第一話 名前
審判の日に
「天国って、こんな感じなのかな?」
少年は、私に訊ねる。まるで、語り掛けるように。
「ううん、フツーだよ」
私は答える。
そう、普通なのだ。普通であるべきなのだ。
にっこりとほほ笑む少年の顔を見る。
そうだ、ここは天国かもしれない。
朝起きる。
いつもの朝である。普通の朝である。今日も一日が始まる。何も無い、一日が。
テレビを点けると、先日起きた児童虐待事件のニュースが流れていた。児童相談所の対応に不備があったのではと、そんな内容だった。
本当にそうなのかな?児童相談所の人も、一所懸命だったかもしれないと思うけど。
そんなことをゆっくり考える暇もなく、急いで身支度して家を出ることにした。考えるよりも、今やらないといけないこともあるから。
「いってきます」
誰も居ない部屋に向かって、私はいつもの挨拶をする。挨拶は、大切だと思うから。それすらもしなくなったら、何かを無くしたような気がするから。
それから、いつものようにバス停に向かう。いつも通りだ。そう、いつも通りなのだ。
バス停に向かう道すがら、いつものように朝食代わりの栄養ゼリーをちゅるちゅる吸いながらひたすら歩いた。
何気に、バス停までの通り道にある、大きな公園に目が留まった。そこにあるあずまやに、小学生がなにやら勉強をしているようだった。朝から偉いなあと思いながらも、何かが変だとも感じた。その違和感の正体がよく分からないまま、特に歩みを止めるでもなくバス停に向かった。
それも風景の一種なんだと、その時の私はそう思った。いつも通りの日常だと。
私はその時、そう思い込もうとしていた。
「沢井さん、おはようございます!」
後輩の遠藤さんだ。みんなの人気者で、女性の私から見ても、とてもカワイイ子だ。ポニーテールが癒されるなあ。私も真似をしようかな。ええ、分かってますとも。似合わないんでしょう。
「おはよ~」
愛想よく返事したつもりだが、ちょっとぶっきらぼうに見えるらしい。何で?
そこへ課長から、早々に呼び出された。正直、気が重い。逃げたい、帰っていいですか?
「おはよ。早速だけど、この企画やり直し」
「え?オッケーを頂いたはずですが?」
「もう少し、派手に出来ないかと、先方から注文が出た」
「派手ですか?お言葉ですが、商品のコンセプト、購買層を考えれば、これ以上の企画は無いはずです。予算もすでにいっぱいです」
「そこを何とかするのが、君の仕事だろう?」
課長は持っていた書類を、まるで投げ出すようにして私に向けて放った。私は、バラバラになりかけた書類をまとめて受け取った。言いたいことを飲み込んで。
「分かりました」
「明後日までに頼むよ」
「え?」
「先方も期待しているそうだ」
「はい」
・・・・・・・ざっけんなよ。課長からの食事の誘いを断ったことを、今だに根に持っているのか?セクハラだろう?だいたい、既婚者と一緒にメシなんか行けるかっつーの!私はそんなに、安くない!
ドカッと自分の椅子に座りながら盛大に足を組み、企画を練り直すことにした。仕事は仕事だと思う。例え、気に入らなくても。
「沢井さん、どうかしましたか?」
「やり直しだってさ」
「え?いいって、通ったはずじゃあ?」
「蒸し返された」
「ひっど~い!」
「もっと派手に出来ないかだってさ。だいたい、どこをどうしろって言うんだ」
「う~ん、見た目?」
「どんな感じに?」
「カラフルに」
「いや、購買層高めに設定しているんだから、そんなことをしたらかえって売れなくなるよ」
「じゃあ、おじさん受けのいい女優さんなんか、起用したら?」
「予算オーバー」
「じゃあ、アニメだ。困った時の二次元さん」
「そりゃあいいけどさ、時間がね」
「出来合いのを使えば、時間短縮出来ますよ」
「え?パクリ?」
「時短ですよ」
「権利関係でややこしくならない?」
「私の方で、当たっておきましょうか?そういうの得意な子を、私知ってますから」
「ん~お願い出来るかな?」
「はい、お願いされました。で、いつまで?」
「明後日」
「はい?」
眉間に皺が寄っても、どこか愛らしい。これも人徳だなあ。
「明後日だから、正味明日まで」
「それって、無理無理」
「無理でもなんとかするのが、サラリーマンというものさ」
「カッコいい!」
「まあ、なんとかするさ」
「他に手伝うことがあったら、言ってくださいね」
遠藤さんはやっぱり、カワイイと思う。
残業規制もあってか、仕事を家に持ち帰ることにした。やれやれ。働き方改革はどこへ行った!他所へ行った!はい、一人コントは不毛でした。寂しいなあ。泣くぞ・・・・帰ろう。
夜もどっぷりと更けてしまった。私は帰り道沿いに在る、いつものコンビニで買い物をすることにした。すっかり、ルーティンワーク化している。変化が欲しい。
買い物を終えた私は、レジ袋を下げて帰り道をとぼとぼ歩いた。ふと、いつもの通り道に在る公園が目に入った。
変化は作るモノ!私は、ここで呑む!文句ある奴出てこい!一緒に呑もうぜ!
