2.ファラーシャ
革袋を掴んだふくろうがやってきたとき、エグナルは丘陵にある雑木林から小さな村の様子を窺っていた。
〈子らの街道〉沿いにつくられたその村は、千年を経てなお白く輝く街道と比べて、いかにもちっぽけでみすぼらしく見えた。七百年前にはじまった〈地獄の三王〉を筆頭とする〈異界の神〉の越境──その眷属たる異界種族の侵攻により、人類はかつて誇った英知の大半を失ってしまったのだ。
そして原形をとどめる〈子らの街道〉にしたところで、かつてのように“人や物を一瞬で遠方に運ぶ”ことはできない。破壊された〈最初の子ら〉の遺跡は現代人には手がつけられず、今や世界のあちこちでその屍を晒している。
“ふふん”
エグナルは兜の下でにやりと笑った。防御も大したことがないあの村なら、簡単に蹂躙することができるだろう──などと考えているわけではない。かれのねらいは街道沿いの小さな三角屋根の宿屋だった。
先程助けた格好になったあの貴族は、おそらく(文無しのエグナルにとって)充分な報酬をよこすだろう。今日は久方ぶりに──本当に久しぶりに──まともな食事とベッドにありつけそうだ。
もちろん、異形たるかれが人間らしさを味わうには、ちょっとした幻惑の魔法が必要となるのだが。あの村は人口も少なく、幻惑を見破れるような魔道士はまずいるまい。
苔桃の茂みに潜んだ〈悪魔の子〉は、ふと宿で年若い娘が働いていることに気がついた。弟らしき子供を叱りつける姿に欲望がうずいたものの、人間のふりをして女を抱くようなまねはかれのプライドが許さないし、万一正体が露見したら娘は破滅だ。村から追い出されるか、自ら首をくくるかのどちらかだろう。
エグナルは自分の考えに苦い思いを味わった。腐れた両親は、どうせならばんばん子供を作ればよかったのだ。兄弟姉妹がいれば、おれはただ一匹で茂みに隠れ、みじめな思いを味わわずにすんだだろうに……。
世界のどこへ行っても、おれが悪魔でも人間でもないことは変わらない──かれが鬱々としだしたころ、ようやく〈守護霊〉が約束を果たしに現れた。
「遅かったではないか」
すーっと、ほとんど音もなく降下するふくろうにエグナルは文句をつけた。カルケン族の襲撃からはすでに数時間が経過している。日はゆっくりと傾きだし、まさか宿の灯りを前におあずけを食らわされるのかと危ぶんでいたのだ。
〈守護霊〉は悪びれもせず、大きめの革袋をエグナルへと放った。かれは低く唸ったものの、そのズシリとした重みと硬貨のじゃらりという音に機嫌を直した。幻惑が破られない場所でなら、しばらくは文明的な生活が送れるだろう。
十分に英気を養った後は、カルケン族の後を追うのもよいかもしれない。善良な人々から略奪するのは“誓約”に反するが、けだものの地から追い出されるような悪党どもが相手ならかまうまい。
「なにをやっている?」
そこまで考えたあたりで、エグナルはふくろうがまだ去っていないことに気がついた。とぼけた顔で青々とした楓の木の枝にとまって、じっとかれのことを見つめている。今度こそ焼き鳥にしてやろうかと思った、そのとき──常人よりも遥かに優れた五感が生き物の接近を感じ取った。
エグナルは腰の偃月刀を抜きかけ、相手を直感的に悟ってげんなりした。つと傍らでじっとしている愛馬を見たものの、〈悪魔の子〉が小娘を恐れて逃げ出すなど許されない。
「こんにちは」
木の陰から現れたのは、予想通り例の僧侶の娘だった。彼女は聖職者が魔人にするとも思えぬ穏やかな挨拶のあと、遠慮も恐れもなくかれに歩み寄った。
「おまけをつけろなどと言った覚えはないぞ」
エグナルは脅しつけるように言い、燃える悪魔の目で彼女を観察した。ふくろうがやってくるのに時間がかかったのは、この女がゆったりと身ぎれいにしていたためではなかろうか。
そして、その効果は目を見張るものだった。血化粧を落とした娘は美しく、澄み切った生命力を発散していた。丁寧に編み込まれたシニヨンヘアは陽の色に輝き、両の瞳は聡明さを宿した深い翠。日に焼けた顔のラインは西部系らしい力強さと柔らかさが同居し、彫りが深く印象的だ。ひたすらに野暮ったい、灰色の筒めいた僧服からドレスに着替えれば、貴族の姫君に早変わりするに違いない。
エグナルは品のある美貌をまじまじと見つつ、娘の正気を疑った。あたりに護衛の戦士の気配はない。こんな人気のない場所で〈悪魔の子〉と二人きりになれば、どんな目に遭わされても自業自得というものだろう。
「ホワイトサンズの市長、トレスフェナの娘、ファラーシャと申します」
エグナルの困惑に構わず娘が名乗った。ホワイトサンズ? 百以上の都市が加盟する“メガラニカ都市同盟”の中でも指折りの大都市だ。そして同盟における市長は帝国の“領主”とほぼ同義である。
「おれに説教でもしに来たか」かれは計算されつくした角度で、悪魔面のスリットからぞろりと生えた牙を見せつけた。「よほどあの坊主の後を追いたいようだな」
並の令嬢であれば金切り声を上げて失神しかねないポーズだったが、ファラーシャは──心のどこかで恐れていたとおりに──まったく正反対の反応をした。まるで臆することなく、幼さを残した顔で〈悪魔の子〉ににっこりと笑いかけたのだ。
「サー・エグナル、ファラーシャはあなたに“お願い”があって参りました」