世迷い羊に翼はない(3)
第2話 記憶
夜更けの時間。
時計の短針が天頂を指差す頃。
……眠れない。
頭の中で羊が駆け回っている。
柵を飛び越え列の後ろへ。羊たちの輪が脳裏を囲む。
ーー輪になって踊ろう瞼の裏で。羊たちの饗宴……。
「……、……」
……ひつじ?
「あれ、……?」
掛け布団を片手に跳ね起きる。
「なんだろ……、何か忘れてる気がする」
「……」
心に何か引っかかる感じ……何も無い隙間にぶら下がる影。得体の知れない、腑に落ちない感覚。
窓の外は闇に包まれている。
「……どうしよう」
……みんなはきっと、もう寝ちゃってる。
自室のドアを開き、階下へ降りる。
光の差さないリビングルーム。
寝静まる家具たち、軋む物音。
「ちょっと風にあたるくらい、いいよね……」
開け放つ玄関扉を前に、少しばかりの逡巡が過ぎる。
停滞する時間。外気は澄んで、雨上がりのように……。
透明な空気を体に取り込む。吐き出す息。
公園へと向かって歩き出す。
……道路に猫がうずくまっている。
「ニャァアン」「……ニャン」
「……」
「ニャツ……」
「……ゴロニャンコ」
見上げる猫。
耳慣れない鳴き方をしている。何というか……すごく変。
道の真ん中で前足を揃える。
お辞儀をする。……陣取る真横を通してもらう。
「ニャツ……!」
奇妙な出会いに振り返りながら。
薄明かりが漏れ出す街灯の下。
歩く。歩く。……歩く。
足元に広がる影たちの世界。
真昼の残滓、過ぎ去った昨日を思い出に遊ばせ……
私の影追う私の影ーー
光のもとで無数に解離し、地表を流れて一つに重なる。
重なる先に一人の女の子。
「あなたは……」
女の子が差し出す手のひらを見る。
細長い指先……白く、闇夜に透けて月明かりを忍ばせる。
砕け散る街灯の明かりーー
「……え?」
闇に呑まれて散らばる欠片。
明滅する光。やがては、潰えるように影に隠れる。ーー末期の煌き。
暗闇は一層その深みを増して……
映し出される女の子。銀色の髪を夜闇に解かして。
「こっち……」
「走ってーー」
引かれる腕。「どうして……」と返す間もなく、その場を走り出す。
呼吸が乱れる。
冷たい外気に押し戻される息。
「あなた、誰……?」
「わたしと……会ったことある?」
誰もいない。無機質が織り成す平坦な道のり。アスファルトの上をひた走る。
(ユキの知り合いかな……?)
(友達の友達は友達ってことかも……)
光を映す銀色の髪……青い瞳がこちらを見つめる。
「……スナッチ」
再び、ガラスが砕け散らばる音。
駆け抜け道行く先々で、近くの明かりが摘み取られていく。
塀に囲まれた曲がり角に差し掛かる。
横目でちらり、背後を確認……。
……何も、ない。
「ナツメさん……?」
「はい……⁉︎」
握る手の先、女の子が話し掛けてくる。
口にしたのは私の名前……。
「ナツメさん……あなたが、ナツメさんね……?」
月が微笑む。少女の青い瞳が微かに揺れる。
「え、と……そう、そう…だけど」
……思いがけない不意打ちにあう。戸惑い……ただ、名前を呼ばれた、……それだけのこと。
「あなた、は……」
「……ソキア」
「私はソキア」
「ソキア・ル・クラレット」
「会いたかった……ナツメさん」
青い瞳の少女が笑い掛ける。
ソキア・ル・クラレット。
聞いたことのない名前だ。外国の人……ただ現在はそう珍しくもない。
……ソキアさん。口にしかけて心で呟く。
光の球体が目の前に迫っている。得体の知れない何か……悪いもの。
すぐ頭上の灯りが闇に包まれ、地上に根ざす星明かりの粒が欠片となってパラパラと降りかかる。不安を掻き立てる、あたりを覆い隠すのは完全なる暗闇。
「ナツメさん。聞いて」
「私達で……そう、光の魔物を退治するの」
「……えっと、ソキアさん」
「急いで」
『ーーエンチャント』
透明な声音が世界に溶け出す。
少女の前に銀色の指輪が現れる。手のひらに浮かべて闇夜を押しのける。水青を湛える瞳の表層で揺らいで、『カラネミ』と少女は名前を口にする。
