世迷い羊に翼はない(7)
***
重々しく鎮まる玄関扉を押しのける。
「ただいま」
光と影のコントラストが浮かぶ。
二階の、談話室の方が明るい。
……お客さんかな。
「……ナツメさん?」
金属製の……丸い取っ手がひとりでに動いて、中から、艶のある銀色の髪を結わえた女の子の頭が現れる。
きょろきょろと小さな頭を左右に巡らせると、こちらを見つけてそう呼びかける。
……あれ、わたしまだ、寝ぼけてる?
ぎいきい騒ぎ立てる木造扉を押し戻し……
「ソキアさん……⁉︎」
「……お帰りなさい」
〝お帰りなさい〟の挨拶を交わす。
「どうして……」
頰を摘んでにっこりと微笑む。摘んだ箇所を少しだけ赤くして。
「……ぇと」
「ナツメさんの挨拶?……を真似してみました」
「でも、違ったみたいですね」
「ふふ、痛いです」とソキアさんが続ける。困った様子で俯くとはにかむ。
……柔らかそうな頬っぺたが見える。何だろう。すごく、触ってみたいけど……ダメかな。
「ナツメさん……?」
「それにしても個性的な……いえ、雰囲気のあるお家ですね」
「たくさんのお部屋や、室内装飾……作り込まれたオブジェクトがあって……まるで小さな迷路みたいです」
ソキアさんが呟く。『そう、ここがナツメさんのお家……』。
「ナツメさんのお部屋は……確か、お二階のこちらだったでしょうか」
「……え、ちょ、ちょっと」
「ソキアさん……っッ」
一つ一つを眺めるように、先へ先へと進んでいく彼女。
……なんだか、少し楽しそうな雰囲気。
「……ソキアさん」
背中越しに呼びかける。さらさらと流れる真っ白なワンピースが揺れる。意識の表層を柔らかくくすぐり……
インテリア横の照明スイッチに手を掛ける。
我が家が誇る、それは魔法のスイッチ。
「そうです。ここですっ……、む⁉︎」
突如、現れる青黒い空間。深く沈んだ海底洞窟が浮かび上がる。驚いた様子で仰ぎ見るソキアさん。頭を巡らし、戸惑う素ぶりで振り返り目を瞬かせる。
……そこは、海百合が手を振る深層の庭園、湧き立つ幽遠の泡音が耳膜を揺らす。
「……ようこそ、ソキアさん」
「我が家の海底庭園へーー」
我が家の客人に歓迎の挨拶を。
見守る、ソキアさんに向けてペコリお辞儀を返す。
「凄いです……ナツメさん。これは魔法ですか?」
表情をあらたにソキアさんが尋ねる。
自室のドアを恭しく開け広げ、色めくソキアさんを中へと招き入れる。「そうなのですか。光の投影……」。
「魔法……とは違いますけど、イリュージョンには使われるかもしれません」
……もちろん、不寝見の国のは魔法なんだよ。ソキアさん?
「ユメの国……」
「ぜひとも、行ってみたいです」
うんうん頷くソキアさんの手を引く。
「……メイズには、そんな場所があるのですね」
呟くソキアさんの足元に意識を傾ける。
「お二人とも、お帰りなさいにゃ」
「……?。んと、ただいま」
ソキアさん?をひとまず寝台へと導く。お布団を畳んでスペースを確保。自分はお茶を用意しに、階下へと降りる。海百合の白い手がさわさわと揺れている。コツンカツンと泡音を潜り抜ければ、水場の景色……台所脇の食器棚が目に止まる。
……えと、用意するカップはいくつ必要?自分を入れて二つだけ……?
