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天国の家  作者: せいじ
11/18

第十一話  冒険

 うっかりしていた。

 つい、言ってはいけないことを言ってしまった。

 閉じ込められるなんて、加奈子さんに言うべきではなかった。

 なんとか誤魔化せたかもしれないけど、少なくとも加奈子さんは僕を不審に思ったに違いない。

 僕は、本当に馬鹿だと思う。愚かだと思う。

 気を付けないと、加奈子さんを巻き込んでしまう。加奈子さんが、机に押し付けられるかもしれない。加奈子さんが、蹴られるかもしれない。

 それは自分がやられるよりも、とても怖いと思う。

 そんな想像をするだけで、とても胸が苦しくなる。

 胸に手を当てても、安心出来ないぐらい。


 そうだ、僕が加奈子さんを守るんだ。それしかないんだ。

 加奈子さんを守る為なら、嘘もいいよね?

 僕はどうなってもいいから。僕なら、いくらでも我慢できるから。

 どうせ、僕は天国には行けないんだから。

 

 家にはいつも誰かがいる。それでも、誰も見ていない時がある。お風呂とか、トイレとか。買い物に行っていたりする。だから、その時間を使って加奈子さんの言っていた、男の人と女の人の名刺を探すことにした。男の人は、確かたきがわさんのはず。女の人の名前は、分からないけど。

「どこにしまってあるのかな?」

 部屋を見回しても見つからない。探した痕跡を残さないように、慎重にやらないといけない。失敗は、出来ないから。

 ふと、ゴミ箱の中を見ると、くしゃくしゃになっていた小さな紙を見つけた。ゴミ箱から拾って、丁寧に広げたら、加奈子さんが見せてくれたあの名刺だった。

 間違いない、たきがわさんの名刺だった。滝川って、こう書くんだ。女の人の名刺は見つからなかったけど、これで十分だった。

 僕はその丸めてあった名刺を伸ばし、教科書に挟んでおいた。今見ても、どうにも出来ないからだ。見つかったら、それで終わりだから。


 学校のトイレで、くしゃくしゃになった名刺をよく見ると、そこにはこう書かれていた。


 児童福祉司 滝川浩二


 場所は市役所のようだ。ということは、滝川さんは市役所の人なんだ。良かった、それなら悪い人ではないんだと思う。

 だったら、滝川さんに話そう。加奈子さんを守るには、もうそれしかないと思うから。

 でも、市役所までどうやっていけばいいんだろうか?

「そうだ、図書室に行こう」

 僕は学校の図書室に行き、地図を探した。でも、地図を見てもよく分からない。仕方がなく、司書の先生に市役所の場所を聞くと、小さな地図を渡してくれた。パンフレットみたいな地図で、市役所や図書館、僕が通う小学校も書いてあった。

 これなら、僕でも行けそうだ。

 僕は地図をよく見て、市役所までの道のりを考えた。お金が無いから、歩いて行くしかない。だから、学校が早く終わる日がいい。

「自転車があればいいんだけど。僕の自転車は、弟の自転車になってしまったし」

 とにかく、その日を考えよう。晴れた日がいい。それなら、寒くないし。


 ひたすら歩いた。途中で道に迷い、人に聞いた。市役所は、どういったらいいですかと。

「え?何を言っているの?市役所は遠いわよ。バスで行きなさい。ほら、あそこがバス停だから。後は、運転士さんに聞きなさい」

「はい、ありがとうございます」

 本当はありがたくないけど、今はトラブルはない方がいい。変なことを言ったら、おまわりさんを呼ばれるかもしれないから。

 でも、仕方がない。とにかく、大きい道に出よう。

「すみません、国道はどこでしょうか?」

 今度は教えてくれた。そう、聞き方なんだと思う。

 それがきっと、かしこいやり方なんだと思う。


 まず、国道に出る。すると、市役所方向と書いてある標識を見つけた。僕は運がいい。

「案外、近いじゃないか」

 僕はその標識を頼りに、ひたすら市役所に向かって歩いた。


「まだ着かない」

 随分歩いたけど、市役所にはたどり着かなかった。途中の公園で水を飲み、少し休んでから進むことを再開した。

 市役所までの途中にある、商店街の時計を見ると、かなりの時間が経っていたことに気が付いた。

「まずい、間に合わないかも」

 僕は走りだした。最初から走っていれば良かった。でも、身体が痛くて走ることが出来なかった。

 そこでだった、いきなり段差につまづいてしまった。ひざと手をすりむいてしまった。とても痛くて、泣きそうになったけど、今はそれどころではない。早く行かないと。でも、走るととても痛い。僕は出来るだけ早く歩くけど、いつもより遅くなっている気がする。

