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天国の家  作者: せいじ
14/18

第十四話  心臓の音

 昨日と違って、真希はどこか変だった。

 ごはんをもくもくと食べていたけど、何だか様子がおかしい。

 もっとも、真希が安定したところを、考えてみたら見たことがない。

 情緒不安定で、片付けていいとも思えない。

「ねえ、真希。あれから、何かあった?」

「いえ、何もありません」

 う~ん、それって、何かあったということだよね?どうすれば、聞き出せるかな?聞き出し方って、あるのかな?

 食事を終えた真希は、ぺこりと頭を下げただけだった。しかも、いつもと違って、そのまま学校に向かおうとする。

 私は、真希をこのまま行かせてはダメだと思った。だから私は、思わず真希の腕を掴み、彼を引き留めてしまった。振り返った真希は、私をまっすぐ見つめていた。正確に言うと、私の胸のあたりを見ていた。ええっと、どう反応すればいいんでしょうか?

「ええっと、何かな?」

「え?あ?す、すみません、いいんです、ごめんなさい」

 そろそろ、そういうお年頃なのかな?女性の胸が気になるのかな?もしかして、おっぱいに触りたいとか?それはいくらなんでも、まずいでしょう。だいたい、私は遠藤さんのような巨乳じゃないし。いや、そんな問題じゃないか。単純に、甘えたいだけなのかな?う~ん、どうすればいい?

 それでも私はごく自然に、両腕を一杯に広げてしまった。

 真希は逡巡していたし、明らかにうろたえていた。

「ほら、おいで」

 自分でも、どうしてそんな行為をしたのか、よく分からない。それでも、受け入れるべきだと思ったし、受け入れたいと思った。拒絶したと思われたくない。真希を傷つけたくないと、心から思った。いいか悪いかなんて、本当のところよく分からない。もしかしたら、自分が傷つくのが嫌だったのかもしれない。でも、真希を傷つけたくないのは、本当の気持ちだと思う。

 だから、おいで真希。

「え?でも」

「いいから」

 真希は私に、ゆっくりと近づいてきた。いや、心臓がどきどきしてきたし、急にまずいことをしていると思い始めた。でも、拒絶して傷つけることだけはしたくないし、彼のトラウマにしたくないと思った。だから、少しぐらいなら許そうと思う。違う、こんなダメな私を許して欲しい。真希を許してほしい。

 ううん、私を許さなくてもいい。だから、真希を許して。真希だけを、許してあげて欲しい。

 それが、私の願い。私だけの、祈りでもあるから。

 こんなことしか出来ない私は、やはりダメな大人なのだろう。真希が私を、頼らないわけだ。

 じゃあ、立派な大人なら、こんな時にどうするんだろうか?どうすれば、いいのだろうか?

 結局、気持ちのままいくしかないのだろうか。だって、ここにはふたりしかいないんだから。

 ふたりだけの時間が、そこにあるんだから。


 時間が、止まったような感じがする。

 とても不思議だ。音もなく、何も感じない。息づかいさえも、遠くに感じる。

 ここに居る真希は、もうどこか遠くに行ってしまった。

 そんな錯覚すら、私は感じてしまった。


 真希は私の側まで近づき、そのままゆっくりと身体を寄せてきた。私の背中に腕を回し、胸のあたりに顔を寄せた。耳を胸に当ててきた。まるで、私の胸の中の、心臓の鼓動を聞こうとしているようだった。私よりも身長の低い真希の耳は、丁度私の心臓のあたりになるはず。

 私は、そんな真希を見守っていた。これがまるで、自然なことのような気がする。ずっと、こうしてあげたいと思っていたような、そんな気持ちが私の中にあった。何だか、ホッとしてしまった。

 安心したら、おかしなことを口走ってしまった。

「良かった、私のおっぱいが目的じゃなかったのか」

 ほんと、おバカな私。でも、緊張していたせいかもしれない。私も真希も。

 本当の気持ちなんて、自分が一番分かっていなかったと思うよ。

「え?なんですか?」

「ううん、ただの独り言。気にしないで」

 私は微笑みながら、そっと真希の頭をなでた。ゆっくりと、丁寧に。真希が、私を怖がらないように。私が真希を、恐れないように。

 空気のようになろう。そして、真希を包んでやろう。

「温かい。加奈子さんは、本当に温かい」

 真希も温かいよとは答えずに、私は低い声で歌った。子守唄を歌った。どうしてそんなことをしたのか、自分でもよく分からない。でも、自然と口ずさんでいた。それは、小さい頃に聞いたであろう、あの思い出の歌を口ずさんでいた。