「食事を断ったぐらいで、何あの態度?嫌がらせ?訴えるぞ」
誰も見ていないことを確認しつつ公園に入り、愚痴をこぼしながらプシュッと缶酎ハイを開け、腰に手をやりながら一息に飲んだ。まるでおやじだ。最近は特に、酒飲みの気持ち分かるようになった。末期的かも。やってらんないよ。
「ぷはああ~」と思いっきり息を吐きだしたら、少し落ち着いてきた。
冷静になったら、急に他人の視線が気になってきた。あたりを見回すと、人影があることにぎょっとなった。
あずまやに人が居る。こんな夜更けなのに。
街灯に照らし出されたその姿は、まるで天使のように見えた。いや、錯覚だった。疲れているのか、参っているのか分からなかった。酔っぱらうには、お酒の量が足りない。もちろん、欲求不満ではない・・・はず。
目をこすり、改めてよく見ると、そこに居るのは小学生だった。ランドセルらしきモノが、側に置いてあるからだ。私はあずまやに近付き、小学生に注意しようと思った。いや、アルコール臭い奴に説得力があるのかどうかは、さておく。こういう場合の声掛けって、大人としての義務だと思うしね。
「君、こんな時間に何してるの?」
小学生は顔を一切動かさずに、ちらりと横目でこっちを見るだけで、そのまま私を無視した。ちょっと、むっとした。礼儀は大事でしょう。一応、私は年上なんだからさ。だから、威厳を込めて正論をぶつことにした。正論うざ~って、言わないでね。正論は大事だと思うよ。誰も正論を言わなくなったら、怖いでしょう?
「こんな時間にこんな場所に、子供が居ていいはずはないでしょう?お母さんが心配するでしょう?」
それでも小学生は、何事も無いかの如く、せっせと書き物をしている。もしかして、宿題なのかな?というか、返事ぐらいしろよ。無視されたら、挫けるだろう。ええい!
私は負けない!今更、引き下がれるか!
「ここも不審者がよく出るから、早く帰りなさい」という私こそ、不審者かも。
いやいや、家に帰れと言っているのだから、ぎりぎりセーフだろう。というか、私はアルコール臭くないだろうか?アルコール臭を漂わし、ひとりで居る小学生に声を掛けるアラサー女子。う~ん、間違いなく、私も不審者かもしれない。いやいや、負けるな私!まだ酔ってないぞ!
それでも小学生は、私の問いに一切の反応を見せずにこの薄明りの中、何かをせっせと書いている。集中力あるなあ。大物になりそう。
「目に悪そう」
そう感想を口にしたら、やっと反応が返ってきた。
「目はいいです」
「何だ、口が利けるじゃないか?」
「知らない人と口をきいてはいけませんって、習いませんでしたか?」
ちょっと、いやかなりむっとした。でも、確かにそれも正論だよ。負けるな、私。
「そう知らない人が居るから、帰りなさいと言ってるんだよ」
「そうですか、でももう少しです。終わったら帰ります」
やれやれと思った。もっと、コミュニケーションを大事にしようよ、少年。
まあ、もう少しで終わると言うのなら、この際だ、勉強が終わるまで見守ってあげようと思った。でも、どうしてそう思ったのだろうか?酔っていたからかな?なんだか、よく分からないや。
深く考えるでもなく、空いている方の椅子にどっかりと腰掛ける。颯爽と足を組み、仕事の準備をする。だいたい私は考えるのは苦手だし、いちいち面倒だ。だったら、先に手を動かそう。
「分かった、終わるまで見ていてあげる」
「え?」
小学生は初めて、下に向けていた顔を私の方に向けてきた。
薄明りの中、小学生の顔はどこか儚く、どことなく子供らしくない感じがした。何だろう、この子?透明感がある子って、こんな感じなのかな?もしかして、妖精さん?いやいや、むしろ幻覚かもしれない。大丈夫か、私?
気を取り直そう。
「だから、宿題が終わるまで見ていてあげるって、言ってるの」
「何故ですか?」
「夜中に子供を放置して、帰れるわけないでしょう?大人なんだから」
「大人は、子供を放置してはダメなんですか?」
何を当たり前のことを。当たり前だよね?いやいや、当たり前にしないとダメでしょう。
「そうよ、大人は子供の側に居るモノよ」
「そうですか」
感想はそれだけ?。いやいや、何かもっと返事をしろよ。ここでスルーされたら、寂しくてお酒が呑みたくなるだろう?レジ袋の中には、コンビニで買ったお酒がまだ残ってるし。いえ、呑まないけど。
小学生は上げていた顔を下ろし、それ以上は何も喋らずに勉強を再開した。私も諦めて、机の上に開いたノートパソコンを起動し、ここで仕事をすることにした。時間は貴重だからね。
それでも私がパソコンのキーを叩いていると、小学生は私の方を見てきた。なんだか、不思議そうな表情をしている。少しだけど、さっきよりは子供っぽい表情だ。好奇心にあふれた表情まではいかないけど、いい感じの表情だと思う。
「何をしているんですか?」
「お仕事」
「お仕事って、会社でするものではないんですか?」
「そうよ」
「じゃあ、今何しているんですか?」
「だから、お・し・ご・と」
「外で?」
「そう、外で」
「なら、僕も同じだ」
「違うでしょうに」
「だって、本来なら勉強は学校でするものでしょう?なら、僕と同じことをしていますよ」
屁理屈言うな!と思った。でも、勉強は確かに学校でするものかも。いやいや、私はめげずに反論することにした。お酒に手が出てしまわないように。だいたい、小学生相手に負けるわけにはいかないでしょう。大人なんだから。
さあ、元気を出していこう!え?うざいですか?まあまあ♪
「宿題は家でするものです!その為の宿題でしょう?」
「宿題ではありません」
「じゃあ、何をしているの?」
「復習です」
一瞬、復讐と聞こえた。私は本当に病んでいるのかもしれない。今度有休を取って、温泉でも行こうかな。遠藤さん誘って。何だろう、急に楽しくなってきた。と、そんなことを考えている場合ではない。集中、集中。
「そう、偉いね」と一応返した。
会話のキャッチボールは、大事だと思うよ。ねえ、少年。
「偉くありません。しないといけないからです」
う~ん、イマドキの小学生って、こんな感じなのかな?私の小学生の頃は、もう覚えていないや。でもまあ、私も見習わないと。いや、私には無理だ。大人だし。
「まあ、いいや。早く終わんなさい」
「お姉さんも」
お姉さんもか。良かった、おばさん呼ばわりされたら、軽く死ぬな。ここがうす暗くて良かった。明るかったら、致命的かもしれない。と、彼は目がいいんだった。君は優しいなあ。
彼はまた、顔を下に向けて勉強を再開したようだ。真面目だねえ。
まあ、せっかくなので名乗ることにした。私はこの子のお姉さんじゃないし、名前は大事だしね。これも何かの縁だと思う。だってさ、不審者は名乗らないと思うよ。自分の名前を名乗る段階で、私は不審者ではない、と信じたい。
「沢井加奈子」
「え?」
「私の名前、沢井加奈子って言うんだよ、君は?」
「椎名です」
おや、素直だね~。お姉さん、ちょっと嬉しいかも。
「ふ~ん、椎名君か。下の名前は?椎名なに君って、言うの?」
「言いたくありません」
「何で?」
「どうしてもです」
むっとしたその顔は、どこかあどけなさがある。うんうん、益々子供らしい顔になってきた。カワイイじゃん♪頬をつんつんしたくなる。しないけど。してもいい?
