世迷い羊に翼はない(2)
✳︎✳︎✳︎
「綺麗……」
揺れ打つ水が煌めいている。
内部に光を封じ込めて、生命の色を映し出している。
『 °。°。…助けて。°。° 』
声は泉の中から。
水鏡を通して中を覗き込むと、底で小さな羊が座り込んでいるのが見える。広がる水紋 。輪を描く水の内側を潜り抜け、か細い子羊の前足に触れる。
『……ナツメちゃん』
迸る光。散乱する世界。
「ーー、ーーー…ん」
瞼を開ける。
「ーーーーえ?」
ーー夜だ
冷たい月輪が夜空に浮かんでいる。
「えと……」
見渡せば、空と海ーー、決して交わらない二つの鏡面が、水平線の彼方でひとつに重なり合う。
無限の広がりの下、ポツンと残された私自身。
「……ここ、どこ」
「ひつじさん……?」
幼い子羊の姿を探す。
視界の端にもこもこの輪郭。
だけれど、それは生き物ではない、どこか見覚えのある……布団だ。
「あれ、わたしの……」
寂しくも、平坦な地面に投げ出されている。
「……」
頼りない足元は、幽玄に落ち込む夜色の境界へと繋がり、……気付いた。
「ここって……海」
ーー海の上に立っている
波を現わす抑揚に触れる。
ガラスのような滑らかさ。
ひんやりとしていて確かな感触がある。
「……」
薄明かりが齎らす海水の色。
青黒い透明な飴細工を見つめる。
月影が導く覗き穴の奥で、得体の知れない闇が渦巻いている。冷たく深い銀色の闇。
『ーー逃げて』
突如、追い詰められた声が響く。
もふもふと、毛布の下から子羊が顔を出す。
「ひつじさん、……!?」
足元が揺れる。立っているのが困難な程。
「ーーーー、ーー」
世界が壊れる音がする。
ガラスが砕け散らばる音、綾波を掻き消し亀裂が迫るーー崩壊の波。
「ーーーーッ」
押し寄せる無数のガラス粒に捉われ、素肌を弾く鈍い痛みに堪える。
銀の粒子が噴き上がる。
月明かりを散らし、天を穿つ巨大な影を見守る。
聳え立つ尖塔の威容さを誇り、空に瞬く星々を震撼させる。
『モンスリルーー』
見上げる空に巨大な尖塔の龍が現れた。
『ナツメちゃん、ーー逃げて』
舞い散る粒子がピタリと止まる。
世界が時の流れを止めたかのように。
ーー歪む空間。光の点が輝線を描く。徐々に、引き伸ばす軌跡をこちらに向ける。
「えーーー…、ーー」
空に流れる無数の銀箭。
刹那の瞬きが、子羊の身体を散り散りに引き裂く。
「ーーひつじさん」
ぼろきれが横たわる。毛皮だけを残した痛ましい姿。見るも無残な……
(ひつじさん、……?)
……よくよく見れば私の毛布だ。私の毛布がぼろ雑巾に変わる。
子羊が駆け寄ってくる。
ところどころに傷を負った、弱々しい姿を隠しながら。
……怒りが沸々と湧き上がってくる。
「……ナツメちゃん」
おすおずと、瞳を潤ませ見上げてくる子羊。
擦り寄せる鼻先に、“……やっと会えたね”、と甘える仕草が見える。嬉しいけれど、少しだけくすぐったい感じ。
「ーーナツメちゃん、お願い。ボクに力を貸して」
決意を新たに子羊の嘆願。
「うん、勿論、わたしに任せて」
「あいつを、そう、やっつければいいんだよね」
キョトンとする子羊。
「見てて……」
「わたしの世界で、勝手なことさせないから!」
高く構えた握りこぶし、溢れる力を前にーー言い切る。
「ーー待って、ナツメちゃん」
「ナツメちゃん、聞いて」
「あれはモンスリル。世界を脅かす光の魔物」
「とっても、とっても危険なんだ」
慌てた様子で、大袈裟な振る舞い。身振り手振り、その口ぶり。
「大丈夫だよ」
「悪い子はそう、わたしの魔法?でやっつけちゃうから」
「魔法? ナツメちゃん、魔法を使えるの?」
「え、……と、そう。そうだよ、もちろん」
だってそういう夢、なんだよね?