 お母さんの歌を。

 真希は目を閉じ、まるで眠りについたように見えた。私の胸の中の音を、私の歌声を聞いていた。

 真希は、泣いていた。声をあげずに、ただ静かに涙を流していた。私は真希の頭を、背中を丁寧になでた。心の中で、大丈夫、大丈夫だから。私が真希を、守ってあげるからとつぶやいた。

 私は真希の額に、唇を静かに寄せた。

 私は真希の額に、そっと口づけをした。

 いつの間にか、私も泣いてしまった。

 真希を、かき抱いていた。

 強く抱きしめたい衝動があるけど、まるで壊れやすい小さな子猫を抱くように、私は真希を優しく包み込んだ。

 真希を、温めるように。

 胸の奥が、なんだか締め付けられるような気がした。



 真希は、ただ泣いていた。 



 真希は、うちに来なくなった。

 あれから、真希をまったく見かけなかった。公園も、バス停も。約束の日曜も来なかった。

「スカイツリーに行きたかったなあ」

 それでも私は、真希の為にごはんを用意し、食べてねという置手紙を用意しておいた。それから、私は、仕事に出ることにした。真希がいつ来てもいいように、ポストに家の鍵を入れて。

「どうしたんだろう、真希は」

 出勤途中に在る、公園のあずまやを見る。そこには、誰も居なかった。なんだか、不安になってくる。胸がどきどきしてくる。

「どうしよう、滝川さんと連絡を取るべきか?電話をしてみるか?」

 でも、大事にはしたくないし、真希もそれを望んではいないだろう。もしかしたら、滝川さんが真希のおうちに訪問したので、ごはんを用意してくれるようになったのかもしれない。

 そんなことを考えていたら、いつの間にか会社に着いてしまった。まるで、ワープしたように。

 エントランスを横切り、エレベーターに乗ろうとしたら、いきなり呼び留められた。

「あの~、沢井さん」

「あ、おはよう、遠藤さん。どうしたの?」

「おはようございます。ちょっと、お話があります。お時間いいでしょうか?」

「いいよ、お昼一緒にしようか」

「はい、それでお願いします」

 もしかしたら、課長にセクハラでもされたか?

