かくして『物語』は、紡がれた。
アイツとは幼馴染。
保育園から同じ。 幼稚園、小学校、中学校も同じ、さらに高校までも同じ。
幼馴染というだけで、さして親しくもないが、疎遠でもない。 その原因も有るんだよな。 嫌うほどでも無いんだが、ちょっと苦手意識があった事は、まぁ…… 間違いない。 その原因が、俺自身だって事も理解しているし、 あの時は俺が悪かったから仕方ない。
そう、アイツとは、ずっと、『会えばちょっと話をする程度』の仲だった。
誰でも、そうである通り、自分の世界を作り出して、友達や先輩、後輩なんかと仲を深めていく。 そんな成長過程で、ソイツとは何故か一定の距離を持ったまま、ずっと緩い関係性を持ち続け居ていた。 住んでいる場所が、お隣同士で下に弟か妹のいる第一子って事と、両親が共働きであんまり家に居ないって境遇がよく似ていたからかな。
いわゆる…… 普通の『幼馴染』という間柄だった。
時折…… 町内会やらで『回覧板』を持って行った時に、ぼさぼさの頭で玄関口に出て来て、” あぁ、有難う ”などとほざく奴。 ”もうちょっと、マシな格好しろよ ”って思うくらい、服装には無頓着。 いつも、同じ上下のスエットを着ていたな。 けど、ボゥっとしているわりに、義理堅い所もあるんだ。 俺の所も奴の所も、両親共働きだから、どっちの家もどっちの子供には気にかけてな。
其々に、弟やら妹は居る。 アイツの所は妹。 俺の所は弟。 隣同士で、親が共働きと、それぞれに忙しい。 まぁ、互いの家では子供たちを、ちょっと気にかけあっているって感じ。
高校を卒業する時にそれは崩れた。
アイツは進学を選ばず、就職した。 金属加工系の小さな製作所。 技術力が高く、その筋の業界では、結構有名なところらしい。 社長が有名な技術屋で、弟子を仕込むように仕事を憶えさせるって、なんかそんな話も聞いた。 勤務時間やら勤怠なんかもしっかりしていて、噂によると結構ホワイトな企業らしいんだ。
う~ん、それでもなぁ~~
アイツは、機械油まみれになりながら、安い給料にも文句を言わず、高卒の職工として、コツコツと真面目に働いていたらしい。
そんな事より、何より俺を驚かせたのは、家を出てアイツが就職した会社の近くに部屋を借りた事。 それぞれの家の親たちもこれには驚いた。 就職したんだから、一人暮らしをしなきゃならない ってさ。 どうして、そう考えたんだろう? アイツの御両親はそりゃ必死になって止めてたけど、それを振り切りやがったんだ。
―――― こと姉妹に関しては、面倒見の良いアイツ。
そんなアイツが、『バンド活動』に嵌り切っているアイツの『妹』を放り出して、家を出るとは思っていなかった。 なんでだって、思わず問い詰めたかったんだが、その時はもう一人暮らしを始めていて、ちょっとアイツの借りているアパートには行く勇気は無かったな。
俺の方はと言うと、大学に進学しシステム関連の勉強をしていた。 専攻はシステムエンジニアリング。 まぁ、そんな所だ。 大学に入って、運動系のサークル活動もして、彼女も出来た。 相変わらず、自宅には住んではいるが、充実していた。
……のほほんと暮らしてたんだなって思う。 まぁ、比べる相手がアイツなら、そうなるか。
少し、心配事も有ったんだ。 弟が、学校でイジメにあって、傷ついて、登校拒否に陥った。 弟は部屋に引き籠って、CGアニメ絵ばかり描いているんだ。 そんな『弟』に、俺は何も出来ない事が、痛みにも似た俺の心の澱でもあるんだがな。
何が起こったかは判らないけど、無理強いだけはしてはいけない…… とそう、思っていた。 弟は心の優しい男なんだ。 ちょっと、『表現力』がマズいだけなんだ。 親が医者に連れて行き、色んな診断が降りたけど、そんな事は関係ないね。 『心が弱い』なんて、馬鹿にするやつがいたら、兄ちゃんがシバイてやるからなッ!
心療内科の先生が云う事には…… 弟は、心の外壁が、普通の人よりちょっと薄いんだと。 だから、強く何かを強要する事は、彼にとって脅迫にも似た行動と一緒なんだと、そう云われた。 俺は理解してたよ。 なにせ、お兄、お兄って、慕ってくれた、可愛い弟なんだから。
――――
思い返してみても、どの学校でアイツは『ボッチ』だった。 何処に居ても異質な奴。 とにかく、とても大人びた奴。 いじめや嫌がらせもあったらしいが、何にも動じない奴。 中学の時には、スクールカースト上位の奴等がアイツと揉めて、それでもって『標的』にした。
―――― けど、それもいつの間にか収束していた。
薄っすらと噂になったのが、カーストのリーダー格の奴を理路整然と、そして、完膚なきまでに『言葉』で追い詰め叩きのめしたらしいのと、それで恥かいた相手の奴が放った不良共を、完膚なきまでに叩きのめした…… って話。 俺は思ったね、あり得なくないと。
アイツはああ見えて、とても頭がいい。 その上、別に運動部に属していないのに、早朝からジョギングする奴を俺は知っている。 まだ薄暗い公園で、シャドーボクシングみたいなことをしているのも知っている。 いや、もっと攻撃的な実践的な奴…… 何処でそんなの覚えたんだ?
だから、アイツが高校卒業後、就職したのが何故だか判らなかった。 アイツなら国立大学だって、十分に射程範囲いた筈なんだがね。 『あの子の、強い要望だから、仕方ないのよ』 って、アイツのお母さんが家の母さんに、零していたのを憶えて居てるんだ。
アイツが何をやっているか、その時は別段どうだってよかったんだが、幼馴染の誼みってやつで、俺の所にまでそんな事が聞こえてくるんだ。 でも、まぁ、アイツらしいなって感想が、俺の中にはあったって事だ。
そんなこんなな、高校までの生活。 大学入試前後から、かなり疎遠になって、会えば挨拶をするくらいにまで関係性やら『 縁 』は、希薄になって…… こうやって人って、離れていくんだな、なんて思っていたりもする。
まぁ、そんな感じの 『 幼馴染 』 だったんだよ、アイツとは。
そんなアイツと、もう一度 『 縁 』が、繋がったのは、大学に入ってから、『夜遊び』して朝帰りした時に、アイツに出会った時から…… だったんだ。
――――― § ――――― § ―――――
大学の二回生になって、成人式があった。
久しぶりにアイツを見た。 冴えない作業服を着た奴は、会場でも浮いていた。 灰色のジャケットには、製作所のネームが刺繍されていた。 ご丁寧に帽子まで被って、相変わらずの無表情で、成人式の会場に居た。
まぁ、なんだ…… 周りから変な目で見られていたのは否めない。 そりゃそうさ。 着飾る新成人の中で、洗ってあるとは言え、作業着でくるような奴は居ない。 わざわざ、そんな奴に話しかける者もいない。 けど、透徹したような奴の視線は、周囲の奇異なる者を見る目を、まるっと無視し、孤高の何かを思い浮かばせる姿でもあったんだ。
成人式の会場で、サークルで出逢った彼女と一緒に居た俺は、奴に声を掛ける事を躊躇った。 まぁ、そうだろう? 浮き上がったボッチな奴に、どう声を掛けていいか判らない。 遠目に見ながら、どうしたモノかと思案に暮れる。 そうやって、時間が過ぎて行って、やがてホールにアナウンスが入る。
――― 新成人が会場に招き入れられ、色んな奴らの中に紛れ、姿も消える。
俺は、高校の時の友人たちの集団の中に、紛れ込んで座った。 隣に居る彼女を見て、友人たちの羨望の眼差しは気恥ずかしいと共に、ちょっと優越感を感じても居た。 俺たちのグループから見て前方…… 最前列の中央に奴が座っている。
周囲はぽっかりと真空状態の様に空席があった。 誰も、奴の側には近寄らない様だった。 この空気感は、どうしようもなく、ただ、遠くから見ている事しか出来なかった。 まぁ、あの場では、誰であれそうなるか…… ちょっとだけ、心の奥底が痛く感じた。
成人式の式次第は順調に進んで、市長さんやら有名人の人から祝辞が贈られた。 これで、一応…… まぁ…… 大人として見られるんだなと、そう感じた。
もう隠れる様に酒を飲む事も無く、年齢確認にビビる事も無く堂々と居酒屋に行けるってもんだ。
成人式が終わり、友人たちと飲みに行く事になった。 奴は誘われていなかった。 少しでも話をしたかったが仕方ない。 その代り、” 彼女も一緒に ”と、そう誘われた。 高校の時の仲間は、俺の彼女に興味津々な様子。 女の子の友人も一緒だったから、危険は少ないと思い彼女の希望も聞き了承した。
それが、どんな結末に繋がるかを知らずにだ。
成人式後の飲み会で、気心の知れた奴等だったから、かなり飲んだ。 一次会の居酒屋を皮切りに、二次会のカラオケ、三次会の別の居酒屋…… 店が変わる度に彼女に帰ろうと促すも、周囲の奴等と盛り上がって行った彼女。 もう少し、もう少し…… と、いつまでも引っ張れていった。
許しちまった俺の失態でも有るんだがな。 彼女も既に成人を迎えている。 大人の自覚もある筈。 そして、俺は彼女の意思を尊重したいと常々そう云っていた手前もある。 彼女も従属物に見られる事を極端に嫌う質だったからな。
深夜を廻り終電が終わっても帰ろうとしない彼女や仲間達。 楽し気にそいつ等について行く彼女をフォローする事で、一杯一杯になっていた俺。
俺は、酒には強くない。
滅茶苦茶に飲まされて、ついに最後の居酒屋で酔いつぶれ、テーブルに突っ伏して寝ちまったんだ。 深夜…… 既に午前三時、居酒屋の営業終了時に店員に起こされ、店を出た俺は彼女が近くに居ない事を知り、焦りに焦った。 ラインには連絡は入っていない。 何度もラインを送るも、既読すらつかない。
手当たり次第に、飲み会に参加していた連中に連絡を取る。
やがて、一人の男からライン返信がやって来た。
”おまえ…… 探してるって事は、アレはマジか。 ……URL送っとく。 まったく、御愁傷様”
意味不明なライン。 添付されているは、某有名動画サイト(ほとんど違法、海外サーバの投稿サイトモノ)だった。 不安を胸にクリックすると、何の前触れも無くいきなりの本番。 一人の女に、複数人の男が群がる画面。 テラテラと艶ががった白い肌と、艶然と男達に体を預ける画面一杯に広がり、♂♀の生物的基本的本能を曝け出した動画が垂れ流された。
スマホの画面いっぱいに、見知った彼女の蕩けた顔が映り込み、聴きたくない言葉が紡がれる。 『恋人では物足りなかった。 今、私…… 一杯に満たされている。』 とかなんとか…… そんな意味合いの言葉と、表情がスマホ一杯の画面に映し出される。 さらに、それだけじゃ無い。 『恋人だけじゃ物足りないから、サークルの一回生を摘まみ食いもしていた』とか、言い出しやがった……
―――― 突然、込み上げる嘔吐感。
道端の電柱の根元に盛大に吐き続ける。 吐いて、吐いて、吐き続けて…… フラフラになりつつ…… 深夜の街を徘徊する。 俺が打ったラインには、未だ既読のマークは付いていない。 つまりは、そう云う事だ。
探す気力も、どうするのかも、無くなった。
ぼんやりとした頭で、うろつく俺。 URLを送って来た男から何度かラインが来て、何度か着信があった。 けど、もうどうでもよかった。 弁明など必要無かった。 俺の不注意もあった。 しかし、これ程の酷い仕打ちは、俺の心を壊した。
どのくらい彷徨ったのか判らない。
気が付けば小さな公園のベンチにだらしなく座っていた。 夜が明ける。 薄らぼんやりとした世界に、陽の光が差し始める。 ” 蒼い時間 ” ……アイツが、そう云っていた事を思い出した。
”空気が澄んで、重いんだ。 眼下に広がる風景が徐々に実態を持ってくるって云うのかな。 そんな時間だ。 遠くのモノは闇に沈んではいるか、逆光に黒く潰れて視界そのモノは、まだ不良。 でも、感覚的には”視える”時間さ。 重い空気は身体を軽くしてくれる。 全能感に浸れるそんな 素敵な 『蒼い時間』なんだよ”
ちょっと、意味が判らなかったのは、その言葉を聞いた時。 今なら、その言葉を紡いだアイツの感じた事が判る。 混濁した思考が、朝の冷気に解ける様に鮮明になっていく。 だらしなく座った俺の思考が、妙に澄んで来る。 突如、スマホの通知音が幾重にも重なる様に鳴り響く。
ラインが次々と入る。 彼女からだった。
その状況を見て、何故か笑いがこみあげて来る。 書かれている内容は、俺の事を心配していたが、その言葉も空々しい。 俺の友人たちに先に帰る様に言われて帰ったとか、疲れてたから眠って今までラインが来たのを知らなかったとか…… 今度、二人っきりで『成人式』を祝いたいとか。
余りに、身勝手と云うか、バレなければ何をしてもいいと云うか、上から目線とと云うか…… 驕慢さと傲慢さを見せつけられた気がした。 大切にして来たつもりだった。 彼女の意見を尊重し、何かあれば二人で沢山話し合ったつもりでいた。
あの動画の中で、俺は優柔不断で何も決められない、意志薄弱で ”なよッちい” オトコだと、そう…… その口で言っていた、お前…… でも、それを望んだのは、お前だろう? 女は男の従属物じゃないって、そう云い続けていただろ?
変な笑いが、いよいよ深くなる。 既読が付いている筈だから、俺がスマホを見ているのはあちらに判る。 電話が何本も入る。 いや、何て言えばいい? 話を合わせてこのまま、関係を繋いでいくのか?
