アッチェレランドは残酷に
広場の時計台を見上げたとき、ちょうど22時の鐘が鳴った。
張りつめていた神経を解き、大手を掲げて伸びをする。
「今日の業務、終了――― っと!」
自警団員と大層な役職を名乗ってはいるが、実際の仕事は街のパトロールが主だ。
お偉いさんの護衛や魔物狩りを行うのは、月に1,2回。
平平凡凡な民の生活を守るのが、普段の仕事だ。
退屈。そう思うことも多々ある。
でもそれは、平和な証拠。
何も起きない平和が一番望ましいんだから、問題ない。
つまり、自警団員がサボりたいと思うのはいいことであって。
本部へ報告に戻る前に、大通りのショッピング街を覗くことは、決して悪いことじゃない!
私は軽い足取りで広場を横切り、夜でも人通りの多い街路へ向かおうとする。
そのとき、視界の端に光る何かがちらついた。
反射的にそちらに目を向けて、 ――― 息をのむ。
広場の真ん中に立っていたのは、私と同じ年頃の男性だった。
遠くからでもわかる端正な顔立ち、宝石のような瞳と桜色の唇。
上等なシャツとジレを身に着け、細く長い脚にストレートパンツが嫌味なくらい似合っている。
さっき光って見えたのは、月光に映える艶やかな銀髪だったのだ。
ファッション誌から飛び出てきたような容姿に、私は思わず、見惚れた。
「 かっこいい…………。 」
熱っぽいため息と共に、呟く。
男性はその間も、何かを探すように広場中を見渡していた。
(誰かと待ち合わせかな……?)
ぼーっと彼を見つめていたら、朱色の視線がこちらを向く。
私は全身に鳥肌が立つのを感じた。同時に心臓が高く鳴る。
(め、目が合っちゃったー!!)
暫し視線は通い合ったまま。時間が止まったかと思った。
数秒後、あろうことか彼は、人混みをかき分けて私の方に歩いてくる。
こつ、こつ、と響く革靴の音が、だんだん近づいて、それに合わせて私の心臓も鼓動した。
私の前に来た男性は、ふわりと優しく微笑んで。
「あの…… この街の人ですか?」
控えめな声で尋ねてくる。
「へっ、あ、 は、はいっ!わ、わたし、この街の自警団員ですっ!」
「自警団の人? そうなんだ、ああ、よかった……!」
素っ頓狂な声を出して敬礼をする私に、彼は心底安堵したように顔を綻ばせる。
その表情も、無邪気ながら仄かな色気が漂い、且つ上品に洗礼されていて。
彼から目が離せなくなっていた。
自分の顔が火照っていくのがわかる。
「俺、さっき此処に着いたんだけど、どこに何があるのか分からなくて――― よかったら色々、案内してくれませんか?」
―――― ほぼ脊髄反射で、うなずいていた。
彼の名前はヴィンセントさん。
他国の出身で、地元では両親と共に老舗のアンティークショップを経営していたという。
事業拡大のための下見にこの国にやってきて、ついでに様々なアンティーク雑貨を見て回るつもりだそうだ。
「じゃあ、跡取り息子なんですね!すごいなあ…。」
「あはは、そんなに大したものじゃないよ。老舗と言ったって歴史が深いだけで、小さい店なんだ。」
大通りを歩きながら他愛もない会話をする。
恐縮しては照れ笑う彼の横顔を、私はちらちらと盗み見た。
ほんっとにカッコいい。
一目惚れってやつだろうか。
いや、勤務以外で男性と二人で歩くなんて久々だから、緊張しているだけ――――?
(これってもしかして、で、デートなんじゃ……!!)
おさまりかけていた顔の熱が再発し、あわてて頬を両手で包む。
街の案内をするからって、この街で一番栄えているショッピング街道に来たけれど、男女二人で歩いているのを傍から見たら――――
「…………さん。 ポーラさん?」
「ひゃいっ!?」
肩を軽くたたかれて、心臓が飛び出るかと思った。
ヴィンセントさんが心配そうに覗き込んでくる。 ………距離が近い!!
「大丈夫?顔が赤いけれど…… 風邪?」
「いいいいいいいいえいえ、全然大丈夫です!おかまいなく!!