注いだお茶が波打ち揺らめく。自室への渡り廊下をぽつり折り返す。
像を結ぶ光が頭上を通り過ぎる。「ゴオォ」と鈍い音に駆られ追いすがり泳ぎ回る。
左右に返し、見えなくなる尾鰭。
自室の扉に吸い込まれ消えていく。
人工知能が戯れに映す光……深層の揺かごに絶えず育まれて。
『ーーーー…』
「……お待たせ。ソキアさん」
中からは、そう……不透明な話し声が聞こえる。
いつしかそこには、我が家の住人たちが集まっている。
触れると霧散する像と遊ぶソキアさん。
「この子、うちの子にちょっと似てます」
ふわふわ浮かぶヒトデを指差す。
つんつん触れて、くるくるとあやす。
……ゆるゆら回って足元に落ちていくヒトデ。
「……昨夜のことって」
コトン、と丸テーブルに乗せたカップが音立てる。ぴたりと着地するヒトデを他所に。
「ナツメさん?」
「……そうです」
〝ほんとう、ですよ〟と顔を上げるソキアさん。
「昨夜は、有難う御座いました」
「……いえ」
懸命に足を上げるヒトデを眺める。
上目遣いの表情が重なる……
「さすがは、ご主人」
海底庭園の住人たちが囲む輪。
思い思いに揺り合う像が遊び回る。
コポコポと水泡が足下から湧き出す。
青黒い投影像の彼等に重なり、朧に流れる輪郭が映り込む。
天井を映す灯……の輪の中に昇っていく。
『ーーーータ……』
「ソキアさん……」
顔を合わせるサカナ達と遊ぶ……羽を合わせて飛び回るウミウシ達に目を向けて。
泡沫にほつれない黒い影の塊を見つける。
『ーーボクはウミネコ。つばさはまだ無い』
「襲いくる彼奴等めを相手にちぎっては投げちぎっては投げの大立ち回り……」
……ネコだ。海の住人達の間に狩人が紛れ込んでいる。仄暗い、この海の底で息を潜めて……無いようだけれど。
「この子……」
「某、しごく感服のいたり……ですにゃ」
「ソキアさんのお友達?」
……ネコなのに喋るんだ。今さらだけど。
「いえ……」と返すソキアさんを認め、当然のように会話するネコに向き直る。熱弁を振るって、こじんまりと畏まっている様子。襟を正すネコ、そう、変なネコとアイコンタクトを交わして。
「あなた……どこから来たの」
「言葉、喋れるんだね?」
ネコに尋ねる。
「それは、言葉を勉強したからにゃ」と慎ましやかに応じるネコ。……それは、そうなのかなと思い直す。
ちょこんと乗せた前足が愛らしい。
小さな狩人。その鋭い爪を巧みに隠して。
「わたしは、ナツメ」
「んと、はじめまして、かな……ネコさん」
言いながら思い出す。昨夜のこと。道すがら、夜道の真中で出会ったネコのこと。
「恐れながら、ご主人……」
指を揃えて畏るネコ。
その口元には何か赤黒いものが滴っているのに気づく。
……え、血……
「それがしはネコミル。それがしをごすじんのパートナーにしていただきたいのですにゃ」
思いつめた様子で顔を上げる。
小さなその身を細かく震わせながら……ネコは語る。
「……その昔、現世来世に相見えんと欲し、その願い真に聞き届けて下さる折には、我が涙、我が血はご主人のお側近くに侍り仕ると固くそれは固くお誓い申し上げた候う、我が居場所はこの場を置いて他には無く、叶わぬならただ一言、切腹、切腹とだけ御命令くだされば、ただそのように我が小身はこの儘ならぬ浮世の泡沫の塵となりて去ぬ……」
「えと……うたかたの、いぬ?」
「ネコです」
ソキアさんが応える。
コポコポと背景音がこの場を濡らす。余韻を残して上昇する泡沫。お腹を見せて転がるネコが見送る。「儘ならぬ我が身の不甲斐なさよ……」、目を細めてひとりごちるネコ。満足そうなその表情は語る。「……オオォン」と物悲しい犬の遠吠えが聞こえてくる。
……何を言っているんだろう。
恭しくカップを手に取るソキアさんを見つめる。にこにこっと笑顔を見せて口をつける。カップの縁に寄せて、香りを楽しむ仕草、風情で紅茶を啜る。何かに気付いたかのようにはっと息を飲む。
……そうだ。わたしにはそう、羊がいる。何か、時代がかったそぶりで口説かれたような気がするけど……わたしの相棒はそう、毛皮の愛くるしいあの羊だ。
「ごめんね。ネコさん」
「わたしには羊……パートナーがいるんだ」
信じられないといった様子で眉を寄せるネコと向き合う。
思い直して……前向きな姿勢で、再考してみるけれど、やっぱりダメ、私には羊がいるのでと優しくお断りを入れる。
「羊め、まこと忌々しきそやつの名は」
「……ジブリール」
間を置いて応える。そう、探し物の名前はジブリール羊。……はやく、探し物を見つけなくちゃいけない。
「そうだ、わたし……羊さんを探してるの」
「どうかな。ネコさん、知らない?」
「……同じぬいぐるみ動物のよしみで」と言葉尻に添えてネコに尋ねる。
「ううむ……」と考えるネコ。
「そやつ、羊めの噂は耳にしたことがありまする。魔女王崩御の報せは耳に新しき訃報なれば、そやつは、魔女王殺害の容疑で捕らえられ、今は獄中にて囚われの身」
「ご主人に置かれては、いかがなされる」
表情を引き締めネコが尋ねる。鋭い目を向け、そう問い掛けてきた。
【登場人物紹介】
ネコミル:ネコミル・レクティータ。思わせぶりなネコ。時代がかった口調を好む。日本語を勉強しカタコト喋りを卒業した。
ジブリール:囚われの羊。雄。ヒロインポジションに押し込まれる。