「加奈子さん」

 思わず、つぶやいてしまった。

 どうしてここで、加奈子さんの名前が出てくるんだろうか。でも、加奈子さんの顔が浮かんでくる。笑っている加奈子さんの顔だ。僕はその顔が、とっても好きだ。

 加奈子さんのために、僕はもっと頑張らないと。滝川さんと会わないと。

 僕は、胸に手を当てた。

「もっと、もっと頑張らないと」


 どうにかして市役所にたどり着いたけど、受け付けは終わっていた。

「帰ろう」

 でも、途端に足が動かなくなった。身体中が痛い。お父さんに蹴られた後に、あざも出来ていた。

 僕は仕方がなく、足を引きずりながら公園のベンチに座り、しばらく休むことにした。胸に手を当て、落ち着こうとした。でも、ダメだった。

「加奈子さん」

 また、つぶやいてしまった。本当に僕は情けないと思う。あそこで転んでいなければ、最初から走っていたら。道を間違えなかったら。もっとうまく答えていたら、お父さんに蹴られることは無かったのに。そうしたら、時間に間に合ったのに。

 それなのに、自分が悪いのに、何で加奈子さんに頼ろうとするのか。これじゃ、いつまでも大人になれない。加奈子さんを守れない。


 そんな時だった。

「真希?どうして、こんなところにいるの?」

「え?あ?加奈子さん?何で?」

 僕は驚いた。加奈子さんを呼び続けたせいだろうか?

 でも、夕日に照らされている加奈子さんの顔は、とてもキレイだと思った。

 加奈子さんの顔を見たら、涙が出そうになった。

 僕は必死で、自分を抑えた。泣いたら、きっと僕を放っておいてくれなくなるから。加奈子さんは優しいから。でも、今はダメだ。僕は手を胸に当てて、必死でこころを押さえた。

 少しだけ、落ち着いた。落ち着いたら、加奈子さんは僕の隣に座って、肩を抱いてくれた。

 僕は、ドギマギしてしまった。加奈子さんの温もりと、加奈子さんのいい匂いに、僕はいっぱいに包まれていた。

 僕はこころから、うれしいと思った。このまま、僕の側にいてほしいと思った。思ったけど、恥ずかしくて仕方が無いと思う。僕は、どこかおかしい。今は、それどころではないのに。集中出来ない自分が、恥ずかしいと思う。ダメだ、冷静になれ。加奈子さんの為に。

「誰と会っていたんですか?加奈子さんは大丈夫ですか?」

 加奈子さんに、確認しないといけない。本当に大丈夫かどうか。

 加奈子さんは、仕事で市役所に来ていたと説明してくれた。僕はそのことに驚いた。もしかして、滝川さんと会っていたんじゃないだろうか?僕の正体を知ってしまったのだろうか?お父さんに、このことが知られてしまうんじゃないのか?

 僕は、どうすればいい?何をしたらいい?分からなくなった。

「大丈夫も何も、ただの仕事だよ。真希こそ、こんな場所で何をしているの?」

「ええっと、社会科見学です」

 咄嗟に嘘を吐いた、他に思い浮かべることが出来ないから。どうにかして、誤魔化さないと。そうでないと、加奈子さんを巻き込んでしまうから。お父さんが、加奈子さんを蹴るかもしれないから。そうなったら、僕は加奈子さんを守れないから。

「ふ~ん、それで先生とか同級生はどこに居るの?バスで来たの?」

「いえ、僕ひとりです。歩いてきました」

「ひとり?しかも歩き?何で?」

「ここを希望したのが、僕だけだからです」

「でも、小学生がこんな場所にひとりで来るなんて、いくらなんでもおかしいと思うよ」

「ひとりで出来ることはひとりでしないと、いつまでも子供のままです」

 どうしよう、誤魔化しきれない。どうすればいいんだろうか?

