀ですし、上の覚えもめでたかったので。まあ、そのせいで今回は、部長も退職する羽目になりましたけど」

「でも今度は、業務上横領って聞いていますけど。それって、女性絡みではないんですよね?」

「おや、聞いていませんか?取引先の女性と、共謀したんですよ。報道では、詳しくやっていましたよ。ちなみに、相手は既婚者のようです。マスコミって、ホント、容赦無いですね」

 いや、私は知らんよ。テレビを見る暇もないぐらい、勉強していたし。真希と暮らすために、今よりも広い家を探していたし。

「だいたいね、あいつは私の妻も口説こうとしたんですから。私と別れて、自分と一緒になろうって」

「なんですか、それ?」

「まあ、悪気はないんですけどね」

「悪気が無いって、そんな訳はないでしょう?」

「何と言えばいいのか、あいつはあいさつ代わりに女性を口説く、そんな体質なんでしょうね」

 それで私を口説こうとして、次に遠藤さんを口説いたのか。なんて、クズ!

「しかも、色んな人を巻き込むことにも長けていてね、巻き添えを食う人も結構いるんですよ。ホント、迷惑な話です。でもね、人望と言うか、人気はあるんですよね」

「本当にそう思います」

「とは言え、業務もそろそろ再開します。問い合わせも来ていますし、そろそろいいだろうと上も判断したようです。一応、わが社は被害者ですし」

「そうなりますかね」

 まあ、私は間違いなく被害者というか、巻き添えを食いかけたと言えるだろう。

「沢井さん、これはまだ内密なんですけど、来期に私は課長に抜擢されます」

「そうでしたか、おめでとうございます」

「まあ、そうめでたいこともありませんけどね。面倒ごとは、嫌いなんですよ。隼田の奴がしくじらなければ、こんな面倒な役回りを引き受けずに済んだんですけどね。貧乏くじも、いいところです。関係各所に、隼田の代わりに謝りに行かないとといけませんし。何で私が、あいつの尻拭いをしなければいけなんだと思いますよ。オレの女房に手を出そうとした、あいつの代わりに」

「ははは」

「それで沢井さんですけど、来期は課長補佐をお願いします」

「え?そんな役職なんて、ありましたっけ?」

「私が作りました。というより、課長職を引き受ける条件にしました。優秀な若手を、補佐に付けてくれって。面倒ごとは、お願いしますよ」

「そんな。私はなるべく、残業しなくて済む部署に、配置転換をお願いしていたのに」

「ええ、聞いていますよ。里親になるんですよね。実は、取材の申し込みも来ているんですよ。それで残業の無い部署に配置転換したら、給料が減るじゃないですか。それでなくても我が社に対する世間の評価は厳しいのに、ここでそんなことをしたら、また何か書かれてしまいますよ。それに役職手当と扶養手当も付くので、まあとんとんでしょう。だからまあ、お互いに利害の一致ということで」

「一致しているような、していないような。まあ、社がそれでいいのなら。でも、なるべく配慮をお願いします」

「了解してますよ。でも、よく決断しましたね、里親になるなんて」

「成り行きですよ」

「そういう時は、社会貢献の一環として、この社会にいる弱い立場の人の為に、上場企業の一員として尽力しないといけないと決意しましたって、そう言うんですよ」

「何ですか、それ?」

「いえね、取材に対する答えですよ。広報が用意したみたいですよ、模範解答的に。上も喜んでいますよ」

 年の功なんだろうか、人徳なんだろうか。前の課長よりも、仕事がやりやすいような気がする。遠藤さんも退職し、人手不足もあるので、実際は残業無しとはいかないようだし。

「ああ、後で総務部に寄ってください。取材を受ける前に、広報が打ち合わせをしたいそうですよ(笑)質疑応答集を、用意しているそうです。頑張って」

「いやなんですけど」

「まあ、そう言わずに」

 やれやれ。サラリーマンは辛いなあと、そう思う。でも、真希の為と思えればいいか。扶養家族が増えることだし。

「張り切って、いくか!」

 私は総務部のフロアに向かい、そこで政治家顔負けのスピーチを仕込まれることになる。


 椎名家のその後ついては、報道で知ることになった。

 真希にはなるべく、見せないようにしたけど。


 真希の叔父、というより椎名家の奥さんの弟は、連続強盗事件の犯人であり、保険金殺人事件の実行犯でもあるという。真希の実のお母さんを車でひき逃げして殺害したのも、この男だという。

