~第1章1つの終わりと入院生活の始まり。~
大怪我、仕事上での大失敗、失恋、世の中にある不安、葛藤、絶望そんな状況に置かれている人に読んで頂きたい。私が生き残り社会復帰出来た事はただのラッキーかもしれない、世の中には絶対はない。
だから復活できた例がある事を伝えたくて、同じような怪我や病気になってしまった方、その方のご家族に向けて執筆しました。
今回の話は交通事故で脳出血を起こし左半身のマヒと高次脳機能障害を負った私の話をさせて頂きます。
麻痺については、『きっと動かしにくいとか動かないとかなんだろうなー。』とわからなくても何となくイメージ出来る人は多いと思います。私自身、なるまでわかりませんでした。むしろ元気な学生の頃は入院する事自体が『ゆっくり休めていいなー。』と感じていました。
高次脳機能障害について、皆さん知っておられますか?私は作業療法に関わるまでは全く知りませんでした。
高次脳機能障害とは注意力、計画を立てる力、記憶等々、生活していく上で必要な様々の面で使う脳の力に問題が出てしまう障害です。
そんな交通事故の後遺症を負いながら、挫折し、退職し、このまま進んで行けばいいのか?どうするべきなのか?と試行錯誤しながらリハビリされる側からリハビリする側になる。覚える事が苦手でも作業療法士になれた。サポート側になれた高次脳機能障害の可能性の1つとして伝えさせてもらいます。
人生って、繰り返しだと思う。なんかよくわからないうちに過ぎていく毎日の中にも1章、2章って人生の転機ってある。全てが終わって全てが始まった。そんな1つのエピソードを聞いて下さい。
おはようございます。2009年季節は12月。
どうやら目が覚めたらしい。
でも何だか外はぼんやり黄色っぽい見慣れない風景、動こうとしても何だか体が重い。体が言うことを聞いてくれない。ここはどこだ?お酒は好きだ。飲み過ぎたんだろう。これはきっと、まだ夢の中なんだと思う。そんなところから全ては始まった。
どうやらまだ夢の中みたいなので自己紹介をします。現在は19歳の大学二年生、大学では経営学部所属で柔道部所属、中学の頃から柔道を始めた講道館柔道の段位は三段。勉強に関しては、中学までは勉強はできる方で学年300人の中でトップクラスだったが高校で部活動に必死に取り組んだ結果成績は伸び悩んだ。しかし部活も勉強もわりと要領よくこなせていた為、クラスの中の下の成績で柔道部のレギュラーメンバーに残る事が出来た。
その結果、進学することが出来た大学で寮に入りながら生活を進めていた。大学では際どいラインの実力であった事や監督との不仲もあり団体戦にはあまり出る事もなく、ぼちぼち柔道をしながら週3~4くらいスーパーの夜勤のアルバイトに行くといった生活を行っていた。
自己紹介が終わっても風景は変わらない、見慣れない景色はなんだか病院にいるみたいだ。病院にいる理由が全然思い出せない。仕方ない、Nsコールを押してみよう。
Nsさんの言葉は『11月に交通事故にあって、怪我して入院したんよー。』そう教えてもらってもなんだかよくわからない1ヶ月はたってるみたいだ。
それまで、数年に一度しか風邪を引くこともなく、怪我といっても柔道で骨にヒビが入るくらいしかなくやはり信じられなかった。信じられないが左側の手足は言うことをきかない。どうやら、自分の手足じゃないらしい。夢の中の話らしいので、一度自分の首を絞めて落ちれば大丈夫な気がした為、タオルで自分の首を絞めたらNsさんたちが集まってなんか色々問題になっていた。どうやら本当らしい。
今の状況がいまいちのみこめない。もう少し昔話をしながら、徐々に思い出して行こう。
聞いた話や、カルテの内容からその時の状態を説明したいと思う。どうやら、大雨の日に交通事故にあったらしい、アルバイトの帰り道で原付に乗っていて大きめの交差点で信号無視をしてしまったらしい。その結果、ワゴン車に吹っ飛ばされて8m飛んだらしい。意識の評価尺度でJCS200(痛み刺激で反応するが、意識は無い)で病院に緊急搬送されたらしい。京都の某私立大学に通っていた為、京都市内にある総合病院に搬送された。