「……ソキアさん」
暗闇が突如、光で塗りつぶされる。飽和する明かりから目を背ける最中、太陽を偽る白色の球体が現れ、燦然とこちらを見下ろすのを目にする。
「……、……っ」
倒れ込むソキアさん。
銀色の輪っかが宙に浮かんでいる。暗闇を束ねて、拡散する光を遮っているよう。
「ナツメさん……」
……苦しそうな表情、呟く唇の微かな動きが私に『逃げて』と訴えかけている。
『逃げて、ナツメちゃん』
気づくと、脳裏を過ぎ去る既視感に捕らわれている。黒く不透明な使命感に駆り立てられ、「助けなきゃ」と心が騒ぎ立てる。瞼の裏の影法師のざわめき、彷徨う夜の羊達が問いかける。隠し立てするのは……白く小さな子羊が一匹。輪の中に。
“ナツメちゃん、ボクを見つけて”
「……ジブリール」
群青色の闇が押し寄せる。
輪郭を朧気にする陽の光。冷たい白色の影を見上げて、海の底から、水面映る太陽を見るかのような錯覚に抱かれる。
「羊さん……」
白い影の周囲に笠が生じている。
袖を広げ、水底にて見上げる微かな存在を目にして、迎え入れようと祝福してくれている。
(違う……)
光は殊更に温かみを増して囁く。
ーー陽だまりの傍には魔物が現れる。
「光の魔物……」
青黒い闇の紙面に、影を滲ませる太陽が浮き立つ。
(あれ……?ここってまだ夢の中……)
無色透明な悪意に晒される、矛盾の渦中に寄せる不透明な身の泡立ち。波打つ不安。鼓動。
「エン……チャント」
不安が形を変えて吹き出す。夜色の手袋が目の前にて揺れ靡く。妖艶で奥ゆかしい……あの時と同じ。奇妙で不連続な夜の冒険。
「ゆめ……なの……」
呟き声が頭に響く。
……そう、これはきっと夢だ。夢の続きを自分は見ている。
闇と明かりと認識の隙間で、夢の中でしか出会えない少女……月影を纏ったお姫様と目を合わせている。
……頷く。きっと大丈夫、ーー。
「……、……」
握った拳に力が溢れる。
闇が、視界の先で五つに分かたれる。
五閃の闇が後方にて押し流され、ーー引き摺るようにーー、勢いを増した光が現世へと立ち返る。
ーー大きい……。
巨大に膨れ上がった光球と対峙する。
それはまるで善意の塊。混じり気を許さない白色の悪意が示す一ー
一瞬の出来事。身体が不意に消失する感覚に呑まれる。周り全てが白色で染め上がり、意識だけが宙に浮かび上がった状態。
(え……な、なに……?)
……わたし、浮かんでる?
光が左右に落ち着かなく身を揺らす。
暗転する世界は射干玉の静けさを取り戻し、徐々にーー失われた感覚が手のひらに戻ってくる。
ーー遥か頭上より放たれた光の柱に打ち付けられたことを知る。
(……攻撃、された?)
二の腕を持ち上げ、首から下を恐る恐る確認する。
……何ともない。
(……、光っただけ……)
黒一色に静まり返る、真夜中の色が立ち塞がっている。一寸先の不可視の領域で一粒の光が息を潜めているのが分かる。
「シンダー=エラ」
陽だまりの悪魔。“あちら”でしばしば噂を耳にした。光を奪い、灰を齎す。森に息づく住民達の天敵。灰被りの光。
「ナツメさん……」
透明で芯の通った声。
ソキアさんが近付いてくる。
怪我は無いだろうか。倒れたみたいだけど……痛いところは?
「無事、ですね……」
ため息を吐くソキアさん。
胸を落ち着け手のひらを当てる。
「あちらは……大分大人しくなったみたいですね」
時折ちらちらと燻るような淡い光が奔る。
「……何か……してるの?」
右往左往する光を目で追う。たちまち、尾を引く灯りは緩やかな螺旋模様を描き出し、夜の帳に色付く幾何学的集合体を形作る。
ーー戦乙女。
その姿は戦乙女の出で立ちそのもの。
光は、自身で織りなす甲冑に身を包むと、左右に掲げる双槍を振り上げ、こちらに差し向け対峙する。
「……ソキア、さん?」
「ええ……、ここからみたいです」
それは光が束ねる舞踏会の亡霊。
戦乙女との戦いが始まる。
【登場人物紹介】
ナツメ:ほとんど中学生。少女。
ソキア:ほとんど中学生。少女。
ヒツジ:ほとんど羊。少年。