それは…… 無理だ。
スマホのラインを起動して、文面を綴る。 支離滅裂な心がそれで整理されて行く。 あれほど荒れ狂っていた心が、まるで凍り付いた湖の様に平坦になるのが判る。 罵倒なんかしない。 ただ、ただ、離れたいだけだった。 人の心を持たない『 獣 』とは、どうあっても、この先交流していく事など出来はしない。
”別れよう。 連絡を入れようとしないでくれ。 誰かに別れた理由を聞かれたら、性格の不一致と云えばいい。 俺にちょっかいを掛けようとしたら、俺はちゃんと弁明する。 このURLの動画でな。 ちゃんと、保存した。 これは俺の保険だ。 そっちが行動に起こさない限りバラまくつもりは無い。 じゃぁな ”
俺は、例のURLを張り付けて、彼女にラインを送る。 フゥ……と大きな溜息が落ちる。
狂ったように着信音が鳴り響く。 でも、取る気はない。 設定画面で着信拒否指定を彼女の番号に設定する。 静かに成ったスマホ…… 次にラインの着信音が連続して鳴る。 もうアプリは落としてあるから、内容なんて見ていない。 此方も設定を弄る。…… 高校時代のライングループから抜けた。 ついでに、大学のサークルからの脱退届をメールで送信。 ライングループからも抜ける。
―――― そして、スマホは沈黙する。
俺の心も閉ざされる。 ただ、ただ、ぼんやりと、明け始める市街地を見続けていた。 もう、何もする気が起きなくて…… 視界が段々と暗くなる。 もう、何も信じられない。 心が冷たく凍って、どうでも良くなって……
自分の何がダメだったのか、自分はどうしたら良かったのか、自分は、自分は…… って、負のスパイラルに堕ちて行って…… 目の前に、『もう、生きていたくない』って、結論がふわりと浮き上がって来たんだ。
―――― § ―――― § ――――
「朝帰りか? 成人式だったとしても、あまり感心できない」
ぼんやりと、だらしなく座る俺の前に人影。 アイツだ。 そういえば…… この小さな公園は、アイツがずっと早朝に運動していた場所だったな。 今も続けていたんだ…… へぇ……
「なんだ、しょぼくれて。 この世の終わりみたいな顔してるな?」
「まぁ…… な。 ちょっと、世界が終わった感がある」
「ほう…… 財布でも落としたか? 借金でも背負ったか? 嵌められたか? それとも…… 裏切られたか? 」
「よくまぁ、ソレだけ出て来るな」
「脇の甘い、『御子息様』だからな、お前」
「ハァ? どういう意味だ?」
「なに、本当の事だよ。 頭も良い、性格も温厚でおっとりしている。 その上 けっこう裕福な家の産れだ。 人生を歩む上で障害になりそうなことはほぼ無い。 目の前に落とし穴が有っても、その上を軽々と越えて行く運の良さもある。 有るが故に、ちょっとした出来事にも躓いて、動揺して、対処が出来なくなり心を閉ざす…… なんて事を側で見ている分には理解出来る。 ぼくたちの間柄って、そのくらいの距離感だから」
「…………カウンセラーかなんかか?」
「お隣さん同士の、『幼馴染』って所か。 まぁ、事情は聴いてあげるよ、幼馴染」
「………… ………… 悪いな…… 幼馴染」
今日……
というか、此処二十四時間の間に在った出来事を掻い摘んで説明した。 説明し、状況を伝えていくうちに、事態を『客観視』できる心の余裕が生まれ、そして、それをアイツが聞いてくれた。 腕を組んで、俺をじっと見つめるアイツ。 たまに辛辣な言葉で、相槌を打って呉れやがる。
そう云うヤツだとは知ってはいたが、凹んでいる今の俺に、更に塩を摺り込んで来るあたり、『性格の悪さ』が滲み出ているがな。 やはり、どうにも苦手な相手だな。 やりにくい…… けど、今は有難い。
一通りの説明が終わり、俺は沈黙する。 そんな俺をじっと見つめていたアイツは、ふいに身体の向きを変える。 へたりこんでいる俺には何も言わず、アイツは自分の運動を始める。 どう云えば良いのか、何を言えばいいのか、それを考える為の時間だと……、そう思う。
安易な気休め的な言葉は、俺に届かないって分かっているからなのだろうな。 俺の言葉の端々は、結構ささくれだっていて、聞いていても、気持ちのいいもんじゃ無かっただろう。 心が壊れかけている俺に、何をどう云っても、きっと俺は聞く耳を持たない。 そんな雰囲気をアイツは感じ取ったんだろう。
運動を終えた奴が、自販機に行ってから、俺がだらしなく座っているベンチに戻って来た。
ポイッ と、缶コーヒーを放り投げて来た。 片手でキャッチ。 ホゥ ってな目でアイツは俺を見ている。 まだ、ちゃんと反射的に掴む事が出来る事を見て笑いやがった。 当てるつもりだったな? ほんとに…… コイツは……
「で、どうする。 家に帰るか?」
「……家の電話は、アイツも知っている。 煩くされるのは、ちょっとな」
「へぇ、そうかい。 整理する時間が欲しいと。 そうなんだな」
「あぁ。 まぁ、また大学で逢うんだが、それまでは、会うつもりは無い。 共通の知人も居るし、根回しも必要だからな」
「…………おじさんと、おばさんには?」
「息子が二、三日帰らなくっても、心配はしない。 彼女から煩く電話が有ったとしても、本人が居なきゃ、対処できない。 それに、もう成人した。 あの人達も、成人した人間を子ども扱いはしない。 そういう人たちだからな」
「まぁ、判る。 でもな連絡は必ず入れろよ、成人したとは言っても、『愛息子』だからな。 それに、あの人達は、とても勘が鋭い。 心配する。 絶対に心配する。 それは、良くない。 …………何なら、ぼくん家に一時避難するか? 心の整理が付くまで」
「…………構わないのか?」
「あぁ、幼馴染だしな。 ぼくの所は、今のお前のお友達には、知られちゃいないんだろ?」
「あぁ、それは、そうだな。 …………頼まれてくれるか?」
「妹も世話になっているし。 恩返しの一環だ。 これでも恩に着ているからな。 ぼくからは、何も言えない。 これは、お前の問題だから…… 時間と、場所は提供するよ」
ブラックの缶コーヒーを開けつつ、交わす言葉に俺は縋ったのかもしれない。 壊れるか、自暴自棄になるか、世界を儚んで未来を自分の手で終わらす…… 人として、深淵の縁に立ち、その深淵を覗き込み、そして、深淵からも覗かれ、手を引かれそうになっている。 そんな絶壁に立つ俺の手を…… アイツは、握ってくれた。
――― そんな気がした。
公園からちょっと距離が有ったが、アイツの住むアパートに付いたのは、陽が昇ってから。 小さな2DKのアパートだが、思ったより綺麗に暮らしているな。 キッチンには洗い物など無く、小さいながらも清潔だった。 二つの部屋の片方はベッドと事務机があり、もう一つの部屋は空き部屋となっていた。
「風呂浴びて、寝ろ。 ベッドを使え。 お前に合う下着はない。 今、履いている奴を、洗って使え。 高校の時のジャージが有るから出しといてやる。 ぼくは仕事だ。 夜には帰る。 ……鍵はスペアを台所のテーブルの上に置いて行くから、家を出る時には鍵、宜しく」
「あぁ…… すまん」
「まぁ、ゆっくり考える事だ。 どんな事でも、俯瞰して視れば、なんて事は無くなる。 何時までも悲劇の主人公なんてモノになるなよ? 今まで考えていた。 一つだけ言える事は、……お前はお前だ。 じゃぁ、またあとで。 シャワー浴びたら、取り合えず寝ろ。 ぼくは、仕事の時間だ」
それだけ言うと、アイツは襟の詰まった作業着の上着を羽織り、部屋を出て行った。 扉が閉まり、外で原付の音がして、やがてそれも消えた。 ふぅ…… と、大きな溜息を吐き、云われた通りにシャワーを浴びた。
流れる微温湯が身体を流れ落ちる。
何もかも嫌になっていた俺が、その流れを見続けていた。 『昏い視界』が、少し明るくなった様な気がした。 ザバザバとシャワーを浴びる。 身体に絡みついた、目に見えない『嫌悪』と『執着』という名の澱が、洗い流されて行くような気がしていた。
”――― 何時までも悲劇の主人公なんてモノになるなよ? ………… お前はお前だ ”
容赦の無いアイツの言葉は、俺を覚醒させる。 そうだな、そうだよな。 俺は俺だ。 浴室を出て、用意されていたバスタオルで全身を拭き上げ、これまたアイツが用意したモノを身に付ける。 パンツは、無いがな……
しかし、高校の時のジャージとは、恐れ入った。
臙脂色のジャージに身を包み、そのままベッドに倒れ込む。 昨日からの俺の心を搔き乱した『怒涛の何か』が、綺麗に洗い流されていく感じがした。 毛布をひっかぶり瞼を閉じる。 昂っていた感情が落ち着き、微睡みが忍び寄る。 辛い現実から逃げたようで、ちょっと情けなくなった。 知らない間に涙が零れ落ち、そして、眠りに落ちた。
――――§―――――
…………意識が覚醒して、周囲の状況に違和感を覚える。
見慣れない天井、見慣れない部屋、そして、ココがアイツの部屋だと思い出した。 酷い夢を色々と見たが、それも、次第に現実感を失いつつある。 まぁ、そうだな。 それも、そうだ。
こう言っちゃなんだが、アイツの云った通り、俺は打たれ弱かったと云う事か。 本気で好きになった相手にされた仕打ちと、その後の誤魔化しに俺の心はズタボロにされ、小学校の体育館裏に打ち捨てられた凹んだバケツの中にある ”ボロ雑巾 ”の様になった。 ふと、思う。
この状況にアイツが陥ったら、どう対処したか……
いや、アイツの金剛石の様な心ならば、”それがどうした、人の心なんぞ、ぼくが操作できる筈もない。 そう云うヤツだっただけ ” なんて、シレっと言ってバッサリ切るな。 それこそ、目の前に当人が居ても、居ない様に扱うのは眼に見えている。
きっと、そう云うし、やるだろうな。
ノロノロと頭を上げて周囲を見てみる。 なんて事の無い部屋。 午後四時の気怠い空気が部屋の中に渦巻いていた。 頭を一振りして、小さなバルコニーに続くサッシ扉を開ける。 カーテンが揺れ、外の空気が入って来る。
サッシ扉の横に立ち、その入って来る空気を存分に吸い込む。 昼下がりの街の空気。 遠くに子供の声がする。 何処からともない、テレビの音。 何気ない日常の雑音がホワイトノイズの様に耳を打つ。 俺の心の中の暴風雨とは別に、押しなべて世は太平…… か。
別に俺がどうなろうと、世界は回る。 俺が見て体験している状況など、ありふれたモノ…… そんな気がしてきた。
アイツの云う通り、自分が 『 悲劇の主人公と成ろうとしていた事 』に気が付いて、本当に馬鹿らしくなった。 なんで、俺が消えなくちゃならないんだ? 俺が優しく大切にしたのが、悪かったのか? あぁ、そうか、その価値も無い人に、心を砕いていたのが悪かったのか……
なんか…… なんか、吹っ切れた。
部屋の中を見回し、アイツの生活を垣間見る。 良く整頓されているキッチン。 事務机の上にある、幾冊もの教本、壁に貼られた地図、幾つも丸のついたカレンダー。 よく掃除されて居る部屋。 ゴミどころか、コンビニの袋も無い。 赤い外装のノーパソすら、きちんと閉じられているのには、笑った。
実家住みの俺の部屋の方が汚ねぇ……
荒んだ生活はしていない様だった。 ふと、目に留まるのは、机上の教本のタイトル。
―――― パラグライダー ――――
ん? 何だこれ? 隣には、きっと免許みたいな『パイロット技能証』と綴られている証書が置かれていた。 パラグライダー? アイツ…… なにやってんだ?
パラパラと教本を見る。 几帳面な性格を物語るように、アンダーラインすら、真っ直ぐに引かれている。 細かい書き込みは、奴の学生時代の教科書を彷彿とさせる。 定期試験の前に、ノートやら教科書を借りた事があるから、その細かな書き込みをする癖を、覚え居ていたんだ。 そうだった。 アイツは、 興味があると、それに向かって真っすぐに向かって行くからなぁ……
大きく溜息を吐き、手に取った教本を机に戻してから、ベッドの上に戻る。 あぁぁ…… コーヒー飲みたい…… コテンと横になり、もう一度目を瞑る。
―――― もう、悪夢は見なかった。
――――― § ―――――
ガサゴソと音がする。 なんだ? と、思って目を開ける。 辺りは思ったよりも暗い。 目の前に、アイツが居た。 事務机の前に座って、ノーパソを開けて、なにやら打ち込んでいた。 液晶の画面に、大量の文字が躍っている。 身動ぎをして起き出すと、その気配を察知したのか、奴は振り向いて俺を見る。
「どうやら、大丈夫らしいな。 大体の悩みは、寝て喰ったら取り敢えずは片付く。 腹減ってないか?」
「……そうだな。 そう云えば、昨日から何も食べちゃいない」
「食えそうなら喰え。 まぁ、喰えるんならな。 その気に成ったら、こっちへ」
「…………まぁ、喰えそうだ。 あぁそうだ、ジャージありがと」
「洗って返せよ」
「おうよ……」
ノーパソの電源を落とし、キッチンに向かうアイツ。 冷蔵庫の中から何やら取り出して、ゴソゴソとしている。 あちこちのキャビネットを開けたり閉めたり…… 炊飯器のチャイムも鳴った。
「用意が出来たぞ」
「あぁ…… ほう…… いつも、こんな豪勢な飯食ってんのか?」
「いや…… まぁ、今日はお前が居るからな。 それに、スーパーに寄ったら、肉が安かったんだ。 取り敢えず肉を喰え。 肉を。 『嫌な事』が有ったら、ぼくはそうして、忘れる事にしているんだ」
「成程ね。 肉か…… それで、コレか……」
キッチンのテーブルの上には、『すき焼き』の用意がしてあった。 カセットガスコンロの上には、すき焼き鍋。 その横には、大皿に乗せられた大量の肉。 どう見積もっても二人分とは思えない量が其処に鎮座している。
「肉もそうだが、野菜も喰えよ。 身体はきっと要求するから」
「まぁ、そりゃそうだな」
「それで、家族には連絡とったか?」
「いや、まだだ……」
「弟君には、連絡しとけよ…… きっと、迷惑を被っているから」
「そうだな…… いや、そうか…… 俺が居なくて、連絡を取ろうとしたら、弟の所か…… わかった」
スマホを出して、弟にラインを送ろうか。 アイツの所に転がり込んだって。 飯食って眠るって。 心配すんなって。 スマホの電源を入れたら、いきなりライン着信音がパンパンと成り始めるんだ。 それはもう、凄い量……
アチャ~ って顔をしているアイツ。 ”?印 ”が頭の上で舞飛ぶ俺。
で、スマホの画面には、とんでもない量のライン着信の表示。 まぁ、見るわな…… 弟やら、父さん、母さんからの、ライン着信の嵐。 まぁ、留守電も容量一杯に溜まっているし…… なんだ、コレ?
「そりゃ、お前の事情が分かって、お前の所在が掴めなかったら、そうなるな」
「なんで?」
「大好きな彼女に浮気されて、絶望してんじゃないか。 それで世を儚んで…… なんて、考えるのも無理はないだろ?」
「……そんなに、俺は…… ダメな奴に思われていたのか……」
「やられた事を考えると、そうなるかもしれない。 まぁ、連絡だけはしとけって言ったろ」
「……そうだったな。 わかった。 今からしとく」
お互いに無言で…… すき焼きの準備に入ったアイツの前で、俺はポチポチとラインを打つ。 さっき考えた文面『アイツの所に転がり込んだ。 飯食って眠る。 心配すんな』って事と、継ぎ足して、『つまらない事は考えていない。 それと、気持ちの整理がつくまで、暫く家には帰らないし、面倒事を押し付けて申し訳ない』ってな。
直ぐに弟から、返信が来た。 サムアップのスタンプだけだった。 気持ちが、有難かった……
「さぁ、支度が出来た。 喰え。 喰って、寝てしまえ」
「あぁ…… そうだな。 そうさせてもらう」
肉の焼ける匂いと、醤油が焦げる香り。 野菜もどっさり入った『すき焼き』。 卵を溶いて、肉を投入して、食べた。 食べながら、視界が潤む。
旨い…… 旨いんだよ…… 本当に、旨かった。
たらふく喰って、促されるままに眠る。 涙を流しながら、モリモリ飯を食う男かぁ…… 完全に引かれていたと思うんだが…… 思うんだが…… アイツは、なんてこと無いって顔をしてたっけか……
―――― § ―――――
五日間……
そうだな、五日も邪魔した。 アイツは、別段、俺には何も云わず、仕事に行って、飯を作ってくれた。 なにか礼をしたいと云うと、
「そうだな…… まぁ、掃除くらいはしてほしいかな。 それと、お前の使っているベットのシーツは、洗ってくれよ。 ちょっと…… 汗の匂いがするからな」
だと…… 判った。 そのくらいなら、何とでも。 二日目からの晩飯は豪勢なモノじゃなく、質素なもんで、味も独特……だったが、それも又いいなと、そう思った。
アイツの平常運転を乱しているのが俺だと、そう意識したのは、五日目。
あいつが、珍しく真剣な表情を浮かべて、事務机の上に置いてあるカレンダーを見詰めていた。 その表情は凛として…… そして、どことなく『困惑』も含んでいる。
「どうした?」
「いや、なに…… ぼくにも予定と云う物があるんだ。 しかし、お前を置いては……な」
「予定?」
「あぁ…… フライトの予定。 慌ててたから、あっちには、キャンセルを伝えていなかった」
「あぁ…… お前、その、なんだ。 その教本と免許って事は、パラグライダーで空を飛んでいるのか?」
「あぁ。 いや、まぁ、天候も左右するから、突然フライトがキャンセルされる事もあるし……」
「いや、すまん。 俺が居候しているから、気にしてくれたんだろ。 すまん」
「……まぁ、な」
「俺は…… 俺はもう大丈夫だ。 山の向こう側が見えた気がする。 詰まらん事はもう考えないし、なんだか、気分も良くなったし、いつまでも世話になるつもりも無いし…… 明日、お前の出勤時間で、一緒に部屋を出て家に帰るよ」
「……いいのか?」
「あぁ、大丈夫。 大丈夫だ」
「……辛くなったら、いつでも来ていいぞ」
「すまん。 有難い…… ところで、本当に飛んでいるのか?」
「あぁ。 飛んでいる。 ぼくは、空を飛ぶのが好きなんだ」
「へぇ…… 知らなかった」
「まぁ、そうだろうな。 いずれは…… と、思っていたが、案外…… 思っていたより、早く飛べるようになったしな。 動画……、撮ってある。 見るかい?」
「ええぇ? 動画が有るのか? 見たい、見たい!」
笑いながらアイツは、ノーパソを開けて動画ファイルを指定して映してくれた。 アイツでは無い人が次々と大地を蹴り空を飛ぶ姿。 色んな装備を身に着けたアイツが、なんか点検している姿。 アイツのヘルメットに付けたレコーダーで写した 『 飛び立つ 』 瞬間。 きっとこの画面はアイツの見ている情景と同じモノ。
何処までも、何処までも続く、青い空……
ハッ、ハッ、という、アイツの息遣い。
めったに聞けない、アイツの笑い声……
なんだ…… なんだ…… なんだ、これはッ!!! めっちゃ楽しそう!!! うわぁぁぁぁ!!