「学校楽しい?」
「仕事しなくていいんですか?」
「してるよ」
何だろう、本当に楽しいかも♪仕事はかどるなあ。鼻歌まで出そう。ついでに、いいアイデアも出そう。
「学校は楽しいです」
「へえ~、何が楽しいのかな?」
「給食の時間です」
プッと吹き出してしまった。いやいや、ゴメン、ゴメン!真面目な話なんだよね。だったら、真面目に返さないとね。でも椎名君は、私が答える前に更に質問してきた。
君、積極的になったねえ。お姉さん、嬉しいよ。
「お姉さんは、仕事楽しいですか?」
「う~ん、楽しいとも言えるし、楽しくないともいえるかな?」
「どっちなんですか?」
「どっちもだよ」
「よく分かりません」
「いつか、椎名君も分かるよ」
顔を下に向けたまま首を傾げる椎名君に、少し説明することにした。というか、この子は視線をノートから外さないなあ。こっち見て話そうよ。器用だね、君は。
「そうだなあ、美味しい給食もあれば、美味しくない給食もあるだろうって、そういう話かな?」
「終わりました」
「へ?」
終わったって、私のこと?私の人生終わり?
「だから、勉強は終わりました」
「ああ、そうだった。お疲れさん。私はもう少し、キリのいいところまでやるから、早くお帰り」
「じゃ、僕は帰ります」
「はい、バイバイ」
「バイバイ」
小さな手を振るその姿を見ていると、どこか癒される感じがする。遠ざかる小さな背中から、私は目を離すことが出来なかった。ふと、追いかけたくなる衝動に襲われたけど、もちろんそんなアホなことはしません。そんな真似をしたら、もろ不審者じゃん。
やがて、そのあどけない姿が闇に消えるまで、私は彼を見守り続けた。
家まで送ってあげた方が、良かったのではないかと思ったけど、もう今さらだろう。
少年が去ったら、私はひとりきりになった。いや、最初からひとりだ。でも、子供が一人で居ていいはずはないと思う。こんな夜に。しかも、人気のない公園なんかで。
まあ、二度と会うことも無いだろう。私はノートパソコンをカバンに仕舞い、帰宅することにした。残りは家でやろう。このスピードなら、明日には出来る。私は出来るオンナだ。ざまあみろ、課長め!
スキップしたくなる気持ちを抑えつつ、家路についた。
ふと、彼のことが気になった。
椎名君も、無事に家に着いたかなあ?
彼の下の名前って、どんな名前なんだろう?
椎名なに君って、言うんだろうね。
これが私と少年、椎名真希との出会いだった。
朝、いつもの時間に起きた。起きる事が出来た。睡眠時間を削ったのに、意外にもどこか爽やかだった。う~んと伸びをし、いつものように身支度をして会社に向かった。いつものように、いつも通りにバス停に向かった。栄養ゼリーも忘れずに。
昨夜の公園に差し掛かると、何故か視線を公園内に向けてしまった。吸い寄せられたという方が、正確かもしれない。
よく見ると、あずまやに小学生がひとり居た。え?と思ったが、声を掛けずにそのまま出社した。時間も無いし。でも、まさかね?もしかして、椎名君なのかな?あれから、ちゃんと家に帰ったよね?やっぱり、家まで送ってあげた方が良かったのかな?
そんなことを考えながら、私は会社に急いだ。
でもなあ、まさかねえ。
そんな、まさかなことが起きるのが、この社会なのだろう。昔、そんなことを言ってた政治家が居たっけな?居たよね?
出社すると、遠藤さんが資料を用意してくれていた。仕事早いなあ。
「沢井さん、これ資料です、使ってください」
アニメの資料だ。よく出来ている。このまま、使えそうだ。ラッキー♪遠藤さん、マジ、天使だ!今度、ごはんご馳走しよう。すみません、私が遠藤さんとごはんにいきたいだけです。私だって、何か変化欲しいし。
「ありがとう、資料に加えておくよ。埋め合わせはいつかね♪」
この資料と昨夜作った資料を加え、見た目をなるべく派手にして修正し、更に練り直し、退社時間直前に出来あがった。さっそく、帰り支度をしていた課長に提出した。ぐうの音も出まい!別に、帰り際を狙った訳ではありませんよ。というかさ、部下を置いて黙って帰ろうとするなよ。あんた、管理職だろう?
