世迷い羊に翼はない(5)
現世は夢ーー。夜の夢こそ真ーー。
***
「ここは……」
落ちているのか、浮かんでいるのか……
広大な闇溜まりが横たわる虚空の通り道を眺める。開かれた扉を越えた先に……
〝夢の通い路ーー〟
茫洋なる空間、闇溜まりが齎す大いなる圧力に晒され、皮膚の上から潰されそうになる。けれど、心に流れ込むのは哀惜の感情。物悲しいという取り止めのない気持ち。空っぽの器に止めどなく溢れ……ただ、押し流されないようにしっかりと繋ぐ。少女の、手のひらを通して繋ぎ止めている。そこには光を持たない熱が灯る。
「……ナツメさん。ナツメさんには大事なもの、譲れない何かはありますか?」
「……ソキアさん?」
「自らを賭して守りたいもの……私には、いえ、私にも有ると、そう願います……」
「ーーだから、守ってあげてください」
「……えと」
「私があなたに会いたかった理由です……」
そう言って、睫毛を俯かせるソキアさん。
銀色の髪を艶やかに揺らす。ーー大気が、遠くに近くに音を響かせる。広大な空間を背景に……いつの間にか、しんしんと溶け入る雪の様な粒が舞う。向かい風に乗せて、舞い上がり吹き付ける。
……滞る水の、混ざり合う微かな香りを運んでくる。
「……あれって、さかな?」
魚……のような無機物が泳いでいる。細長い楕円に扇形の尾鰭を持つ。胸鰭はやや大きい。靡かせる尾鰭で闇溜まりを蹴る。まんまるおめめと、こちらに向かって顔を覗かせる。……見つめ合う不思議。
「魚……です」
ソキアさんが頷く。
頷くと同時に、足もとが俄かにざわめき立つのを感じる。
泳ぐ魚。下から、ひゅうっと伸ばす手に捕らえられる。
「ーーぎゅぷ」、捕らわれるままに呑み込まれてしまう。蠢く触手。
「……ナツメさん」
「ナツメさんは食べないでくださいね」
「えと、はい……」
「……食べません」
ソキアさんが微笑む。ヒトデの頭を優しく撫でながら、「口にすると忘れちゃいますから……」
何処とも知れない彼方遠く、不可視の境界近くを見つめる。
「あちらです」
そう言って、指差す先に歩を進める。
ーー跳ぶ。
「え、……?」
予感、が胸の内側を通り抜ける。
身体の中を、風に似た何かが通り抜ける感覚。ふと、そこにある大気が呟き声を発して。置き去りにされて、ぽつんと呆気に取られるよう浮び上る寂しさに包まれる。
一筋の渓流が、目の前で別たれ分岐するのを見つめている。
振り返って、あたりを見回し確認する。けれど、眼に映るのは黒檀の闇とその灰だけ。
「ナツメさん、見つけました」
渓流の向こうで、青白い光が燻っているのを目にする。
……異質な光。青白い中に、様々な色が混ざり合っているように見える。解離する光の白。
……アイツだ。
光は、解離する陰影のうちに、時折悲鳴を発するかのようにノイズを生み出す。騒ぎ出す闇の端に寄添い……
「こちらに、気付いているようです」
漏れ出すノイズ、『ーーーー』。
慎重に、ただ繋ぐ手のひらを放さずに近づく。頭上から足下へ、ひとところに流れる一筋の渓流を超えて……そこには、大気の香り、土の香り、鉄の香りと森の香り、水の香りと……様々な香りが溶け合っているのに気付く。暗がりに隠れた、この場は人気無い森の水場を映すよう。
『ーーここは、夢の通い路。物事の終わりが横たわる谷間……忘却と再生を繰り返す夢現の境界』
「ソキアさん……」
歩を進める先、戸惑いも新たに、仄めく光の周囲を見ると、新しく五つの影が現れるのを目にする。
ぼんやりとした淡い影。それぞれに三つの空虚な洞穴を持ち、本来は円いであろうその輪郭を今は秩序無く歪めている。
ーーそう、五つの影が声もなく叫んだ。
