世迷い羊に翼はない(1)
第1話 ドレスティックは始まりの夜
今日も森で動物たちと追いかけっこをする。
ーー追いかけるのは私。
逃げ惑うネコさん、ウサギさん、おイヌさま、クマに狙いを定める。
「ほら、クマ吉くん。捕まえた」
「わあ、ナツメちゃん。はやい、ちょっと待って」
クマ吉くんが喚いている。
この世は弱肉強食。潔きことは美徳のうち。
……あまりにグズグズ往生際が悪いと、腹から捌いて熊鍋にしちゃうよ?
「ええと、ナツメちゃん、怖いよ、何考えてるの……」
「それより、ほら、聞こえてこない? 向こうの……崖を挟んだ向かいの森から、助けを求める声がするんだ」
声? ……どうかな。聞こえる?
「……あそこは確か、妖精の森ね」
「どうしよう……崖の向こうには、怖い動物や恐ろしい魔物が住んでいるって噂だよ。血をすすりながら生きてるって」
「それにボクって四足歩行だから。えいやと崖を越えられれば良かったんだけど。飛び出したら最後、三途の川まで渡っちゃう」
「クマ吉くん……」
「ナツメちゃんって、ほら、この夢の世界の造物主でしょ。何とかしてあげられるんじゃないかと思って。それだからボク、こうしてまっさきに捕まったんだ」
「ふうん……そうなんだ」
腰を落ち着け安堵するクマ吉くん。
役割は果たしたと言わんばかり。
「それじゃあ、ボク……」と目蓋を閉じる。
地面にへばりつくクマを見下ろす。
夢見がちなクマ。そんなクマが言うとおり、ここは私が見ている夢の世界。ただ、気付かされたのは今回が初めて。新鮮な驚き。寝息も聞こえる。
「……あれ、ボク、どうしたの、捕まっちゃった?」
ハッとする仕草で起き上がるクマ吉くん。
眠たげまなこをしきりに擦る。
夢見の世界から戻ってきたようだ。
「そっか。じゃあ、ボクもみんなを探さなくちゃいけないね。うぅん、追いかけるのは得意じゃないんだけど。どうしようかな……」
「そうだ、今夜はウサギさんにしようかな。どこかなあ、ウサギさん……」
とぼとぼ、足跡を残して去って行くクマ吉くん。揺れる尻尾に「またね」と返す。すり潰された草葉を見て、少しだけ残念な気持ちになる。あの肉球には粛正が必要らしい。
崖の向こうにも森が続いている。
足を踏み入れたことはない、でもきっとそう。
動物が住んでいて、魔物が現れる。妖精や魔女だっているのかもしれない。
あちらへ渡るには崖を越える必要がある。
クマ吉くんではないけれど、走って飛び越えるなんてできそうにない。
崖の下には何もなく、ただ吸い込まれそうな闇だけが息づいている。そう、崖というよりは亀裂である。世界を隔てる亀裂があるのだーー
「夢の中なら飛べるかも………」
強く意識し念じてみる。
身体がふわりと軽くなって、空へと浮かぶのを心待ちにする。
(……お願い)
身体の中を風が駆け巡った。
気付くと目の前には森が広がっていた。
静けさが木々の緑を色深く染め上げている。
「ここ……」
背後を振り向く。
大地が途切れる境目を見つける。
境目の向こうでクマとウサギが追いかけっこしている。
脱兎の如く跳ね回るウサギ。
ついには崖の縁へと追い詰められてしまった。
『グルルル……』
涎を垂らして躙り寄るクマ。
鋭い爪が見え隠れしている。
逃げ場をなくして縮こまるウサギ。
小さな尻尾が小刻みに震える。
「あ……」
一瞬の出来事。
荒々しく飛び掛る黒い塊。
覆い被さる巨体のすき間を白い塊がするりとすり抜け、行き場を失った野生の本性は崖の下へと転がり落ちていく。落ちていく塊を見つめながら、毛皮のなか、埋もれた小さな瞳とぴたり目が合う。
『あれ……ナツメちゃん』
空へと伸ばして揺れる四つ足。
『そっか……』
『ナツメちゃん……またね』
擦りむけた肉球が別れを告げる。
「クマ吉くん……」
待ち受ける闇。
鋭く開いた大口の谷間に、頭から呑まれて見えなくなってしまった。
『ーー助けて』
声が聞こえる。
たった今、視界から掻き消された彼の声だろうか。
耳を塞ぐ。けれど、悲鳴は後から後から追いすがり聞こえてくる……。
(……やめて)
足音が駆け出す森の中。
「……ここって」
うす暗い、静けさが齎す魔を秘めた空間。
「……妖精の森」
そこかしこで、姿を見せずに沈黙する妖精たちの薄笑いが聞こえるよう。
『お嬢ちゃん』
「ッ……だれ」
背後からの不意打ち。
『ひゃあ、なんだい、驚かせるんじゃないよ』
『いきなり、声を上げないでおくれ』
誰もいない。姿が見えない。どこにいるの?
『りんごを探しに来たんだろう?』
『泣いてばかりのりんごはあそこだよ』
幹の陰から腕が現れる。
血色が悪い、いまだ幼い子供の腕だ。
「あそこ?」
指差す方へと目を向ける。
当然とばかりに、森が続いている。
『あまい香り……』
奥の方でちらちら光が瞬いている。
『さあさ、お行きなさいな』
今度は、幹の反対側から腕が現れる。
女性の腕。
『気をつけて』
『陽だまりの傍には魔物が現れる』
女性の腕が指を差し向ける。
木漏れ日の光。
『僕たちだってうかつには近寄れない』
『怖くて怖くて足がすくむ』
『けれど、見捨てないで』
『私は彼らに見捨てられたもの』
『どうかお願い、忘れないで』
木漏れる明かりの向こう側から、溢れる数多の声に取り囲まれる。
『……助けて』
声が聞こえた。
助けを求める声が聞こえる。
「あっち……!」
駆け出す。
聞こえていたんだ。
ピントが少しずれていただけ。
静けさの気配は賑やかな内面のその裏返し。
表から裏へ、押し殺した声で溢れ返っている。
(もうすぐ……)
光が近づく。
『助けて……』
木々の隙間から広がる光景。
踏み越えた先に、
小さな泉がひっそり待ち受けていた。