「ふ~ん、よく出来ているね」
何だか、素っ気ない。何故?何だか、計るような目で私を見てきた。ふと、後ろめたさを感じてしまった。成果を独り占めにしようとしているのではないか、そう見透かされているような気がした。
「遠藤さんに手伝ってもらいました」
「そうか、やはり若い子の感性はいいね」
急に笑顔になったので、ちょっと、いやかなりむっとしたが、大人である私は、にっこりとしながら当たり障りのない返事をした。
「私も見習いたいと思います」
「うん、頑張り給えよ。君には期待している」
期待って、何を期待しているのかね?というか、それって、期待していないということじゃないのかな?
課長はそんな私を無視して、そそくさと退社してしまった。部下を置き去りにするのって、ホントどうよ?
席に戻って遠藤さんに伝えると、彼女は喜んでくれた。私と課長とのやり取りについては、一部はオブラートに包んで。でもその笑顔は、まさに太陽だ。癒されるなあ。今度、岩盤浴に誘おう。エステもいいかも。もし断られたら、泣くかも。
残業もそこそこに、帰宅することにした。なんだか、とても疲れた。早く帰ろう。
ごはん、どうしようかと思いながら飲食店を見ていたけど、結局、コンビニで弁当とお酒を買うことにした。これでいいのか、私!
レジ袋を下げ、とぼとぼと帰り道を歩いていると、あの公園が見えてきた。そうしたら、急にお腹が鳴った。
誰も聞いていないよね?いや、聞いてよ。突っ込み入れてよ。恥ずかしいけど、寂しいじゃん。
「公園で食べようかな?いや、こんな時間じゃ、もろ不審者じゃん」
コンビニのイートインコーナーで食べれば良かったのかなあと思いながら、ふと、公園内のあずまやを見る。すると、そこに人影があった。その姿に、見覚えがあった。
街灯に照らし出された、あの姿だ。きっと、椎名君だ。
私は小走りで、あずまやに近づく。何だろう、少し怒っているかも。何に対して怒っているのか、私にはよく分からない。とにかく、急いだ。
「ねえねえ、君!」
声を掛けると、少年は顔を私の方に向けてきた。私を見上げるような、そんな恰好だった。
今日は、素直だと思う。昨夜はここまで持ってくるのに、随分手間が掛かったし。
でも、きょとんとしているところは、子供らしくてカワイイと思う。いやいや、落ち着け私。今はそれどころではない。
「何をしてるの?こんな時間に?」
椎名君は私をじっと見るだけで、何も返事が無い。私は周囲を見回し、大人の姿が無いことを確認した。付き添いは居ないようだ。椎名君ひとりきりだ。何で?どうして?昨日よりも、遅い時間じゃないか?いや、それでも確認しないと。間違いがあっては、いけないと思うから。
「お母さんは?お父さんは?」
「いいんです」
いや、何がいいんですかい?
「ほら、帰りなさい」
よく見ると、昨日と同じ服だ。いや、私も似たようなものか。似たような服で、誤魔化してるし。学生時代の制服って楽だったなあ、見た目オシャレだし。色々と誤魔化せるし、街で声も掛けられるしと、いやいや違うだろう。そんな私の過去の栄光なんか、今はどうでもいい。今はこの子だ。
「帰らないの?」
「明日には帰れます」
椎名君は、まっすぐ私の方に顔を向けながら、丁寧に答えてくれた。それでも一瞬、彼が何を言っているのか分からなかった。
帰らないのではなく、明日なら帰れるってこと?なんだ、そりゃあ?
「明日って?じゃあ、今夜はどうするの?」
返事はない。まさか、ここで夜を明かす気か?いや、まずいだろう。もしかして、家出なのか?どうする、私?警察に保護してもらうか?家の人も心配しているだろう。いや、まずはこの子の意思の確認だろう。通報はそれからだ。
「家に帰ろう?ね?」
私は椎名君の側にしゃがみながら、彼のひざの上に手を置き、彼を見上げながらゆっくりと語り掛けた。なるべく、威圧感のないように、それも低い声で。
だって、家出はまずいから、何とかして説得しないといけないと思ったから。それもなるべく、穏便にしないと。私は、心からそう思ったから。でも、私を見下ろす椎名君の目は、どこか諦めているような、救いを求めているようにも見えた。
子供の目じゃない。
「出ていけって」
か細い声だった。
「え?」
「出ていけって言われました」
ええっと、それって、家出じゃないよね?
「大丈夫です。いつものことです。明日には帰れますし慣れてます。僕は大丈夫です。何もありません。大丈夫です」と、急に畳みこんできた。
いや、そういう問題じゃないだろう?て、何が大丈夫なんだって。全然大丈夫じゃないだろう?慣れるな。慣れちゃダメだろう?しつけかお仕置だとしても、いくらなんでもこれはまずいだろう。何なんだ、いったい?親はどこに居る?いや、ここには親は居ないのか?だから、慣れているのか?
待て待て待て、落ち着け私。
「慣れてるって、初めてではないの?」
「はい、3回目です。だから大丈夫です」
3回目って、嘘でしょう?でも、彼は冗談を言っている訳ではなさそうだし、そんな状況でもない。きっと、真面目に正直に答えてくれていると思う。だから、これを冗談と思うべきではない。
冗談で無いとしたら、むしろ深刻な話だと思う。
大丈夫で、済ましていい話ではない。
「でも、ごはんは?お風呂はどうするの?」
「大丈夫です。ここには水もあるし、トイレもあります」
いや、答えになっていないけど?というか、それってもうホームレスじゃん。だいたい、ごはんはどうする気だ?お腹空くだろうし、夜は寒いだろう。もう、11月だし。どうする?いったい、どうしたらいい?私に何が出来る?私は何をすればいい?