 加奈子さんの温もりを感じれば感じるほど、僕のこころが寒くなってくる。

「真希は、誰と会うつもりだったの?」

「ええっと、滝川さんです」

 しまった。うっかり、しゃべってしまった。どうする?いや、まだ大丈夫だ。だって、加奈子さんは僕と滝川さんの関係を知らないから。

「え?誰?」

「ここにいる滝川さんと会うつもりでしたが、間に合いませんでした。だから、またにします」

「じゃあ、私が聞いてあげるよ」

「いいです、大丈夫です。ひとりでやれます。僕だけで大丈夫です。僕がやらないといけないんです」

 まずい、加奈子さんを巻き込んでしまう。なんとかして、納得してもらわないと。

「そう、分かったよ」

 良かった。これで大丈夫と思ったら、加奈子さんは今度は僕の足を見ていた。僕は咄嗟に足を交差して隠そうとしたけど、誤魔化せなかった。

「ねえ、ちょっと見せて?」

「ダメです。大丈夫です」

「ジッとしてて」

 加奈子さんは僕の目の前にしゃがみ、ズボンをめくって僕の足を見てくれた。そんな時なのに、僕は加奈子さんの髪を見ていた。つやつやしていて、とってもキレイな髪で、いい匂いがした。

 僕は加奈子さんの髪に、触ってみたいと思った。頭をなでてみたいと思った。抱きしめたいと思った。でも、動けなかった。まるで、金縛りにあったように。

「ちょっと、我慢しててね。すぐ終わるから」

 ウェットティッシュで、足の傷口を拭いてくれた。ばんそうこうも貼ってくれた。僕はその間、ずっと加奈子さんの髪を見ていた。加奈子さんの手を見ていた。

 すると、加奈子さんは唐突に僕の手を取ってきた。驚いた僕は、手を引っ込めた。

「手を出して」

「大丈夫です」

「大丈夫禁止だよ」

 僕じゃないんです。このままでは、加奈子さんが大丈夫では無いんです。そう言えたら、どんなにいいことか。僕は頭が悪い。本当に、こんな自分が許せない。それなのに、いつまでも加奈子さんと一緒にいたいと思っている。離れたくないと思っている。こんな自分が、こころから許せない。

 これじゃ、加奈子さんを守れないじゃないか。

 それでも加奈子さんは僕の手を取り、優しく包むように持ってくれた。

「痛くない?」

「だ、・・・平気です」

「そう、でもばい菌が入ったら大変だからね、一応消毒しておくよ」

 でも、不思議といつまでもこうしていたいと思う。

 加奈子さんは、僕の手のひらを、丁寧に拭ってくれた。

 何だろう、懐かしい気がする。

「さあ、終わった。じゃ、帰ろっか?」

 え?帰る?しまった。

「僕ひとりで帰れます。加奈子さんは、先に帰ってください」

「ほら、行くよ」

 加奈子さんは僕の腕を取り、歩き出そうとする。嬉しいけど、でも何とかして、ここから逃げないと。でも、逃げたくない。一緒にいたい。

 僕はどうしたいんだろう?僕はどうしたんだろう?本当に、おかしくなってしまったのだろうか?

「僕、歩いて帰ります」

「え?何で?」

「健康の為に歩くんです」

「うん、運動は大事だよね。真希は、足も速いし。でもね、今はバスで帰ろう?怪我もしているし」

「怪我なんか平気です。僕は平気ですから、加奈子さんこそ先に帰ってください」

「いやいや、そもそも方向が同じじゃないか?なら、一緒に帰っても同じでしょう?もしかして、私と一緒に帰るのが嫌とかなのかな?」

「そんなことはありません!加奈子さんと一緒にいたいです!」

 まただ、どうしても嘘を吐けない。何でか分からないけど、僕は気持ちを隠せない。本当に愚かだ、馬鹿な子供だ。

 だから、優しい人を犠牲にしてしまう。

 それでも、加奈子さんといつまでも一緒にいたい。でも、それは望んではいけないんだ。加奈子さんを不幸にするから。加奈子さんを不幸にしてはいけないから。加奈子さんに死んでほしくないから。加奈子さんに、幸せになって欲しいから。