子供のような歓声を上げて、その動画を食い入るように見つめていた。 重力を振り切って、空を闊歩するアイツ…… それは、俺にも理解できる事柄。 アイツは、何にも増して、この空の時間を大切にしている。 それが…… 手に取るように理解できた。
俺が此処に居るせいで、アイツからこの時間を奪うのか? グゥゥゥ…… 出来ねぇ…… 邪魔出来ねぇ…… 絶対に、絶対にだ。
「良いもん見せてもらった」
あらかたの動画を再生したアイツにそう礼を云う。 なんだか、俺の心が、清められた気がした。 アイツの横で、自分まで飛んだ気がした。 俺の眼に映し出された景色は、決して、二度と、忘れる事が無い景色になる。 あぁ、そうなるな……
にこやかに笑いながら、アイツは赤いノーパソを閉じる。
「気が晴れたか?」
「途轍もなく。 また、動画が溜まったら、見せてくれ」
「お安い御用」
握り拳をぶつけ合い、挨拶を交わす。 どん底な気分の俺を、とんでもない高みまで引き上げてくれた。 俺が味わった、些細な人生の一齣が、霞んで、千切れて、あのノーパソの画面に映った『青い空』に、霧と化し、散って、消えていった……
次の日、俺はアイツのアパートをアイツと一緒に出た。 作業着姿で、メットを被って、原付に乗るアイツの隣。 差し出した右手をアイツはガッチリと握る。
「またな、幼馴染」
「あぁ、またな、幼馴染」
救われた俺は、もう一度自分の人生を考える岐路に立ったといえる。 漠然とした未来を…… これから、どうやって生きて行くのかを…… 考えてみる事にしたんだ。
―――― § ―――― § ――――
其処から、俺の生活は一変する。
真剣に将来を考える様に成った。 運動系のサークルも抜けた。 大学の授業に真剣に取り組むようになった。 うざったく纏わりついていた『彼女』も、何かを悟ったように、そのうち姿を見せなくなった。
―――― 全く相手にしていなかったからな。
そんなこんなで、大学生活は自身のスキルアップに専念する事になった。 興味があった世界だから、そこからはのめり込んで、いろんな資格も取った。 それが、就職に有利に働くと、そんな打算もあってな。 弟は、そんな俺を見て、何かを感じたのか、それまで引き籠っていた部屋から出る様になって、やっとこ高校に通うように成った。
アイツの妹は、バンド活動にのめり込んでいたが、そこそこにはヤルみたいだ。 芸能事務所から、スカウトが来ていると、自慢気に弟に家の前で立ち話をしている処に出くわした事もあった。 なんでも、アイドル系の事務所なんだそうだ。
アイツなら…… どう云うか…… ちょっと、想像してから、口にするのは、
「精一杯、やりたい事をやるのがいいんじゃないか? 後から後悔するのは、とても残念な事だから」
なんて、云ったりもした。 成功するか、失敗するかは判らない。 それは、妹ちゃんが、覚悟を決めてするべき事。 それでも、にっちもさっちもいかなくなれば、そこで手を差し伸べる方が良い気がしたからな。
弟は、高校卒業後の進路として、美術大学かCG系統の専門学校に行きたいと云うんだ。 まぁ、そうなるかな。 でな、お兄ちゃんとしては、美術大学への進学をお勧めしたいのだけども、まぁ、難関なんだわ。 ちゃんと学んで、卒業出来たら、学芸員の資格も取得できるし、そっち系統の職に就く事も可能だ。 きちんと自分の足で立てるようになれば、お兄ちゃんとしても嬉しい。
けど、それも難しいと知っている。 判っちゃいる。 無茶苦茶に難しいって事も……
入学の基準もあんまりわからんし、なによりも、真剣にやって来た人達が、何浪もするんだ。 弟のメンタル的に大丈夫かと、ちょっと心配になったのも、無理からぬことだと思うんだ。
CG系の専門学校なら、なんとかなるかな。 高校卒業の資格さえあれば、後はどうにでもなりそうだし…… 就職は厳しいかもしれん。 お兄ちゃんとしては、そんな弟の背中を押してやりたいとも思うし…… 俺がしっかりとした所に就職すれば、一人くらい養うのはどうにでもなるしな。
まぁ、そんなこんなで、俺は自身の就職先を探したのさ。
有名所のシステム屋に内定をもらう事が出来た。 大学の勉強を頑張ったから、まぁ、何とかな。 教授の推薦もあったらしいんだ。 研究室で教授にその事に付いて礼を云ったら、
「まぁ、やりたい事をすればいいよ。 別にあの会社だけが、君の進む道じゃ無い。 現時点では、一番の場所だがね。 お金を貯めて、やりたい事を見つけるのもいいさ。 君には様々な可能性がある。 優秀な生徒には、便宜を図るのは、教師としては嬉しい事だからね」
と、途轍もない笑顔で仰るんだ。 この教授に付いてきて、本当に良かったと思う。 学生達の間では『厳しい』と評判の教授だったんだが、俺にとっては、最高の先生だったよ。 紡がれた 『 縁 』は、とても大切なものだと、この時、確信したね。
――― 晴れて、大学を卒業して、社会人一年生。
充実して、幾つも叱られて、凹んで、立ち直って…… 挫折もしたし、時間の制限の中で最高のモノを作り上げる経験もした。 経験を積んで、やがて、チームリーダーを拝命した。 本当に充実していたんだ。
アイツとは、付かず離れず。 あっちも、多少は気にしてくれていたらしい。 俺がちゃんと立ち直ったのか、妹ちゃんに聞いていたらしい。 まぁ、な。 ちょっと気恥ずかしい事でもあるけど、正直有難かった。 何度か、晩飯を誘って、あの時の様に鍋を囲む事もあった。
弟は、CG系の専門学校に入った。 美大はさすがに無理だと、そう判断したらしいな。 まぁ、妥当だなと思う。 変な奴らに絡まれるよりも、得意な事を突き詰める方が、何倍もマシだし…… 弟の描くイラストも、その界隈では結構好評を得ているとかなんとか……
まぁ、周囲もそんな感じ。 俺も、そんな感じ…… 平和だったな。
――― § ―――
転機は何時だって、突然やって来る。 チームリーダーを拝命してから、何度かのプロジェクトを経て、ちょっと大きめのプロジェクトに参加中。 その頃になると、ほぼプロジェクトディレクター補佐の位置に居た俺。
問題だったのは、プロジェクトディレクターが、紐付きの人。 傍若無人にして、唯我独尊な人。 更に、女性関連でも問題の多い人。 なんで、この人がディレクターなんぞに就任しているのか、社内でも七不思議の一つに数えられている。
まぁ、有力な取引先の取締役の御子息って云うのは、一番有力なんだけどね。 で、なんで、俺が補佐に付いているのかと云うと、社内で俺の評価が結構 『ヤル奴』 って事だったらしい。 『 使える奴 』で無い所が、結構悲しいが、それは人脈と云う点に於いてだったらしいな。
同期の奴が云うんだ。 もっと、人脈を広げておけって。 なにかあっても、庇ってくれる人が居ないと、それこそ詰まらん所で、詰め腹を切らされるぞって……
――― それが、現実になった。
そのディレクターがやらかした。 システムの根幹部分に、後から、後から、色んな注文を付けて、本来その人がする業務は俺に丸投げ。 その人が、何処からか仕入れて来た、コンペの競合他社の動向が、もろにプロジェクトの行く先に影響を与えてくる。 新しい機能を実装しただの、セキュリティーに別のベンダーのシステムを配備しているだの……
会社の上役達に良い顔をしたいのか、それとも、上役との繋がりが強いのか、その人の云う事はなんでも通ってしまう。 そして、その結果、俺は家に帰る事もままならない状態に追い込まれる。 プロジェクトも終盤になって、毎日がデスマーチ状態な時に…… 本当にやらかしてくれたんだ、あの御仁はッ!
プロジェクト業務に滅茶苦茶な混乱を起こしてはいたが、まぁ、それも…… コンペを勝ち抜くには、必要な事かもしれん。 けどな、アレは無い。 本当に無い。 ヤラカシの内容が酷かった。
女関係には、問題が在る人なんだが、どうやら、ハニトラに引っ掛かったらしい。 業務上、データやらプログラムやらは、社外に持ち出す事は出来ない仕様になっているんだが、社内の業務サーバのセキュリティーが割られた。 別のプロジェクトに取り組んでいた同僚が、何度か俺に注意喚起をしていたんだ。 どうも、同業他社に、こっちの開発内容が漏れている形跡が有ると。
俺も、同僚の言葉が気になって、ちょくちょくシステム監視をしていた。 けど、何処にもそんな兆候は無いんだ。 同僚の『カン』も、曇ったかと、そう思い始めていたんだ。
実際は違った。
割られて…… いや、割られたと云うよりも、正規の承認コードを通過して、堂々と入り込まれれいた、と云うべきだろうな。 なにせ、そのコードはあの人のモノで…… 競合他社に俺達のプログラム資産がマルっと監視されている状況なんだよ。 手の内が判ってる相手なんだから、相手だってやり易いよな。
それが、判ったのは、その人が発狂したから。 セキュリティーコードを奪取していたのが、その人の彼女さんだそうだ。 結婚も視野に入れていた人だったそうな。 思わず変な笑いが出た。 女絡みになると、本当に無能に成るからな、あの人。 その他の面では、まぁ、普通にヤル人だから、コレがどれだけのコトなのかは、理解できる頭はあったみたいだ。
――― 結局、そのプロジェクトはポシャった。
まぁ、そうなるよな。 こっちのデータはあっちに筒抜け。 そして、あっちからのミスディレクションは、こっちのディレクター様が、マルっと採用してたんだから。 呆れ果てて言葉も無かった。 彼女さんに『タネばらしされた』その人が、盛大に発狂したのは、仕方ないと思うよ。
思うんだけど、なんで、そのとばっちりが俺に来るんだ?
携わっていた社員やら外注さん達は、なんも悪くないから、お咎めなし。 それは、判る。 やらかしたご本人は、既に精神的に廃人状態だし、有力な『お得意さま』の御子息だから、まぁ、そのまま…… 精神的にとても業務を続けていられないと”お医者様 ”から判断されて、なんと『ご入院』。 つまりは、こちらもお咎め出来ないんだ。
会社としては、プロジェクトがポシャった原因は掴んではいるが、その責任を何処に持って行くかが問題になった。 嫌な予感がした。 まぁ、そりゃそうなるか…… プロジェクトの次席は俺だから。 同期が云っていた『人脈』を、俺は作れていなかったって所か。
まぁ、仕方ない……
仕方ないが…… 釈然としない。 終わったプロジェクトメンバーの辞令は、プロジェクトの解散が決定した翌週に発令される。 開発部から、システムメンテ部門の末端に移動。 現場対応の即応部署に、籍が『移動』となったんだ。
会社的に云えば、懲罰人事。 株主さん達へのアピールでもある。 総額としては、約二億くらいの損害が出たらしい。 損害金額の算定に相当時間が掛ったみたいだ。 そんな損害を与えたプロジェクト失敗の責任を取らねば成らない人は、既に入院中。 で、次席の俺にその御鉢が回って来た。
えぇ~ 俺の責任なのぉ~
上司やら、同期やら、部下やらに相当に慰められた。 『リーダーは悪くありません!』 なんて、泣いてくれる奴も居た。 けど、社の方針ならば、従わないといけないし、宮仕えならば、飲み込むしかない。 幸い…… 職位はそうは下がらなかった。 つまりは、貰える給料は前のまま…… らしい。
見た目の『罪』を被ってくれるのならば、給料面では不利にしない。 そう、会社に云われた感じだった。 俺が我慢できるなら、会社に残っても良いと云われたのと同義。
変な笑いが出た。
だってな、現場の即応部署って云っても、やる事はあんまりない。 トラブルが出た場所に出向いて、現地での修復なり、リモートでの修復って云うのが、主な業務なる。
でもな、この会社のメンテナンス部門はもともと小規模だったりもする。 それ専門の子会社もあるし、そんな会社と連携していて、本当に滅茶苦茶に成った時にしか、此方には声が掛からないからな。
つまりは、社内でも、マジもんの閑職。 別名、『退職準備部屋』なんだからな。
そこで、俺は何もする事が無いまま、お世話になる事にした。 給料は出る。 仕事は無い。 ただ、ただ、連絡が入るのを待つだけの部署。 普通の神経していたら、まず持たない場所だったんだがね。
―――― 大学の時に、人に対する挫折を乗り越えていなきゃ、きっと絶望していたな。
デスマーチ続きの俺は、十分に英気を養う時間となったのは、きっと会社の思惑とは違うだろうな。 俺に対して『馘首』を言い渡す事は出来ない会社の処置だから、俺から退職願を出さない限り、追い出したりは出来ないし。
それに、此処に配属される奴は、なにかしらやらかした奴ばっかりだから、とばっちりを受けた俺がのうのうと暮らしたところで、社内的な評判がどうのこうのは、最初から問題外。
暇だし、有給は取り放題だから、仕事以外の事に目を向ける事が出来る様に成った。
無茶苦茶に忙しい毎日から、メタクソに暇な毎日。 会社に私物のノーパソをこっそり持ち込んで、ネットサーフィンしたり、サイト巡りで時間を潰した。 そんな事すら許されるような、九時五時の優雅な暮らしなんだ。
残念ではあるが、給料は最初の約束が反故にされて、ちょびっと下がった。 賞与もそれなりにしか出ない。 そりゃ、仕事してねぇもん、仕方ねぇよなぁ。
でも、まぁ、なにも仕事をしない今なら、給料を貰えるだけでも有難いしな。
そんで、銀行にある俺の金。 結構溜まっているんだな、これが。 忙しすぎて、使う暇が無いって云うのが実情だったしな。 ずっと、実家住まいってのもある。 貰える給料で、十分に満足な気がしてた。
個人的な事でも、ちょっとあった。 まぁ、俺も「お年頃」ってやつで、付き合っていた彼女がいたんだ。 会社の取引先の受付の人。 前に取り組んだプロジェクトのクライアントの会社の人なんだよ。 いい感じで、結婚も視野に入れていて、周囲にも薄っすらではあるけれど、紹介していた。
あちらの御両親とも会っていて、まぁ無難な感じでのお付き合い。 アイツにも、一応は報告した。 ほら、大学時代の時の『例の件』でも世話になったし、立ち直ったと思ってほしかったらな。
でも、俺がこの度のプロジェクトの失敗を受け、会社から『尻拭い人身御供 人事』って事で、半分リストラみたいなトンデモナイ部署へ左遷される事を報告したら… ね。
彼方での家族会議の結果は、まぁ、婚約状態は解消に持って行こうって事。
「お付き合い」はこれ以上、続けることは出来ないってね。 まぁ、そうなるかな。 待ち合わせの、喫茶店の奥のボックス席で、一応は申し訳なさそうな顔をした彼女に、そんな感じの事を切り出された。
不思議と衝撃は無かった。 社会人になって、自分の心情より、周りの心の動きを読み、空気感を感じる感性を身に着けたお陰かもしれないな。 まぁ、同僚がその前に、あちらの会社の給湯室での「噂話」を、先に知らせてくれたからかもしれれない。
” 左遷部屋なんかに居るんじゃ、この先どうなるかわからないもの。 沈む船からは、ネズミだって逃げるわよ。 苦労するのが分かっていて、結婚なんてできないわ ”
まぁ、そうだろうね。 ところで、同僚よ。 どうやって、その「噂話」を仕入れたんだ? お前、俺の事… 嫌いだろ? ニヤニヤ笑う同僚に、そう問い詰めたら、えらく焦って、必死で否定してたのには、ちょっと引きつつ、苦笑いが浮かんだ。
そんな同僚の気遣いの賜物か、彼女との別れ話は、修羅場とはならず、お互い承知の上で、「お別れ」する事になった。
―――― まぁ、嫌な事件だったよ。
『根回し』していた各所に、” 結婚は無くなった。 彼女とも別れた。 ”と、お知らせしておくのは、社会人の嗜みともいえるから、俺もソレに従った。 アノ噂話を教えてくれた同僚に対する、ちょっとした,意趣返しの意味も込めといたよ、もちろん。
で、アイツから珍しく、音声電話での『お誘』いが来た。
「……た、大変だったな。 そ、そうだ。 肉… 肉,喰いに行こう」
「おう。 割り勘でな」
「えっ? あ、あぁ… 判った。 割り勘で」
「旨い所、教えてくれ」
「ぼくの知っているところって、そんな高級店じゃないぞ?」
「旨いんだろ? そこでいい。 たらふく食おう」
「あぁ…… 判った」
待ち合わせをして、行きつく先は、チェーン店だけど、旨いと評判のしゃぶしゃぶ店だった。
それはもう沢山喰った。 諭吉さんが何人も旅立たれた。 悪い事したかな? まぁ、アイツもにこにこ肉を喰っていたから、大丈夫か……
ちょっと、気が抜けた。 アイツの笑顔を見て、肩の力が抜けた。 連絡してきてくれて、一緒に飯を食えたことは、俺にとっては、ある種の救いになったのかもしれないな。 肩の力が抜けて、正直凹んでいた気分もだいぶ持ち直した。
ぼんやりと過ごしていたが、家族の方でもちょっとした変化があった。
――― § ―――
弟が詐欺被害にあった。 まぁ、『お仕事』として受けたCGイラストをクライアントに送った後、あちら側からの入金が無くって、調べてみたら、ほとんどダミー。 で、しばらくすると、弟の描いた数十枚の絵が、とあるコンシューマーゲームのイメージボートに乗せられていたって事。
相手は大手のゲーム会社。 抗議のメールを送っても、あちらの『法務部』辺りが出張って、そういった遣り取りに「何の知識も無い」弟が、反対にやり込められる始末。
向こうから、「訴訟の準備に入ります」とか、なんとか言われて、自分の意志を曲げた。 あちらも、これ以上の厄介事に発展する事を嫌がったのか、まぁ、トンデモナイ示談書を送り付けられたらしい。
弟が描いたCGイラストに関して、弟が『なにも文句は言わない』って事を、示談書って形で約束させられ、破ったら多額の損害賠償を支払うって事になってたんだ。
なんで、俺に相談しなかった! 手なら色々とあったのに!