「でもな、今は真希のことで集中したいんだけどなあ」

 ぶつぶつ独り言をつぶやきながら、丸山チームのフロアに着いてしまった。私は丸山さんに気が付かなかった。というか、ここどこと思った。おいおい。

「沢井さん?」

「ああ、あれ?丸山さん、おはようございます」

「おはよう。明日、また商工会に行きますので、そのつもりで」

「え?、またですか?」

「はい、またなんですよ」

 やれやれ。今度は商工会が横やりを入れてきたみたいだ。そろそろ、話しを進めたいんですけど。

「まあ、これも通過儀礼です。順調ですよ」

「そうなんですか?なら、いいんですけど」

 元々当て馬的な事業だから、これでいいのかもしれない。でも、やるからには成功させたいし、何と言っても地元だし。

「とは言え、私に出来る事って、ホント少ないなあ」

 ぼやいたところで、何も出ない。


 お昼になったので、遠藤さんと外に出た。近くの公園で、一緒にお昼にすることにした。

「お弁当作ったんだね」

「はい、仕事も落ち着きましたので。沢井さんは、おにぎりですか?」

「うん、ご飯の余りを握ってきたんだ」

 正確に言うと、真希の為に用意したごはんなんだけど。余ったからといって、捨てる訳にも行かないし。

「へえ~、中身は何ですか?」

「何だろう、鮭かおかかか梅干しか、どれか」

「なんですか(笑)」

「適当に作ったからね。食べる?」

「はい、頂きます」

 おにぎりひとつを渡すと、お返しに玉子焼きをくれた。甘い玉子焼きだ。まるで、遠藤さんのように、甘い甘い玉子焼きだ。

「ところで、話しって何?」

 遠藤さんは居住まいを正し、私に姿勢を向けてきた。

 何だろう、緊張してきた。

「先週のことです」

「先週?なんだろう?」

「孝さんのことです?」

「え?誰?」

「孝さんです。とぼけないでください」

「いや、ゴメン。本当に分からない。誰のこと?」

 たかし、隆、隆司、貴志、う~ん誰のことだ?心当たりがない。

「隼田孝さんのことです」

「ハヤタ?だれだっけ?」

「本気ですか?私は、真面目に話しているんですけど」

 怒っている顔も、カワイイなあなんて言ったら、ちょっとまずい空気になるかも。というか、何の話だ?

「本当にゴメン。ハヤタタカシって、私は知らないよ。誰のこと?どこの部署の人?」

「課長です」

「え?課長って、ああ、そういえばそんな名前だっけ?」

「誤魔化さないでください」

「いや、本当に知らないと言うか、忘れてたんだよ。それで、その課長がどうかしたの?」

「別れてください」

「え?」

「孝さんと別れてください」

「まさかと思うけど、私に関係ある話し?」

「とぼけないでください。孝さんは沢井さんと別れたいけど、別れてくれないとおっしゃっていました」

 おいおい、課長を一度殺すか?課長のようなクズは、一回殺した方がいいんじゃないのか?

「あのね、私はその課長とお付き合いをしたことは一度も無く、だから別れるだの別れないだのは無い話なんだよ」

「だって、沢井さんはいつも孝さんと親しげじゃないですか?」

 どっちかというと、遠藤さんの方が親しげなような気がするけど?

「いやいや、私は課長に嫌われているって。だって、今までやっていた企画から外され、変な事業をやらされているんだよ」

「あれは抜擢って、聞いています。わが社の出世コースだって」

 え?初耳なんですけど。丸山さんって、出世コースに乗っている人なの?そうは見えないなあ。むしろ、汚れ仕事をやらされているような気がするけど?いえ、そんな役回りの人も。社会には必要ですよ。私は嫌ですけど。

「私なんか、沢井さんのお古なんです。私は、仕事も出来ない役立たずなんです」

「いやいや、誰がそんなことを言った?誰もそんなことを思っていないよ」

「孝さんは、そんな役立たずの私に優しくしてくれました。だから私は、孝さんを助けたい、守ってあげたいと思っているんです。沢井さんの代わりでも、良かったんです」

 ええっと、私の話しを聞いてくれませんか?何ですか、そのメルヘンチックな物語は?

「私は、沢井さんのようになりたかった。そうすれば、孝さんも私を認めてくれるって。でも、ダメでした。私では、沢井さんの代わりにはなれないんです」

「う~ん、前提が間違っているよ。まず、私はついさっきまで、課長のお名前も知らなかったはまずいか、でも覚えていなかったし、お付き合いをしたことも無いし、仮に誘われても断るし、好みじゃないし」

「どうしてですか?あんなに素敵な人なのに!」

 どこが?とは聞かないでおこう。仮に素敵な人だとしても、課長は妻帯者だと思うけど?

「課長はご結婚されているような気がするけど、それってまずいよね」

「孝さんは奥様を愛しておられませんし、家庭に居場所はないそうです。奥様とは別れるって、そう言っていました」

 ああ、典型的なアレだ。つーかさ、課長は遠藤さんが面倒になったから、私の名前を使って別れようとしてるんじゃないのかな?なんか、むかつくんですけど。これも当て馬か?私は馬かい?

