「伝えたいこと」
(あーあ、今日も残業かぁ。まぁ年度末だから仕方ないよね)
残業代もつくしね、とミキは1人で自分を奮い立たせた。
時期は年度末、どんな仕事でも忙しくない会社はないだろう。だが、ここのところ帰宅時間も夜9時を必ずまわっており、自分の時間などほぼないに等しい。
「うわ、ひっどい顔。化粧崩れてるし」
室内が乾燥していたのでリップをぬり直そうと手鏡を出すも、あまりの顔のくすみに愕然としてしまった。思っているより疲れがたまっているのかもしれない。
(こんな時、蒼井くんがいてくれたらなぁ……。一瞬で疲れが飛んじゃうのに)
ミキは手鏡を置くと、ぼんやりと思いにふけった。
同じ部署の蒼井は、突出したイケメンぶりで知られている1つ年上の先輩だ。
普段あまり話す機会はないが、女子社員への紳士的な立ち振る舞いや、もちろん仕事での営業先での評判もかなり良いと聞いている。
彼女がいるのかいないのかは、誰が聞いても、蒼井ははっきりとは答えていない。そのため女子社員の間では、毎日のように話題にのぼっている。
ミキは仕事で忙殺されていたため、最近はその話題からは自然と遠ざかっていた。
だが蒼井の席は、なんとミキの斜め前。見ようと思えばいつでもあの顔を拝めるのだが、その前にミキの頭によぎったのは、おそらく必死の形相でパソコンに向かっている自分を、蒼井がクスクス笑いながら眺めている。という、思い出すだけでも恥ずかしい絵面だった。思わず鳥肌が立った。
(あーもう、マジ死にたい。さっさと終わらせて帰ろ…)
適当に化粧を直すと、ミキは気を取り直してパソコンに向き直った。
だが一度途切れた集中力を取り戻すのは難しく、5分も経たない内に眠気が襲ってくる。
「だめだ。進まない……」
「まだ残ってたの?」
「………………(寝)」
「だいぶ疲れてるみたいだけど、大丈夫?」
脳の9割が眠気に浸っていたミキは、後ろからかかった声にガバッと起き上がった。知らない間につっぷしていたらしい。
起き上がった拍子に、おでこに書類がひっついていた。
「目、覚めた?」
ぺりっとおでこから書類をはがされると、ばっちり目が覚めるイケメンが笑っていた。
蒼井だった。
はたから見ればお笑いの図式であった為、ミキは一瞬で我に返り、とたんに地面に穴を掘って隠れたくなった。当然である。
蒼井は営業先から帰ってきたのか、小脇にかばんをかかえ、濃紺のスーツにストライプのネクタイをつけていた。よどんでいた視界が、一気にキラキラ度を増幅させる破壊力で輝いた。
しかも少しウェーブのかかった前髪をオールバックにしており、しかもスーツと同じ縁の眼鏡をかけていた。こんなイケメンが営業先に現れたら、おそらく内容もろくに聞かずに話が決まってしまいそうだと、ミキは壊れかけた脳内で一気にストーリーを組み立ててしまった。
「な、蒼井くん…」
「今戻った。先方が時間先指定してきてさ、遅くなってしまって。そしたら電気ついてるから、誰かと思ってさ。いつもこんな時間までやってるの?」
とても疲れているとは思えないキラキラ度200%の(ミキ目線)笑顔を向け、斜め前の席にかばんを置く。少しネクタイをゆるめ、眼鏡をはずした蒼井は、もはや漫画から抜け出した以上の男前にしか映らない。
「いや、えっと……。最近ほら、うちの部署も忙しいし、少し要領悪くしちゃうと、なんかこう、うまくいかなくて」
「……そっか」
蒼井はすわると、きれいな指を組んだ。それすらも美しいと思えるのは完全な贔屓目だ。
「仕事内容は知ってるけど、いつもは手伝ってやれないからなぁ。あとどれぐらいあるの?」
「…へ?」
「仕事。あとどれぐらいで終わる予定?」
傍らにある膨大な資料のデータリングを今からやろうとしていたとは言えず、ミキは黙ってパソコンに向き直った。