そん時の俺は、色々と厄介ごとに巻き込まれていて、言い出せなかったんだと…… 兄ちゃん、悲しいよ。 で、弟は、凹んで、凹んで…… まぁ、元の引き籠りに逆戻り。
――― もう一つ。
アイツの妹ちゃんも、ちょっとしたトラブルに巻き込まれていた。 頑張っていた妹ちゃん。 とある芸能事務所に所属して、アイドル…… いや、地下アイドルとして、その界隈には人気が出初めていたんだ。
いい事なんだけど、アノ世界ってやっかみとかが酷い。 誰かが妬んだのか、何処からともなくトンデモナイ爆弾が投入。 同じグループのメンバーの『やらかし』が、暴露されちまった。 ゲテモノ週刊誌のネタになった。
――― お定まりの喫煙飲酒、アレな流出画像。
はぁぁぁ。 同じグループのメンバーって事で、ファンもあっさりと見限った。 同じ事やってんじゃないかって眼は、妹ちゃんを追い詰める。 その上、あっさりと、そのグループは事務所から見放された。 頑張っていた妹ちゃんも又、凹む、凹む……
「我が家」と「お隣さん」を襲った、理不尽な世間の悪意と荒波に俺たちは翻弄されたんだよ。
まぁ、そんな所。 父さんや、母さんは俺たちを心配してくれた。 お隣のおじさんも、おばさんも、相当に心配していた。 それぞれの子供達の事をな。
アイツは、しばしば実家に帰ってきて、妹ちゃんを元気づけようとしていたけど、まぁ、それもままならないし、俺も、弟を元気づけようとしたんだけど、こっちもな……
幸い両親は健在で、真面目に実直に生きていてくれている。 あっちの両親もそうだった。 この上、父さん、母さんが、リストラされたら、目も当てられない。
でも、まぁ、世間の悪意は、そこまで追い詰めてこなかった。 一応、父さんや母さんの勤めている会社は、堅実な経営をしているらしいし、それなりの役職で勤めているから、安泰と云えば安泰。 だが、子供がこれじゃぁね。
――― 環境を変えるべきかもしれない。
そう云う結論に至るのは、俺。 きっとアイツも。 ある日の深夜、アイツからラインで会いたいと、そう連絡が来た。 一も二も無く同意して、家じゃなんだから、近くのファミレスで待ち合わせた。
安くておいしい、イタリア料理を出すあの店さ。
待ち合わせの後、店内で合流。 ちょっと深刻そうな表情を浮かべた、作業着姿のアイツと席に着く。 気分が落ち込んだ時には、喰って寝ればいいんだろ?
盛大に注文したよ。
美味しいかったし、珍しくアルコール…… ワインも飲んだ。 そう、俺もアイツも。 子供の頃の話や、やらかした事、会社での愚痴、その他諸々…… 喰って、馬鹿話して、気分を変える。 やってらんねぇ…… って、二人で言い合ったんだ。 世間話も話題が尽きた…… そして、俺は提案する。
「変な話…… 『環境』を変えるか」
「同意するけど、どうやって?」
「いや…… そうだな…… 今、俺、そこそこ小金持ちなんだ。 中古の家を買えるくらいは有る。 勿論、大きな奴は無理だが、そこそこの物件なら、大丈夫。 でな……」
「ふんふん」
「弟にアトリエを作ってやりたい。 それを商売に出来るなら、俺の知り合いの『法律』で飯食っている奴に、顧問になってくれるように、お願いもする」
「ほうほう…… で、お前は?」
「俺は、暫く飼い殺しのままで今の会社にシガミツク。 名の通っている会社だから、銀行関係もすんなり通る」
「で?」
「そこに、もう一つ。 スタジオを作って、妹ちゃんにどうかと思って」
「…………妹自身でセルフプロデュースするって事か?」
「知っての通り、今の芸能界も相当に厳しい。 大手のプロダクションだって、安泰とは言えない。 みそ付いたアイドルには、舞台なんか回ってこない。 そこでな、お前も知っての通り、V‐Tuberなんてモノがある。 俺はシステム屋だ。 弟はCGイラストの専門家。 V‐Tuberで、『必要』なモノなんかは、弟の独壇場だったりもする。 聞いたら、わりと簡単に揃える事が出来るらしい。 ついでに法律で喰っている俺の友人に、弟と同じように、顧問になって貰う事も可能だ」
「成程…… それでも、あの子たち…… それで、生活できるのか?」
「判らん。 判らんよ。 けど、家と初期費用は、俺が如何にかする。 弟や妹ちゃんが、稼げるかもしれない。 それまでの、アイツらの、面倒を見る事は…… 俺だけの収入じゃ、ちょっとしんどいかもしれんが……」
「お前の…… 云わんとする事はなんとなく判った。 けど、ぼくだって、そうは余裕は無い」
「判っているさ。 けど、もう一部屋作るなら、どうだ? 今のアパートの賃貸料も結構バカに成らん出費だろ?」
「…………考えさせて。 あぁ、ぼくについてだけだ。 妹に関しては、此方からお願いしたい」
「硬く考えんでくれよ。 『傷』持つ奴らが一か所に集まって、世間様に、一泡吹かせようってだけだ」
「ハハハ、お前らしい。 ……両親には、それとなく伝えるよ。 お前の所も、そうだろ」
「あぁ。 取り敢えずは、そう云う事にしておいて。 まぁ、俺の範囲内で出来る事だけはするつもりだから」
「ありがとう…… 妹を助けてくれる道筋を考えてくれて」
「いや、俺も弟を助けたいだけなんだよ。 あのまま引き籠って、世間と隔絶した生活を送ったら、本当に、どうしようもなくなる。 親だって、いつまでも生きているわけじゃない。 生きて行くって云う、気持ちを持って貰いたいだけなんだ。 弟は優しすぎるし、感情のコントロールが自分でも出来なくなるらしい。 だから、しっかりと傍に居てやりたいだけなんだよ」
「いい、お兄ちゃんだね、お前は。 そうか、わかった」
チンと、ワイングラスを重ね合わせ、お互いに顔を突き合わせて、笑う。 出来るか出来ないかはこの際どうでもいい。 挑戦するのは、気持ちが有ればそれでいい。 実現できるかどうか、その資金面はどうするか、そんな事は、走り出してから気にすればいい。 そう言えるだけの資産は、貯金でどうにかなる。
俺達は、笑っている弟妹の未来の姿が見たいだけ。 そんな思いが、突き動かしたのもある。 勿論、其処には、自分のキャリアが無茶苦茶に成っているっていう、現実もあるからかもしれない。 だけど、俺は絶望はしない。
だって、生きてるんだから。
――― § ――― § ―――
家探しは、そんなに難航しなかった。 と云うのも、予算と立地は確定しているから。 築年数も不問。 アイツの職場から、原付バイクで通える場所ならどこでもいい。 今、アイツが住んでいるアパートと、職場までの距離の内側なら、それで大丈夫。 つまり、アイツの職場を中心に七キロぐらい。
次に、大きな音を出しても、そんなに迷惑に成らない場所。 これは必須。 防音工事とかメンドウだし、スタジオっていっても、そんなに大きな物は必要ないしな。 ただ、唄を歌うんなら、結構大きな音がするから、ご近所からとやかく言われるのは問題がある。 ココ重要。
更に云えば、別に学校に近いとか、病院に近いとか必要ない。 基本、弟妹は学校を卒業していて、家から出ないからな。 駐車場だって、俺の買った中古車、一台置ければいいだけだし。
条件はゆるゆるで検索。
何件かヒット。 そのヒットした物件を持っている不動産屋さんに出向いて、お話を聞く。 まぁ、隠し持っている特別なヤツなんかを、出してくれる感じの所がいいな。 流石に業務中には、そんな事は出来ない。 でもまぁ、途轍もなく暇だから、有給を取ったり、土日に時間を使って不動産屋さんを巡ったりしてた。
結果、割と『いい物件』が、見つかった。 築年数は、まさかの十五年。 近くに墓地があり、さらに堤防の近く。 周囲は田んぼ。 バスは通っているが、まぁ、田舎のバス路線の様に、疎らなスケジュール。 駅までは遠く、徒歩圏内にはスーパーは無いが、コンビニは有る。
典型的な、農家の離れ。 前のオーナーが、その家を手放した理由も聞いた。 後継者難と云う事で、農家の家の人が、息子夫婦にって建てたらしい。 昨今の結婚事情を見て、大きな本宅に同居という訳にはいかないと、その家を建てたわけだ。
でも、その家の息子さんは都会のマンション住まい。 なんでも、一生懸命努力して、いい学校を出て、大手の企業に就職しちゃったらしい。 親戚もなんだかんだで、後継者が居らず、ずっと空き家。 自分達も年を取り、農業もしんどいと、田畑は親戚に任せ、本宅で隠居したんだと。
本宅と離れて建っているその家は、そこん家の奥さんが、見るのも嫌だと言ったんだと。 まぁ、そうだよね。 その気持ちは理解できる。 それで、隠居の費用にするからと、売りに出したらしい。 不動産屋さんに対して、売る相手がしっかりしてて、せっかく建てた家が可哀そうだから、長く住む若い人がいい事と、隠居の費用にするから現金一括購入が出来る人に売って欲しいと、要望が有ったんだと。
――― 難しいよね。 本来なら。
交通の便、立地、学校の件、うん、まず普通の人なら無理。 半分田舎暮らしをする感じじゃないと。 前のオーナーさんの意向と、建物の立地から、『老後の隠れ家』には、不向き。 あまりにも周辺環境が整っていない為、若い人にも不向き。
――― で、俺が手を上げた訳よ。
そんな物件だから、実際、購入金額は、相当にお買い得。 俺の貯金で賄えるし、結構割安感が有るんだ。 予算の内側で、結構余る感じだしね。 その上、築十五年。 綺麗で新しいんだ。 人が棲んでいなかったから、生活感は皆無。 『今の人向け』って事で、防音で気密度もかなり高いし、なにより上下水道は公共の本管に繋がって、ガスも特例処置とか何とかで、都市ガスが繋がっている。
後は、ネット契約だけど、なんと近くに高圧電線が通っている都合上、ケーブルテレビが最初から繋がっている。 その会社に問い合わせたところ、テレビとネットの契約をネット契約代金のみで繋げてくれるそう。
なんだか、神様がここを使えって、用意してくれたみたいな物件だった。 まぁ、即契約って訳には行かない。 最初に弟を部屋から引きずり出して、その物件を見せる。 かなり良い感触だった。 次に、アイツと妹ちゃんに連絡を取って、様子見。 内覧って事で、不動産屋さんの担当者さんと一緒に行って、確認してもらった。
土地付き、庭付き、5LDK一戸建て。 築十五年。 周りは閑静…… というか、ド田舎。 どうかな?
「あの予算で?」
「あの予算で」
「マジで……」
「マジで。 少し余裕もある」
「凄いね。 ぼくには、こんな『物件』、見つけられないよ」
「暇だったから、足を使ってね」
「そうなのか……」
「そうだよ」
「凄いね…… 全く、お前って奴は……」
「有難く、頂戴するよ、その言葉」
同意は取れたって事で、契約に進む。 まぁ、会社員やってれば、契約の一つや二つ、見た事も聞いたことも、やった事さえある。 問題なく、土地を含めてその家は、我が家って奴に成ったんだ。
会社にも伝えた。
何時もネットで何かを読んでいる元上長は、提出した書類を一瞥しただけ。 それから、少々厄介なクライアントを俺に振って来ただけ。 まぁ、根幹システムのエンジニアやってたから、多少のトラブルはどうにでもなるし、それに、通常業務はその筋の専門家がやっているんだ。 大きく問題が発生した時に、こっちに振ってくるだけだから、そうは仕事は増えない。
給料を貰っている分は、働かないとな。
引っ越しは、三人ほぼ同時。 弟は、部屋に有ったもの全部移動させるだけ。 妹ちゃんは、色んな楽器やらシンセやら、フェイダーやら、PCやら、結構大荷物だったな。
アイツは、そうでもない。 キッチン回りのモノなんかは、アイツのアパートからそのまま持って来たモノで事足りた。
四人分のベットやら本棚やら、大きい奴を持ち込むのは、引っ越し屋さんに頼んだ。 細々した物は、自分たちで運んだしな。
家は二階建て。 5LDKの中古とは云え、『豪華なお家』。 色々と考えて建てられていて、ほとんど改装することも無く、入居する事が出来た。 全く、本当に、神様っているもんだな……
なんて、俺自身が、しみじみと思った位だ。
それぞれに好きな事を仕事に出来る様に、目標を立てよう! そんな事を言い合って、結構、和気藹々と、最初の夜を迎えたんだ。
勿論、アイツの手料理。 まぁ、俺も弟も妹ちゃんも、炊事は得意じゃない。 なにせ、実家暮らしの上、両親共働きって境遇で、冷凍食品とコンビニ弁当がほぼデフォな感じだったしな。 だから、アイツにお任せ状態。 これじゃいかんって事で、洗濯は弟と妹ちゃんの役目。 共用部分と空き部屋と庭の掃除は俺の役目。 アイツめ、トイレ、風呂掃除も含みやがった……
そんな役割分担を、四人でして、飯も食い終わり、妹ちゃんはお風呂。 弟は部屋に戻った。 俺とアイツはリビングで、弟妹には聞かせられない部分の話を続ける。 そう、生活費の件。 まぁ、俺の給料がメインに成るのは、仕方ない。 そこにアイツのアパートの賃貸料程のお金も合算されて、一応成り立つかな……
「ここまでしてもらって、いいのか? ぼくだけだったら、絶対に無理だ」
「良いぜ。 コレはもう、繋がった『縁』って事だろ。 もともと、兄弟姉妹同様に暮らして来たんだ。 皆で四人の兄弟姉妹の感じでいいんじゃないか?」
「……そうか。 でもな、一つだけ…… 一つだけ、ちゃんとしておきたい事が有る」
「なんだ?」
「お前が…… 誰か『良い人』が出来て、結婚するとなる時に、この家の環境は解消される…… と云う事」
「『良い人』ねぇ…… 俺が会社にしがみ付いている限り、そんな事は起こりっこないけどな。 まぁ、不安に成る気持ちもわかる。 でも、俺は弟を放り出したりはしない。 兄弟姉妹も一緒だよ。 さっきも云ったろ、俺達は四兄弟姉妹なんだって。 まぁ、その時なれば、そん時だと思っている」
「お前の気持ちは…… 良く判らないけど、やっぱり、あの時の事が?」
「…………無いと云えば嘘になる。 けど、それだけじゃ無いと、はっきり言いきれる。 今は、そこまでしか言えない。 お前が高校生の時に言っていた、『不確定な未来を、今の条件だけで語るな』って事。 カーストトップの奴にブチ噛ました、お前の正論だよ」
「覚えていたの…… ぼくの言葉」
「あぁ。 聞いた奴、それを噂にした奴、伝えた奴。 みんなあの言葉が刺さったらしい。 ちなみに俺もだが」
「そうなの……か」
「あぁ、そうだ。 だから、今、現状は、心配するなとしか言えないな」
「判った。 ……今後とも宜しく」
「こちらこそ……な」
そう、アイツとはどうにも波長が合うらしい。 だから、アイツも聞かなくちゃならない事を、ちゃんと聞いてくる。 俺は、そんなアイツに好感を憶えるんだ。 あぁ、昔からの幼馴染は、俺の事もちゃんと判っているんだな、って感じている。
そんな、新しい生活が始まったんだ。
――― § ――― § ―――
会社の同僚とか、関係の有る会社の知人とか、俺に関係している人に、尋ねたり、協力を申し出たり、対価を決めて、仕事として受けて貰ったり…… 色々と考えて、動いた結果、俺達四人で小さな事務所を設立する事になった。
妹ちゃんは、地下アイドルやっていた関係上、あまり顔出しして大々的に何かをするって事が出来ないから、俺達の事務所所属のV‐Tuberになった。 『唄い手』として、活動するらしい。 前の事務所を引退する…… と云うか退所する時に、俺がお願いした弁護士同伴であちらに出向き、見事『契約解除』をもぎ取った。
まぁ、以前の芸名での活動は禁止されたが、それは想定内。 心機一転、完全ソロでやる気になっている妹ちゃんには、全く問題では無かったからな。 それに、色んな負債を押し付けられることも無かった。 弁護士同伴って事で、あちらがビビッて綺麗に契約が切れた。 なんでもレッスン料とか、衣装代とか、箱代なんてモノを請求される事もあるそうだ。
まぁ、そんな事にならなくて良かった。
で、V‐Tuberとして活動するのに、アバターを作んなきゃなんないけど、それは弟に一任、丸投げ。 結構時間を掛けて 3Dモデルを作り上げて、さらに、モーションキャプチャー用に空き部屋に機材を設置して、『配信スタジオ』に変えやがった。
費用は、弟がコツコツと溜めていた、CGイラストの原稿料を当てたとそう云っていた。 力試しの要素もあるんだと。 まぁ、そっちの業界の事は判らんけど、こんなのが出来ます、あんなのも出来るんですって云うアピールは、個人事業主にとっては良い宣伝になるらしいからな。
美麗な3Dモデル。 妹ちゃんの動きや表情までトレース出来るモーションキャプチャー。 あとは、コンテンツ力だが、これは妹ちゃんの独壇場。 バンド活動にいそしんでいた頃、あの子はすでにオリジナル曲も書いていたらしい……