「遠藤さん、落ち着いて。妻帯者はまずいよ。ましてや、子供も居るんだよ」

「孝さんのお子さんなら、私が引き取ります。私なら、立派なお母さんになれます。あの人とは違います。愛のある温かい家庭を作ってあげます」

 遠藤さんのお母さん姿を想像すると、実に似合いそうだと思うけど。でもどうしよう、どうしたらいいですか、神さま。正解をお願いしますよ。私には無理です。

「とにかく、課長と話し合ったらどうかな?私では、どうにも出来ないし」

「なら、孝さんと別れてくれますか?」

「いやいや、だから最初から付き合ってなんかいないって。何なら、今から課長のところに行って、話しを付けようか?」

 ついでに、一発ぶん殴るか。

「孝さんに、迷惑を掛けたくありません」

「迷惑って、すでに私に迷惑が掛かっているし、課長のご家族にも迷惑が掛かっていると思うよ」

「大丈夫です。孝さんの家族は、私の家族も同然です」

 これは、かなりまずい状況かもしれない。もう、行くところまで行かないと、止まらない状態かもしれない。愛は盲目って、こういうことか?ちょっと、怖いんですけど。

「とにかく、この件で私は一切関りがないから。課長が誰と付き合おうが、私には関係無いから」

「じゃあ、孝さんと別れてくれるんですね?」

 だ・か・ら、私の話を聞け!嬉しそうにすんな!

「だいたいさ、クズは嫌いって、言ってなかった?」

「はい、クズは嫌いです」

 課長は十分、クズだと思うけど。

「孝さんは、素敵な方です。あんな愛の無い家庭でも、しっかりと義務を果たしています。私なんかにも、気遣ってくれます。本当に素敵な人なんです。今まで出会ったクズとは、大違いです」

 ダメだ、これは。というか、クズが好みなのではないのか?

「とにかく、私は関係無いから。あとは、二人で話し合いなさい。」

「はい!そうします!」

 なんだろう、盛大に誤解しているような。一応、課長に釘をさしておくか。本当に釘を刺すか?

「じゃ、私は先に行くから。冷静にね」

「孝さんのことを、相談して良かった。沢井さんは、本当に頼りになる先輩です。孝さんが好きになる訳です。私、負けません!いつか、沢井さんのような素敵な女性になってみせます!」

 だ・か・ら、人の話を聞きなさい。いや、最初から無理か。私は諦め、課長のところに向かったけど、不在だった。

「もしかして、遠藤さんから逃げ回っているのか?最低だな。本当にクズだ」

 今考える必要があるのは、自分ではどうしようも出来ない子供のことだ。大人は大人の責任で、どうにかすべきだ。

 どうにかしろ!人を巻き込むな!

「はあ~」

 盛大にため息を吐き、仕事をこなすことにした。商工会用の資料を作らないと。まあ、今までの資料を流用すればいいかな。いや、まったく同じだと人を馬鹿にするのかと言われるかもしれない。先方はどうにかして、クレームをつけたいようだから。

 どいつもこいつも!

「なら、ぐうの音も出ない資料をでっちあげるか」

 これは、残業になるかも。真希は大丈夫だろうか。とにかく、一刻も早く仕事を終わらせようと決意した。


 はああああ~、疲れた。結局、課長とも会えずじまいだった。そんな遠藤さんは、何故かるんるんだったし。

 お酒が呑みたい。逃げだしたい。

 そんなことを考えていたら、降りるバス停に着いてしまった。冷静になった私は、周囲を見渡し、真希が居ないか探した。

「居なかったか」

 公園のあずまやを見ても、家の玄関前も真希は居なかった。

「ただいま」

「お帰りなさい」という声は、もちろん聞こえなかった。おにぎりもそのままだった。今日の夕飯も、おにぎりになりそうだ。

「寂しいよお」

 ええい!いい大人が何をやってる!

「でも、遠藤さんを責められないなあ」

 いやいや、立場が違う。でも、どうしたらいいんだろう。時間が欲しい。真希に会いたい。真希、どうしてるだろう?ちゃんと、ごはんを食べさせてもらっているかな?