それよりっ、此処がこの街の名物のショッピング街です!服屋も雑貨屋も沢山揃ってるので、ヴィンセントさんがお求めのアンティーク雑貨も、いっぱいあるんじゃないかな…!」
無理やりに話をそらし、大きく開けた道を指さす。
少し怪訝そうだったヴィンセントさんも、街並みを見た途端に顔を輝かせた。
「本当だ、いろんなものがありそうだね… あの、少し見て回ってもいいかな?」
こちらを見る瞳の、情熱的な色彩が光る。
好奇心をそのまま面貌に嵌め込んだ、吸い込まれそうなガーネット。
「――――も、もちろんですよ、ご案内します!」
(私は道案内をしているだけ……業務の一環、これは残業…………ッ!!)
そうやって言い聞かせないと、心臓がもたない。
嬉しそうに笑う彼の隣で、私は自分自身の感情に戸惑っていた。
(まさか本当に一目惚れしちゃったんじゃないでしょうね……。)
雑貨屋でキャンドルを物色している彼を、斜め後ろから眺める。
荒れひとつない華奢な手が、キャンドルを包むように持ち上げて、その側面を撫でる。
しげしげと眺めながら首を傾げれば、うなじで銀の髪が揺蕩う。
(バカみたい… 自警団員だからって、案内を頼まれただけじゃない。)
店の人に何かを問う声は、低く透き通り、且つ弾んでいる。甘い蜜のように。
髪をかき上げる手つき。
物珍しげに見張る目。
柔和に緩まった唇と、こぼれおちる笑い声と。
( ……………… 素敵な人だな。 )
甘酸っぱい心地を抜きにして、彼の所作は綺麗に見えた。
作られたような鮮やかさに、私は吸い寄せられる。
この熱い気持ちが何であるかと勘繰るのをやめた。
感情の正体を知らないで彼を見ていた方が、美しさを新鮮に感じられる気がしたから。
「――――ここはですね、街の伝統工芸を扱っているお店で……… ?」
大通りの終盤に差しかかったとき、ヴィンセントさんの顔色が優れないのに気付いた。
絶えず浮かべていた微笑みが消え、眉を下げている。
「ヴィンセントさん?どうしたんですか、どこか体の具合でも……」
「うん。少し、はしゃぎすぎたかな――― 眩暈がして、」
「あ、危ないッ!」
店先で細い体が揺らぎ、私は急いで駆け寄って、彼の肩を支えた。
額をおさえてこちらを向く彼は、頼りなく微笑んで首を振る。
立っているのがやっとなのか、足元も覚束ない。
「ごめんなさい、ポーラさん。ご迷惑を……」
「迷惑だなんて、そんな!とにかく、落ち着いて座れるところに行きましょう。」
私は彼の手を取って店を出る。
ナチュラルに手をつないでしまったけれど、ときめきなどを感じる暇はない。
だって、彼の手はとても冷たいのだ。真冬のように。
私はその低温に驚きながらも、街並みから外れた公園へと向かった。
昼間は親子連れでにぎわう公園も、深夜になると人気はない。
ヴィンセントさんをベンチに座らせて、隣に腰を下ろし、背をゆっくりと撫でる。
彼は両手で顔を覆い、うつむいている。随分と具合が悪そうだ。
街に来たばかりなのに、あれこれと連れまわしすぎただろうか。
彼は、今日他国から此処に着いたと言っていた。疲弊がたまっていて当たり前だ。
少し休んだら宿まで送って行こう。
「ヴィンセントさん。私、お水を買ってきますので、ちょっと待っててくださいね―――」
そう言って腰を浮かしかけた瞬間、その手を強く握られ、引っ張られた。
細い腕のわりに強引な力で、私のお尻はベンチに戻る。
「っ、ヴィンセント、さん…………?」
彼の骨ばった冷たい手が、ぎゅう、と私の手を握る。
指同士が探るように絡められ、一瞬にして体温が上がるのを感じた。
彼の顔は、依然として伏せられていて、見えない。
え、なにこれ。 …………何、これ?!
