6.霧の戦い
「お前、ほんとうに覚えておけよ──」
いよいよ夜の訪れ──もとい、僧侶への報復のときが待ちきれなくなったころ、エグナルは妙な“気”を感じてさっとあたりを見回した。
話している間に竜馬は雑木林を抜け、岩がちで、丈の高い草がまばらに生えた丘陵地帯へ入っている。傾いた日は赤光を放ち、右手側に切り立つ山の斜面を血の色に染めていた。
“奇襲にはぴったりの場所と時間だな──”
エグナルは夕日の生み出した岩の暗い影に視線をやり、ついで赤く染まった空を見上げた。半透明の〈守護霊〉──ファラーシャのふくろうは音もなく飛び回り、何かを探すように四方に目を走らせている。
「僧侶、おれに全力でしがみつけ。なにかまずい……一気にここを抜けるぞ」
「わかりましたけど、せめて名前を──」
ファラーシャが抗議を口にしようとした、そのとき──「しぁッ!」──エグナルは直感的に愛馬を高々と跳躍させた。尋常の馬ではありえぬ急上昇に悲鳴が上がった次の刹那、一瞬前まで馬が走っていた地面から何本もの槍が突き出した。
「“ドローア”!」
エグナルは空中でおのれを串刺しにしかけた槍──その根本に〈稲妻の矢〉を放った。左手から放たれた閃光が地面を吹き飛ばし、その下に隠れていた怪物が姿を現した。
「“パイクホラー”だと?」
エグナルが唸り、ファラーシャは息を呑んだ。ぬっと四つ足で立ち上がった邪悪な被造物は小山ほどもあり、その背からは槍と見紛うほど長く太い針が無数に生えている。まるではりねずみのような姿だが、その頭部は白い面に覆われ、横長のスリットからは貪婪な目と裂けた口が覗いていた。
「あれはいったい──?」
「〈右方地獄〉の魔物──魔族どもの軍用獣だ。強力な黒魔術士が召喚を……」
ほう
ふくろうが出し抜けに鳴き、エグナルは空を、ついで〈守護霊〉の見ている方向に視線をやった。つい先程まで影も形もなかった濃霧が山の斜面を覆い、雪崩かと思うほどの勢いで滑り降りてくる。
「僧侶、自分に〈光の護り〉をかけろ!」
ファラーシャが光の始祖への祈りを終えた直後、濃密な──粘り気すらある霧が丘を包み込んだ。真っ白の壁が夕日すら遮断し、いきなり夜に変わったのかと思うほどの薄闇が訪れる。
「これも魔法ですか!?」
視界を奪われたファラーシャが叫んだ。“知らないってのは幸せなことだな!”エグナルは皮肉に唇を歪めた。この霧は十中八九〈貪る霧〉、攻防一体の強力な魔法だ。
エグナルは〈蒼ざめた死者〉に、竜馬はドラゴンの魔力に守られているが──ファラーシャは〈光の護り〉なしで霧に呑み込まれたが最後、あえなく全身を引き裂かれていただろう。
何にせよ、この霧の中で戦うのは馬鹿げている。こちらの視界がゼロなのに対し、〈貪る霧〉の行使者は、霧の中にとらえた獲物の動きを精確に把握することができるはずだ。
「ハァッ!」
エグナルは気勢とともに竜馬を駆けさせた。岩がちの危険な地形だが、おのれの直感と愛馬の反射神経を信ずるしかない。覚悟を決めた次の瞬間、かれはぎょっと目を見開いた。霧の壁を突き破り、振り切らんとしたはずのパイクホラーが目の前に現れたのだ。
“二体目──いや、方向感覚がおかしくなってるのか!?”
考えている暇はなかった。エグナルは腰の偃月刀を抜き放ち、突き出された針を切り払った。赤い光刃が太い針を草のように刈り飛ばし、竜馬が無数の切っ先をかすめるように走る。
「“ドローア”!」
かろうじて正面衝突を回避した次の刹那、パイクホラーが巨体をぶるりと震わせた。悪寒を感じたエグナルはすぐさま〈歪曲〉を行使。かれの周囲の空間がぐにゃりと歪み、魔物が連続で射出した針があらぬ方向へと弾かれる。
「うっひぃ!」
目の前で弾け飛んだ針に、ファラーシャが頓狂な悲鳴を上げた。エグナルは罵声とともに〈稲妻の矢〉を撃ち返したが、閃光は霧に呑み込まれるように減衰し消滅してしまった。
「やろーッ!?」
霧の中で走ればでかぶつと正面衝突、立ち止まれば串刺しの的。おまけにこちらの魔法は敵まで届かない。とにかく霧を操る黒魔術士を見つけねば嬲り殺しになる。
「〈大渦巻〉、霧を吹き払え!」
エグナルは叫び、黒い偃月刀を天高く掲げた。その湾曲した刀身に〈左方地獄〉の王、ボリヘーグの渦巻き紋が浮かび上がったかと思うと、刃を中心に暴風が吹き荒れ、分厚い霧を切り刻んで押し返した。
赤光の復活した“台風の目”の中心で、エグナルは黒魔術士の位置を探ろうとしたが、そうはさせじとパイクホラーが猛然と突っかかってきた。射出された背中の針は暴風にそらされたが、小山めいた巨体はどうにもならない。
「畜生が!」
エグナルは突撃をかわしながらわめいた。そうしている間に風が弱まり、切り刻まれた霧が復活しつつある。なんという魔力──霧で〈大渦巻〉の暴風を押し返すとは、パラ=シャミス伯爵に匹敵するほど強力な黒魔術士だ。
エグナルは低く唸った。状況を打開する切り札があるにはある。が、使おうと思えばファラーシャに犠牲を強いることになる。万事休すかと思われた、そのとき──
「見つけました!」
看破者が出し抜けに叫び、台風の目にふくろうが急降下してきた。頭上で〈守護霊〉の真円の目が青く輝いたかと思うと、エグナルの目にも霧の彼方、異形の杖を掲げる黒魔術士のシルエットがはっきりと見えた。
「〈大渦巻〉!」
エグナルは絶叫もろとも偃月刀を投擲した。回転しながら飛んだ刃は空中で変形して円形の切断器となり、泣き叫びながら獲物に襲いかかる。
『ギャアアアアアア──ッ!!』
霧に包まれた丘にこもった金切り声が響き、白い壁が音もなく崩れ始めた。エグナルは間をおかず〈稲妻の矢〉を両手から連射。むき出しになったパイクホラーの頭部を狙い撃つ。
「AAAGGGHHHH!!」
一撃目で顔を覆っていた面が粉々となり、二撃目が醜い頭を跡形もなく吹き飛ばした。小山めいた巨体が痙攣し、沸騰した血潮から白煙が立ち上る。エグナルは宙を舞って戻ってきた〈大渦巻〉を掴み取り、魔剣の憤怒に顔をゆがめた。黒魔術士はすんでのところで致命傷を避けたらしい。薄れた霧の中、悪魔の言葉でかすれた罵声を吐いている。
「ハィッ!」
エグナルは偃月刀を振り上げ黒魔術士へと殺到。シルエットを真っ二つに叩き割り──その手応えのなさに燃える目を見開いた。“しまった!”霧に映し出された幻影がかき消えた次の瞬間、横手から放たれた〈稲妻の矢〉がファラーシャを直撃した。