 寂しいなあ。

 馬鹿か、自分は。真希に頼るな。そう決めただろう。

 そうは思うけど、寂しい感情は無くならない。寂しさと心配と、不安が混ざり合って、どうにも処理出来ない感情になってしまった。

「お酒でも呑もう」

 それでも私は、真希のことを思ってしまう。


 お酒は、呑まなかった。


 会社から、メールが届いた。本日は自宅待機せよという、不思議なメールだ。

 何だろう。本社ビルの緊急メンテナンスでも始まったのかな?前もあったし。

 あの時は、大変だったなあ。クレーム処理に、3ヶ月はかかったし。こんな時に、ホント困るなあ。起きて欲しくない時に限って、こういうことが起きるんだ。参った。

「う~ん、そうは言っても。それなら、商工会に直行するかな」

 私は、丸山さんに電話をかけることにした。

「あ、丸山さんですか?おはようございます。今日はどうしますか?出社しなくていいというメールが来ましたけど、商工会に直で行きましょうか?」

「あれ、沢井さんはご存知ないんですか?」

「何がですか?」

「ニュースでやっていますよ」

「ニュースですか?」

 私はテレビを点けた。チャンネルを変えると、わが社が映っていた。

「え?何ですかこれ?」

「家宅捜索が入るようですね。その前に、マスコミ各局が殺到している訳です」

「うちは、何をやったんですか?」

「さあね、よく分からない。いずれにせよ、自宅待機でお願いしますね。商工会の件は、先方からキャンセルが来ましたので」

「はい、分かりました」

 私は電話を切り、そのまま茫然とした。

 ニュースでは、どうも不正会計だの業務上横領だのと出ているけど、家宅捜索の前にずいぶんと色んな情報が出るなあと思う。知らないで出勤している社員に、マイクが向けられている。足早に会社に入る姿は、まるで後ろめたさが見て取れるようだ。

「印象操作か。いったい、これからどうなるんだろう」

 でも、急に思い付いた。

「そうだ、これを機会に滝川さんと会おう」

 私は決意し、市役所に向かうことにした。念のために、ポストに家の鍵を入れて。

「これで大丈夫」

 事前に電話すべきか悩んだが、とにかく市役所に行こうと思った。

「24時間365日なんでしょう。なら、いちいちアポを取らなくていいはず」

 電話をしたら、明日でお願いしますと言われるかもしれない。だから、いきなり行く。だって、真希のことを考えると不安になるから。

 でも、行くべきは市役所ではなく、真希の家ではないだろうか?しかし、真希の家に行ったからといって、家族が私に真希を会わせてくれる保証はないし、そもそも家にあげてくれるとも思えない。

「ホント、私に出来ることは限られているなあ」

 だから、出来ることをする、やれることからする。

 悩むのは、それからだ。


 市役所内にある児童相談所に行くと、丁度滝川さんが居た。幸先いい!

「ああ、どうも。ええっと、確か遠藤さんでしたか」

 そうだ、私は遠藤と名乗っていたっけ?この人、意外に記憶力あるなあ。初めて会った時と、今の姿格好はまったく違うのに、何で分かったのかな?普通なら、別人と思うはずだけど。あの時は、帽子も目深にかぶっていたし。ということは、これは注意しないといけない相手かもしれない。普通の人の、観察力ではないからだ。

「今日は、お一人ですか?」

 私の背後に誰も居ないことを確認したら、滝川さんは何故か、ちょっと残念そうな顔をした。

「はい、そうです。私一人です。滝川さんに折り入って、お話ししたいことがあります」

「そうですか、真希さんのことですよね?あまり時間がありませんが、こちらへどうぞ」

 私は衝立のある場所に案内され、椅子に座って待つように言われた。

「少しお待ちください。ちょっと、バタバタしていまして」

「すみません、いきなり押しかけてきて」

「いえいえ、いいんですよ。我々はいつも、いきなりとか予告無しで起きる事態に対処しないといけませんので」

「そうですか」

 しばらく待つという程もなく、滝川さんは現れた。

「お待たせしました。では、お話しを伺いましょう」

「お話しというのは、椎名真希君、真希のことです」

 滝川さんは、目を細めた。しかし、すぐに緩めた。温和な顔だけど、注意しないといけない顔だと思う。むしろ、敵意を隠さない柿田さんの方が素直かもしれない。

「そうですか、真希さんと親しい間柄のようですね」

「もしそのことで、罪に問われるようなら甘んじて受けます」

「穏やかではありませんね。でも、あなたなら、そうはならないでしょう」

「まず、謝らないといけないことがあります」

「謝るですか?いったい、なんでしょうか」

「遠藤というのは咄嗟に名乗った偽名で、本当は沢井加奈子と申します」

 名刺を差し出した。滝川さんは名刺には目もくれず、続きをどうぞと促してきた。最初から、知っていたということかな?油断ならないけど、むしろ頼りになるかもしれない。こっちの対応次第かもしれないけど。

