世迷い羊に翼はない(8)
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「……ナツメさん」
張り詰めた声でソキアさんが呼びかける。
『オオォオン……』と犬の遠吠えが聞こえてくる。耳鳴りだろうか。青黒い深層を満たす場の空気に加え、じりじりと躙り寄る冷気……その肌寒さも感じてくる。
……犬なんていたかな?ネコもだけど。
ただ、丸テーブルの辺り……ソキアさんがカップを手に優雅にくつろいでいる……にだけは明かりが差し込み、薄暗い水底の中心でオアシスを形作っている。サカナ達が輪を描いて、明かり差す彼女の頭上周囲を回遊する。我ながら、心にくい演出じゃないかなとひとり納得、頷いてみる。……けれども、ただ……犬の、潮の流れに寄せてやってくる遠鳴り聲だけが耳にこだまするよう深く息づき、泳ぐサカナ達の渦を朧に掻き乱して溶暗させてしまう……その暗に歪な光景を目にしてぼんやりと見守っている自分に気付く。
「演出?」
……でも、こんな演出初めて見る。人工知能は絶えず進化していると聞くけれど……その様子はあまりにもそう、おどろおどろしいもの。
「ご主人……」
「どうかしたのにゃ?」
腰を据えたネコが喋る。膝をつき前屈みになるようつま先立つ姿勢を取る。「……にゃ?」
「なにか……変です」
犬の遠鳴り聲が近づいてくる。
岩壁の投影が浮き立つアクアリウムの内外から齎される。
追い立てられるように暗中を蹴るサカナ達。
やがて、何事も無かったかのように静まり返る。沈黙の静けさが香る。
けれど、……気付いてしまった。内壁に青白い犬の顔が浮かんでいるのを。その顔に表情は無く、ただすっと向きを変えると壁の中へと隠れてしまう。無言に口元を吊り下げた犬……。
「……にゃにゃ」
「これは……畜生共めの匂いが致しまする」
眦鋭く探りを入れるネコ。逆立てる毛並みに、そう……真剣さが宿っている。
「匂い……?」
「ご主人……」
「あるいは、彼奴等めを飼っておいでになりましょうや?」
怪訝な様子で見上げるネコ。
「ううん、うちにペットは居ないよ……犬も」
……ネコは居るけど。それってさっきの犬面……鳴き声のことだよね?
由緒正しいネコの天敵……それは決まっていつも犬かな。
鳴りを潜める海底庭園を見回す。
けれどそう……庭園の住人に犬はいないはず。
勿論、他に犬猫などは飼っていない。
だとすれば、先程のあれは何だったのだろう。
壁面に覗く犬の顔を思い出す。背筋に冷たい汗が流れる。結んだ口元、遠鳴り聲は……今はもう聞こえない。
「……」
考えてみれば、ネコが喋るのも十分にホラーな事案だけど……
「ネコさん……」
「そこ、動かないで……お座りしてて」
「……にゃ」
頷く、ソキアさんとアイコンタクトを交わす。
……いる。ちょうど、後ろ足で立つネコの背後あたりに。トスンと敷布に腰をつけるネコ。青白い犬の鼻先が現れる。さわさわと髭がネコの毛ぐるみをくすぐり、ぞぞぞと縦に身震いをして仰け反るネコミル。
「ーー何奴」
「……え」
かぶりを振るうネコが膝立つ。
無言の犬が口をつぐむ。がふりと大きな上顎を閉じてしまう。
「ぬう……」
呻きを上げてよろめくネコ。口元から血が滴り落ちる。
その傷は深く……かのように歯を食いしばり俯く。
「不覚……」
つうと伝う血を前足で拭い、払う。
膝から崩れ落ちようと前屈みするネコ……けれど、その流れをさせまいと逆らう者によって妨げられる。吊られたネコの構図。首根っこを咥えられて、四肢を宙と遊ばせるネコが揺られる。
「……ネコさん」
浮かぶ犬の能面の下ーー。
「ご主人……」
「どうやら、彼奴等めに一杯食わされた様子……」
……恨めしげな表情でくわえられたネコを見つめる。
「某のことはお気に召されるな」
「……この流れる血は、真に某の忠義の賜物。決して、この犬めにしてやられた傷では御座らん……」
「助けに……行くのでありましょう?」
「羊めを……」と傷心やるかたないネコが語る。吊り上げた口元には笑みが浮かんでいる。
……知ってる。それって、自分で噛んで付けた傷だよね?……凄い形相で唇を噛み締めてて、何事かなって思ったから。
「後から、某も必ず馳せ参じまする……」
「ご主人……」
「では、暫しの別れを……行って参りまする」
敷布の地面を蹴って遠ざかる……犬。
「にゃ゛ーー」
図らずも、小さな身体で窓を蹴り破るネコーーは無造作にも咥える犬に吊り下げられ、振るう手脚が空を切るまま、宵闇の向こうへと溶けて消えてしまった。
【登場人物紹介】
口元を吊り下げた犬:ネコの天敵。壁を通り抜ける。無口なのが取り柄。オオンと吠えない。
余談……
密室を出るにはどうしたら良いのか……
名前を言えないあの人が言ってた……
密室を出るには壁を蹴り破ればいいって……