「あの、あのっ わ、わたし、おみずを――――!!」
「そんなの、いいから。」
私の肩に重みがかかった。彼の身体がしな垂れかかってくる。
全身が毛羽立つ。お尻のあたりがむずがゆくなる。
心臓どころか五臓六腑まで爆発しそうだ。
「傍にいてよ、 水なんて、いらないから…………」
彼の熱っぽい声が耳元で聞こえて、鼓膜を伝わって。
体温が覆いかぶさり、眼前で銀の髪が揺れる、その瞬間。
「 ―――― キミの血を頂戴? 」
ガーネットの瞳に宿るのは好奇心などではない。
飽くなき欲望と、加虐心。
彼は、 魔物と同じ目をしている。
私は反射的に空いている手を突き出して、彼の肩を押した。
その手首をつかまれ抑え込まれそうになり、咄嗟に振りほどこうとする。
細身の彼の力は、 異常に強い。
頬が裂けんばかりに弧を描く唇の向こうで、赤い舌が覗く。
今までとは違う意味でゾクッとした。
「やッ――― やめて、くださいっ!!」
無我夢中で足を振り上げ、彼のお腹めがけて蹴りを放つ。
手ごたえはなかった。
足が当たる直前に、彼はベンチから飛びのいていたから。
少し離れた位置で月光を浴びる男性は、先ほどまでのヴィンセントさんじゃない。
鋭い八重歯をむき出しにして、私を嘲笑っている。
―――― ”吸血鬼”の 顔だった。
「………惚れた男を足蹴にするんだ。いい根性してるじゃん?」
小馬鹿にするような物言いに、これまたさっきまでとは違う意味で顔が熱くなった。
「惚れてなんか……っ!」
「嘘つき。会った瞬間から熱っぽい目ぇしてたくせにさ。……あれ、誘ってたんじゃねぇの?」
下卑た笑みを浮かべる彼に対し、今はもう、甘酸っぱい気持ちなど抱かない。
ひたすらに腹立たしく、憎らしかった。
血を奪うために弄ばれたのだと、表情や言動から読み取れるから、余計に悔しい。
「食欲抑えるの、しんどかったんだけど。まだお預けするつもり?
アンタ、普通の人間じゃないでしょ。魔族かなぁ………すげぇ美味そうな匂いがする。」
立ち上がり、舌なめずりする彼から距離を取る。
血を与えるのはもちろん、嫌だ。しかしそれより、騙されたことが許せなくて、彼には怒りの感情しか湧き起らない。
「………最低。貴方みたいな吸血鬼は大嫌いよ。」
実は以前、餓死しかけている吸血鬼を助けたことがある。
住んでいた村で吸血鬼という正体がばれてしまい、村人全員に追われ、命からがら街まで逃げてきた女性だった。
血の代用品を持ち歩き、薬まで使用して、極力血をのまないように努めていた彼女。
私が血を分け与えたとき、泣きながら何度も礼を言っていた。
その様子を見て、私の方が申し訳なくなった。
彼女は一日だけ私の家で横になっていた
次の日の夜、「このお礼は必ずする」と書置きを残し、名も名乗らずに姿を消した。
後日私宛に、貴重で滅多に手に入らない材料ばかりを使用した調合薬が届いた。
世の中には、そんな吸血鬼もいるのだ。
心優しく、誰も傷つけず生きようとする、脆く儚い存在が。
―――― でも、この人は違う。
「騙された方が悪いんだよ、おバカさん。
いいから早く、喰わせろ。殺しはしないから、ね。」
弄んで嘲笑って、楽しんでいるのだから。
私は肩を怒らせ、つかつかと彼に歩み寄る。
向こうが身構えるのを待たず、右手を振りかぶって、白い頬を張った。
静寂の空気で木霊する、強烈な音。
彼はこちらを横目で窺い、一瞬消した笑みを再び浮かべる。
唾液を吐き出し、唇を拭う―――― その所作さえまだ美しいって、思ってしまう。
悔しい。
「最低だッ……… どうしてそんな風にしか、血を求められないの?!」
涙で目の前がにじんでゆく。
振り上げたままの右手首を、強く掴まれた。
まっすぐに此方を見据える朱色の目が冷たい。彼はわざと殴られたのだろう。