「真希があなた方を警戒していたので、つい偽名を名乗ってしまいました。お詫びします」

「そうですか、本当に真希さんはあなたを信頼しているようですね。我々はまあ、仕方がないんですけどね。ちょっと、信頼を得るのが難しい立場ですから」

 滝川さんは少し寂しそうな顔をしたが、すぐに温和な顔に戻った。

「名前云々は、特に問題ありません。だって、立ち話にそんな形式ばったことを言っても、仕方がないことでしょうから」

「ありがとうございます。では、私と真希との出会いについてお話します。その上で、真希のおうちについて、話せる範囲で結構ですので、私に教えてください」

「ええ、話せる範囲になりますが」

 私は、真希との出会いについて説明した。そして二度、うちに泊めたことも。真希を市役所に連れてきたことも、滝川さんと面会することが目的であったと。そしてそのことを記録した、日記みたいな冊子を滝川さんに渡した。滝川さんは拝見しても構いませんかと聞いてきたので、どうぞと答えた。滝川さんはページをパラパラとめくり、終わる頃には少し眉を顰めていた。でも、すぐに温和な顔に戻った。もしかしたら、この温和な表情は、本当に作った表情かもしれない。便利なツールとして。

「そうですか、こんなことが。いやはや、あの家はダメですね」

「ダメですか?」

「実はですね、真希さんをというか、椎名さんのお宅に我々が関心を持つようになったのは、今年の6月なんですよ」

「6月ですか?私と出会う、5か月ぐらい前ですよね」

 滝川さんは、かいつまんで説明してくれた。

 それによると、真希は今年の6月頃、骨折をするほどの大けがを負ってしまい、真希を治療した病院からの通報で児相が対応することになったという。しかも、真希は家ではなく学校で倒れ、病院で診察して骨折が判明したという。

「学校ってことは、親御さんは真希の怪我に気が付かなかったということですか?」

「いいえ、気付いていましたよ。だって、親が暴行した事案だからです」

「え?」

 児相が行った聞き取り調査によると、真希のご両親は真希の怪我について説明が二転三転してしまった。しかも、複数のあざもあったことから、真希を保護対象と認定して緊急的に一時保護措置が行われた。怪我が回復後、真希の希望と真希の親御さんの希望もあり、一時保護は解除されたという。

「真希が望んだ?親が何か、真希にそう言うように仕向けたのではないんですか?」

「一時保護施設は外部からアクセス出来ないようになっていますので、その心配はありません。しかし、一時保護施設は児童を一時保護する為の施設であって、恒久的に保護する施設ではありませんから」

 なるほど、真希にとって一時保護施設は、安心して暮らせるような場所では無かったと言うことか。それで真希は、滝川さんを警戒していたのか。また、そんなところに連れていかれると。

「でも、それでは」

「ええ、もちろん私どもも、はいそうですかとはしません。関係者同士で検討した上ですけど、こういう場合は保護者ではなく親族に預けます」

「親族って、真希の親族ですか?」

「一応、真希さんの親族というより、親御さんの親族になります。真希さんの叔父にあたる人が名乗りを上げてくれましたので、預けることになりましたが、ちょっと特殊な事情がありまして、すぐに椎名家に戻ることになりました」

 うん?なんか微妙な言い回しのような?

「特殊な事情とは、なんでしょうか?」

「真希さんの預かり先であり、真希さんの叔父にあたる人が、行方知れずになったんですよ」

「え?何ですかそれは?」

「正確に説明しますと、真希さんの叔父、つまり真希さんの今のお母様の弟さんに、真希さんを一旦預けることになりました。ああ、これは内密にしてください。それで真希さんを引き取ってもらったら、その数日後には真希さんは、椎名家に戻っていました」

「はい、もちろんです。人に話す気はありませんし、話す内容ではありませんので。でも、ちょっと話が見えて来ません」

「まあ、もう少し説明します。その真希さんのご両親は、真希さんと血が繋がっていません。もちろん、叔父にあたる人もです」

「ええっと、真希は養子だったということでしょうか?」

 ちょっと、待てよ。血の繋がりが無いのに、親族というだけで真希を預けたのか?それで、行方不明?益々話が見えてこない。というか、そんなのアリなのか?私と何が違う?

