朝には消えてしまう
『お前、あの子と結婚考えてんのか? お前の事をちゃんと知ってる女で、本当良かったよ……一体、どんないい女を騙して婚姻するのかとドキドキしてたよ、俺は』
大手企業のエリートサラリーマンには縁のないボロアパートの手すりに腰をかけ、居酒屋で親友と話した事を思い出しながら家に帰る前に煙草に火をつけた。夜空へ上がって行く煙を仰ぎ、手すりに体重をかける。
今まで俺の事を知らない女が言い寄ってきたが、だからこそ女はあまり得意ではなかった。それを知ってか知らずか、恋人がいないという面目で押し付けられた企画を断らなかった事を、今日を迎えてとても後悔していた。
昔から見かけと反して思った事を言えない自分が嫌いだったが、余計に嫌いになった。
白煙と一緒にため息を吐き出すとほぼ同時に家の扉が開いて、ギクッと飛び上がった。中から長い黒髪を耳にかけながら、ため息の原因だった女が出てきた。
「おかえりなさい、あなた」
「……な、何でわかったんだよ。いるって」
「煙草のにおいがしたから。暑いでしょう? 冷たい飲み物と、ご飯の準備が出来てるわ」
笑顔で迎え入れてくれるこいつを蔑ろにできず、携帯灰皿に長い煙草を押し込んで家の中に入った。
一瞬だけでもボロアパートだと忘れるほど綺麗に掃除された部屋は、去年までは考えられなかった。
座布団に腰掛けるとテーブルに夕飯を並べてくれる。暑い日なのに、麦茶と湯気の立つラーメンが出された。気温や俺の様子で夕飯を決めていたこいつには意外で、きょとんと向かいに座るあいつに目をやるとくすくすと笑われた。
「とんこつラーメンよ」
「……わかっけど。てっきり今日はそうめんとかかと思ってたよ」
「今日で最期だもの。あなたの好きな物にしたのだけど……やっぱり、嫌だったかしら?」
会社でも何度も聞いた言葉が、家でもこいつの口から告げられる。胸から込み上がってくる【何か】に耐えられず、俯いて箸を持つ手に力が込められる。
「い、一応ね、そうめんも作ったのよ。そうめんの方がいいかしら?」
顔を上げられず、首を横に振る。頭にはこいつの困った顔が思い浮かぶ。
「明日」
重い言葉を口にすると、力の込められた拳が震える。
「朝一で部長と社長がお前を引き取りに来る」
「そうなの」
変わらぬ口調でそう言った。ヒトではなく、非常に人に似せられて作られた機械であるこいつには、既に会社からそうデータが送られてきているのかもしれない。
「明日の朝までには……データのリセットしておけと」
「そうなのね。あなたは、これで昇格できそう?」
「……俺は、給料泥棒だって部長に嫌われてるからな」
「でも、わざわざサンプルの私と一年間過ごさせて、データを毎日作っていたんだもの。係長くらいになってもいいと思うわ。それとね、これ、どうぞ。今日の報告書よ」
テーブルにUSBを置く。能力のない俺には作れなかった報告書を、こいつは家事と一緒に一年間毎日データに纏めてくれていた。
「……すまねぇ」
「いいのよ。あなたじゃ書けないのだもの、助けあわなきゃね。それとね」
一呼吸置いて、あいつは顔を上げらない俺に言葉を紡いだ。
「あなたが寄りかかっている手すり、大家さんが壊れそうだし直すって言っていたから、もう寄りかかっちゃ駄目よ」
「…………」
「煙草は、一日一箱とか、制限を決めてね。このままだと身体を壊すわ」
「…………」
「煙草と言えば、お隣さんが玄関が煙草臭いって怒っていらっしゃったから、気をつけてちょうだいね」
「…………」
「ゴミを出す日をノートに纏めておいたから、ちゃんと毎日捨てるのよ。たまに曜日が変わるから、変わったらちゃんとノートを直しておくこと」
「…………」
「それと、あなた、また私の知らないところでパチンコに行ったでしょう? 行くなとは言わないけど、回数を減らさないと食べていけなくなるわ」
「お前は」
か細い声で、あいつの話を遮る。
怒られて当然の事を言われてるが、鼻の奥が痛くなってくるのは、きっと、怒られたせいじゃない。
「怖くないのか」
「え?」
顔をあげると、あいつはとても困惑していた。変なところが、こいつは機械のようで時折苛立っていたことを、まるで昔のように思い出してしまう。
「俺は言ったよな、データを消すって」
「えぇ」