吹き付ける灰、暗がりが晴れる。
澄み渡る夜空が広がっている。
外気の洗礼を真正面に受けて、縦に下ろした横髪が流れる。
「…………、ッ」
はたはたとはためく羽織りを抑えながら、自分は空の上に立っていることを知る。
……足元には魔法陣。夜空と夜天を映すガラス層の舞台裏で、腕を拡げて頑張るヒトデの姿が在る。
「見つかっちゃいましたね」
「でもそう、鬼ごっこは終わりの時間です」
「今度はこちらが鬼役、捕まえてしまいましょう」
「ーーナツメさん」
「はい……!」
槍を振るう、戦乙女の前に立つ。
淡い光が戦乙女を取り囲んでいる。翼を広げて、生命の形ーー鳥を模る光が五羽。付き従う、光の化身を正面に見上げる。並び立つ真白な月の影に目を遣り、眼下地表の陰に散らばる星々の灯りに目を移し、見渡す。波紋を残して、消えていく灯りが映る。
隣には、御伽の国の夢世界の少女。〝呪文〟を唱えると、呼び出す黒い塊を両手で操り、鳥形へと向けて「えい」と打ち出す。
打ち抜かれる鳥形。避けようと羽ばたく、けれど宙を舞うドレスに回り込まれ阻まれる。さながら舞踏のようにめくるめく翻るドレスに導かれて。数を減らして瞬く間に霧となる。散らす、黒い塊が光を吸い込みながら。〝……ァ、……ァアァアア、ァ……〟
飛来するドレス。弧を描いてくるくる回る。お辞儀をひとたび、夜空の大舞台を背景に側に来て語りかける。
『……オーナー』
頭の中に声が響く。
……可愛らしい声。でもどこか頼りない。
〝……魔法を使いますか?〟
「…………魔法、……」
それは、力ある言葉。瞬きの国へと齎された奇跡。〝……炎の魔法、投石の魔法、跳躍の魔法、……の魔法〟
ーー世界を作り変える。夢と現の境界を飛び越えて、行使する。
……刹那の、流れる時に願いを込めて。
「……いくよ。ジュリエッタ!」
宙を舞うドレスに頷き、走り出す。
……うつし世は夢。夢の中で私は駆け出す。けれど、夢ならきっと忘れてしまう。目覚めの眩しい光を浴びて。目醒めの冷たい水飛沫を浴びて。今この時を、繰り返す夜の出来事を忘れて……
ーーでも今、私は思い出した。
「……だから、ここは夢じゃない、現実」
「それなら、こっちでケリをつけるのが筋だよね」
握る手のひらを正面に構える。
不連続なうつし世を吹き飛ばす力。
滲み出す拳の暖かな熱量が、躊躇わず飛び込めと背中を押す。
「ーーオブセキュア!」
ソキアさんの魔法が雲間を疾駆る。
色濃い闇が蔦を這わせ、ともに駆け走る横を通り過ぎていく。ーー収束する闇。前方で影を結び、収縮する速度を超えて爆散する。渦を巻く大気、夜空を飾る大輪の華が戦乙女を包み込む。風を取り巻く茨の道を、光の槍が囲いを突き抜けるーー
ーーーー飛び込んで……ッ
「……あなたの居場所は此処じゃないの」
「ーーゆめに帰って、ーーーー」
拳を振り抜く。夜色の手袋を纏いーー
ーー熱量が弾ける。
〝ーー散乱する光〟
崩れていく乙女甲冑を目の端で追う。
吹き飛ばされる身体、それは自身のーー
浮遊感に身を任せて、手放す身体が夜空を下へと落ちていく。
……地上の星々へと吸い込まれるように。この身ひとつ、根差す明かりが日常のもとへと帰っていく。
『……ナツメさん、……ッ』
声が聞こえる。
透明な声。
……ソキアさん。
少し慌てている。今までにない声の表情。音の輪郭。大気の、慎ましやかな残響音に紛れて、月影の夢のもとへと遠ざかり消えていく。
「またね、ソキアさん……」
瞬く星々。手を振り別れを告げるかのように躊躇いがちに囁く。
(……お日様の、……そう、朝日の迎えが来たみたい)
……、…………。
第三話に続きます。