凄げぇぇ……
一人でやると決めた時に、既に『シンガーソングライター』の力も、持っていたって事。 バンドのメンバーが来れない時様に、PCで音源打ち込んで、それをメトロノーム代わりにしてたくらいだったらしい。 ソロで活動するんでも、楽曲も編曲も自分で出来て、さらに、それをPCへ手打ちして鳴らすそうなんだ。
言ってみれば、” この曲、全部俺 ”を地で行く様なもの。
ほんとに凄げぇぇぇ……
複数のSNSで活動を開始予告を出してたらしい。 予告も、弟が色々と手を出して、まぁ映画の予告編みたいな感じでネットの海に流したらしい。 いや、俺も見た。 出来上がりまでは、絶対に見せてくれなかった奴。 SNSで配信されて、俺もそれを見た。
勿論直ぐに、登録したよ。
CGだから、衣装代も掛からん。 大晦日の歌合戦のトリのような、もう『舞台装置』と云っていい様な衣装すら、時間さえ掛ければ作り上げる事も可能なんだと。 ステージとして用意する、バーチャル空間の中にな。 必要なのはデータを保持できる高速大容量のHDかSSDが有ればいいって、弟が誇らしげに言っていた。
更に云えば、空を飛ぶことだって、海の中に潜ることだって、問題なく安全に作り上げる事が出来るんだと。 試作品はもうすでに組みあがっているんだと。 やる気が漲ってるねぇ……
その為の、元と成るデータは必要なんだそうだけど、その辺は俺には判らん。 何処から持ってきたのか、誰から貰ったのか、それも知らん。 アイツからもらったらしい、空撮の動画もあったらしいが…… 判らん。 判らんが、楽しんで作成しているようだから、俺としては何の問題も無い。
半年間……
そうだ。 半年間の期間で作り上げた妹ちゃんのV‐Tuberの初回の配信は、大きな数字を見慣れていた俺でも、驚異的な数字としか言えなかった。 唖然として、呆然として、何より……
――― 妹ちゃんの唄声に魅了された。
結果は大成功と云える物だった。 後は、これを何処まで続けられるか。 如何に作品を作り続けて行けるのか、だけの問題。 弟と妹ちゃんが、自分達の力で、自分達の才能で、ついに稼ぎになるコンテンツを立ち上げたんだ。
嬉しかったね。
初回配信後、アイツは分厚いステーキを四枚買ってきて…… お祝いだと、そう云ってくれた。
「祝いと云えば肉だろ?」
「そうだな。 あぁ、そうだ。 肉、喰おう、肉を!」
ガテン系のアイツの頭の中は、本当に筋肉が詰まっていると、その時思ったね。 思ったけど、それも悪くないって…… いや、むしろその単純さが好ましいって…… そう、思ったんだ。
―――― § ―――― § ――――
そうこうしている内に、数年の時が過ぎていく。 妹ちゃんのチャンネルの登録者数は国内、国外を合わせ、130万人を超えた。 弟にもCGイラストの『お仕事』が、途切れ無く入ってくるようになった。 機材も増え、リビングの片隅に三桁テラバイト級のサーバーまで、完備されるまでになった。 まぁ、構築したのは俺だけどね。
妹ちゃんの友達ってのが、スタジオ見学に来りした事もあった。 その子も地下アイドルやっていた経歴の持ち主。 ついでに、作曲も出来るらしい。 で、妹ちゃんは何を思ったのか、その子も俺達の事務所に入れようと言い出した。
――― いや、待て。
他人様の人生が掛かっているんだ。 ハイそうですか、とは行かない。 そこは社会経験が豊富な、俺が 『 常識 』という物を教え込んだ。 かなり、危ない話もした。 それでも、やりたいと、その子は云うから、ガチガチの契約書を、お願いしている弁護士さんに頼んで作って貰った。 利益保証は無し。 守秘義務てんこ盛り。
普通の人なら、この契約書を見れば、やめるよ……
水物の世界だから、確証なんて在りはしない。 だけど、やるからには、相当に根性を決めて貰わなくては成らない。 アバターも弟が作るんなら、相応の対価を出さなきゃならんし……
その分は、やると決めた本人が出すようにも取り決めを作った。 まぁ、事務所に入ったとしても、そのアバターは彼女のモノになるのだから、やめた時も持って行けるんだけどね。
守秘義務やら、権利関係さえ守って居れば、やめた後でもそれを使う事も出来るんだ。 だから、個人資産で買い取りって事にしたんだ。 何もかも用意しなくては『出来ない』なら、やめた方がいい。
俺達の事務所は、芸能事務の本職じゃあるまいし、あっちの世界みたいにスカウトする事も無い。 個人事業主の集まりみたいなもんだからね…… 俺達の事務所は。 あぁ、弟と妹ちゃんは別。 だって、弟妹の為の事務所って事だったからね。 そこの所は、理解しておいて欲しいって、契約書にも記載した。
絶対に断ると思って、その契約書を見せた。 分厚いよ。 ほんとに。 持ち帰ってもらって、考える時間として、一週間後に合う事を約束した。
結果……
事務所に新しいV‐Tuberの仲間が出来た。 なんで、こうなった? あの子に対して、相当に不利になる事も書いてあったし、出来れば止めてもらう方向で作った、ガチガチの契約書だよ? マジで?
「うちには、もう、居場所が無いんです。 アバターの製作費用は、うちが今まで地下アイドルで稼いで、チマチマ貯めた全財産を使います。 プロの仕事は安くは無いのは知っています。 だけど、うちは歌いたい。 誰にも認めて貰えなかったけど、うちは歌いたいんです!」
熱意は有る。 決断力も有る。 歌唱力は妹ちゃんが太鼓判を押している。 作曲のセンスは、妹ちゃんによると、ちょっとノスタルジックな感じだけど、悪くないらしい。 編曲は妹ちゃんが相談して作り上げるから、今の妹ちゃんの楽曲と同程度の物は出来そう…… なんだそうだ。
はぁぁぁ…… 判ったよ。 判りました。 若さの押しで、一点突破みたいだった。 そんな俺達の遣り取りを聞いていたアイツは、朗らかに笑いながら、また豪勢な夕飯を作って呉れやがった。 仲間が増えた祝いだとさ。
やり方は判っていたから、準備は三か月。 そして、事務所二人目のV‐Tuberはデビューした。 初回配信も好評だった。 差別化の為に、しばらくはカバー曲を歌うらしい。 そのうち、オリジナルを歌うってさ……
――― § ―――
そして、俺の人生の三度目の転換点が訪れた。
その日、俺は何時もの通り、会社に出社。 社内掲示板に人だかりが出来ていた。 何かと思って、掲示板に近寄るって見ると、まぁそうなるかなって事が書いてある一枚の募集要項。
―――― 早期退職者の募集。
なんでも、かなりの赤字を二期連続で計上して、銀行さんからの天下りを受け入れたのが去年。 本年度に、早速のコレ。 技術屋の俺達に金勘定は出来ないと、乗り込んでこられた、銀行さんからの社外取締役からの、人員削減、人件費圧縮の至上命令。 そんな所だろうね。
多分…… 手を上げなかったら、痛い目に合いそう。 なにせ、リストラ部屋だからな、俺の勤め先。 ここ数年でしっかりと稼がせて貰った。 でもまぁ、ここらが潮時って事だね。 無駄飯は散々貪らせてもらった。
――― いいんじゃないか?
社とすれば…… 手を上げれば、割増の退職金も出してくれるし、なにより、行動に移さないと部署自体が消える可能性も有る。 そしたら、社外への出向命令が下って、何処に飛ばされるか判ったもんじゃない。 さらに言えば、今貰っている給料がそのままって事は絶対にない。 ミソが付いている会社員が、大事にしてもらえる筈も無い。
だったら…… ね。 判るよね。 って事。
俺と会社の間で、暗黙の了解が締結された気がしたね。 その日のうちに、さっさと人事部に出向いて、希望退職願いを提出したのさ。 人事課長の、” 判ってくれて嬉しいよ ” って感じの眼。 ずっしりと重い荷物が一つ、下ろされたって感じの眼だったな。 割増退職金も、経理に通ったらしいし、なんなら、ちょこっと色もついているらしい。
耳の速い、同期の仲間達から、『残念だ』とか、『辞めるのか』とか、ラインで入って来たけど、スマホに向かって、苦笑いを浮かべながら 『お世話になりました。 何かあったら、又、相談させてください』 って、返信しといた。 返信は、サムアップのスタンプ。 まぁ、アイツ等らしい。
大学の恩師にも、『色々あって、会社を辞める事に成りました。 申し訳御座いません』って、メールを打ったら……
” 君の事は忘れていない。 何か力に成れることが有れば遠慮なく連絡を入れなさい。 君の未来に幸運が有るように、祈っている ”
って、返信が来た。 有難い事にね。
あんまり関わらなかった、俺の直属の上司。 無視していた訳じゃないけど、あんまりソリが合わなかったから、『依願早期退職』が通ってから、彼に事の次第を報告した。 そしてたら、大きく溜息を吐かれた。
「君は根性もある。 一敗地にまみれても、いずれ上に戻れると。 ……そう思っていた。 残念だ」
ってね。 そんなに、評価してくれてたんだ。 ちょっと驚いた。 有難うございます。 お世話になりましたって口頭で伝えて、デスク周りの私物を片付けて、最後に一礼。
「上長も、お元気で」
「何か…… 困った事があったら、俺にでも連絡を入れる様に。 そうだ…… 会社支給の携帯は、持って行ってもいいよ。 どうせ員数外のシロモノだったから。 君が築いた人脈の全てがその中に入っているのだろ? 何もしてやれなかった上司からの、内緒の選別だ」
「……有難うございます。 でも、いいんですか?」
「どうせこの部署もリストラされる。 俺も何処に飛ばされるか判らん。 そうなってしまえば、携帯の一つや二つ無くなった事など、誰もわかりはせんよ。 内容を別機種に移し替えたら捨てたらいい。 俺自身、理不尽な詰め腹は、何度も切らされた。 これで、少し…… 溜飲が下がるから。 君は気にしなくていい」
「そうですか…… 判りました。 有難く頂きます」
「うむ…… 達者でな」
「長い間、有難うございました。 失礼いたします」
蛇の様なおっさんだったが、その顔に浮かぶ、妙に人懐っこい笑顔が、俺の記憶に焼き付いた。 まぁ…… あの人も大変なんだろうな…… 社屋を出る前に、社内一斉放送で人事部に呼び出された。 早速、人事部では俺の離職票を用意したらしい。 きっと、何年も前からだろうな。 それを受け取り、完全に会社とは縁が切れた。
悪い事なのか、良い事なのか…… 俺には判らないが、これが転機になったのだけは理解できた。
昼前の雑踏。 暫くは、こんな街中に出る事も無いだろう。 行きつけの定食屋さんに、顔をだして退職した事を告げて、早めの昼飯にした。 大将が景気付けに、俺の好物を追加で出してくれた。 なんだか、とても……
――― 心が温かくなった。
早い時間に家に帰って来た。 今日は珍しく、弟も妹ちゃんも家に居なかった。 食卓の上に手紙が一枚。 なんでも、例の新メンバーと一緒に買い物に行くそうだ。 『バスが無くなる前に帰ってきます』って、律儀に書いているところが、何ともね……
夕日に赤く染まった空をベランダから見上げ、これからどうっすかなぁ…… なんて、柄にもなく思い悩む。 再就職先見つけて、また会社勤めは…… 正直、しんどい。 幸い、あの会社の給料は良かったし、家は買ったが、結構な貯金も出来た。 退職金も割増しで貰えたし、懐は寂しくない。
チマチマとした生活を続けて行けば、相当持つ。 あぁ、それだけは間違いない。
今まで、色々とあった。 有りすぎた…… 両親は、自分たちの老後は自分たちで既に決めているから、手を出すなって釘を刺されているし…… というよりも、息子や娘の負担になりたくないと、そういう両親であり、お隣さんのおじさんとおばさんだしな。 あの、堅実で、遣り手の人達だから、もう、死ぬまでの算段は付けているんだろうな。
ぼんやりと、夕昏時の田んぼに視線を落としながら、つらつらとそんな事を考えていたんだ。 原付の軽い排気音が聞こえてきて、家の前の道から庭に入ってくるのが、ちらりと見えた。 アイツも帰って来たのか。
……言い辛いが、云わなくっちゃな。 明日から無職になるって。
怒るかな? どうだろ? 貯金している預金通帳見せたら、ちょっとは安心してくれるかな?
30過ぎで、いきなり『無職』だからなぁ…… まぁ…… 仕方ない。
トントンと階段を上がる足音がした。 赤く染まるベランダに、アイツがやって来た。 手すりに体を預け、俺の方を向いた。
「何かあった?」
「会社を辞めた」
「…………そう」
「幸いな事に、あの会社、金払いは良かったんだ。 それに貯金も有る」
「…………そう。 ご苦労様。 頑張ったね」
「い、いや、そう云う事じゃぁ……」
「お前は頑張ったよ。 頭が下がるよ。 みんなの先を考えて、皆が出来る事で飯が食えるようにって。 ほんと凄いよ」
「……えっと」
「離職票は貰ったんだろ?」
「それは、まぁ……」
「暫く失業保険が出るから、それ全部小遣いにしてしまえよ」
「???」
「どうせ、貯金は ”この家 ”の『維持費』にするつもりなんだろ? お前の頑張りが、報われない。 ぼくも、多めに家に入れるようにするから、大丈夫だ」
「……なんか」
「なに?」
「なんか、すまねぇ」
「謝る事なんか無いよ。 明日っからは、お前自身の『やりたい事』を、見つける事が仕事になるな。 弟妹達の面倒を見つつ…… かな」
「まぁ…… そうなるか。 そうだな。 そうなるな」
「時間は有るし、今すぐ如何にかなるような事も無いし…… ゆっくりやろう。 もう、お前が苦しんでいる姿は見たくない」
「ありがとう…… すまねぇ……」
アイツ顔を見ずに、赤く染まる田圃を見ていたんだ。 どんな顔をしていいか、分からなかったから。 赤い田圃が、滲んで…… 頬に何故か冷たさを感じる筋が走る。 アイツの言葉に、心の痛みが癒されて行く。
そっか…… 俺…… どっかで、傷ついていたんだ。 そんでも、頑張ったんだ。 うん、そうだ…… 頑張った。
その夜は、弟と妹ちゃんは外で晩飯を食ってくると連絡があったから、アイツと二人での飯になった。 和食というか、ちょっと独特の味の…… アイツの作る飯。 もう、すっかりと馴染んだ。 静かな夕飯も終わりリビングで、テレビをつける。 地上波では無くケーブルの専門チャンネルに合わせ、ぼんやりとその放送を見ていた。
いつも、アイツは、晩飯の片づけを終えると、風呂に行く。 その前にアイツは、いつもとは違うイレギュラーな行動をした。 アイツは自室からノーパソを持ってきて、何やら書き物をしている。 俺はぼんやりと、テレビを見ていた。 アイツの携帯に着信音。 携帯を耳にして立ち上がる。
”はい…… はい…… ちょっと、待ってください。 その資料なら持っています。 次のフライトに関する要件ですので、直ぐに”
空を飛ぶかぁ…… 続けていたんだな……。 そうか…… 携帯を手に、アイツは自室に向かう。 テレビはつまらないドラマを垂れ流している。 ……青い空に向かって、アイツは飛んでいたのかぁ。
もう一回、あの青空が見たい。 強い、強い、衝動が俺の心を覆い尽くす。 あの日、あの時見た、あの青い空の動画……
強く強く印象に残っている。
アイツの私物だけど…… 悪いとは思いつつ、アイツのノーパソを引き寄せ、画面を見る。 日記の様だった。 まるで業務報告の様な日記だった。 みちゃまずいと思って、それは最小化のボタンを押する。 デスクトップに有る、アイコンから動画の入っているフォルダを探す……
ん?
なんだコレ?
一つの、フォルダー
表題は…… 『 前 世 』
前世? なんだコレ? 『好奇心は猫をも殺す』とは言うが、興味が…… スルスルと矢印が画面の中を滑り、そのフォルダの上に行き…… そして開いた。
画面一杯に、フォルダと文書。 綺麗に整頓されたフォルダの中身。 目に留まるのは、一つの文書。 表題は、『家族』。 好奇心は大きくなり、そして開いた。
…………
…………………
……………………
文書作成アプリが開き、保存されている文書が表示される。 細かい…… 家系図の様な物が一番上に在って、その下に図に記された人の名と、その人の情報が綴らていた。
家族…… にしては、どう見ても日本人では無い、そんな名前の数々。 ミドルネームと思しきモノやら、中には四節の名前も存在していた。 名前の後ろに男爵やら、騎士爵、伯爵、侯爵の文字。 そして極めつけが、殿下の称号……
特に赤い太文字で綴られた名前の、説明文の先頭にある情報は、” 自分 ” だと?
なんだ? コレ?
