3.願い
美しい姉妹はがたがたと震え、互いをかばうように身を寄せ合っていた。怯えきった彼女たちのまなざしは今、自分たちを食い殺さんとしたクリーチャー、そして残虐な魔法を行使してそれを死体に変えた魔人──悪名高き〈悪魔の子〉に注がれていた。
“しまったな”
姉妹を襲っていた怪物を滅ぼしたエグナルは、兜の下でそっとため息をついた。〈歪曲〉で相手をねじ切って殺したのは失敗だった。このままいくと、また邪悪さだけが巷間に流布しそうだ。
「怪我はないか」
かれは──このころはまだ、人々に受け入れられるという望みを捨て去ってはいなかったので──できうる限り優しげな声を出した。が、〈悪魔の子〉に声をかけられた途端、姉妹はびくっと震え、わずかに背の高い、おそらく姉のほうが妹をかばってエグナルの前に立ちはだかった。
「サ、サー・エグナル、あなたの噂は聞いています……」赤い唇をわななかせながら、「なにか“対価”を差し出せば、人間は見逃してもらえるとか」
エグナルは返答に窮した。もちろん、報酬がもらえるに越したことはない。異形の体を流れる悪魔の血のために、かれはまっとうな方法では食い扶持を稼ぐことができないのだ。
だが、このような辺鄙な地を旅する姉妹──なにか並々ならぬ事情があるのだろう女性から金品を巻き上げるのは騎士としていかがなものか? そもそも姉妹は自身の美貌以外に、ろくな財産をもっているようには見えなかった。
馬上で口ごもるかれになにを思ったのか──姉のほうが大胆な行動に出た。決然と〈悪魔の子〉を見据え、いきなり身につけていたケープを投げ捨てたのだ。
エグナルが兜の下でぽかんとしている間に、娘はするすると服を脱いでいった。豊かな乳房が揺れ、白くほっそりとした足があらわになる。まっさらな裸身をかれに晒した娘は最後にひっつめ髪をほどき、波打つ赤い髪を風になびかせた。
「わ、わたしのことを好きにしてくださってかまいません」娘は羞恥に顔を赤らめつつも、肢体を隠そうとはしなかった。「そのかわり……妹のことは見逃してください。お願いです」
エグナルは眩惑されたように女の肌を見つめていたが、妹のすすり泣く声で我に返った。“なんてこった”〈悪魔の子〉がうわさ通りの男なら、すみやかに姉をものにし、妹の方も逃しはしなかっただろう。だが実際には──かれは相手の勘違いにひたすら困惑し、馬上でおろおろするばかりだった。
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「僧侶がおれに願いだと?」かれは姉妹との酸鼻な夜を頭から振り払い、眼前のファラーシャを睨みつけた。「ウェストマーチから失せろとでもほざくつもりか?」
「違います、サー・エグナル。むしろ、あなたにわたくしどもの街に来てほしいのです」
「なんだと? どういう意味だ……」
「詳しくお話する前にお聞かせください。ファラーシャは噂であなたが〈左方地獄〉の奉仕者、ビレクトルと、〈下方地獄〉のパラ=シャミス伯爵を討ち取られたと耳にしました。これは事実でしょうか?」
「いかにも」エグナルは鼻を鳴らしてふんぞり返った。「この剣と鎧がその証拠よ……。かようなことを聞くからには、ホワイトサンズに悪魔が出たのか?」
「いいえ──まだ姿を見せてはいません。ですが……都市同盟の上層部が悪魔に汚染されつつあるという噂が流れているのです」
「うわさ」エグナルは顔をしかめた。「そのようなものは、まったく当てにならんものだぞ。ましてや、愚民どもは獣面人と有角の悪魔の区別さえつかぬ……」
「そのようですね、サー・エグナル」ファラーシャは苦笑した。「今回のことで身にしみました。ですが事実として、同盟のいくつかの都市と連絡がとれなくなり、言動が急におかしくなった市長がいるのです。父は事態を重く見て、密かに帝国に使者を──あなたに助けていただいた叔父上を派遣しました」
「帝国に?」
エグナルは訝しんだ。“メガラニカ都市同盟”は、その帝国の強権的なやり方への反発、無慈悲きわまる徴兵制度から逃れるために生まれたのではなかったか。ウェストマーチに散らばる富裕な都市は近年結束を強め、独自の戦力である〈メガラニカ同胞団〉は拡大を続けていたはずだ。
「それだけ事態が深刻なのです」ファラーシャは少し声を潜めた。「言動がおかしくなった市長の一人は、他ならぬ同盟の盟主、メガラニカのアーサナ氏なのです」
ふむ、とエグナルは顎に手をやった。たしかに、悪魔好みの陰謀劇に思える。ファラーシャは続けて、
「残念ながら、都市同盟の戦士たちは悪魔との戦いに不慣れなうえ、すでにその手に落ちていないとも限りません。同盟の守護竜は気まぐれですし……」
「で、帝国の腐れ怪物狩りどもを呼び寄せるというわけか」
「おっしゃるとおりです。しかし、彼らが首尾よく悪魔を退けたとしても、途方もない対価を要求するのは目に見えています。帝国の力を借りずにすむなら、それに越したことはないのです」
「それでおれに?」エグナルは低く唸った。「おれが対価になにを要求するかわかっているのか?」
「わたくしと父で、できる限りのことはさせていただきます」
ファラーシャがさらりといい、エグナルは異形の目をすがめた。
舐められてるな──かれはすらりと腰の偃月刀を抜き放った。破壊神ボリヘーグの力を注がれた〈大渦巻〉は、湾曲した刀身に不吉な赤い光を宿し、僧侶殺しへの期待にうずうずしている。
「状況がよくわかっていないようだな、娘」エグナルは魔力を秘めた刃をファラーシャの首元に突きつけた。「おれがお前を要求したらどうするつもりだ? おれはお前ほど美しい姉妹の頭をこいつで叩き割ったこともあるのだぞ。もちろん、さんざん楽しんだ後でな」
「──悪魔の姉妹をですね」
“なぜ知っている!?”
エグナルはあやうく悲鳴を上げそうになった。あの美しい姉妹──〈下方地獄〉の伯爵、パラ=シャミスの放った刺客、人間に化けた変身する悪魔との戦いの顛末は誰にも話していないはず……。
「これをご覧ください」
言うなり、ファラーシャは僧服の中から首にかけられた数珠具をたぐり出した。細い鎖に連なる珠の数や色は、僧侶が人類の守護神たる〈七柱の始祖〉に与えられた“恩寵”──奇跡のわざを表している。
エグナルは年に似合わぬ恩寵の数に密かに感心した。スパイアからは〈治癒の祈り〉と〈活性の祈り〉、アーリィからは〈光の護り〉、カーラーンからは〈守護霊〉、そして──
「畜生が!」
それを読み取った瞬間、かれはたまらずわめいた。使い手の怒りに感応した〈大渦巻〉が鋭く唸ったが、もはやなんの意味もない。目の前の僧侶にはいかなるはったりも通用しないのだ。
「わたくしは叡智の始祖神から〈嘘看破〉の恩寵を授かったことにより、“看破者”の称呼を得ております」
ファラーシャは自ら偃月刀に近づき、エグナルは慌てて刃を引いた。たとえどれほど口封じがしたくとも、かれは人間に危害を加えることを許されてはいないのだ。
「騙すような格好になって申し訳ありません、サー・エグナル。叔父上とのやりとりで、ファラーシャはあなたがまったく安全であることを知ってしまったのです」