「となると、真希の実のお母さんを殺した犯人に、児相は真希を預けようとした訳だ」

 しかも、大掛かりな保険金殺人事件の主犯格が、真希のお父さんというか、椎名家のご主人になるという。真希にも多額の保険金が掛けられていて、生命保険会社から警察に連絡がいったとか。それで今回は、警察も動きが早かったみたいだ。保険会社と警察に、そんな連絡網があるというのも驚きだった。以前にも子供に保険をかけ、殺害する事例があった反省から作られた制度らしい。そもそも、親が幼い子供に生命保険を掛けること自体、おかしいのではないかという議論もあったそうだ。ただ、そのおかげで対応がスムーズだった。本来なら、後手に回るのが常なのに。その意味では、運が良かったのだろうか。

「結局、滝川さんは何者なんだろうか?」

 真希の一時保護の解除や、真希を親族に預けることに役所で唯一反対したのが、滝川さんであると言う。その後、警察で事情聴取された際に、担当してくれた近衛警部補さんに教えてもらった。これは、内緒ですけどねと。


 里親になるにあたって、滝川さんとしばらくやり取りをすることになった。そこで彼が、公務員としてはかなりハイレベルの人であると言うことが、なんとなく分かってきた。私が真希の里親にあっさりなれたのも、滝川さんが色々と骨を折ってくれたからなんだそうだ。それに周りの人の滝川さんに対する扱いを見ると、ただの公務員とは思えなかった。近衛さんだけではなく柿田さんですら、滝川さんを先生と呼んでいたけど、いったい何者なんだろう。

 ただ、児相というか市役所では、何だか浮いている存在にも見えた。でも、滝川さんが何者なのかについては、ついに教えてもらえなかった。本人に聞いても、ただの公務員ですとしか教えてくれなかったから。

「大事なことは、真希にとっていいか悪いかだけだろう」

 私はケーキを買って、真希の入院する病院に向かった。真希は早く退院したそうだけど、こっちはまだ受け入れの準備が出来ていないので、ちょっと待つように頼んだ。

 まあ、退院自体はまだ出来なそうだけど。リハビリやカウンセリングもあるし。

「加奈子さん、病院では食べ物の差し入れは、ダメなんですよ」

「そうなの?」

「そうなんです」

「じゃあ、内緒で食べちゃおうよ」

「仕方がないですね」

 ふたりで秘密を共有する。

 何だか、楽しいと思うけど、これからが大変だと滝川さんは教えてくれた。

 真希はあれだけ酷い目にあったのだから、色々な問題が出てくるはずだからと。だから、しっかりとカウンセリングを受けさせないといけないそうだ。そして、些細な変化も見逃さないようにと。

「そう、今度こそ見逃さない。そうだよね」

「そうですよ、看護師さんも見ていますよ」

「え?」

「真希君のお姉さん。病院内では、食品の持ち込みは禁止ですよ」

「は、はい、すみません!」

 私は病院内では、真希君のお姉さんで通っている。まあ、他に呼びようがないからだろう。とは言え、真希の入院時における第一保証人は私であり、第二保証人は滝川さんだった。ホント、滝川さんていい人だと思う。児童心理司も紹介してくれたし。

 その後、真希の弟と妹は、施設に入ることになったそうだ。真希も気にしていたが、さすがに引き受けることは出来ないし、そこまで責任を負う必要は無いと、滝川さんは言ってくれた。

 人の出来る範囲だけを、すればいいんですよと。

「どうして滝川さんは、私たちにそんなに親身になってくれるんですか?」

 ある時、私は滝川さんにそんな質問をした。真希のお見舞いに来た時、滝川さんとばったりと出くわした時のことだった。

 ちなみに、滝川さんが用意したお見舞い品は、食べ物ではなく本だった。

「色々とあるんですよ。こういう仕事をしているとね、助けることが出来た児童よりも、助けることが出来なかった児童を思い出してしまうんですよ」

 小さな、とても小さな冷たくなった遺体を現場から運び出す。その小さくて幼い手を見ると、やりきれなさが付きまとうという。

「ああ、もうこの小さな手は何も掴むことが出来ないんだと思うと、ホント、どうしようもない気分になるんですよ」

 私は、何も返事が出来なかった。

「だからね、事前の準備が必要なんですよ。でも、虐待の通報は日々増えてしまい、人員はむしろ減ってしまっています。もちろん、中央もそれをヨシとはしておらず、今度、大規模な組織改編が行われます。実は私は、そこに呼ばれているんですよ。私としては、現場から離れたくないんですけどね」