「僕は大丈夫です。お姉さんも帰ってください。お父さんやお母さんが心配してますよ」
いや、私は1人暮らしだから、心配してくれる人は家にはいないんだが、って、そんな話じゃない。私が君のことを心配してるんだよ。私のことなんか、この際どうでもいいから、自分の心配をしなさい。
まずい、イライラしてきた。落ち着け、私。
「どうしても帰れないの?」
「鍵が掛かってますし、迷惑を掛けれません」
迷惑って、何?誰が誰に迷惑だって?小学生が家から締め出されているのに、何で迷惑なんて言葉が出てくる?第一、小学生が言うことか?というか、家族が迷惑だと思うのか?何で?どうして?理解出来ないぞ。どういうことだ?
まずい、思考がぐるぐる回り始めた。ダメダメ、一旦止まれ。落ち着け、私。考えてる場合か!とりあえず、深呼吸をする。
少し、落ち着いてきた、訳あるか!
今度は何だか、むっとしてきた。いや、怒りが込み上げてきた。何なんだ、これは?この気持ちは。この感情は?溢れて出てきたぞ。
責任者出てこい!いや、保護者出てこいか。保護者がいないのなら、もう勝手にしろ!私も勝手にする!文句あるなら、今すぐ出てこい!
「行こう!」
強い口調で、彼の手を引いた。腕は私よりも細かった。ちょっと、胸がズキっとした。
「え?どこへ?」
「私の家。行くとこないんでしょう?」
「でも、迷惑になります」
「大丈夫、私ひとり暮らしだから」
「お姉さんもお父さんやお母さんがいないの?」
も、って何?椎名君は、お父さんやお母さんが居ないのかな?そう思ったが、何だか触れてはいけない気がしたので、あえて聞かなかった。もう、小学生の時間ではないし。というか、私の名前を憶えてくれてなかったか。まあ、いいか。今はそんなことは、どうでもいい。
だって、子供はもう眠る時間だから。
「とにかく、私の家に来なさい。明日には家に帰れるんでしょう?なら、一晩ぐらい私の家に泊まってもいいでしょう」
「はい」
俯いたその子は、大人しく私に付いてきた。まあ、私が彼の腕を離さないから、付いてくるしかないんだけどね。これって、拉致とか誘拐じゃないよね?だいたい、野宿よりはマシでしょう。マシだよね?
早歩き気味で、私の住むマンションの玄関前まで来た。椎名君は、あたりをきょろきょろ見ている。私は玄関を開け、ちょいちょいと手を振りながら、椎名君を招き入れることにした。
「ただいま、ほら、椎名君も」
挨拶は大事だ。誰も居なくても。いいでしょう別に、防犯にもなるし。
「え?僕もですか?」
「そう、ボクもね」
「た・・ただいま」
「はい、お帰りなさい」
やりすぎなような気もするが、悪いのはこの子の保護者だ。そう思い、開き直ることにした。順番を間違えない。それだけだ。
それにさ、お邪魔しますよりはいいと思うよ。だって、邪魔だと思うならさ、最初からこんなことはしないし、してはいけないと思う。社交辞令ってさ、大人同士でする話じゃん。私はそう思うよ。ましてや、相手は小学生だ。そこに変な駆け引きとか、社交辞令は要らないでしょう?だいたい、私はそういうのは嫌いだし、苦手だしね。
この際だから、ごっこだっていいはずだと思うよ。こっちはね、頭に来てるんだから。怒鳴り散らしたいぐらいだ!
だから、今だけはここは彼の家だ。文句ある?
「お風呂沸かすから、沸いたら入りな」
椎名君は、私の部屋の中をきょろきょろ見回している。ちょっと、居心地が悪そうだった。なんだか子猫みたいで、ちょっとカワイイかも。やばい、頭を撫でたいかも。いやいや、気を取り直そう。私は大人。でも、少しぐらいなら、撫でてもいいでしょう?ダメ?ダメに決まってるでしょう!通報するぞ!はい、すみません。一人コントでした。寂しい!
「そこにかけなさい」
椅子を指し示すと、彼はその椅子にちょこんと座った。素直でカワイイんですけど。どうする、私?
でも、室内の明かりに照らし出されたこの子の手足は、小学生とは思えないぐらい細かった。胸がまた、ズキっとした。とりあえず、食事を与えないといけないと思い、キッチンに向かった。歩いて2歩の距離だけど。
さて、ごはんをどうするかと冷蔵庫を開けて中を見ると、酒とつまみと栄養ゼリー以外は、何も無かった。後は、コンビニで買った弁当一つしかない。これって、やばくないか?いや、誰の家だよ、私の家だよ。だって、だって、来客なんて想定外なんだし、同僚なら酒とつまみを出して置けば間に合うし。小学生を家に招くなんて、想定してないよ。
私が冷蔵庫とにらめっこをしているあいだ、椎名君は食卓の上に無造作に置いてあるチラシを見ていた。それも凝視するように。
彼が見ていたのは、ピザのチラシだった。
私は思わず、神様ありがとうと思いましたよ。普段は、チラシをウザイなあと思っていたから。改心します。これからは、チラシも大事にします。紙は資源だしね。
「ピザ頼もっか?」
「はい!」
いい笑顔だ。なるほど、これは疲れが取れるかも。お酒が飲みたくなる。オヤジか私は。アルコール禁止!とりあえず、今夜だけ。この子のために。いや、私のためかも?
