世迷い羊に翼はない(9)
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「ネコさんが……窓ガラスを破って、連れ去られちゃった……」
ありのままを口にして……そう、驚く。
「ふぬら……猪口才な」などと、掛け声よろしく窓ガラスを粉砕するネコの姿が脳裏に反芻される。
何がなんだかよく分からない……けれど、事実なのだからしようがない。ありのままに受け止めるよう努める。……隙間風なのかどうして肌寒くて……おおっ広げに開かれた私室内領域を見渡す。一拍置いてソキアさんが応える。
「ネコさんは、実体があるので仕方ないです」
「それより、ナツメさん……」
「追いかけますか?」
窓枠に身を乗り出しソキアさんが問いかける。奮い立つその身は既に臨戦態勢にあるよう。
そう……見渡す辺りには散乱したガラス破片が散らばっている。
「私は……もちろん。ネコさんを追いかけます」
ひとり地に足のつかないネコさんを思い出す。
宙ぶらりんと寄る辺ない姿を晒して……
このまま彼を放っては置けない。
つぶらな瞳が……。
そう……諦念が板につく、寂しそうな目をしていたから。
(だから……ネコさん。ネコさんはそう、ここにいていいんだ……)
「でも、ソキアさんはどうして……」
「そうですね……」
「あの犬、見るからに魔物です」
「魔物はマガツヒ」
「魔物退治は私たちの務めですから」
「それに、ネコさんからは漢気を感じました」
『そうよね、カラネミ』と相槌を求めてソキアさんが微笑む。銀色の指輪が胸元で跳ねる。『ボクはここ。彼は仲間だ』、体良く収まり自己主張する指輪が応える。
「決まりですね」
「では、ナツメさん」
「……フローア」
宵間が導く窓辺を離れて……
ソキアさんが近づいてくる。唱える呪文が耳膜を震わす。室内に広がり、やがては静まり返る世界に働きかける。浮かび上がる影の線画。ーー地図だ。線を交えて現れるのはゆらゆらと棚引くこの町の鳥瞰風景……
「……褥町?」
見覚えのある景色、住宅街が浮かぶ。いつしか眺めた風景と照らし合わせて。じっと覗く。
「そうです。ナツメさん」
「これは褥町……」
「見てください」
パチンと指を鳴らして、ソキアさんが示す。すると、風景を模る町の家並み木が崩れ、そこには町の境界を示す地図の線画だけが残されてしまう。
「ソキアさん……?」
「はい……追いかける前に、私たちの立ち位置を確認したくて」
「ごめんなさい、ナツメさん。少しだけ時間をください……」と真剣な様子のソキアさんが続ける。
「そう、ナツメさんがご存知の通り、これは褥町、昼の境界図……隣には各市街地、ほとぎ市、真倉町、姓織、戸棚台が見えます」
「ナツメさんのお家はこの辺りでしょうか……」
ソキアさんが指し示すのは褥町最南端の一領域。境界を挟むとそこには戸棚台が位置している。
……改めて見るとこの町って複雑。
戸棚台との間には川が流れている、けれど川そのものが境界というわけではない。戸棚台の一領域として褥町の一部分が存在している。そして、その逆もそう。褥町の一区画が戸棚台として存在している……。なんとも不思議だ。町の合併だか河川の流路変更だかがその理由だと聞いたことがあるけれど、詳しいところは分からない。ただ、互いの町には互いの飛地が存在する。川を挟んで入り混じる、二つの町の姿に見入る。
「しかし、それは昼の境界図……」
「ナツメさん。今からお見せするのは、昼に重なるこの町のもう一つの在り方……私たちが踏み入る夜の境界面です」
再度指を鳴らして、ソキアさんが告げる。見る見るうちに様変わる図面。昼と夜が内部で往き来し、せめぎ合うように……別たれた二つの図面が宙に浮かぶ。鏡合わせの二つの町。
「これって……」
白黒の図面を交互に見遣る。
白い方は先程と変わらない。昼の境界図と大枠は同じ。褥町本来の輪郭が描かれる。黒い図面と互いにリンクし、往き交う灯で互いの位置を指し示している。
黒い図面には見慣れない標識が目立つ。見慣れない境界領域に……三角形の記号で区分けされているようだ。その……くるくる回る三角形の記号(錐と呼んでも良い)には次のような文字が添え付けにされている。
◆…Exis
▼…Nocturna
▼…antiqua
▽…Valkyrie
▼…miseria
▽…Others(twincle)
◇…Maze
▽…
「こちらが夜の境界面……私たちが属する種の勢力図を表しています」
「……勢力図」
「この夜の境界面に示された世界……私たちはエグジスと呼んでいますが……そこには現在、並び立つ四つの種が存在しています」
「ひとつはノクターナ(Nocturna)、私たちが属する種の勢力……。この図面に浮かぶ靄がかった領域がそれにあたります。ふたつめはヴァルキリエ(Valkyrie)、町の南部……戸棚台との隣接地域を占める灰色の領域がそれです……みっつめがアンティクア(antiqua)、勢力としては最も小規模ですが、そう、彼らはとても活動的です……そして、最後にミセリア(miseria)、ミセリアについてはまた別の機会に」
図面に記されたそれぞれの領域を注視する。
ソキアさんの言う通り、黒い図面には四つの勢力が存在している。黒い図面が白い図面にそのまま重なるというのであれば、この町の内部は地図では示されない隠された境界線で区分されていると言える。
そしてこの町の南部、私の家が立っているあたりには〝ヴァルキリエ〟と記された灰色の領域が広がっている。横切る近隣の川を飛び越え、戸棚台から続く灰色のそれには、けれど一箇所だけ……ポツンと切り離された黒い靄が浮かんでいるのが見てとれる。拡大鏡を覗くように、徐々に大きさを増し霧晴れるそれ……の内部が室内中央に開かれはっと気づく。
ーー図面に映った二つの影。
……影の片方はもちろん私。一方はソキアさん。二人の姿が映り込んでいる。図面を挟んで向き合う影の二人……影の二人をその手に捉えパチンと指鳴らし魔法を操るソキアさんの姿がそこに映っている。合わせ鏡の景色が覗く。
「……つい先日のことです」
「長らく……均衡の上に成り立っていた夜の境界面は、ひとつの非社交的な勢力の侵出によって大きく塗り替えられることになりました」
「……ヴァルキリエです」
「それが意図された侵攻であったかは分かりません……手綱を握るのは彼らでは無いのかも……けれどその結果、私たちが居るこのあたりは、もともとは夜色が取り巻くノクターナの属領でしたが、いまは彼らの属領……灰色が賑わすヴァルキリエの支配下に置かれることになりました」
浮かび上がるのは猫の肉球、その足跡が点々と続く。
「魔女王の死……引き金は恐らく彼女の死にあると考えています」
「彼女が死に伏せる運命の夜……彼女の庇護を受ける夜色の眷属たちは一転して、魔物が蠢く灰色の焦土へと追いやられてしまったのです」
【登場人物紹介】
ソキア:魔法使いの少女。ノクターナ。争いの火種を察して、元属領に位置するナツメの家を伺いに訪れた。
魔女王:夜色の種族を庇護する魔女の王。彼女の死により夜の境界面からひとつの色が大きく損なわれた。