「そうでしたか。でも、そういうことも大事だと思いますよ」

「ええ、本当に。上が無能だと、犠牲になるのは大人ではなく児童ですから」

 滝川さんは、待合室の窓の外を見つめていた。

 窓の外には、パジャマ姿の子供が見える。入院している子供だろうけど、元気いっぱいに走り回っている。滝川さんは、目を細めて見つめていた。もしかしたら、助ける事が出来た児童のひとりかもしれない。それでも滝川さんは、助ける事が出来なかった児童に、思いを馳せるのだろう。

「人は一度弱くなるとね、声を出せなくなるんですよ。そうなると、苦しいって訴えることも助けを求めることも出来なくなります。それは、生きながらの死なんだと、私は思うのですよ。だからね、我々はほんの小さな、とても小さな叫び声をなんとか掬い上げ、助けてあげないといけないと思うのですよ」

 滝川さんはこれからもきっと、冷たくなった手を取ろうとするのかもしれない。私が真希にしたように、温めようとするのかもしれない。間に合わなかったことを、後悔しながらも。小さな叫び声を、掬い上げることが出来なかったことを、心から悔いながら。

 それでも、救えるかもしれない命を、わずかな望みを繋ごうとするだろう。

「何で、こんな酷いことが出来るんでしょうね」

 私は、返事をしなかった。返事のしようが無かった。肯定も否定も、何か違う気がしたからだ。

「さて、では私は戻ります。何かありましたら、児相の方にお願いします。私はしばらく、市役所の方に居ますので」

「はい、何から何まで、お世話になりました」

「真希さんを、よろしくお願いします」

「最後にひとつ、お伺いしたいのですが」

「はい、何でしょうか?」

「どうして滝川さんは、私を信じてくれたんですか?偽名まで使ったのに」

 滝川さんはびっくりした顔をしたが、すぐに温和な顔になった。普段の作った顔ではない、きっと、これがほんとうの顔だろう。

 子供が大好きな、そんな人の好さそうな、とてもいいおじさんの笑顔だった。

「初めて、お会いした時です。その時真希さんが、沢井さんの手を強く握っていたからですよ。沢井さんを離さないって、そんな感じに見えました」

「え?そんな風に見えましたか?」

「はい。そして沢井さんも、すがりついてきた真希さんの手を、決して離さない。そんな風に、見えましたよ。だって、私どもが名刺を渡そうとしても、あなたは真希さんから手を離さなかった。私はそれで、確信しました。少なくともこの人は、真希さんの味方だと。きっと何があっても、真希さんの手を離さない人だと。残念ですが、私どもは真希さんに信頼されていないようでしたので」

「そうでしたか。でも、いつか滝川さん達に感謝する日が来ると思います。真希は、そういう子です」

 だって、真希は滝川さんを頼って、あれだけ必死になって市役所まで歩いてきたんだから。

「確かに、あの子はそういう子ですね」

「本当に、真希はいい子なんです。だから、私の責任は重大だと思います。あの子の未来は、私にかかっているので」

「まあ、肩の力を抜くことです。行政を、うまく使うことですよ。そのためにあるのが、行政と言うモノですから。遠慮は不要です。そして何よりも、弱い立場の者を優先することです」

「はい。肝に銘じます」

「沢井さんなら、きっと大丈夫ですよ。沢井さんがこれまで真希さんにしてきたように、優先順位をはっきりとつけることです。それでだいたいが、うまくいくものだからです。順番を間違えると、最初は良くても、最後はおかしくなるものだからです。行政も同じなんですよ。では、またいつかお会いしましょう」

 滝川さんとは、これでもう二度と話すことは無かった。公判で会っても、目で会釈するだけの、そんな関係になった。

 でも、この恩は忘れない。忘れてはいけないと思う。出来るなら、恩返しがしたいと思う。今出来る恩返しは、真希の為にやれることをすることだろう。

「私も頑張ろう!」

 そう、頑張るしかない。

 真希の日常を取り戻すために。

 私の日常にするために。

 それが今もこの瞬間も、助ける事が出来る児童をひとりでも多く増やそうと、懸命に努力している、現場の人々に対する恩返しになると思うから。


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