 お願いだから、僕の言うことを聞いて。

「う~ん、バスが嫌なの?」

「バスは嫌です」

 この際だから、なんでも理由にする。なんだっていい。僕は嘘つきだから、僕は悪い子だから。お腹の傷も、隠さないといけない。手や足のように、見つかってはいけない。

 だから、後でまとめて罰を受けます。神さま、どうかお願いします。どうか、どうか加奈子さんを守ってください。僕はどうなってもいいから。どうか、どうか、お父さんに見つからないように。

「なら、タクシーで帰ろう」

「え?」

「タクシーなら、ひとりもふたりも同じだしね」

「僕は、歩いて帰ります」

「ええ?でも加奈子さんも疲れたよ。タクシーで帰ろうよ」

「加奈子さんひとりで、タクシーで帰ってください。僕は平気です、平気なんです」

「怪我をしているのに?」

「こんな怪我なんて、何でもありません」

「ねえ、真希。私は真希と一緒に帰りたいんだよ。それって、ダメなのかな?真希は私と帰るのが、そんなに嫌なの?」

「ダ・メ・じゃ・・ない・です。でも、ダメです」

 ダメだ、こころが言うことを聞いてくれない。僕のこころなのに、どうして?

「私、ひとりで帰りたくないよ。ねえ、一緒に帰ろうよ」

 駄々をこねる加奈子さんは、本当にかわいいと思う。ずっと見ていたい。一緒にいたいと思うけど、今はダメなんだ。だから、冷たく突き放さないと。これ以上は、本当に危険なんだ。

「加奈子さんは大人なんですから、ひとりで帰ってください」

「ええ?だってさ、なら真希は子供じゃん。ひとりで帰っちゃダメだよね?」

「これ以上、迷惑を掛けたくありません」

「真希。前も約束したよね?私は真希のことを迷惑だなんて、一度も思ったことは無いって」

 違います。そんなんじゃないんです。どう言えばいいのか、どうすればいいのか。僕はひたすら、考えていた。でも、答えが出なかった。

「ならさ、ひとりで帰りたい理由を教えて。何で、歩いて帰ろうとしているの?」

「・・・か・・・」

「うん?何?」

「お金を持っていません」

 嘘ではない、本当のことだ。お金が無い人は、乗り物に乗ってはいけない。これは常識だから、嘘では無いと思う。これなら、加奈子さんも引き下がるだろう。だって、大人の常識だから。当たり前のことだから。

「お金を持っていないから、バスや電車に乗れないから、学校からここまで歩いてきたの?」

 僕は黙った。迂闊なことを言えば、加奈子さんは引き下がってくれなくなるから。でも、加奈子さんは意外なことを言ってきた。

「ねえ、真希。真希にとって、加奈子さんは薄情な人?悪い人?」

「そんなことはありません!加奈子さんはいい人です!悪い人ではありません!」

「じゃあ、そのいい人が、こんな場所に小学生を置き去りにすると思う?私は思わないなあ。私はそんな人を、薄情で最低な人と思うよ」

「ずるいです」

「うん、私って、ずるい大人なんだ。ゴメンね」

 違います。ずるいのは僕です。加奈子さんを騙そうとしている、僕が悪い子なんです。神さまも知っています。でももう、時間が無いから諦めよう。ここでぐずぐずしていたら、見つかってしまうから。それに、滝川さんに会わせなければ、それで充分だから。

 お父さんにさえ見つからなければ、とりあえずは何とかなると思うから。

 それに、本当に疲れているから。

「じゃ、今は甘えます。お金を貸してください」

「一緒に帰ればいいだけだよ。タクシーで帰ろう?その方が、安く済むし」

「はい、でも公園までにしてください。家の人に心配かけたくありません」

「うん、いいよ」

 こうして僕と加奈子さんは、タクシーで帰ることにした。


「ふんふん♪」

 加奈子さんは、ずっとご機嫌だった。そんなに僕と一緒が嬉しいのかな?どうしてだろう?聞きたいけど、聞くのが怖いと思う。でも、どうしても聞きたい。

 さっきから僕は、どうしちゃったんだろう。本当に、おかしくなったんだろうか?

