5.誓約
結局、人間らしさを味わうのはおあずけか。エグナルは罵声とととに竜馬にまたがり、〈同胞団〉の追跡を振り切るべく全速力で走らせた。まったく解消されていない衝動のせいで体が熱い。おまけに、かれの背にはその原因である僧侶の娘が、振り落とされないようひしとしがみついている。
「あっ、あの!」ファラーシャが喘ぐような声を出した。「〈子らの街道〉を行かないのですか?」
「あんな目立つ道をか? バカを言うな」エグナルは吐き捨てるように、「お前をさらったと思われるのがオチだ。晩飯にするのはその通りだが」
「し、しかし──わッ」
竜馬がラケラス川の支流をかるがると飛び越え、ファラーシャは短い悲鳴を上げた。街道を馬車で旅するようなお嬢様には、荒ぶる竜馬で道なき道をゆくのは堪えるだろう。
エグナルはささやかな復讐にほくそ笑んだ。もちろん本番は日が沈んでからだが、僧侶にやられっぱなしでは〈悪魔の子〉の名がすたるというものだ。
雑木林に突っ込み愛馬をジグザグに走らせていると、かすかな祈りがエグナルの耳に届いた。ファラーシャがかれにしがみついたまま、自身に〈活性の祈り〉を行使したのだ。
よりによって、おれの背中で〈始祖〉めに祈りを捧げるとは。
「せいぜいゆっくり祈るといい」エグナルは皮肉っぽく言った。「明日の朝には、恩寵など欠片もなくなっているだろうからな」
「それでもかまいません」祈りでいくらか持ち直したファラーシャが言った。「いえ、むしろ……わたくしはそうなってほしいのかもしれません」
「どういう意味だ?」
エグナルは純粋な疑問を口にした。帝国の神官ども──権威の塊のようなあの連中は、〈始祖〉から与えられた聖寵の数を競っていたものだ。同盟の僧侶も(僧服が地味なこと以外)似たようなものだと思っていたのだが。
「──“頭のおかしい跳ねっ返り”」
「あ? おれのことか?」
「違いますよ、わたくしのことです」ファラーシャは苦笑いを浮かべて、「父はそう言ってわたくしを無理やり神殿に押し込めました。わたくしがなぜか〈嘘看破〉の恩寵を賜り──便利な“嘘発見器”にならなければ、二度と会わないつもりだったと思います」
「同情を買おうとしてるなら無駄だぞ」
ふん、と鼻を鳴らしてからエグナルは顔をしかめた。看破者と話すことにはまだ慣れていないのだ。
「お前、親父への当てつけでおれに抱かれる気か?」我知らず、口から険のある声が飛び出した。「〈嘘看破〉はおれじゃなく、帝国との交渉に必要だろうに」
「そうですね──必要でした。実のところ、帝国は今回の悪魔騒ぎをすでに知っています。一週間ほど前、ホワイトサンズに密使が訪れました」
「密使?」
「はい。彼のもたらした書状を要約すると──わたくしが帝国の宰相、サイレン公のお側に侍れば、戦力を融通するということでした」
「あきれたやつだ」エグナルは天を仰いだ。「それで、お前の親父は言われるままに娘を送り出したのか? サイレンは看破者を使い倒すどころか、嬉々としてオモチャにするぞ」
「父にとっては、それがベストの選択だったのでしょう。それで同盟が救えるならと。わたくしも自分にそう言い聞かせてきましたが……別の選択肢があるならば、それにすがりたいのです」
「で、おれが現れたわけか」エグナルはせせら笑った。「別の選択肢? おれがお前の立場なら、〈始祖〉につばを吐いてやるところだ」
「そういうあなたも、〈始祖〉に祈りを捧げたのではないですか?」ファラーシャは不思議そうに、「あなたからはかの神々の力が感じられます。何か……力のあるお守りを持っているでしょう」
「厄介なやつ」
エグナルは兜の下で顔をしかめた。笑い話もいいところだが、〈悪魔の子〉たるかれの首には、たしかに〈七柱の始祖〉を表す“七石のお守り”がかけられている。
「好きでつけているわけじゃない、こんなもの。──ただ、こいつがないとおれは死んだ途端、未来永劫拷問を受けることになるんでな」
「どういうことです?」
「おれは悪魔を殺しまくったせいで〈地獄の王〉どもから恨みを買っている。特に特製の剣と鎧を奪ったボリヘーグとエイゴンからな。あのクソどもはおれの魂をひっ捕らえて、永遠の苦痛を与えたがっている。──まあ、普通はそうなっても問題はない」
「〈始祖〉が人々の魂を守っておられるからですね」
そうだ、とエグナルは頷いた。常人の霊魂は人類の守護神たる〈七柱の始祖〉により守られ、死んだときには──よほどの罪業を背負わぬ限り──そのみもとに引き取られる。
「だが、おれにはそんな加護はない。〈始祖〉どもは混血が──特に魔人が嫌いだからな。で、おれはある魔道士を脅しつけて──」
「“嘘”」
「そうだったなクソが。──おれはある業突張りからお守りを手に入れた(おそろしく高くついたが)。“誓約と契約”の儀式をやるためだ。儀式で人間に危害を加えないことと、悪魔どもをさらに殺すことを誓約して、ようやく〈始祖〉どもは魔人の魂を守る気になったというわけだ」
エグナルは吐き捨てた。むかつく人間どもをぶち殺したくなったことは何度もある。だがかれは魔族の尋問官と対決したことがあり、その拷問の味を知っていた。〈地獄の王〉じきじきの責め苦には、心ある生き物は到底耐えられないだろう。
「すごい……」
「ああ?」
「わたし、冒険譚が大好きなんです」ファラーシャが目を輝かせながら言った。「もっと聞かせて下さい。その、悪魔と戦った話とか……」
“なるほど”エグナルの胸に納得がすとんと落ちた。父親の評価が正しかったのだろう。穢らわしき魔人の背中で、血みどろの冒険譚をせがむような女は、世間一般ではまず正気とはみなされないのである。