「どうしたの?」
「えっと……、まだちょっとわかんない。とりあえずこれ終わらせないと本当ヤバイから、ちょっと頑張って終わらせる。1時間ぐらいかかるかな」
「…………」
「蒼井くんだって疲れてるでしょ? 昼間だってずっと出ずっぱりだったみたいだし、明日も早いんなら、もう帰った方がいいよ」
「え……。いや、俺は別に? もうこんなもんだって割り切ってるし。今から帰ったって、やることないしさ」
「え、そうなの? 彼女とかいるんでしょ? デートとかさ」
ミキの言葉に、ふっと蒼井の表情が少し曇るのがわかった。何かまずいことを言ってしまったのかと、ミキは内心でため息をついた。
疲れていると、思いもよらない言葉が出てしまう。蒼井にとっては大きなお世話とも取られかねない言葉だった。
いるともいないとも蒼井ははっきりさせていないはずなのに、こんなに格好が良ければ当たり前のように彼女がいると決めつけてしまっていたのは自分だった。
「……ごめん。余計なお世話だったよね」
「え?」
「ちょっとコーヒー買ってくる」
ミキは慌てて席を立ち、蒼井を振り返らないようにしてオフィスを出た。
(あーーーー私のばか。ばか。ほんっとばか。なんであんなこと言っちゃったんだぁあーー)
ロビーに出るなり、ミキはその場に両手をつきたくなるほど後悔していた。
自販機でとりあえずコーヒーのボタンを押し、かたわらの椅子に腰かける。
だが実際は、座っているというより、頭が床につきかねないほど前のめりでうなだれているとは、ミキ自身も気がついていなかった。
(蒼井くん、絶対怒ってた。怒ってた? いや怒ってた。何でお前がそんなこと言うの? みたいな顔してた。絶対してたーーー)
脳内がもはや決壊しているため、今のミキにまともな思考回路を求めるのは難しいようであった。
「もう9時じゃん……」
あと1時間やったとして、会社に泊まったほうが早いかのような時間帯だった。
「帰りたい……」
「おい、ミキ」
うなだれていた顔を上げると、ふわん、とコーヒーの香りが漂った。
「忘れてる。コーヒー買いに行ったんじゃなかったの?」
「あ、あ、あ、蒼井くん!?」
「俺もコーヒー買いに来たんだけど、自販機にあったから、お前が買った分だろ? まったく、どこまで仕事のこと考えてるんだか。ほら」
蒼井の手からコーヒーを受け取ると、いつの間にか自分もコーヒーを片手に、なんと隣に腰かけた。危うくコーヒーをこぼして火傷をしそうになるが、なんとか手前でとどまった。
「………毎日こんな時間までやってるから、そうなるんだろ」
「……え?」
「俺も最近さ、思うように契約取れなくて焦ってて。それで今日なんとか先方に時間つくってもらって、なんとか取れたんだ。これで明日課長に報告すればOKなんだけど、ひとつ気になってることがずーっとあってさ、あまり手につかなかったってのもあるの。正直」
「気になってること?」
「お前のこと」
長くて綺麗な指を組みなおし、コーヒーを片手に持ち替え、蒼井はミキの方を向いた。
少し切れ長な目で見つめられ、ミキは硬直してしまった。
オールバックの前髪が、計算されたかのように1本だけひたいに落ちていた。
「…え、あ…えっと……私……?」
「そう、お前のこと。斜め前の席でさ、ずーっと必死になってパソコンに向かって、昼飯もろくに取ってないのも、休憩に行っても10分も経たずに戻ってきてたのも全部知ってる。ずっと見てたから、お前のこと」
ミキの手から、あやうくコーヒーが滑り落ちそうになった。
「おっと」
手を添えられ、ますますコーヒーの位置が危うくなりそうだったが、なんとかこらえた。
「大丈夫?」
「み、み、見てたって……。あの、蒼井くん、ずっと外回りでいなかったのに」