思わず、見入ってしまった。
その時、声ならぬ声が聞こえ、スマホを落とす音がした。 振り返ると、真っ青な顔をしたアイツがこちらを凝視していた。 俺の顔と、ノーパソの画面を交互に見詰め、アイツは、フラフラと足元から崩れる様に、へたりこんだんだ……
「ご、ごめん。 あ、あの、前に…… 見せて貰った…… 空を飛ぶ動画を思い出しちゃって…… 見たかったんだ…… もう一回……」
「………………」
「い、いや、ほら、何かの作業日報みたいな感じの開いていた奴は、読まずに最小化して閉じたし……」
「…………」
「そ、そんで、動画のフォルダがデスクトップに有るって、思い出して……、なんか、変な名前のフォルダがあって、思わず……」
「……」
「ご、ゴメン! 本当にゴメン!!」
「見ちゃったの?」
「えっ?」
「あのフォルダの中に入っているモノ」
「い、いや、ほ、ほんの少し……」
「そ、そっかぁ……」
ペタンと座ったアイツが、ちょっと呆けた感じの表情を浮かべてから、急に真っ赤に顔色を変えて手を顔の前に持ってきて、激しく振った。 絞り出すような声で俺に云うんだ。
「ご、ゴメン、ちょっと混乱してる。 大変だった日に、ゴメン。 ……今日はもう寝るから、先に風呂入って」
「お、おう…… ホントに、ごめんな」
「……い、いいよ。 見たかったのは動画だろ? だ、だけど、ちょ、ちょっと、ホントに今、ぼく、混乱してるから、ゴメン」
そう云うと、ノーパソを閉じて、胸に抱いて、そそくさとリビングを出て行ったんだ。 あちゃぁ…… ほんと、悪い事した。 私物…… だもんな。 でも、なんで、顔を真っ赤して? それを、隠す様に?
――― 其処だけは、判らないな。
俺も、テレビを消して、まぁ、云われた通り風呂に入ったんだ。 お風呂タイムの間に、弟妹が連れ立って帰って来た。 バタバタ音がしているんで、それは判る。 で、まぁ、ゆっくりと風呂に浸かって、なんやかんや有った、忙しい日の疲れを取ったんだ。
風呂から上がってみれば、リビングに弟妹が居て、何か買ったモノとかをテーブルの上に出して、雑談してた。 俺の顔を見て、”ただいま”ってさ。 今日の『お出かけ』の戦利品を見せながら、姿を見せないアイツの事を、妹ちゃんが尋ねて来た。
「あれ? お姉は? お風呂? は、違うか。 お兄が入っていたから、違うし……」
「珍しいね。 お姉が、お兄よりも早く部屋に戻るって」
「えっ、い、いや、ちょっとな」
俺のあわってぷりに、急に妹ちゃんが表情を変える。 ニヤァ~~ って、黒く悪い笑顔って、本当にあるんだ。 そんな妹ちゃんを見て、弟もホホゥって感じの表情を浮かべる。
「お兄。 つ・い・に 『御義兄さん』と呼べる日が来たの?」
「は?」
「えっ、違うの?」
「ど、ど、どう言う意味だよッ!」
「いや、言葉のまま」
「えっ?」
「は?」
トンデモナイ事を言い出しやがった。 いくら何でも、それは無いだろう? 話の嚙み合わなさっぷりに、妹ちゃんの表情が急に険しくなる。
「無理矢理って事?」
「何を?」
「嫌がったの? でも、お姉はお兄の事、『嫌い』な筈、なんだけどなぁ」
「えっ?」
「ダメだよ、お兄。 お姉は、堅物なんだ。 本当に硬いんだよ。 遊びだったら、許さないよ?」
「だから、何を言っている?」
睨み合う妹ちゃんと俺。 話が全く見えない。 どういうことだ? 妹ちゃんは何を話している? アイツが何だって?
「会話が噛み合ってない。 一体何があったの、お兄」
――― 弟の冷静さに感謝!
でな、弟妹に今日あった事、一通り話したんだ。 あぁ、リストラ喰らう前に、自己都合依願退職で、会社を辞めた事をね。 ちょっと、びっくりしてた。
それと…… さっきの事。 アイツの赤いノーパソを勝手に見た事。 内容については言わなかった。 個人情報だし、幾ら俺等でもそこはちゃんとしとかんと……
腕を組んだ妹ちゃんは、目を瞑って何かを考え始めた。 弟はそんな妹ちゃんと俺の顔を交互に見てから、 深~~い 溜息を吐いて下さりやがりましたよ。
「お姉の持っている、赤いノーパソの事、それ?」
「お、おう」
「ヤバいね、それは」
「なにか知っているのか?」
「アレは、お姉の逆鱗だよ。 お父さんにも、お母さんにも、勿論 私にも触らせてくれないんだよ。 間違って触ろうもんなら、本気で激怒したもん。 ヤバいんだよ…… マジで」
「……まずったな」
「謝った?」
「勿論。 土下座の勢いで……」
「勢いなんだ…… 暫く、口きいて貰えないよ、お兄……」
「そ、そうか…… 判った」
妹ちゃんは、盛大に溜息を吐き、テーブルの上の戦利品を纏めると、困った顔をしたまま、部屋に戻って行った。 弟も凹んでいる俺の肩をポンポンと叩くと、同じく部屋に戻って行った。
あ”ぁぁ ヤラカシタァァァァァ!!
頭を抱えながら、戸締りとリビングの照明を落として、俺も部屋に戻る。 手で顔を隠しながらも、真っ赤に成って、今にも泣き出しそうなアイツの顔が目の前にチラつき……
部屋に戻る前に、アイツの部屋の前まで来たんだけど…… ノックをする勇気も持てず、何も出来ず、自分の部屋に戻る羽目になった。
…………はぁぁぁ ヤラカシタ…………。
―――― § ―――― § ――――
次の日も、その次の日も、アイツは俺に会いたくないのか、早朝から出勤して、遅くに帰ってくるようになったんだ。 朝飯は用意してくれるんだが、晩飯が牛丼とかコンビニ弁当とか冷食に成ってしまった。 弟妹に物凄く睨まれた。
これじゃいかんと、早くに起きて、顔を合わせても、アイツは顔を強張らせて、俺を避けようと必死なんだ。 一応、”おはよう”とか、挨拶してくるんだが、ぎこちない事この上ない。
なんでだ? どうしてだ?
これは…… 本格的にやらかしたのか? 本気で怒らしたか? しかし、俺を睨むでもなく、出来る限り顔を合わせない様にしているだけ…… どういうことだ? アイツは怒ったら、もっと直接的に云ったりやったりする筈なんだが? それくらいは、長年の”幼馴染”って奴で、良く知っているんだよ。
妹ちゃんの眼が厳しい。 いたたまれなくなって、外に出る様にしたんだ。
ほら、退職したから、その処理とか有るじゃん。
失業保険の手続きとか、国民健康保険の申請とか……
嘘だね…… 自分に嘘ついた。
とても痛いんだ、心が。 アイツに避けられているのが、とても辛い。 アイツにあんな顔させちまった罪悪感に潰されそう…… 婚約迄いった彼女に振られようが、会社からリストラ勧告受けようが、そんなもん、どうって事なかった。 まぁ、大学の時のアレは、相当に堪えたけど、そん時はアイツが救ってくれた。
だけど…… 今は、どうだ…… 四人で暮らすようになってから、俺の中で知らない間に、アイツの存在が大きく育っていた? 多分、そう云う事なんだろうな。 何時も居て…… 笑っているアイツに、どこか、安心しきって居たのかも知れない。
うわぁぁぁぁ!! 不味い、不味い、本格的に不味いぞ、これは!!
俺は自分の認識の甘さに、ゲロ吐くほど後悔したね。 いやマジで。 そうだよ…… そうなんだよ。 アイツの存在って奴は、俺の心の中で、とても大きくなっていて、自分でも知らない内に、寄りかかっていたんだ。 いや、無意識に『意識』してたんだ。
全く、30歳も越えてどういう事なんだッ! 俺は、アホかッ! 間抜けかッ! ポカポカ自分の頭を殴りたくなるぜ全く……
――― § ―――
三日経ち、五日経ち、一週間が過ぎ、三週目も同じで……
あれから、一ヶ月……
弟妹達に冷たく見られ、アイツは顔を向けてくれない日々が続いたんだ。 針の筵だろ、コレ。 自分の気持ちを自覚した俺は、何度となくアイツにアプローチを掛けたんだけど、それも、効果なし。
全面的に俺が悪いから、ただ、ただ、話を聞いてもらい、謝罪をしたいと、そう伝え続けたんだけど、その度に
「そんな事ないよ。 謝る事なんて、無いよ」
って、云うばかりで…… 視線を合わせてくれないんだ。 そんなアイツの態度に、自分の気持ちを伝える事は出来なかったんだ。
―――― こんなにも、近くに居て、とても遠い。 本当に遠かったんだ。
それでも、やっぱり、決着を付けなきゃならないもんな。 玉砕する事間違いなしなんだけど、このままじゃぁいけない。 そういけないんだよ。 妹ちゃんも何かアイツに言っていた。 弟も俺に、どうにかならないかと、心配そうに言葉を呉れる。
だから、アイツに願った。 一度、キチンと話がしたいって。
「わかった。 判ったよ。 ぼくも、このままじゃいけないと思っているんだ。 ただ、戸惑って、混乱して…… ゴメン。 君は何も悪くないのに……」
「いやいやいや、違うだろう。 俺に非があるだろ? だから、ちゃんと謝らせて欲しいんだ。 それに、こんなになってからだけど、気が付いた事もあるんだ」
「気が付いたこと?」
「あぁ、理果に伝えたい事があるんだ」
「ぼくに…… 真秀……が、僕に?」
「あぁ、そうだ。 時間を呉れないか?」
「……そうだね。 ……ちゃんと話をしないといけないもんね。 判った。 再来週の週末は三連休だから、金曜日の夜に」
「いつものファミレスで?」
「そう、いつものファミレス。 イタリア料理のあの店」
時間も決めて、話し合う事にした。 壁の陰から弟妹達も見ていた。 二人ともホッとした表情を同じ様に浮かべていたのが、ちょっとだけ面白かったんだ。
―――― § ――――
待ち合わせのファミレスに行く。 俺もちょっと野暮用があって、街に出ていたんだ。 まぁ、お願いしている弁護士に税理士を紹介してもらった。 ほら、事務所を設立したから、税金関係が結構めんどくさい事になっていて、経理関係も本職じゃないと、かなりヤバくなるらしいから。
弁護士の先生から紹介された税理士の先生も、ちょっとお爺ちゃん先生だったけど、とても有能な人だったから、お願いしたんだ。 まぁ、顧問料もある程度はいるけれど、安心感が凄いんだよ。 実際の経理処理は自分たちでするんだけど、それでも、最後のチェックとかメンドクサイ確定申告とか、あるじゃん。
アレを見て貰えるだけで凄く助かるんだ。
理果も、仕事が引けた後、一旦帰ってから、バスで向かうって言っていた。 ……飲むつもりか。 まぁ、アルコールの力も必要か。
そんな訳で、待ち合わせの時間に、いつものイタリア料理のファミレスに到着。 店内を見回すと、理果の姿が見えない。 いつもは時間前に来るのに、珍しいと、辺りを見回すんだ。 でも、それらしい人影はないんだ。 なにか、あったのかな?
―― トンッ と背中を叩かれた。
振り返ると、見慣れない…… でも、良く知っている『女性』の姿。
いつも作業着のくせに…… 私服だって、T-シャツとジーンズのくせに…… 髪だって飛び跳ねているくせに…… 安全靴の愛用者なくせに……
真っ白なフレアの沢山ついたブラウス。 アイボリー色の長手のスカート見まがうキュロットパンツ。 普段は絶対に履かない、ヒールのある靴まで履いているし…… 髪だって、キチンと整えられたショートボブ。 うっすらと化粧までも……
えっ? えっ? えっ? 理果なの? ホントに、理果なの?
「待たせたかな? バスがちょっと遅れちゃって」
「い、いや、俺も今来たところ。 ……どうしたの、その姿」
「うん… 話し合いの時に、着るモノが無いって、妹に相談したら、妹が… 美香がコーデして呉れたんだ。 ぼくには似合わないって言ったのに。 賢人も是非って…… 二人して、プレゼントだって…… でも、ちょっと、恥ずかしいな」
「い、いや、に、似合ってるよ。 ホント、マジで」
「えっ? そ、そうかな?」
「ホントだって。 とっても綺麗だ」
「………だったら、ちょっと嬉しいな」
はにかんだ様に微笑み、桜色になる理果を思わず見詰めてしまった。 ”行こう ” と、呟いて、先に歩き始める理果。 片方の肩に通勤の時には使わない、トートバックを掛けていた。 いや、アレも見た事ねぇぞ? 妹ちゃんのコーデの一つか……
奥まったボックス席に腰を下ろし、とりあえずは摘まむものを注文する。 理果は何を思ったのか、赤とロゼのワインをデキャンタで頼みやがった。 グラスは二つだと…… 俺にも飲ませる気か? 俺、酒はあんまり得意じゃ無いのは知ってる筈なんだけどなぁ……
飲んでも良いけど…… 大学の時の事を思い出しちまうからなぁ……
「最初の一口だけ。 口付けるだけでいいから」
「ん? そう? 判った」
ちゃんと、俺の事は知って、判っていらっしゃる。 まぁ、デキャンタ二つだから、グラス一つなんて、さすがに云えんわな。 じゃぁ、まぁ、お付き合いしましょう。 摘まみも、アルコールも運ばれて、手酌でグラスにワインを注ぎ、軽くグラス同士を当てる。
「乾杯…… だね」
「おうよ、乾杯だ」
真顔でそう云う理果。 なにか、とても、思いつめた顔をしているのが気にかかる。 それから、急ピッチでグラスを開ける理果。 おいおい、そんなペースで飲んじゃぁ…… ほら、もう、酔っているんじゃないか? いくら何でも、早すぎるって…… 次々とグラスをワインを注ぎ入れ、それを開ける理果。 ある程度飲んでから、ジッと俺を見詰め、絞り出すように言葉を紡ぎ始めた。
「あのね…… ぼくの話を先に聞いてくれる?」
「お、おう…… べ、べつに話し難い事だったら……」
「ダメだよ。 もう、混乱してないし、話さなきゃ、混乱の原因にも届かないから」
「そ、そうか? なら……」
理果はそう云うと、ゴソゴソとトートバックを漁り、問題の赤いノーパソを取り出す。 それに一度視線を向けて、静かに語り出したんだ。
「ずっと…… ずっと、秘密にしていた事があるんだ。 僕の僕だけの秘密。 美香にも、勿論、父さんにも、母さんにも言えない、そんな秘密なんだ。 でも、真秀には聞いて欲しい。 こないだ、ぼくが混乱した原因だから」
「お、おう……」
「きっと、この話をすると、お前は僕の事を遠ざける。 ぼくの事を頭のオカシイ奴だと判断する。 でも、それでも、知っておいて欲しい事なんだ」
かなり酔いが回ったのか、目が座っているんだ。 でも、口調はしっかりしている。 なんなんだ? でも、聞くって云ったからには、ちゃんと聞く。 言葉を漏らさず聞くよ。
「ぼくは…… ぼくは、本当は理果じゃない。 本当の理果の『魂』は、生後…… 二週間で、天に召されてしまったんだ。 でも、身体は小児用の生命維持装置に繋がれていて、生かされていた。 いわゆる神様と云うべき存在が、ぼくを理果の体に入れたんだ。 それは、父さん、母さんの真摯な祈りが通じたんだと思う。 でも、本当の理果の魂は弱弱しく、生きる力を持ってなくって、消えてしまった。 そこで、いわゆる神様が、別の魂を入れたんだ」
「別の? それが…… 今の理果?」
「そう。 ぼくには、生まれながらに前世の記憶が存在する。 確固たる自意識が残ったまま、この身体に入れられたんだ」
「あの…… ファイルには、日本人らしき名前は無かったんだが?」
「ぼくの前世の記憶には、日本人どころか、この地球の記憶は無いんだ。 どこか…… 別の世界から、魂だけが、理果の中に入った…… そう、考えられるんだ。 自意識がきちんと定着したのは、幼稚園に入る前」
「つまりは…… 異世界から転生したって事?」
「ラノベやゲーム風に言えば、そう云う事に成るんだ。 それに……」
「それに?」
「前世のぼくの享年は、55歳。 あちらの世界でも、初老と云ってもいい年齢だった。 そして、職業が故の最後の記憶が、こんなにも平穏な暮らしでいいのかと、そう云うんだ……」
「職業由来の最後の記憶?」
「ぼくは軍人だった。 帝国空軍 近衛航空魔導少将だった。 皇弟殿下の座乗する魔導航空母船に特攻を仕掛けてきた、共和国の魔導突撃艇を阻止するために、その前面で防御戦を仕掛けた。 あと少し…… あと、ほんの少しで、友軍の銀の妖精が来てくれるって所で、120メル実体弾の直撃を受けて、東方辺境域の空に散華した。 それが、ぼくのあちらでの最後の記憶」
理果は、それだけ言うと、デキャンタからロゼのワインをグラスに移し、一気に呷る。 完全に目の座った彼女。 その瞳の光は、なにか途轍もない光景を見て来たのだろう、強い強い光が灯っている。
「ぼくの身体は引きちぎられて、魂だけになった。 真っ白な世界に引き込まれ、そこで、尊い何かと対峙してた。 その尊い何かは云ったんだ。 強い意思を持つぼくに、哀れな夫婦の願いを叶えて欲しいって。 ぼくは、前世でやるだけはやった。 出来る限りの努力はした。 だから、もう、未練なんか無かった。 けど、後悔は沢山した。 若い命を幾つも幾つも死地に追いやった。 だから、ぼくは、いずれ『罰』を受けるんだと、そう思っていた。 煉獄か地獄か、魂の安息地には行けないんだと、思っていた。 でも、その尊い何かは、そんなぼくに懇願したんだ。 願いを叶えてやって欲しいって。 願いを叶える為には、『強い意思を持つ魂』が必要なんだと、そう云われた。 ……ぼくの魂が役に立つならと、同意した。 そして、ぼくは、理果の中に入ったんだ。 まさか、女児になるとは、思っていなかった」
「えっ? 女児になるとはって…… 前世って、もしかして…… 男?」
「そうだよ。 ぼくは、55歳だった。初老の男性近衛航空魔導少将。 戦死時、ぼくは、教導飛行徽章を持つ最高齢の空軍航空魔導師だったんだよ……」
理果の紡ぐ言葉に、俺は混乱した。 座った目で俺を見詰める理果。 更に、グラスにワインを注ぎ、一気に呷る彼女。 もう、何が何だか……
一つ…… 思い出した事がある。 子供の頃、あんまり、理果と近しくしなかった理由。 幼稚園で、女の子の気を引きたくて、意地悪をして、その女の子を泣かせたことがあった。 その時、理果に思いっきり頬を叩かれたからだ。
その時の幼い彼女の口から飛び出した言葉…… とても、親や保母さんには告げられなかった言葉が、脳裏にはっきりと浮かび上がったんだ。
”きさまッ! おさなきしじょを、さいなむなど、おとこのかざかみにもおけぬ。 よって、しどうするッ! はをくいしばれぇぇぇ!!”