「血を分けてほしいって、頼むことだってできるじゃない。なのに、どうして――――」
「アンタは本当にバカだね。」
恐ろしく冷えた声が、私を掻き切った刹那。
右手首の内側に強烈な痛みが走り、叫びをあげた。
皮の薄い部分が噛み千切られ、太い血管に牙が届き、裂いて抉っている。
濁流となった血は、彼の端正な口元に吸い込まれ、一滴も零れることはない。
「痛い、痛いっ!!いやぁッ、やめて…………この、ッ!!」
左手に雷をまとわせて拳を握り、彼の首元を狙う。
突然、目の前が真っ暗になった。
彼の背から開いた夜のような両翼が、彼と私の間に入り込んでいるのだ。
私の拳は羽に阻まれ届かない。まるで、鋼みたいに硬くて。
「い――――い゛やだあ、……ッい―――うああ…ぁあ…………!!」
困惑しているうちに、身体に力が入らなくなった。
頭が重くて眩暈がする。
痛みはもう感じない。
手首から血が失われていく、非常に嫌な感覚だけが、私の身体を蝕んでいく。
気づけば両膝をつき、右手首をかばう形で蹲っていた。
頭に霞がかかったように何も考えられない。
ちかちかする視界の中で、彼の妖艶な笑みが浮かんだ。
「こういうところが見たいから、貰うんじゃなくて、奪うんだよ。」
横に裂けた手首の傷から、細く血が流れて地面に垂れる。
魔族であるが故に、回復力が人間より優れているから、傷はすぐにふさがるだろう。
でも、血を失いすぎている。
悔しくてたまらないが、彼に立ち向かうことが、今はできない―――
「イイ子だね、ポーラ。アンタは俺の思い通りに動いてくれた。」
「ごちそうさま。 また、喰いに、来るから 」
「 それまでに死んだら 許さないよ。 」
頬を撫でてゆく風のような掌に、噛みつくことさえ叶わずに。
涙の染みしか残せないのだろう。
私の意識は、自分の浅はかさを悔いながら、夜の狭庭に沈んでいった。
目覚めると、自警団本部の仮眠室に居た。
真っ白な天井が目に入り、助かったのだと自覚する。
横になっていた身体を起こせば、少し頭がくらくらするが、意識ははっきりしている。
その時、右の手首がちくりと痛んだ。
手首には包帯が巻かれており、僅かに血がにじんでいる。
それを見た途端、胃のあたりが重くなり、暗い気持ちになった。
「おお、気が付いたか!」
同僚の自警団員が軽食を手に部屋に入ってきて、嬉しそうに声を上げる。
私は彼と目を合わせず俯いて、己の感情と戦っていた。
「街はずれの公園でぶっ倒れてたんだと。近所の住民が通報してくれたんだよ。
手首の傷は大したことないが…… 一体どうしたんだ?何があった?」
傷の場所が場所だけに、同僚は顔を歪め、言いにくそうに尋ねてくる。
「…………至急、全班に通達を。それから、住民に警告を伝える準備もしてください。
凶悪な吸血鬼が街周辺をうろついている危険があります。」
私は震える声で告げながら、寝台から降りる。
同僚の、説明を求める問いかけも、制止する手も振り払い、まっすぐに出口に向かった。
自警団になって以来、初めて感じる屈辱だった。
嘲り笑われ、小馬鹿にされ、ハエでも追い払うかのようにあしらわれた。
血を吸われたことより、それらの行為が胸に痛い。
それより、何より。
私は自分の浮ついた心に腹が立って、胸を掻き毟りたい気持ちだった。
警戒もせずに甘い心地を抱き、それどころか彼と良い雰囲気になることさえ期待して、まったくもって恥ずかしい。
自警団失格だ。
唇を噛み、まっすぐ前を睨む。
すれ違った同僚がぎょっとして道を開けた。
きっと今の私は、ものすごい形相をしているのだろう。
いや、これでいい。
私に足りないもの。緊張感、警戒心、自制心。
それらを手にするためには人が避けるほどの威圧感が必要だ。
今この瞬間から、気持ちを入れ替え、失態を糧にする。
私は深く深く息をついて、上司の部屋へ報告へ急いだ。