「機嫌がいいですね?」

「うん、だって真希と一緒だから」

 僕も同じ気持ちですと、言ってはいけない。言いたいけど、言ってはダメだと思う。そう言ったら、加奈子さんは僕と一緒にいてくれるから。でも僕は、いつかあの病院みたいな建物に閉じ込められるから。刑務所みたいなところに行くから。

 最後は、お父さんに殺されるから。

 天国に行けないから。

「次は、いつ行くの?」

「どこへですか?」

「市役所のたきがわさんに会いにだよ」

「社会科見学は終わりです」

「え?でもまたにしますって、言ってたよね?」

 しまった。また間違えた。うまくやり過ごさないと。

「ああ、ええっと、学校で相談します」

「ふ~ん、もし行くなら、私が送り迎えをしてあげるよ。だって、お金を持っていなんでしょう?」

「平気です。歩いて行きますから。僕は加奈子さんより、足は速いですから」

「でも、今日は間に合わなかったんだよね?学校からここまで、結構距離あるし」

「道を間違えただけです。次はまっすぐ行けます。だから、大丈夫ですじゃない、平気です」

 自分でも、すごいと思う。こころにもない言葉って、こんなにもすらすら出てくるのかって。でも、胸が痛い。嘘は、自分も傷つけるんだ。自分こそ、傷つくんだ。

 それでもいい。加奈子さんを傷つけなければ、もうなんだっていいと思う。それと比べたら、痛いのはなんてことない。

「ふ~ん、そうなんだ。分かったよ。でも、私を頼っていいんだからね?遊びじゃないんでしょう?社会科見学なら、問題ないと思うけど」

 ずっとこのままでいたいという気持ちと、一刻も早くこの場から去りたいと思う気持ちが僕の中にある。だから、公園が見えた時は、心底ほっとした。そこで、終わりだから。

 タクシーは公園の前で停車し、僕を降ろしてくれた。

「じゃ、バイバイ。何かあったら私の家に来るんだよ?」

「はい、さよなら」

 僕は加奈子さんに追いつかれないように走って帰りたかったけど、足がずきずきするのでどうしても走れない。ここで転ぶわけにはいかない。もし転んだら、加奈子さんは僕を放っておいてくれなくなるから。加奈子さんは、女神さまのように優しい人だから。だから、慎重に行動しないといけない。大人のように、かしこくならないとダメなんだと思う。

 幸い、加奈子さんの乗ったタクシーは走り去ってくれた。僕はホッとした。安心したら、ひざも手のひらもお腹ももっと痛くなってきた。涙が、少し出てしまった。

 泣かないって、誓ったのに。胸に手を当てたけど、痛みは消えてくれなかった。

 涙が、止まらなかった。

 何で僕は、こんなにも弱いんだろう。弱いから、きっと守れないんだ。守りたくても、守れないんだ。

 これが、僕の罪なんだ。

 でも、加奈子さんに僕のこんな姿を見られなくて、本当に良かったと思う。僕が泣いたら、加奈子さんは僕を放っといてくれないと思うから。

 加奈子さんを巻き込まなくて、本当に良かったと思う。


 さよなら、本当にさよなら。

 本当は、もっと一緒に居たかったけど。もう、考えないようにしよう。

 今まで、本当にありがとうございました。

 僕はもう、大丈夫ですから。


 僕は心の中で、加奈子さんに語り掛けた。

「次こそは、うまくやろう」

 僕はそう誓い、家に戻った。

 玄関は、今日も開いていた。ごはんもあったけど、家の中の雰囲気が悪くなっている。お母さんは、何も喋らなかった。妹は、僕のひざのあたりを不思議そうに見ていた。でも、何も喋らなかった。

 弟が、僕を見て笑っていた。


 もう少ししたら、ごはんも貰えなくなるだろう。

 もう少ししたら、お父さんに殴られるだろう。

 もう少ししたら、家に入れてもらえなくなるだろう。

 もう少ししたら、僕は刑務所に閉じ込められるだろう。


 加奈子さんに、もう二度と会えないだろう。


 僕は、お父さんに殺されるだろうから。


 そうしたら、僕の心臓は止まってしまうだろう。


 僕は出来るだけ表情を消し、食べる事が出来るご飯を懸命に食べた。



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