今なら、その意味が分かる。 はっきりと、彼女の云った意味が。 まさか、四歳にもならない女の子が、”貴様!”なんて、云うとおもうか? なんだか、呪文みたいな言葉を云われて、いきなり叩かれたって、大人たちには云ったが…… 『指導する』かぁ…… そうかぁ……
――― 理果の語る ”前世の話 ”が…… ストンと腑に落ちた。
そうだよ、たとえ幼児でも、女の子の気を引こうとしていたとしても、「男」のする事じゃないよな。 っと、つまり、理果はずっとメンタルが初老の男性だったの? そ、そりゃ、ボッチにもなるわ。 ボッチ耐性もあるわ…… それを、今まで、誰にも言わず、隠していたのか?
す、凄げぇぇぇ…………
鋼鉄の意思だった訳だ……
「気持ち悪いだろ? これが、ぼくの秘密。 そして、小さな頃からコツコツ、少しづつ思い出しながら、前世の記憶を記録したのが、あのフォルダの中に入っているんだ。 だから、誰にも…… 見せられないし、触らせた事なんて、無かったんだ……」
「……そうか。 なんとなくだけど、納得した。 理果の性質が、どうして男よりなのか。 考え方が男っぽいのか。 腑に落ちた。 理果は理果の代わりに、この世界に生を受けたって事で、合っている?」
「うん…… そう……」
「元の理果は、生後すぐに魂だけが亡くなった。 身体が生きていて、おじさんと、おばさんが、どうしても理果の事が諦めきれなくて、祈りに祈った…… それを神様が耳にして、その祈りを聞き届けた。 でも、この世界に余分な魂は無かったから、理果が元居た世界の『強い意志を持つ魂』を、その補填に当てた…… と云う事?」
「……本当に気持ち悪いよね。 頭がおかしいと思われても、仕方ないと思う。 本当のぼくは……」
「理果だろ?」
「えっ?」
「生まれてすぐに、理果に成ったって云うんなら、お前は理果だろ?」
俺が心を、壊しかけた時…… 理果が云った言葉。 『 何時までも悲劇の主人公なんてモノになるなよ? ……お前はお前だ。 』 幼くして魂が消滅した理果。 そんな彼女に目の前の理果が、容れられた。 理果の人生の途中で、元の理果から身体を奪い取ったとか、魂を押し出したとか、強引に混ざった、のでは無くて、魂の消滅した空虚な、小さな理果の器に、今の理果の『魂』が入ったんだろ?
――― それも、神様の強い願いで。
なら、理果は最初から、理果じゃねぇか。 なんも、変りはしないね。 多少、アルコールが入った俺の頭はそう結論付けたんだ。 本来なら死んでた?
嫌だね。
俺は、理果が生きていてくれたおかげで、今の俺が有る事をよく知っているんだ。前世が男? それが、どうした。
今は女性だ。
俺が、好意を持っている、ちゃんとした女性だ。 性転換した訳でも無く、生まれながらの女性だぞ? 気持ち悪い? なんで? 前居た会社にも居たんだよ、そんな人が。 その人、性同一性障害ってちゃんとした診断だって下されるんだぞ? 性転換手術をして、男性の恋人だっていたんだ。
それに、理果は男っぽいけど、ちゃんと女性として生きているんだ。 なんの問題がある?
――― 赤い顔をしたまま、俺を凝視する理果。
その視線を真っ直ぐに受け止めて、俺の頬に仄かな笑みが浮かび上がってくる。 呆然とした理果の顔、可愛いなぁ…… 俺は、そんな理果に言葉を掛ける。
「俺が、理果の赤いノーパソの『そのフォルダ』を覗いた事で、理果の秘密を知ったと、そう思ったんだよな。 でも、私物を触って、勝手に見たら普通、怒るか、諭すかするだろ? いや、いつもの理果なら、問答無用でブチのめすんじゃ無いのか? …………なんで、あんな事になったんだ?」
呆然とした理果が、視線を落とす。 さらに、グラスにワインを注ぎ…… ちびり、ちびりと、口にする。 視線を落とし、あんな事になった理由を話さないんだ。 ほんと、なかなか口を割らないなぁ…… いいか、今度は俺の番だ。
「お前に避けられて…… この一か月、マジしんどかった。 俺…… 理果に相当甘えていた。 今思っても、ゲロ吐きそうなくらい、後悔している。 なんで、もっと早くに気が付かなったんだって。 どうして、もっと、自分の気持ちを考えなかったんだって。 ……俺、お前とずっと一緒に暮らしたい。 共に在りたい。 離れるなんて、云うなよ。 一か月間、ずっと、ずっと、自分の心の中を見詰めていたんだ。 自分にとって、要らないモノを、削ぎ落せるものを、全部削ぎ落した。 最後に残ったのは…… 理果…… お前なんだよ。 もう、理果が居ない生活なんて、考えられない。 理果…… 今なら云える。 俺は理果を、愛している」
バッと、顔を上げて、俺を凝視する 理果。 アルコールで桜色に染まった顔が更に赤く変わる。 アグアグと顎が動き…… 信じられない言葉を聞いたような顔になったんだ。 あぁ~~ また、やらかしたか? でも、本気で考えた一か月間だった。
口にした言葉は本心だ。 羞恥とかは、もう無い。 視線で、真っ直ぐに、愚直に彼女に伝える。
「……俺は、『 理果 』を、愛してしまっていたんだ」
時間が、止まった様だった。 視界の中には理果の顔しか無かった。 硬直して、システムダウンしたサーバみたいになってしまった彼女。 再起動までには、もう少し時間が掛るかな?
でも、視線は放さない。 彼女が再起動するまで、絶対に目は放さないよ。
―――― § ――――
ぽつりと、理果の口から言葉が零れる。
「あの時が、最初だった……」
ダウンしたシステムが再起動を開始した様だった。 ぽつり、ぽつり…… 雨垂れの様に、理果は言葉を紡ぐ。
「真秀が大学の時…… 手酷く彼女に裏切られ、朝方の公園で死んだ目をしてたのを見た時だった。 真秀の話を聞いて、このままじゃ、真秀を失ってしまうって…… そう、思った。 心に強い衝撃を受けた者の末路は、幾つも幾つも見てきたから知っている。 だから、お節介だとは判っていたけど、手を出した。 真秀は、ぼくを嫌っていたと思ってた。 けど、失いたくなった。 だから……」
クピリとグラスを傾ける。
「秘密がバレる”危険 ”を冒してでも、ノーパソの動画見せたのは、生きて欲しかったから…… ぼくは、空の中に居る時が一番好きなんだ。 飛んでいる時は、何も考えることも無い。 考える事すら出来なくなるんだ。 心を壊した航空魔導士は、とにかく上官命令として、飛ばしていた。 空の中では、纏まらない考えなんて、どうでもよくなるから。 だから、あの動画を見せたんだ。 そして、真秀もあの動画を見て、目を輝かせてくれた。 未来に繋がる言葉も云ってくれた…… 見せて良かったと、本当に思ったんだ」
手に持ったワイングラスをゆるりと揺らす。 中のワインが漣をたてて、波紋を作る。 そんな様子を、ジッと見詰める理果。
「 ……ぼくは自分が『男』だと、ずっと思っていた。 小さな頃から、異性になにか云われても、それは、あくまで『打算と欲望』からくるもんだと、そう頑なに思っていた。 実際、体育館裏に呼び出されて、押し倒されそうに成った事もある。 報復はしたけどね…… ぼく自身、前世は男だったし…… 男性の考え方や、欲望の発露なんていうモノは、おのずと判っていた。 ぼくを女として、見てくる奴等に対し、ものすごい嫌悪感を感じても居た。 ぼくは、あちらの世界でも、そういう性癖は無かったから。 一部に有る事は知っていたけど、そいつらも表面的には隠していたし…… でも…… でも、真秀は違ったんだ。 ぼくを女として見ずに、ちゃんと、『理果という人』という目で見てくれていた。 それは…… それは、本当に、心地よかった……」
なにッ! 本当かッ!! 誰がそんな不埒な事をしたんだッ!! だけど、理果が報復をしたと云っているし…… まぁ、理果の報復って云えば、不埒者もただでは済まないだろうな。 俺の百面相を見て、理果はちょっと焦っても居た。
まだ入っていた乾杯の時のグラスを傾け、動揺を隠すような仕草をする俺。 そんな俺を見ながら、理果の言葉は続く。
「真秀は、あの動画を見ても、ぼくが、飛んでいる事を知っても、興味深そうにするだけで、女だてらにとか、そう云った事は一つも云わなかった…… 何度も会う内に、真秀に会う事が楽しくなった…… どう接していいか判らなくなっていた美香にも優しく接してくれた。 それに美香があんな事に成っていた時の事も。 真秀は、あんなにも親身になってくれた。 美香 や 賢人 の、居場所を作ってくれた。 そして…… その中にぼくも入れてくれた……」
手の中のグラスをじっと見つめながら、理果は続ける。
「あの日…… 真秀が僕のノーパソの秘密のフォルダを開いて見ているって、認識した時…… ぼくの秘密がバレたって…… そう、思った。 その時の気持ちは…… まずは怒り。 でも、それを覆う様に、羞恥が湧き上がったんだ。 ぼくは…… ぼくは…… 気が付いてしまったんだ。 真秀が居てくれて…… 本当に、本当に救われていたんだって。 硬く、硬く、誰とも深く付き合わないように生きて行くんだって…… そう決めていたのに…… 真秀とだけは、離れたくないって…… 真秀が結婚を前提とした女性とお付き合いしていて、もうすぐ結婚するんだと、云った時ちょっとした絶望を感じたんだ。 あれだけ、心を囚われていたフライトをキャンセルしたのは、初めてだった。 でも……」
キュッとグラスを握りしめる理果
「あの話が破談になったって聞いた時、嬉しかったんだ…… そんな醜い自分に嫌悪感を抱いて、暫く、真秀からの電話には出られなかったくらい…… けれど、なんども、なんども、真秀は電話してくれた。 そして留守番メッセージ入れてくれた。 ぼくは、留守番メッセージの声を聞いたんだ…… 何度も何度も…… 声が聞けるだけで、嬉しかったから。 ぼく自身、その時はまだ、ぼくの気持ちを認めていなかったんだ。 でも、あの時…… あの場所で…… ぼくの秘密を知ったと判った時、ぼくは、自分の気持ちに気が付いて……」
グラスを呷る。 飲み干すと、そっとグラスをテーブルの上に置いて……
「嫌われている僕は、もう、一緒には居られないと、そう思った…… そうなって、初めて、ぼくは、ぼくの心の在りかを見つけ出したんだ…… 家から出なきゃ…… もう、お別れしなきゃ…… って、そう思っても…… 真秀の姿を一目見るだけで、声を聴いただけで、決意も何も粉々になってしまたんだ。 ぼくの魂は…… もう、どうしようもない位、 『 理果 』になってたんだ…… でも、もう御終いにしなくちゃって、そう決心したんだ。 今日を最後に、家を出ようって……」
細い指を組んで、俺を見詰めながら云う……
「こんな洋服を着たのも、最後に真秀に、ぼくの『奇麗な姿』を憶えていて欲しかったから…… さっき、ぼくの事、『綺麗だ』って、云って呉れて、それだけで…… 君の心の中に少しでも、残れたんじゃないかって…… それで、嬉しくて…… それだけを心の中の宝物にしようって…… で、でもッ」
ぎゅっと握り込んだ手。 俺を見詰める理果の瞳に力が宿る。 とても強い光だった。
「君の『愛している』の言葉に、ぼくは…… ぼくは震えたんだ。 真秀、一緒に居てもいい? これからも…… ずっと…… 傍に居ていい?」
俺は、そっと理果の握り込んだ手を、俺自身の手で包み込む。 静かに、そして、硬く誓う様に言葉を紡ぐ。 あぁ、宣誓したっていい。 もう、この手は離さない。
「勿論だ。 当然だ。 当たり前だ。 理果がそう望み、俺もそう望む。 だから、それは叶う…… そうじゃ無いか?」
「真秀の言葉は、何時も…… ぼくの頑なな心を解放してくれる。 ぼくは、ずっと自分の事を、女でもなく、男でもないと思っていた。 でも、でも…… 真秀の前では…… 君の前だけは…… ぼくは…… 『理果』なんだ」
愛おしそうに、繋いだ両手を見詰める理果。 小さくでは有るけれど、とても幸せそうに微笑みを浮かべる理果。
そうか、そう云う事か。 俺の事を意識して、それまで頑なに信じていた、自分は借り物の肉体に宿る男だって事が、『想い』を自覚して、ボロボロと崩れ、自分が何者であるかを見失ってしまい混乱してしまった…… そう云う事だったのか。
キラキラと輝く理果の瞳が潤み、大粒の涙が零れ落ちる。 視線を上げて俺を見る。 真っ直ぐに、真っ直ぐに。 零れ落ちる涙を拭う事もせず、俺を…… 俺だけをジッと見詰める理果。
――― なら、話は簡単だ。
あぁ、とても簡単。 変に難しく考えない方がいい。 それに、行動を起こすなら早い方がいい。 なにより、少しでも理果が不安に思えば、彼女は直ぐにでもいなくなってしまうかもしれない。 それは認めない。 それだけは認めない。
――― 絶対に、認めない。
今は行動の時だと、そう小さく呟く。 口にするのは……
「結婚しよう」
「…………うん」
理果の頬が緩み、笑みが大きく広がる。 多分、俺も同じような顔をしている筈だ。 理果の視線が脇に置いてあった赤いノーパソに落ちる。
「もう、リカルドの記憶は必要ないね」
「……リカルド? あぁ、前世の名前か」
「うん。 この中には、リカルドの記憶が記録されている。 だけど、もう…… ぼくは『理果』。 真秀だけの理果なんだから、もう前世の記憶はいらない」
「…………」
……それは、ちょっと違う。 俺は理果が好きだ。 あぁ、好きだ。 でも、それは、きっと…… 前世の記憶の中にある、そのリカルドと云う人格の、性格も含まれている筈。 だから、理果を好きだと云う事は、リカルドの事も好きなんだと云う事。 それに、二つの人格じゃない。 この世界の理果は、幼児の時に居なくなっているんだから、もう、リカルドが理果と云っても良い筈だ。 リカルドを否定する事は、理果を否定する事と同じ。 だから、それも認めない。
「理果。 それは違うよ」
「えっ?」
「リカルドはね、理果の半身なんだ。 前世の55年の歳月を生き抜いたリカルド。 現世で今までの歳月を重ねた理果。 俺はね、そんなリカルド込みで理果の事を愛しているんだ。 だから、消す必要は無いんだ。 理果が…… そのままの理果であるためにね。 俺は、何もかもひっくるめて、そのままの理果を愛しているんだ」
「真秀……」
「理果をもっとよく知る為に、君の秘密を俺にも教えて欲しいとさえ思う。 もし、君が良かったらだけど」
「………………うん」
空を飛ぶ事が、魂に刻み込まれているのは、きっと前世の魂の記憶。 航空魔導師がなんだかわからないけれど、その言葉からずっと空を飛んでいたんだと、そう思う。 そこには、血の滲むような努力や、想像を絶するような究極の選択を強いられた記憶なんかも含まれるはず。 学生の頃、妙に大人びた雰囲気を持つ理果は、きっと、その55年間の壮絶な体験があったから。
大人に成らざるを得なかったから。
さぞかし困惑しただろうな。 ボッチにもなるわな。 周りはみんな孫みたいな歳の男女だもん。 それに、軍人?だっけ。 それも紛争中らしい事も云ってたな。 そりゃ、達観もしてるさ。 理果の困惑やら、苦悩なんかが、なんとなく理解できた。
だって、おれが今、別の世界に転生して、赤ちゃんからやり直したらって考えたら、同じような感じになるんじゃないか? ほんとラノベの世界だよ。 散々パラ、人間不信に成るような事ばかり起こったんだ。 そんな俺が、もし、赤子として別世界に転生したら、それこそ、ほんとに、嫌な奴になりかねないもん。
理果はそんな極限状況みたいな中でも、こうやって真っ直ぐに生きて来た。 本当に、本当に、特筆する強靭な精神力だとそう思う。 無職の俺だけど、絶対に守ってやりたいと…… いや、一緒に歩んでいきたいと、そう、深く思ったんだ。
―――― § ――――
話し合いは、終わった。
あぁ、誤解と錯誤にまみれた俺達の関係性は、幼馴染というステージを脱して、互いが唯一無二と云える存在と成った。 これからは、もっと理果の事を知りたいと、切実に思った。 重荷は二人で背負うと半分に成るんだ。 喜びは、二人が同時に感じると二倍に成るんだ。 だから、もう手は離さない。
最終バスの時間はとうに過ぎていた。 駅前のロータリーでタクシーを捕まえて、それで俺達の『家』に帰った。 タクシーの座席に座っている間中…… どちらからともなく、手を繋ぐ。 ずっと…… ずっと、家に付くまで、手は繋いだままだった。
話し合いの在った日、家に帰ると、昏い表情の美香ちゃんと賢人がリビングに、明かりもつけず座っていた。 きっと、理果から美香ちゃんに、『理果の決心』を聞かされていたんだろうな。 本当に、どんよりとした空気だった。
「ただいま。 帰った」
俺の声に、美香ちゃんが首を竦める。 賢人が、睨むように俺を見る。 でも、賢人の眼に入ったのは、俺と理果が手を繋ぎ、理果がはにかむ様な笑みを浮かべている姿だった。 あっけにとられる賢人。 そろりと振り返る美香ちゃん。 そんな二人に、俺は言葉を紡ぐ。 俺の決心を伝える。
「あ~~ あ~。 美香ちゃん。 長らくお待たせしたようだ。 君の御義兄になる事になった。 俺からのプロポーズを、理果も了承してくれた。 賢人、良かったな。 御義姉さんが出来たんだ。 もう、誰憚ることなく、義姉さんって呼んでいいからな」
二人の顔が、ほんとに面白かった。 美香ちゃんは、頷く理果の姿に、盛大に取り乱し、両手を天に突き上げたかと思うと、とても女性とは思えない声で雄叫びを上げていた。 賢人は…… まぁ、冷静な賢人だから…… って、おい。 固まったまま、動かなくなったぞ? 大丈夫か?