「ここ一年で作られたお前の人格データを消せと命令されたのは俺だ。言ってる事はわかるな? 俺には、明日の朝起きたらお前を殺せって言われたような気分だったんだぞ」
「…………」
「明日には、お前の死体を取りに来るって言われたようなもんなんだぞ!」
怒鳴り声をあげた俺に流石にびっくりしたこいつは目を丸くした。そして辛そうに渋面するものだから、ぐっと後悔をしてしまった。高性能とはいえ、機械であるこいつは泣きはしなくとも、まるで泣かれたような気分だった。
そうだ、きっと、内心では怖いに決まってる。
「わ、悪い」
すぐに謝ったが、まだ不安そうにしている。この一年、沢山の表情を見せていたが、辛そうな顔を見たことはなかった。
ここにきて初めて見たこいつの表情に戸惑いを隠せない。顔を見たくない俺はつい逸らしてしまった。
「怒鳴って悪かったけど、俺だって……その」
「ありがとう」
突然の礼に心臓が跳ねると同時に、痛みが走った。
無意識にあいつの顔を見ると、目尻に涙が溜まっていた。
頭で考えていた事が、全部消えてしまった。
「一年間、ありがとう」
まるで祈るように胸の前で手を握る。
「私の記憶媒体にはあなたとの思い出がいっぱいあるから、それが消えてしまうのは悲しいけど、あなたが覚えていてくれるのなら消えないから。言葉ではないけれど、これは、あなたが教えてくれた事じゃない」
こいつの感謝の言葉に、何も言えなかった。
今何かを言ってしまえば、どうなるか自分でもわからなかった。感情のままに全てを吐き出して、こいつを困らせるのではないかと、真っ白の頭の中に浮かんだ最初のものは、やっぱりこいつだった。
俺の前までやってきたこいつは、どこで覚えてきたのか三つ指を突いて頭を下げた。
「私は本当の妻ではないけれど、あなたに愛されていると思うと、とても身体が温かくなるの」
顔を上げる。機械の構造はわからないが、流れないと説明を受けていた俺が見た涙は、見間違いではなかった。
「私は、とても幸せでした」
言葉よりも先に身体が動く。
衝動的に抱きしめてしまった。夫婦を装っていても、機械相手に手すら繋げなかった俺が、全てをすっ飛ばして抱きしめたこいつの身体は、ヒトと同じ温度で、温かかった。
何もわからなくて言葉が出ない。声を押し殺し、嗚咽する俺がこいつの首に顔を埋めると、頭を撫でながら抱きしめ返してくれた。
「機械の私相手に、退屈しないようにお休みの日にはいろいろな所へ連れてってくれてありがとう」
「……仕事で連れてったんだよ」
「私が知らない人に襲われた時、助けてくれてありがとう。すぐに来てくれてびっくりしたのよ」
「お前が、会社の機密情報だからだよ」
「私が綺麗だと言ったお花、買って来てくれてありがとう。家の前に置いておいてくれたの、あなたでしょ? すぐに枯らせてしまってごめんなさい」
「あれは俺じゃねぇって言ってんだろ……!」
ありがとう、ありがとう、と何回も言われて頭の中で追想される。胸の中で沢山の感情が渦巻く。
こいつを引き受け、平たく言えば一緒に暮らすとなった時、周囲に説明もできず夫婦ですと言ったのは間違いだった。だが、夫婦ではなく家族ですと友達ですと、同じ事を言っていたとしても、きっと今抱いていた気持ちは一緒だろう。
──俺は。
「ねぇ、あなた」
「…………」
「お願いがあるの」
想像もしてなかった言葉が追想から現実へ連れ戻す。
こいつは、主を決めた相手には、絶対に己の望みを言わないよう出来ていた筈だ。
身体を離し、至近距離で視線を交わす。唐突に恥ずかしくなって顔を逸らした。
「なんだよ」
「名前を読んでほしいです」
「?」
「私、あなたに名前を呼ばれた事がなかったから」
「製品のお前に、名前なんてないだろ」
開き直った俺に、こいつは「そうね」と自虐的に笑んだ。
「……製品名でも」
だが、ここで、こいつが、もう一度笑った。
「私の名前ですから」
機械の癖に、よく笑う女だ。気恥しくて、複雑な感情が俺の口をそれ以上開かせなかった。
話が終わってのびたラーメンを食べ終わり、いつも通りの一日の終わりを過ごす。布団を敷いてお休みというまで、まるで明日何もないかのようだった。
次の日、眠れなかった俺は、会社の命令通りにデータの消去を実行した。消去の寸前、無意識に製品名を口にしたが、真っ白になっていくこいつ口元が、微かに笑んでいた。