「会社に戻ってきて報告書まとめる時ぐらいだったら、お前のこと見ていられるから。だからいつも、早めに外回り終わらせて帰ってきてたの。今日だって、ミキが残ってること知ってたから、先方に今日のこの時間帯を指定してもらった。それでさっき帰ってきたってわけ。これで納得した?」
「え、あの……、け、契約取れないっていうのも、蒼井くん、わざとってこと?」
蒼井はまたしても、計算された角度(ミキ目線)で目を伏せる。
「そこまで要領よければ、こんな苦労もしなかったんだけど。ずっと忙しかったし、ミキにずっと言いたいことあった。俺に彼女いるとかいないとか、はっきり公言しなかったのって、ちゃんと理由があるわけ。それを今日伝えたかったの」
蒼井はあいている片方の手を肩に沿え、まっすぐミキを見つめた。心臓破りの坂ならぬ、心臓破りのまなざしであった。破壊力が300%ほどに増幅した。
「俺の彼女になって」
「………………………。…………へえぇ!?」
「嫌?」
そういう問題では全くない。
「毎日こんな残業させないように、俺がそばにいたい。もし他の男と2人っきりになった時は俺が守れるし、絶対つらい思いはさせない。だからこれ。ほら」
蒼井はおもむろに、見覚えのある書類の束をミキに手渡した。
「え、これ……。後で私がやろうって思ってた、データリングの書類? 何で? これ、蒼井くん全部やったの? 今? あんなにあったのに……」
「これで納得してもらえた?」
これぞ必殺技、有無を言わせないキラキラ度がもはや何百%になったかわからなくなった微笑みで、ミキを黙らせる蒼井。
もちろんぐうの音も出ない。
「俺は優秀な彼氏だと思うけど? お前にとって」
「…………………」
「ミキ?」
心の線がゆるみ、ぽろぽろと涙がこぼれた。
書類を抱きしめたまま、蒼井の目から目線がはずせなかった。
コーヒーはもはや脇役となり、すっかり冷めてしまった。
蒼井は椅子の傍らにコーヒーを置くと、そっとミキを抱きしめた。
濃紺のスーツから良い香りがする。
「だからもう1人で頑張るな。これからは俺がお前のそばにいてやるから」
最初はかわいく出ていた涙は、もはや蒼井の腕の中では洪水のように流れ出してしまった。
スーツが汚れるというミキの心配は想定内であるかのように、蒼井はその腕を解放しない。
「蒼井くん……スーツが汚れる……」
「スーツのかわりなんていくらでもある」
心に蓄積していた疲れが、蒼井の良い香りで浄化されていくかのようだった。
「お前の涙のかわりはない。今ここで全部流せ。俺が受け止めてやるから、全部」
「私、鼻水も出てる……」
「知ってるよ」
「化粧も崩れてる…」
「わかってる。全部知ってるから」
クスッと笑う気配がすると、ようやく心臓に悪い抱擁が終わった。
ユデダコのように頭から湯気が立ち上っている。
「……早く言っておけばよかった」
「……何をぉ…?」
はたまた良い香りのするハンカチで顔のあちこちを拭われながら、ミキは鼻声でたずねた。頭がフワフワしてあまり意味はわかっていなかったが。
「お前だけをずっと見てたってさ。だから彼女がいるとかいないとかはっきり言わなかったし、それでお前が色々気に病む必要もなかったのかなって。それは俺も反省してる。
でももう、俺は言ったから。お前のそばにいたいって」
「……うん」
「お前は? 誰のそばにいたい?」
顔があまりの至近距離で、目線がままならなかったが、なんとかその殺傷能力に耐えた。
「返事は?」
「………………蒼井、くん」
「よし」
帰ろう、と蒼井は立ち上がり、ミキから書類を取って自分の手に持つと、片方の手をミキにさしだした。
「おいで」
「………」
「送ってく。今日からは毎日、俺の車で退社だから」