「そっか……、ナツメちゃん」
「それじゃあ、今から言う呪文を唱えて」
祈る子羊。力ある言葉を捧げ、詠う。
天には巨大な尖塔が聳える。今にも、星々の領域を侵さんと上昇する。キラキラと、ガラスの粒が夜空に棚引く。また一つ、願いを掬えず伝い落ちる流れ星。流れ星が導く世界の向こうから……
「ーーエンチャントだよ」
受けとめる言葉。
(呪文……、ッ……)
「ひつじさん、…ーー」
“エン……チャント、ーー…”
「ーーーー、ーー」
衝撃が身体を通り抜ける。
ガラスの海が四方に波立つ。
散乱する粒、流れる月明かりの輪。
銀の粒子が収束する。
剥がれ落ちる夜ーー
夜の帳が形を変えて、砂漠の海に降り注ぐ、紡ぎ出される一織を目にする。
「ッ、ーードレス」
「ナツメちゃん、今だ! 掴んでーー」
「変身するんだ!」
(変…身……?、ーーーー)
優雅に、裾を広げて揺蕩うドレス。
上品な佇まい、誘う、手のひらを引き寄せーー
ーーーー掴む。
光の散乱。
「……ナツメ、ちゃん」
流れ込んでくる世界を引き止める。
引き止める先に夜色の手袋。
手首をとおす銀の輪っかと、気品を匂わす紅の刺繍紋が映える。
「え、と……」
「これって……?」
「ナツメちゃん、乗って」
頼もしい表情で催促する子羊。姿勢を低くし潜り込む。
「僕に掴まって、離れないでーー」
「さあ、ーーいくよ、ナツメちゃん」
ふわりと身体が地面を離れる。
浮遊感に乗せられ舞い上がる気持ち。
夜空を目指して子羊が駆け上る。
瞬く間もなく遠ざかる地平。地平に耀く合わせ鏡の景色ーー
「飛んでるーー」
もふもふの、体毛を抱き寄せしっかりと掴まる。
「わたし、空、飛んでるーー」
「ーー雲だ」
前方に現れるもこもこの綿毛。何処かで目にしたその輪郭。
(ぶつかる……!)
綿毛と綿毛ーー
不意に催される一騎打ち。
流れる冷や汗。
衝撃の一瞬、……。
頭を低く、ーー突き抜ける。
「ーー、ーー」
揺れる子羊の身体。
灰色の世界をとおした先でーー
冷たくなる風。高度を上げて雲間を置き去りにする。
……打ち捨てられた大気の残響音。
「そっか、空を飛ぶって、こういう気持ちだったんだね……」
(ひつじさん……)
ーー広大な空。子羊の背中から見下ろす風景。夜空を形作る天球の覆いと、星々を呑み込む夜宙の海。遍く星々の故郷を見上げて、喉元深くに込み上げてくる言葉。
「答えて、ひつじさん……」
「……ここって、本当にわたしが見ている夢の中なの?」
月明かりが照らす子羊の横顔を覗く。けれど、影がその表情を暗幕のうちに隠してしまう。
「ふふ……そうだよ、ナツメちゃん」
「ここは、そう……ナツメちゃんが描いた夢の世界。ーー夢の世界にボクたちはいるんだ」
「でも、……ほら、見て」
「そんな世界をも脅かすものたちがいる」
遮られた月影。撒き散らされる暗雲の影に、彼らの存在のあり方を見る。
「うん……、ひつじさん」
「……そう、はやく、やっつけないとだね」
「ナツメちゃん……」
「任せて……」
「やり方は、何となくだけど、分かるんだ……」
「……ナツメちゃん、……」
「うん、ナツメちゃん……」
「ありがとう……」
俯く子羊。けれど、やっぱり、影に隠れて表情が見えない。
「ふふ、どういたしまして」
「それじゃあ、今度こそ、見てて」
「わたしの魔法」
「わたしの世界を取り戻す魔法を」
「さあ、お仕置きの時間だよ」
ーー語り掛ける。気付いたようにこちらを見つめる。曇りを知らない銀色の瞳。光を湛える、天球の覆いから顔を出す。巨躯を曝して夜宙に吼える。全霊の叫びで存在を誇示するーー
愛しき夜に手のひらを掲げる。求め欲する夜色の手袋、情熱の赤が光を放つ。唱える呪文。
ーー焼却の火。
「篝火よーー」
「遍く虚影を洗い流してーーーー」
「ーーーーマルディ・グラ!」
炎が解き放たれる。
尖塔の龍を真上から呑み込む。包み込む火。
炎が呼び出す月下の咆哮。
銀の岩肌を雲間に散らし、崩れ落ちる端から消えていく龍の巨躯。銀の斜塔が自我を失い……月明かりのもとに粒となり霧散する。
照らされる世界。
ーー映る、夜明けの兆し。
長い長い夢の終わり。小さな冒険のフィナーレを飾る。
「ふふ、どうだった? ひつじさん」
「わたしは、わたしの世界を守れたかな?」
「ナツメちゃん……」
「うん、もちろんだよ」
頷く子羊。表情が見えない。それならと、次はしがみつく肩から前へと乗り出し、横顔近くで覗き込む。
今度は、光に照らされ浮かべる笑顔。赤みが差した照れ隠しの表情。
「ーーありがとう、ボクの……小さなご主人さま」
子羊の、確かな熱が伝わってくるのを感じた。
世は魔法少女時代ーー
血で血を洗う大戦が始まろうとしている。
戦いの果てに、主人公は何を掴むことができるのか。
だらだらと続きます。