「何がいいかな?」
「よく分かりません。何でもいいです」
好みもあるから、4種類のピザが一枚になったやつを注文することにした。そうこうしていたら、お風呂が沸いたようだ。お風呂が沸きましたというアナウンスの音に、椎名君はビクッと反応した。
いや、ホント、カワイイんですけど。一緒にお風呂に入る?頭、洗ってあげるよ?
いかん、いかん。私は大人。いい加減にしないと、私を通報するぞ!はい、すみません。
「ほら、お風呂入っておいで」
椎名君は、じっと私を見ている。何か聞きたいような感じだけど、何も言わずに脱衣所に向かった。本当に、無口な子だなあ。もしかして、お風呂が嫌いとか?いやいや、キレイにしないと女の子にもてないぞ。
アホな考えはさておき、彼の着替えはどうするかな?とりあえず、洗濯機に彼の脱いだ衣服を入れて洗うことにした。乾くまでは、私の服を着てもらうしかないだろう。
「おおい、着替えは置いておくから、上がったら着なさい」
シャワーの音がした。何だろう、人の気配があるって、不思議な感じがする。って、もう上がってきた。服がダボダボだ。いや、これは私の体格のせいではない。この子が小さいせいだと思う。それはそれでカワイイかも。と、そんな場合ではない。こんな短時間で、お風呂が終わるはずはない。
「よく温まった?」
「はい、よく洗いました」
洗った?一応、髪の毛は濡れているけど。
「ええっと、お湯には浸かった?」
「いいえ?」
「どうして?お風呂は嫌い?」
「お湯が汚れるからです」
はい?お湯が汚れるって、だから何?汚れたら捨てればいいじゃんって、ひとり暮らしの発想かな?残り湯が、洗濯に使えなくなるってこと?いや、使わないし。だいたい、洗濯の為にお湯に浸からないなんて、本末転倒じゃないか?何のためのお風呂だよ。
「いいから、お湯に入って身体を温めなさい」
「でも」
「でもじゃない、さっさと入りなさい!」と、ピシャリと言い放つ。
「はい」
椎名君は俯きながら、こちらをチラチラ見ながら再びお風呂場に向かった。
何だ、お湯が汚れるって。誰がそんなことを言った・・・・・・誰が?・・・・・誰に?
バスタブから、お湯が流れ出る音がする。今度は、ちゃんと入ったようだ。よしよし。子供は素直が一番。
だいたいさ、椎名君はずっと外に居たんだから、身体は冷えきっているはずでしょう。よく、温まらないと、風邪ひいちゃうと思うよ。それにさ、冷えてたら可哀そうじゃん。
お風呂から出てきた椎名君は、頭から湯気が出ていた。ちょっと、ドキッとした。いかん、いかん。私は大人。
気を取り直して、濡れた髪をタオルで拭いてあげた。まだ髪が濡れていたから。
ホント、男の子は適当だなあ。髪はちゃんと、乾かさないとね。でも、人の頭をタオルでゴシゴシするのって、意外に楽しいかも。仕上げにドライヤーで髪を乾かすと、彼はくすぐったそうにする。というか、されるがままだなあ、この子。でも、何だか楽しいかも♪いやあ、世話好き女子の気持ちが、分かるなあ。
「お風呂ありがとうございます」
「うんうん、ピザも来たよ。さあ、食べよう」
生唾呑む音が聞こえたが、それでも椎名君はピザに手を出さない。
「どうしたの?食べていいんだよ?」
「どれを食べていいんですか?」
え?
「どれでも好きなモノを食べていいんだよ」
彼はしばらく、考えているようだ。4種類あるからかな?早く食べなよ、ピザ冷めるよ?
そんなことを考えていたら、彼から意外な言葉が返ってきた。
「残ったら、頂きます」
少し、カチンときた。残り物ってこと?何それ?子供が遠慮するなんて、おかしくないか?というか、私がそんな人間に見えたのか?お預けなんて、絶対しない。されたことはあるけど。
「いいから、好きなのを食べな。私も食べるから」
上目遣いでこちらを見ながら、おずおずとピザに手を伸ばした。チーズが伸びている感じが、どこかおかしかったのか、視線は私からピザに向いたようだ。表情が生き生きとしてきたのが、見て取れた。彼は懸命にピザを頬張る。本当に嬉しそうだ。見ている私も、嬉しいかも。
「おいしい、おいしいです!」
熱々のピザを懸命に食べる姿は、見ていてどこか癒される。ああ、食事は1人よりも2人が美味しいって、こういうことか。彼氏が欲しくなった。いや、遠藤さんでもいいや。この子は、さすがにまずいから。
「ほら、ジュースも飲みな」
急いで頬張ったせいか、椎名君はむせてしまったようだ。カワイイなあ。いや、私も気を付けないと。私がむせたら、何と言われるだろうか?誰かカワイイと言ってくれないかな?
