4.悪魔狩り
エグナルはおのれが打ち負かされたことを悟ってかすれた息を吐いた。よりによってこのおれが安全とは! 〈嘘看破〉の恩寵を持つ僧侶にして、同盟に名だたるホワイトサンズ市長の娘がこの事実を広めたらおれはおしまいだ。〈悪魔の子〉の名は恐怖の代名詞から物笑いの種に転落するだろう。
「おのれーッ!」
かれは怒りのままに〈大渦巻〉を手近な楓の木に叩きつけた。魔人の剛力と偃月刀の赤い光刃が太い幹を薪のごとく叩き割り、枝にとまっていたふくろうが音もなく空に舞い上がった。
「きさま、僧侶の分際でおれを脅す気か!」木の倒れる音に負けじとエグナルは声を張り上げた。「腐れた〈始祖〉の奴隷め!」
「まさか!」ファラーシャはちらと切り株、その滑らかな断面に目をやって、「ファラーシャは命の恩人に不利益を与えることはいたしません」
彼女は両手で数珠具を握りしめ、祈るように言った。
「怒りをお鎮めください、サー・エグナル。わたくしがその気なら──あなたが叔父上を脅しつけたとき、みなに真実を告げたはずです」
むっ、とエグナルは唇を引き結んだ。たしかにその通り──この娘が耳元で囁くだけで、あの貴族の男は余計な出費をせずにすんだだろう。
ファラーシャは言い募って、
「わたくしはあなたに“お願い”をしに参ったのです。どうか、同盟を脅かす悪魔を倒してください、と」
「だとして、お前たちが安全なおれにどれだけの報酬を払う?」エグナルは精一杯邪悪な笑みを浮かべて、「おれは不犯の誓いを立てているわけではない。悪魔を倒すかわりにお前のことを犯させろと言ったらどうするつもりだ? 魔人の手で純潔を失えば、恩寵を全て失い、神殿から追い出されるかもしれんぞ」
「その程度でしたら構いません。恩寵に関しては神々が判断されることですが……この体に関しては、わたくしの判断で差し出します」
エグナルは呆けたように口を開けて、あやうく剣を取り落としそうになった。娘を信じがたいものを見る目でまじまじと見て、
「お前──本当に僧侶か?」
「困ったことに僧侶です」ファラーシャは謎めいた言い方をして、「むしろ、わたくしの身一つであなたは満足なさるのですか?」
「なに?」
「もしも〈同胞団〉の戦士が悪魔を──ビレクトルやパラ=シャミスのような強大な悪魔を倒したのなら、同盟の都市という都市が英雄として称えるでしょう。当然、相応の報酬も与えられるはずです」
エグナルは低くうめいた。そのことに関しては、かれはなるべく考えないようにしてきたのだ。ファラーシャの言う通り、もしもまっとうな戦士が憑依殺人を繰り返していたビレクトルを倒し、パラ=シャミス伯爵の動物園から人間たちを解放したならば、英雄として称えられ、立ち回りによっては貴族にさえなれただろう。
だが実際にはエグナルは悪魔の血を引く魔人であり、〈始祖〉の信徒たちにとって混血は──たとえ命の恩人であっても──忌むべき不浄の存在だ。そのことを悟ったかれは人々に受け入れられるという理想をゴミのように捨て、今や自ら悪名を広めるようなまねすらしている……。
「はたらきには正当な報いがあるべきです、サー・エグナル。あなたが悪魔を倒すと約束してくださるなら──その……わたくしの報酬は前払いでも構いません」
“聞き間違いか?”僧侶の異常な言動が呼び水となり、刹那の間、エグナルの脳裏に今日までの惨憺たる女性経験が蘇った。〈下方地獄〉の淫魔だの、魔人の体を調べ尽くさんとする頭のいかれた魔女だの、うわさを真に受けた連中が放った女暗殺者だの……まともな女というものは、(たとえ大金を積んでも)〈悪魔の子〉に身を委ねたりはしないものなのだ。
エグナルは無言で剣を鞘に収め、清らかな僧侶の娘を頭のてっぺんからつま先まで食い入るように見た。悪魔の燃える目に射抜かれてもファラーシャはすくみもせず、自身の運命を受け入れたように微笑んでいる。
それが、ひどく癪に障った。
「よかろう」エグナルは言った。「お前の言う悪魔──それが実際にいるとしてだが──地獄に叩き返してやる。ただし、お前とお前の父親には、たっぷり報酬を払ってもらうぞ」
「はい。それは──っ」
いきなり木の幹に押し付けられ、ファラーシャは短い悲鳴を上げた。両手で華奢な肩を掴んだエグナルは、少女のかすかなふるえを感じ取り、口の端を嘲笑で歪めた。
「勘違いをしているようだな、娘」〈嘘看破〉に気をつけねば──かれは考えを巡らせながら、「おれが人間を襲わんのは善良だからではない、忌々しい“誓約”に縛られているせいだ。このエグナルのものになって、タダですむとは思うなよ」
「それで、あなたが満足されるならかまいません」
そこまで言うなら、その悟ったような温顔を引き裂いてやる。エグナルはむかつきのままにファラーシャの胸をわし掴み、その感触に違和感を覚えた。こいつ、下になにか着込んでるな──かたびらのたぐいか?──まあいい、すぐにわかる。
かれが野暮ったい僧服に手をかけた、そのときだった。
「悪魔だ!」
突然上がった金切り声にエグナルは度肝を抜かれた。苔桃の茂みからまろび出た子供──宿屋の娘の弟だ──は、大方突然倒れた楓の木を見に来たのだろう。恐怖のあまり目を丸くし、見たものをそのまま口にした。
「女のひとが襲われてる!」
止める間もなく、子供は悲鳴もろとも逃げ出した。エグナルは呻いた。もしも村に〈同胞団〉の警邏隊がいようものなら、哀れな娘を救うべく悪魔に敢然と戦いを挑むに違いない。かれはファラーシャの方をちらと見るなり、かっとなって叫んだ。
「そんな目でおれを見るな!」