部屋の明かりもつき、俺達も座る。 四人で、顔を見合わせた。
「お姉…… やっぱ、お姉は、お兄と一緒になるんだね。 良かったね。 でも、お兄は相当、鈍いよ? ニブちんで、いいのお姉。 苦労するよ?」
「り、理果姉さん…… そ、その、ふつつかな兄ですが、よ、宜しくお願いします」
「美香…… 賢人君…… ありがとう。 背中を押してくれて、本当に有難う。 真秀がね、この姿、奇麗だって…… そう、云って呉れたんだ。 嬉しいね。 ほんとうに…… 嬉しい」
「って、おい。 誰が、ふつつかなんだ? だれがニブちんかッ!! 誰がッ!!」
「お兄…… 無駄だよ。 ぼくらは、今までも、これからも、理果さんの味方だよ? 無職のヒモに成ったんでしょ? 理果さんを幸せに出来るの? どうするの、これから。 ぼくらも一定の収入が出来て、生活は維持できそうだけど、お兄…… 本格的にヒモに成るつもり? 許さないよ?」
「えっ、おっ、うぅ…… も、勿論だ!! あぁ、遣ってやるさ。 なんだって!! 俺にはもう、理果しかいなんだからッ!!!」
変な事に、俺が責められている。 真っ赤になる俺に理果はそっと手を伸ばし、俺の手に彼女の手を載せながら、言葉を紡いでくれた。
「真秀、大丈夫。 大丈夫だから。 貴方も、遣りたい事を見つければいい。 それまで、ぼくも頑張るから。 大丈夫」
そう云って、頭を俺の肩に乗せる。 えっと…… デレた? クールがデレた? マジで…… 理果~ 理果~ どうなってんの? いや、ほんと、今度は俺の方が、混乱してきた。
――――― § ――――― § ―――――
婚姻届けは直ぐに提出した。 双方の両親にはその前に報告して、双方の父に保証人欄にサインをもらった。 父さんはニコニコ顔。 おじさんは渋い顔。 両方の母親は、まぁ、そうなるよねって表情で見守ってくれた。
――――結婚しても、理果は、仕事を辞めなかった。
理果が『今の仕事が大好きなんだ』って、云ってたから、『辞める必要はないよ』って話し合った。 嬉しそうに頷いてた。 苗字は、絶対に変更するとは、云ってたけど…… 大丈夫か? 名義変更は大変だぞ?
俺は、最初から、理果は仕事を辞めないって思ってた。 ほんと、真面目で経験を重ねる感じの仕事に、理果は向いてるもの。 きっと、リカルドだって、そうなんだと思うよ。
いやね、理果が結婚したって、職場に報告したら、あちらの社長さんから直々に電話で呼び出されたんよ。 それで、” 内の一番の職工に何してくれるんだ!! ” って、いきなり怒鳴られたんよ。 その後、いかに理果の腕がいいか、どれだけ会社に貢献しているかを、滾々と説教されたんだ。
それで、俺の方から社長さんにね、云ったんよ。
「俺は、理果の意思に従います。 もし、理果が会社を辞めると云うのならば、どんな手段を取ってでも、退職を捥ぎ取りますし、辞めないと云えば、精一杯バックアップします。 どうか、理果の意思を尊重してください」
ってね。 ニヤリって感じで、かなり黒い笑みを社長は浮かべていた。 そして、俺に云ったんだ。
「うちは、エースは手放さんよ。 あぁ、どんな手を使ったってな。 お前…… アレを泣かせたら、うちの会社総出で詰めるからな」
「泣かせる? 馬鹿を云ってはいけませんよ、社長。 泣かされるのは、多分、俺の方です。 強いんですよ。 なにせ『鋼鉄の意思』の持ち主なんですから、理果は」
「ぐはははは! 判ってんじゃねぇか、若いの。 よし、アレを絶対に幸せにしてやれ。 どんな形で在っても、夫婦に成るんだ。 …………仲良くやってくれよ? うちの精度に問題が出る」
あははは。 そうね、そうだよね。 社長…… あんた、根っからの技術屋だね。 そんな祝福? 脅迫? を、俺は受けたんだよ。 まぁ、この会社はそうなんだろうな。 大家族って感じで…… もう、社長の身内って事。 だから、事務員も含めて、社員たちの視線の冷たい事、冷たい事。 でも……
――――― 残念でした。
理果は俺達の大切な家族なんだよ。 理果の意に沿わない事しやがったら、どうにでもしてやるからな。 って、そんな事を思ってたら、俺も相当に黒い笑みを浮かべていたらしい。 ちょっと、社長が引いてた。 まぁ、しっかりと握手して、理果の勤めている会社を後にしたんだ。
――― § ―――
俺の好きな事…… かぁ……
なんだろう? 何もせず、ずっと家にいる訳にゃいかんしな…… 色々と、考えていたんだ。 婚姻届けを出したその日、理果が一本のUSBメモリを俺の部屋に持って来た。 それで、云うのよ……
「この中にリカルドの記録が入っている。 ぼくの半身と真秀は云ったよね。 だから…… コレ…… 理果の半身なんだ」
「読んでも?」
「うん…… いいよ。 ぼくが、どんな人だったのか、それが判るから」
「ありがとう理果。 読ませてもらう。 これで、理果の全部が判りそうだよ」
「うん…… そうだね。 あっ、でも」
「でも?」
「他の人には、見せたら嫌だよ?」
「判っている。 君の半身なんだものね。 判っているさ」
そして、暫くは、そのUSBメモリの中身を読み込んで、読み込んで…… その感想は、余りにリアル。 余りに詳細な世界。 立憲君主制の帝国の姿がその中にあった。 まるで、どこかの議事録とか、システム設計書の様な感じ。 俺が、元々システム屋って事で、そんな文書には慣れているってのも有る。
詩的な文書では無いんだ。 無いんだけど、目の前に、ほら…… こう…… 立ち上がるように、帝都の街並みや、行き交う人々の姿なんかが見えるんだ……
思い立ってね……
ガサゴソと、名刺やらなんやらを探る。 あった…… 前の会社の取引先のPCゲームの開発会社。 ちょっとした、基幹システム構築の時に、端っこで参加してたんだ。 で、そこの人に、なんかいい感じの、3D系のゲームエンジンで、個人でも購入できるものは有りませんか、って、そう聞いたんだ。
それが、会ったのよ。 アンラルエンジンとかいう物。 いいね、コレ…… プロ版を買って、自室の自前のPCに突っ込んで、ゴニョゴニョしてたんだ。
出来上がったモノを、理果に見せる。 オープンワールドで組み上げたから、美香ちゃんの収録スタジオを借りて、理果にヘッドマウントディスプレイを付けて貰って、データを流し込んだんだ。
その場で足踏みすると、モーションキャプチャで、前後左右に移動も出来るし、なんなら飛ぶことも出来るしね。
でね……
一通り、歩いたり、走ったり、飛んだりしていた理果。 まぁ、こっちは、モニターを見ながら、その様子を見てたんだけど……ね。 元の場所に戻った彼女。 ヘッドマウントディスプレイを外した時に…… 涙を盛大に流していたんだ。
それで、俺の胸に飛び込んで来たんだ。
「真秀、真秀、真秀…… 」
泣き濡れた、理果の声。 そうか…… やっぱり、郷愁って、有るんだな。 リカルドさん。 バーチャルだけど、故郷を見せられたかな? ぼくからの、理果の半身への……
細やかな贈り物だったんだ。
――― § ―――― § ――――
理果は、それから、リカルドさんの記憶を頼りに、色んな事を教えてくれた。 人間関係やら、人物像やら。 それは、リカルドさんが関わった全ての人に及ぶんだ。 ロマンスも、命がけの戦闘も、喜劇的なモノ、悲劇的なモノ…… 悲喜交々の人間模様。
とても、興味深く…… これが、リカルドさんの生きた世界なんだって、強烈に感じた。 そして、理果の為にも、リカルドさんの為にも……
疑似世界だけど、どうにかして、彼の生きた世界を、構築したいと思ったんだ。
俺のやりたい事が決まった。 リカルドさんの世界を構築する。
助力を求め、巻き込めるだけ、人を巻き込んで、知恵を貰い、ノウハウを確立して…… リカルドさんの世界を、この世界の人に知ってもらう為に……
ゲームを一本…… 作り上げる。 リカルドさんの世界を誰かが口にしても、だれも不思議に思わないように。
だから、フルボイスは必須。 文字よりも、絶対に記憶に残るからね。 そこは、美香ちゃんや、お友達達に協力を願うんだ。 色んな人と繋がった美香ちゃんにお願いするんだ。 彼女のお願いに、何人ものV‐Tuberさん達が手を上げてくれた。 あぁ、勿論その対価はお支払するよ。 うん。 大切な事だものね。
俺と賢人は、一緒にありとあらゆるモノ造り。 人、物、自然、建物 勿論、バーチャルでね。
でも、シナリオが…… それらしいものは出来るんだけど、どうにも詰めが甘くて……
ゴソゴソと又、名刺探しから始めるんだけど、捗々しくなくて。 そんな時、前の会社の元上長の事を思い出した。 なんか、ずっと、PC画面を読んでる人。 久方ぶりに、そんな元上長だった人に電話を掛ける。
元上長もまたリストラされて、今は家にいるとの事。 誰か、文章の書ける…… いや、ゲームのシナリオライターをご存じありませんかってね。
「恋愛関連のシナリオライターなら居る」
「どのような方なんですか?」
「二、三本、乙女ゲームに参加した事があって、わりと売れた。 まぁ、開発陣との確執と、開発期間短さが無かったら、もっといい物が出来たと思う。 今は、ラノベ作家だ。 いろいろなサイトに投稿して、小遣い稼ぎしている」
「そうなんですか」
「時間は有り余るほどあるしな。 そっちの条件は?」
「まぁ、別段、急ぎでも無いですし、一から作るのではなく、大体の大筋は決まっているんですが、何分と、膨大な作業でしてね」
「ふ~ん。 どのくらい貰えるんだ?」
「ザっとまぁ…… この位でしょうか」
「中抜きは?」
「直接交渉しますから無いですよ」
「ほぅ…… それは、面白そうだね」
「ご紹介いただけますか?」
「もう、紹介も企画案も知っているよ」
「はぁ? どう云う事ですか元上長」
「私だよ。 いつもPCで何かやってただろ。 アレさ。 嫌か?」
だってよ…… いや、まぁ…… 仕事を離れたら、別段嫌な人じゃ無かったんだけど、まさか、ラノベ作家だっとは…… でも、まぁ、ものは試しと、お願いしてみたんだ。 出来ないならそれでもかまわないし、商業作品として、ゲームを作るんじゃないしね。
リカルドさんの事は大筋にはしていない。
リカルドさんの妹の話。 リカルドさんの世界では、『皇弟妃殿下』となられる方。
近くで見て来たから、リカルドさんの記憶にも詳細に残っているんだ。 だから、主人公は、彼女にした。 理果から聞いた話を纏めて、元上長に送る。 元上長からシナリオやらダイアログが送り返されてくる。 それを理果に見せて、おかしい所やら、言い回しの変なところを指摘してもらう。 そして、それを元上長に送る。
この繰り返し。 何度も、何度も、何度も……
元上長はノッてくれた。 楽しい作業だと、そう云って呉れた。 理果もリカルドさんの楽しい記憶を思い出して、柔らかな笑顔でいてくれた。 ダイアログを落とし込んで、台本を作り、美香ちゃんたちに読んで貰う。 小さな言葉の繋がりやら、語尾なんかはいくつかのパターンを収録して、合成。 それを理果に聞いてもらって、違和感がないかどうかの確認もしたんだ。
とても、長い時間が費やされた。
シナリオの進行に詰まった事も何度もある。 ゲームだからバッドエンドも有る。 帝国の崩壊がそうだな。 その前に、現実ならそんな事にはならないけれど、これはゲームだからね。 整合性を保ちつつ、エンディングは全26パターン。
まぁ、俺達が考えられる、あらゆるパターンを作ってみたんだ。
長い時間が掛ったから、シナリオ以外の部分に、力も入るよね。 賢人と二人で、それは、それは、精巧なオープンワールドを作り上げたよ。 箱庭みたいになったね。 全ての家屋、全ての施設にシームレスに入れるように…… 全てのオブジェクトが手に取れるように…… リカルドさんの記憶にある、全ての魔道具を、エフェクト付きで再現した。
もう、世界そのものは、かなり、手の込んだ物になったんだ。
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そして、実装して、テストプレイ。 勿論、初プレイヤーは理果。 会社の夏休みに、遣って貰った。 感触は上々だったんだ。 美香ちゃんにも、賢人にもお願いした。 みな、興奮で顔を真っ赤にしていた。
賢人は自身のサイトやSNSで、宣伝を活発に行い、美香ちゃんも自身のライブ配信で、色々と宣伝してくれた。 このパッケージ、不具合部分に少々手を入れて、ベータ版として、ゲーム配信プラットフォームにアップロード。 俺達の事務所の初めてのPCゲームとしてローンチした。
おおむね好評との事。
でね、このゲームオープンソース化して、MOD製作をOKにしたんだ。 その方が広がるかと思ってね。
広がったよ…… 世界中の人達が、リカルドさんの世界を楽しんでくれた。 リカルドさん。 理果の事は任せて。 もう、リカルドさんが困る事は無いよ。 だって、これだけ多くの人がリカルドさんのいた世界の事を知ってくれたんだ……
だから、もう、理果が思わず故郷の事を口走っても、誰も変には思わないから……
――――― かくして、『物語』は、紡がれた。 ―――――
Fin
2022.7.10
© 龍槍 椀
お話のタネから生まれた、長文短編。
『種』: ゲーム世界に転生したと、様々な作品の設定に有るけれど、そのゲーム世界が現世にて作られたきっかけは? 勿論これは、卵と鶏のお話と同じだと思います。 異世界が本当にあった場合、その世界の詳細を現実世界に伝えた人物がいる筈なんだよなぁ~ と着想を得て、この物語を綴りました。
如何であったでしょうか? 龍槍なりの一つの、ヒーローやヒロインが、ラノベ、ゲームの作られた世界に転生出来る答えの形です。
楽しんで頂ければ幸いです。
宜しくお願い申し上げます。