「ありがとうございました」
食べ終わった彼は、そうポツリつぶやいた。
「そういう時は、ご馳走さまだよ」
私はウィンクしながら、手を合わせる仕草を椎名君に見せた。
椎名君は私を見ながら、手を合わせる仕草の真似をしてくれた。ウィンクは真似しなかったけど。
「ごちそうさまです」
「はい、お粗末様でした」
いや、ピザはお粗末ではないけど。お粗末なのは、私の冷蔵庫の中身だ。断じて私ではない。でも、冷蔵庫の中身を見られなくて良かった。私がお粗末と思われる。今度、補充しておこう。
「歯を磨いたら、もう休もっか」
新しい歯ブラシを出し、洗面所に椎名君を連れて行った。
「磨き方分かる?」
「はい、学校で教わりました」
学校で?家では?そう口に出しそうだったが、飲み込んだ。何かあると思ったからだ。
「そう、偉いね。ちょっと磨いててね」
私も大急ぎでお風呂に入る。時間が無い中、可能な限りよく身体や髪を洗った。一応、それなりに念入りに。だって、子供を泊めるんだよ。それぐらい、マナーだと思うよ。とにかく、早く、早く!急げ、急げ!というか、私こそバスタブに浸かっている時間がない。ああ、やっぱり一緒にお風呂に入れば良かったかも。時短出来たのに。いや、さすがにそれはまずいか。ピザも来るし。もう!
お風呂から出たら、洗濯機の乾燥も終わっていた。私はドライヤーで髪を乾かしながら、洗濯機から椎名君の洗濯物を出して畳んでおいた。忙しなあ。でも、小学生にとって、この時間はもう深夜だから。とにかく、色々と手順をすっ飛ばした。いえ、手順は大事ですよ、ホント。忙しいを言い訳にしない。とは言うものの、一刻も早く、椎名君を休ませないと。ついでに、私も休もう。
私がいそいそと布団の中に入ろうとしたら、何故か椎名君は床で寝ようとしていた。何で?私と一緒じゃいやなのかい?落ち込むんだけど。だいたい、子供を床に寝かせるような鬼じゃないよ、私は。一緒に寝るのが嫌なら、私が床で寝る、じゃあない、ソファーで寝る。いや、寒いか。ええい、面倒だ!
「こっちおいで」
そう手招きすると、またこんな返事が来た。
「大丈夫です」と。
「いいから、来なさい。お布団は一つしかないんだから。風邪ひくよ」
「お布団を汚したくないから、僕は大丈夫です」
布団が汚れると、大丈夫の因果関係が意味不明なんだが。だいたい、何の為にお風呂に入った?キレイになったんだろうと、そんな問答をしていても仕方がない。私はもう眠いし、この子の大丈夫は、きっと大丈夫ではないと思う。それなら、もう実力行使しかない。
「いいからおいで」
逡巡する椎名君の側まで近寄り、彼の細い腕を掴んで布団の中まで引っ張り込んだ。ちょっと、強引だったかな?男の子をベッドに引っ張り込むなんて、私、やるじゃん。相手が小学生でなければね。何か?
「もしかして、おねしょするとか(笑)」
「しません!」
思いっきり、否定してきた。よほど恥ずかしかったのか、耳まで赤くなった。いやはや、本当にこの子はカワイイんですけど。やばい、益々いじりたくなる。いやいや、もう小学生の時間は終わりだ。ついでに、私の時間も終わり。夜は眠るモノだと思うよ。正直、少し疲れたし。
「なら、お布団が汚れることは無いね。いいから、お休み。少し狭いけど、ごめんね」
椎名君は、じっと私の顔を見てから、諦めたように目を閉じた。しばらくしたら、寝息が聞こえてきた。寝つきいいなあ。お酒を呑まないでも眠れるなんて、羨ましい・・・いや、呑みませんよ。
私は照明を落とし、少年の寝息をBGMにしながら目を閉じた。いつの間にか、私も寝落ちしてしまった。布団が、暖かかったせいかもしれない。部屋が暖かかったせいかもしれない。
人の温もりが、心地よかったせいかもしれない。
夢を見た。
遠くから子供の泣く声がする。
もう、泣かなくていいんだよと、誰かが声を掛けていた。
誰?
それは、私だった。
「・・・・さん、・・・えさん」
ハッ!目が覚めた。え?え?え?ここどこ?私は・・・私だ。
「おはようございます」
ちょこんと頭を下げる椎名君は、やはりカワイイと思う。一瞬、記憶が飛んだが、すぐに冷静になる。冷静だよね?というか、この子もう着替えてる。用意いいなあ。
「おはよう、朝ごはんにするから。顔は洗った?歯は磨いた?」
頷く彼を尻目に、大急ぎで朝食の支度をしようと思ったが、冷蔵庫には何もない。妖精さん、どうして昨夜の内に補充してくれなかったの。すみません、もう素面です。大丈夫です。まだ、病んでいません。それにあるにはあるのだが、酒とつまみと栄養ゼリーとコンビニ弁当しかない。
いや、まずい、これはまずくないか?どう考えても、まずいだろう。小学生に昨日のコンビニ弁当を出すわけにはいかないし。急な来客に対応出来るようにしておかないと、社会人としてダメだろう。少なくとも、我が家は子供を泊めていい環境にはないようだ。
「ええっと、お外に食べに行こうか?」
「平気です。食べなくても」
いやいや、そんなはずはないでしょう。いや、朝食べない子供もいたっけ?でも、食べ盛りにそれはまずいでしょう。だから、そんなに痩せちゃんだよ。だいたい、食べないと倒れちゃううよ。
「いいから、朝ごはん食べに行こう」
彼は、頷きながら小さな声で返事をした。子供は遠慮するモノじゃない。大人は遠慮しろ。いちいち身体に触るな。プライバシーを尊重しろ。いえ、何でもありません。
「行ってきます」と私は、誰も居なくなった部屋に向かって挨拶をした。
挨拶は大事だと思う、ましてや、子供が見てるしね。それから、きょとんとしている椎名君をじーと見る。無言で。
「い、行ってきます」と、はにかみながら挨拶をしてくれた。
やばい、この子を抱きしめたくなった。酔っていたら、やばかったかも。私は大人、私は大人とぶつぶつ独り言をつぶやいていると、椎名君は今度は私の方をじ~と見ていた。まずい、あぶない人と思われたかも。いや、否定は出来ないけど、我慢はします。我慢は大事です。
私は椎名君の頭をポンポンと軽く叩いてから、さあ、行こうか!と声を掛けた。椎名君は、どこか嬉しそうだった。
私たちは朝からやっているファミレスに入り、テーブルに備え付けてあるタブレットのメニューを開いた。
「これ、どうやるんですか?」
「画面を触ると、表示するよ。ああ、朝はモーニングしかやっていないのか?どれにする?」
「ええっと、どれでもいいんですか?」
「いいよ、何でも食べたいモノを食べな」
「ホント!」
頷く椎名君の顔は、少し赤らめていた。あどけなくて、本当にいい表情をするなあと思いながら、私もメニューを選んだ。
「ドリンク取りに行こう」
私は椎名君と一緒に、ドリンクバーに行くことにした。素直に付いてくる子は好きよ。
「何ですか、これは?」
「うん?ドリンクバーだよ。初めてかな?どれ飲んでもいいんだよ」
「じゃあ、じゃあ、これがいいです」
彼はコーラを選択した。私はカフェオレにした。スイッチを押すと、どうやら豆から挽いているようだ。文明ってすごいと思う。しかも、飲み放題だよ?すごくない?
