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 聴覚が目を覚ます。たくさんの落ち葉が移動している。


 触覚が目を覚ます。肌が露出している顔や頸に葉が身を寄せる。


 嗅覚が目を覚ます。水を浴びた森の中は自然そのものの香りが漂う。


 味覚が目を覚ます。土の味がする。混じって少しだけ血の味もする。


 視覚が目を覚ます。枝葉の隙間から洩れるのは太陽の光だ。日の光りを目一杯受けて、葉が若葉色に輝いている。


 耳元でかさかさ音を立てる落ち葉がくすぐったくて、つい笑っちゃった。葉が濡れてても耳元で音を鳴らせば当然聞こえる。


 五感を感じ取れることに安堵する。鼻から大きく息を吸って、胸が膨らんで、口から吸った息をゆっくり吐き出す。何回も繰り返して、生きていることを実感する。呼吸を整え、左腕を庇いつつ身体を右に傾ける。勢いを利用して起き上がり、大樹を背に座ることができた。


 枝に掛けていた荷物はそのままそこにある。巨大な葉の下を選んで正解だった。


 左腕には綺麗な布が巻かれていた。暗い紫色の生地に黄金に似た糸で幾何学的な文様の刺繍が施され、艶やかな外見どおりのつるつるすべすべな肌触り。肘から手首までは完全に覆われ、傷を負った手のひらにまでこの綺麗な布が巻かれていた。五本指が問題なく使えるようにするためか、指には布が掛かっていなかった。動かすたび鈍い痛みが響く指の動作はぎこちなさが残る。利き手が思うように使えないことに僅かな不安を覚えた。


 日差しは夕日のように赤くはなく、朝日にしては明るい。日の光を観察する限り、夜を越えたらしい。さらに状況を判断するために力無く震える両足を頼りに視線を高くする。ズボンをまくると、足に傷を負っている箇所があることが分かる。いくつもの痣が脛に浮き出ていた。走って逃げていたときにぶつけたのだろう。


 昨夜の出来事は夢ではなく現実で全てが起こっていたことらしい。腕から溢れる痛みが最も現実を表している。


 ひとまずリュックを下ろし、中身を確認する。


 何でも乗せてきたまな板。

 私には少し重いナイフ。

 白太材製の縁が欠け始めた食器類。

 糸のほつれが目立つ替えの衣服。

 防腐の顔料で染めた水筒。

 お花や葉っぱから作られた化粧品。

 色々入れるための毛羽立ったずだ袋。

 小さい頃買ってもらった植物図鑑。

 もう役に立たない地図。


 無くなっているものはなかった。土を払って昨日使った食器をリュックに入れる。


 想像もせずにいた事象がいざ自分の身に降りかかると、人はその事象を心で受け止めようとするはず。それは自身に対する最大級の幸運か、はたまた不運か。さらには天変地異か、戦争か。何か大きな物事と対峙したとき、身体はどうあがこうとぶつからなければならない。どんなに辛くても、痛くても、向き合わないといけない。そして、どうして私が、みんなが、と嘆く世界が現れる。幸福相手にだけは簡単に身投げするのに。


 私は昨夜の出来事を思い出す。


 抵抗できた?やめてと言えた?


 どんな理不尽とも友達の私には全てを受け止める虚無がある。だから私は受け入れていた。だってどうしようもないんだもの。弱いから仕方がない。私は非力だ。だから襲われたんだ。


 そういえば、あの子たちは一体何者だったんだろう。見たことのない服装をしていたし、聴いたことのない訛りが言葉に混ざっていた。暗くて顔はよく見えなかったけど、悲しそうな泣きそうな、悲哀の感情が混在した表情を浮かべていた気がする。あのまま話しかけなかったら私を殺してたのかな。


 左腕は意識を向けるだけで鈍痛が響く。初めて負った大きな切り傷と刺し傷が今どうなっているか、確認したいが傷の状態を目視することに抵抗を覚える。刃物を向けられたあの瞬間に、私は経験したことのない辛い痛みを感じた。あんなに痛いんだと思った。思考が脳天を突き抜けて、一つ雷のような鼓動が全身に伝わる。そしてジワジワと痛みが広がっていく。でも、少しすると痛みが和らいでいく。段々と頭が回転していき、どうしようどうしようと活路を見出そうとする。その思考の早さは異質なもので、思案を黙読することなく口が開いた。


 どうして、こんなことをするの、と。


 相手に反撃を試みることもなく、平和的に言葉で交渉することもなく、ただの疑問を投げかけた。死を目の前にして諦観の立場にあったから。怯えを抱かず待っていたから。それでも理由があってほしかったから。きっと、だから、なぜかを問いかけた。私にとってこの傷は許す許さないではない。行動の指針をかざす前に、なぜ、どうしてそうしたのかを知りたかった。


「死ぬことに意味なんて…あるのかな……」


 結局脅威を前に抵抗できなかったのも現状を嘆かないのも、自分の非力さと追い込まれていたあの状況があった上で、更に心のどこかにある虚無が揺れ動いたからだと考えておく。とにかく、今は生きていたい。私の日常を変えたくない。死の危機というイレギュラーはいつ、誰にでも突然訪れるものだ。私はただその確率を引いたものの、なぜか今は生き長らえている。


 これからも生きるためには、食べ物が要る。食べられる野草が原生し、透き通る小川が流れるこの場所は生活するのに十分な環境だ。危険な動物も存在せず、人も一切見かけない。本当に都合の良い環境だったため、ここを発つことには抵抗を覚える。しかし、もう限界があった。


 衣服のサイズは合わなくなるだけでなく繊維のほつれも目立ち、慎重に着回す必要が生まれた。食器は手入れするたびに傷が増えた。愛用のナイフも頼る機会が多いばかりに刃は機能を満たさなくなった。


 生活する上での不満が多くなっていた矢先に、昨夜の出来事。運命なんて信じないけど、きっかけとしては良いのかもしれない。


 ここを安住の地とする少し前、峠を越える時に見えた都市が頭の中で再生された。村で見かけるような倉庫を山のように大きくしたような建物が一際目を引いたことを覚えている。そんなに遠くはない。あの距離なら7日も歩けば着くかもしれない。あやふやな動機は決心となり、気持ちは固まった。


「あの街まで…行ってみよう」


 出発は明日。目指すは倉庫の街。私は初めて一人で街に向かう。もし叶うなら仕事を見つけたい。今持っているお金が使えなければなおのこと。でも私にはこれまで生きてこれた自信がある。だからきっと、なんとかなる。




 図体に合わないリュックを背負い、差し込む日差しに顔を向けた。

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