「ちょっと違います。真希さんのお父様はご病気でお亡くなりになられていまして、真希さんの実のお母様と今の真希さんのお父様と再婚されました」

 となると、養父か。でも、なんだかややこしい話に聞こえる。

「そして真希さんのお母様ですが、交通事故でお亡くなりになりました。今の真希さんのお母様は、その後お父様と再婚されたのですよ」

 すると、真希の言うお母さんのオムライスとラングドシャは、前のお母さんのことだったのかな?

 でも、それだと。

 私は疑問を、口にしない訳にはいかなかった。

「どうして?それって、おかしくありませんか?」

「おかしくありませんよ。ただ、特殊なだけです」

「続きを聞かせてください」

「法的には、問題はありません。ただ、特殊なだけです。ですので、児相の対応としては定期的に家庭訪問し、様子を見てきました。特に変わったこともないので、観察対象から外すべきとの意見も出ていました」

「そんな。だって、真希は食事も貰えない、家にも入れてもらえないのに」

「それは、私どもには初耳でした。でも、普通なら児相や警察に通報が来るものなんですけど」

「私が、悪いのかもしれません。真希に食事を与え、眠る場所を提供したことで、かえって悪い結果になったのかもしれません」

「その考えは早計と言うモノですし、見方が違うだけでしょう。公園なんかで野宿していたら、時期的に真希さんは、凍死していたかもしれません。仮に野宿していなくても、家で衰弱死していたかもしれません。そういう事例もあります。あなたは、それを防いだのですよ」

 結果論だと思う。たまたまうまくいっただけで、今うまくいっているかなんて分からない。

 真希は、私の手が届かない場所に居るんだから。

 根本問題をなんとかしない限り、状況は同じだと思う。

 結局、それって何もしないことと何が違う?

 私は、唇を噛んだ。最善だと思ったことが、裏目に出てしまった。なら、どうすれば良かったのか?

「でもまあ、普通なら児相か警察に通報して欲しい状況ですが、しかし沢井さん、あなたのしたことは少なくとも間違いではないでしょう。我々も児童の居るべき場所は、施設ではなく温かい家庭と思っていますので」

「どうすれば、良かったのでしょうか?」

「どうすれば、良かったかですか?それは私どもの立場としては、通報してくださいということのみですよ」

 私は、益々不安になってきた。

 血のつながった親族の居ない家に、真希がひとりぽつんと居ることを想像したら、段々と怖くなってきた。胸がギュっと、締め付けられた。

「真希は、真希は無事なんでしょうか?金曜日を最後に、真希と会っていません」

「実は本日、椎名さんのお宅に、急遽家庭訪問をすることになりました。それで真希さんの、安否を確認します。学校からも、真希さんがずっと登校していないと連絡が来ましたので」

「真希が、学校に登校していない?」

「そうです。風邪を引いたので、しばらく休ませると真希さんのお母様から、学校に連絡があったそうです。普通なら、お大事にで終わりますが、何せ大けがの前例がありましたので、心配した学校から児相に連絡が来ました」

「私も、同行出来ないでしょうか?」

「それは、無理と言うモノですよ」

「私には、責任があります」

「責任でしたら、十分果たしていると思いますよ。後は、我々行政の仕事です」

 確かにそうだ。このまま行政、つまりは権力に真希を委ねる方が、一番間違いがないかもしれない。

 でも、本当だろうか?

 本当にそれでいいのだろうか?

 それが、私の望みだろうか?