コーヒーが落ちているその間、私はきょろきょろする彼を見ている。見ているだけで、どこか楽しいし、いじりたくなる。いや、落ち着け。集中集中。
「あ!あれは何ですか?」
席に戻ると、ちょうどロボットらしきものが近づいてきた。彼は驚いていたが、実は私も驚いた。以前来た時には、あんなのは無かったから。猫型ロボットか?そういえば、ファミレスもしばらく来ていないなあ。
「ほら、自分の料理を取りな」と、あくまでも冷静に、何事も動じないように。
大人って、卑怯だなあ。本当はどきどきしているのに。でも、彼の好奇心に満ちた表情は、とてもかわいらしいと思うよ。子供は、そうじゃなくちゃね。
その椎名君は、恐る恐る自分の料理を取るかと思ったら、スルーして私の料理を取ってくれた。
「はい」
「ありがとう」
にっこり微笑む彼の顔を見たら、もうなんでもいいやと思った。優しいなあ、うちの子になる?
椎名君が完了のボタンを押したら、ロボットはくるりと反転して、厨房に戻って行った。
すごい、もう使い方が分かるなんて。私なんて、このロボット、いつまでここに居るんだろうって思ってたよ。もしかして、早く食べて皿を戻せってことかと思ってたよ。良かった、おかしなことを口走らなくて。
彼は、立ち去るロボットを見送っていた。というか、目を離すことが出来なかったようだ。ちなみに、私も同じでした。何か?
「食べていいんですか?」
「いいんだよ、それは君のだよ」
「僕の」
「ほら、いただきますの挨拶は?」
「いただきます」
「はい、召し上がれ」
彼は黙々と食べ、ごくごくとコーラを飲んだ。なんだ、彼は朝ごはん食べるじゃん。食べなくても平気なんて、嘘だったじゃん。
人が夢中で食べ物を食べているその姿を見ているだけで、何だか幸せな気持ちになるのが不思議だと思う。ホント、癒されるなあ。
「あの、あの」
いかん、ぼーとしてしまった。よだれが出ていたら、間違いなく逮捕されるだろう。自分を立て直そう。私は大人。
「何?」
「お礼、どうすればいいんですか?」
「お礼?いいよ、そんなの」
「でも」
私をじ~と見る、彼のその透明感のある目に吸い込まれそうな気がしてきた。私は、その目に応えたいと思った。
私はその目を見つめ返しながら、知りたいことを尋ねた。
「じゃあ、名前教えて」
「え?椎名ですけど」
「下の名前だよ」
「下の名前ですか?」
「そう、下の名前。椎名なに君?」
彼はしばらくした後、小さな声で名前を教えてくれた。
「真希、椎名真希です」
「へ~、マキ君か、いい名前だね♪」
「女みたいです」
「うん?」
「女みたいって、からかわれるんです。笑うんです」
そうか、小学生ならそうなるのか。子供は残酷だなあ。素直さと残酷さは、表裏一体なのかもしれない。でも、名前を付けてくれた、親のセンスを感じるな。本当に、いい名前だと思うよ。
「笑わないよ」
「え?」
「私は笑わないよ」
「どうして?」
「どうしてもだよ。ねえ、名前はどう書くの?」
「真実の真、希望の希で真希です」
「うん、やっぱりいい名前だよ」
「あの、お姉さんの名前は、どう書くんですか?」
私はスマホの画面に自分の名前を表示し、椎名君に見せてあげた。何だろう、嬉しくなっている。
彼が私に興味を向けてきたことが、結構気持ちいいかも。
「ほら」
画面を見た椎名君は、恐る恐る声を出した。私の名前を呼んだ。名前を呼んでくれた。とても小さな呼びかけだったけど、私は聞き逃さなかった。
「加奈子さん」
「うん?」
聞き逃さなかったけど、もう一度ちゃんと聞きたいと思った。私って、いじわるなお姉さんだね。
代わりに、精一杯の笑顔でリクエストをした。
「もう一回、いいかな?」
「加奈子さん」
「うん、いいね、それ。じゃあ、私も真希君って、呼んでいい?」
「真希でいいです。真希君って、女の子みたいです」
よく分からないが、彼がそう望むならそうしようと思う。
だって、名前は大事だから。
こうして二人は、お互いを名前で呼び合うようになった。