怪我の内容としては、顔面骨折3箇所(左頬骨陥没骨折、両顎骨骨折)と右脳出血数ヶ所、びまん性軸索損傷という診断であった。
カルテの初期評価は左側麻痺(筋力評価尺度で上肢、下肢、手指ともにmmt1)、認知機能は長谷川式認知機能尺度で18点に届かない(認知症レベル)、高次脳機能障害の影響で失語があった。その影響で『う...ん。わかっ...た。』『〇〇さん』といった単語しか話せないといった状態だった。だからまあ、その状況が受け入れることが出来なくて当たり前であった気はする。あの事故から10年近くたった今だからわかる事だ。
搬送された所に、話を戻したいと思う。病院から家族に連絡があって兵庫県の西の方にある実家に連絡があって、実家から両親と兄、寮から先輩2人も来てくれたらしい。先輩2人は、京都の同じ大学の寮にいた為、両親よりも早く病院に到着した。しかし、icuに入っている私についてはNsさんから『寝ているから、会えません』と言われて中に入る事が出来なかったらしい。面会出来なかった為、母から病院へ連絡し先に入ってもらったが、Nsからは個人情報保護の為、やはり寝ているとしか伝えられなかったらしい。その後、家族が病院に到着し医師から説明を受けた。両親が事故の状況を警察官の方から聞かされ、意識が戻ることなく死ぬものだと思っていたようだ。柔道で身体を鍛えていた為死に至らなかったのでは無いかと考えられた。意識の無い間無意識で、非麻痺側である右側で暴れたり、チューブを引き抜いたりするため四肢拘束されていたらしい。そんなこんなで最初の状況に戻る。事故から一週間ほど意識不明で寝ていたらしい。
最初の状況は記憶もろくに残らないし、ベッドからろくに動けないし、京都の病院の思い出は何だか大きく印象に残っているものはいくつかあるが、一番印象に残っているのは寝返りの際に誤って麻痺側の左上肢を巻き込んでしまい腕が千切れるかと思い、ナースコールで助けて貰った記憶がある。色々と助けてもらっていたそんな病院生活だった。
最初は左側の麻痺と高次脳機能障害が目立った。特に最初は言葉が話せない事が目立った。(運動性失語)言葉がなかなか出てこない。10年近く経過した今でも噛む事はあるが入院中は音楽療法で歌で声を出す練習をしたおかげで、徐々に話せるようになった。
入院中は元々あまり口にすることが無かったパンをひたすら食べていた。どうやら、自制心が崩壊していたようだ。
最初の病院にいた頃のカルテを見ていると、気になった項目があった。それを見たのは退院したのちだが、家族の希望に書いてあったのは『もう一度、柔道界に戻してあげてほしい』と書いてあった事だった。そのカルテを見た時に選手としては戻る事は出来なかったが、指導だったり、趣味程度の柔道は出来る様になった。形は違うが柔道界に戻る事が出来て良かった様に感じる。
入院中の話に戻りたい思う。
3つの病院に入院したのだが、1つ目の病院の話に関しては事故のあとボンヤリとしていた為、断片的にしか残っていない。記憶に鮮明に残っているのは、同世代の女の子に排泄介助をしてもらっているのが意識がハッキリしてくるにつれてどんどんきつくなって言った事だった。歩く事さえままならない状況で、自我が戻ってくるにつれて恥ずかしい気持ちがどんどん復活していった。その為、もう二度とあの状態には戻りたくない。
もう1つ、印象的に残っている最初の病院での記憶は寝返りをうった際に左手を巻き込んでしまい、どう動こうとしても左手が動かずちぎれてしまいそうなくらいの激痛に襲われ情けない気持ちともう二度と使える手にならないんだろうなといった不安に襲われた記憶を覚えている。
左手に関しては退院するまでなかなか使いづらい手だった為、いっそのこと切り落としてしまいたい。そんな風にさえ思った。私の左手は柔道の左組手の私にとっての生命線だった。相手の胸を付く左手があってこそ、変則的に技を繰り出す事が出来た。
その時、当たり前の毎日は幸せな毎日なのだと感じた。左手を事故
今後も話を続けて行きますので、どうぞよろしくお願いします。