「お願いします。もし真希を保護するなら、私の家で保護させてください。慣れている家の方が、真希も安心出来ると思います」

「それは、どういうことでしょうか?」

「私は真希を引き取りたい、私の手で真希を幸せにしたいと思っています」

「失礼ながら、ご結婚はされていますか?」

「いえ、独身です」

「そうですか、独身ですか」

「何か問題でも、あるのでしょうか?」

「いえ、こういう事案ですと、独身者と児童との養子縁組が出来ません。普通の状態でしたら、それは可能ですけど。虐待する親は、児童を手放さないものだからです。養子に出すなんて認めるはずもありませんし、独身者だと審査も通りにくい。仮に真希さんの保護者の親権を停止しても、結果は同じことです。しかも、児童の一時保護も児相に子供が誘拐されたと、騒ぐ親御さんも居るぐらいですから」

「虐待ですか?」

「そうです、真希さんは明らかに虐待を受けています。そして虐待をする親は、普通の人間ではありません。自分の子供を殺害する事件が、相次いで発覚しているのは、報道でご存知と思います。自分の子供を殺害するような、そんな普通ではない親御さんと、真正面から対峙しないといけないのが我々行政なんですよ」

 つまり、素人は黙っていろということか。でも・・・それでも!

「とは言え、里親制度を推進している我々としては、養子縁組は難しくても、まともな保護者が居ない児童の里親になってくれるご家庭があれば、我々としては最大限援助を惜しまない方針です」

「なら、私は真希の里親になります」

 私は、間髪入れずに答えた。もう、何だっていいと思う。出来ることがあるなら、それをしない理由は無いと思うから。

 手が届かない状態は、私には耐えられないから。

「決断が早いですね。よく考えたんですかと聞き返さなといけない話しでしょうが、でも、ありがとうございます。いずれにせよ、早い方が真希さんの社会復帰や生活環境の改善に役立ちます。しかし、手続には時間が必要ですし、研修も受けて頂きます。もちろん、里親になって頂いたら、国や自治体から助成金や養育費も支給されます」

「お金はいいです。私の意志で、真希を育てたいので」

「お金は、必要ですよ。それにこれは制度としてあるので、貰うのは恥ではありません。要は、いかにして真希さんに明るくて豊かな人生を再スタートしてもらうかだと思うのですよ。その為にも、制度は最大限活用するべきなんです」

「そうでした、すみませんでした」

 そうだ、真希を中心に考えないといけない。子供を引き取るって、そういう覚悟が必要だと思う。

 つまんないプライドなんか、それこそドブに捨てればいい。

「まあ、そういうことです。あと、一時委託里親制度もありますので、今回はその制度を最大限活用しましょう」

「え?それって」

「まあ、色々と手続きがありますが、一時保護施設もすでに定員オーバーなんですよ。だから、私どもとしては、児童の一時保護をしてくれるような委託先が欲しい所なんです。そこは私どもが、なんとか急いで手続きをします。子供の命は、待ってくれませんので」

 つまり、お互いの利害が一致する。それなら協力は、出来るということか。

 それでいい。真希の利益になるのなら、この際、悪魔とだって手を組んでやる。

 真希に酷いことをする相手が、もし悪魔のような奴らなら、こっちは国家権力だって利用してやる。

 私は納税者だ!

「では、その保護する児童を迎えに行きたいので、同行の許可をお願いします」

「あの、先ほどの私の話を聞きましたか?沢井さんはまだ、真希さんの里親として認可されていませんよ。今のあなたは、真希さんのご近所さんに過ぎないのですよ?」

「はい、そうです。だから、滝川さんがなんとかしてください。すべては、真希の安全の為にです」

 滝川さんは、ポカンとしていた。

 こういう表情も、する人なんだ。温和な顔よりも、何か安心出来そうだ。

 人間らしい、味のある顔だと思う。

 真希が、最後に頼ろうとしただけはある。

 なら私も、滝川さんを頼ろう。そして、精一杯我儘を言おう。だって、それが真希の為になるんだから。遠慮はむしろ、真希の為にならないから。

「やれやれ。分かりました。沢井さんを虐待の証人ということで、手を打ちましょう。余計なことは喋らない、何もしないと約束出来るのでしたら、同行をまあ黙認しましょう」

 やっぱりこの人は、公務員だった。もちろん、いい公務員という意味で。公僕って、言うのかな?

 でも、随分と踏み込んでしまった気がするけど、考えてる猶予は無いと思う。

 それこそ、子供の命は待ってくれないから。


 私は、待つのをやめたから。


 私はもう、逃げないって決めたから。


 真希から、そして自分からも。

 

 私はこうして、初めて真希の家の中に入ることになる。


 そこで見たことは、生涯忘れることは出来ないだろう。




 



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