1.エグナル
「悪魔とは取引せぬ」
脅しつけた貴族にきっと睨み返され、エグナルは密かに感心した。ごてごてした身なりから、てっきり都市同盟の成金かと思ったが、どうやらこいつは本物の貴族だ。並の男ならスリットから覗くかれの目を見た瞬間、本能的な恐怖にとらわれ、今頃は有り金すべてを差し出し慈悲を請うている。
「敬虔なことだ。貴族殿」エグナルはできうる限りドスの利いた声を出した。「だが、おれに助けを求めておいて、知らぬ存ぜぬは通じぬぞ」
「助けだと? 言いがかりはやめてもらおう!」
エグナルは有蓋馬車の上にとまった半透明のふくろう──〈守護霊〉を指さした。
「あの鳥めがおれの眠りを妨げ、貴殿らのもとに導いたのだ。まさか偶然とは言うまい」
貴族の男が低くうめいた。〈守護霊〉は魔道士どもの使い魔より自発的で、命令がなくとも取り憑いた相手を守る。あのふくろうは血まみれの娘の命を助けるため、あえて〈悪魔の子〉を呼び寄せる決断を下したのだ。
「だとしても……」男はごしごしと顔の血を拭う僧侶の娘、そして戦士たちをちらりと見た。「我らの魂を差し出す気はない」
エグナルは兜の下で舌打ちした。退魔の武器を振るう〈同胞団〉の戦士たちは、練達の魔法剣士にとっても侮りがたい相手だ。よほどの精鋭なのか、胸甲にシルバードラゴンの紋章を彫った戦士の一隊は、カルケン族の襲撃にも死者を出しておらず、傷を負ったものも〈悪魔の子〉を厳しい目で睨み据えている。
「では相応の金品でそれを贖うがよかろう」エグナルはすばやく助け舟を出した。「拾った命を無駄にすることはあるまい?」
貴族の男は押し黙った。穢らわしき魔人の脅しに屈すべきか迷っているのだろう。もう一押し必要かと考えたそのとき、穏やかな声がエグナルの耳朶を打った。
「叔父上、何を迷う必要があります?」
声を上げた僧侶の娘は、驚くほど落ち着いた足取りでエグナルに近づき、その自然さをかれは警戒した。こいつは見たものに恐怖をもたらす、おれの目の影響をまったく受けていない。
「この方はわたくしたちを助けてくださったのです。御礼を申し上げるのが当然ではありませんか」
「ファラーシャ!」貴族の男が悲鳴を上げた。「なにを言っている──こいつはエグナルだぞ!」
「ええ、存じています。悪い噂をいやというほど耳にしましたから」娘は〈悪魔の子〉を見上げて、「説教をした僧侶の首をへし折り、頭から食べてしまったとか?」
「話の成り行きによっては、きさまがあの坊主の後を追うことになるぞ」エグナルが冷ややかに言った。「おまけに、女として生まれたことを後悔することになる」
年若い娘には十分な脅しのはずだったが、このとき彼女の目に走ったのは恐怖でも怒りでもなく、なにか異様な輝きだった。エグナルは本能的な危険を感じた。高徳の聖職者にからまれる事態は、なんとしても避けねばならない。
一方、戦士たちは殺気立ち、貴族の男は姪をエグナルから引き離した。
「やるか? おれはまだ殺し足りぬ」“早まるなよ”と思いつつ、かれは血に飢えた魔剣を軽く振って威嚇した。「結構だ。貴殿らの魂と荷物の両方をいただくとしよう」
「いいえ」僧侶の声は戦士とエグナルの両方を制した。「叔父上、これはまったく無意味な争いです」
「ではどうしろと? 悪魔の脅しに屈したとなれば、末代までの恥だ」
「この方は半分だけです」娘はあくまでも穏やかに、「叔父上、どちらにせよ、死んでしまった馬の分だけ荷物を減らさねばなりません。街道脇に置いていけば、誰か必要な方がもっていかれるでしょう」
「それは……まあ、そうだが……」貴族の男はぽかんとして、「だが持っていくのは……」
「叔父上には重要な使命があるはずです」
娘はぴしゃりといい、馬上のエグナルに向き直った。
「おれにものひろいのまねをさせる気か?」“よっし”、と胸中で快哉を叫びながら、かれは鋭い啖呵を切った。「侮辱は高くつくぞ、娘」
「いいえ、必要とするのはセピリス──わたくしの〈守護霊〉です。彼は必ず、あなたにお礼をお届けするでしょう」
エグナルはおのれをつつき回したふくろうをちらりと見た。変わり者の主の影響を受けているのだろうか、セピリスと呼ばれた〈守護霊〉は、魔人を嫌悪するでもなく、ただ真円の目でじっとかれのことを見つめている。
「……よかろう」エグナルは〈大渦巻〉を腰の鞘に収め──目の前の人間を殺せないのが不満らしく、魔剣が低く唸った──内心でほくそ笑んだ。「だが、万一十分な礼が届かねば、おれの剣と魔法を相手にすることになるぞ」
言い捨てるなり、かれは猛烈な勢いで竜馬を駆けさせた。念を押したその瞬間、またも僧侶の目に異様な輝きが走ったように見えたのだ。“まあいいさ”〈子らの街道〉から外れながら、エグナルはおのれに言い聞かせた。大したことにはなるまい。ここで別れれば、もう二度と会うこともないだろう……。