会いたい気持ちと、会いたくない気持ち。
--探したんだ、ナギ。
嘘。だったらなんで他の人と結婚するの?
--おまえは帰ってこないと思ったんだ。
戻ってきたよ。だって、帰らないでずっと側にいるって約束したでしょう?
--約束を先に破ったのはおまえだろう?
わたしは、帰りたくて帰ったわけじゃない。
だから必死に戻る方法掴んだのに。
できる限り早く戻ってきたのに。
--遅かったんだよ。
遅かった。
--子どもができたんだ。
うん、知ってる。見かけたから。
--だから……ごめん。
やめて。
お願い、これ以上言わないで。
謝られても許せないもの。
ひどい--ひどいよ。
わたしがどれだけあなたのことが好きだと思ってるの。そんな気持ちをいきなり断ち切られても、わたしは動けないよ。
どれだけ詰っても、あなたは困ったような顔をするだけで。
すべては遅かったんだって、その表情を見て悟った。
※ ※ ※ ※ ※
「う……」
重い瞼を上げると、薄藍の天井が目に入った。随分低いそれは、部屋ではなく天蓋の天井板のようだった。天井と同じ色の紗が幾重にも重なって、ぐるりと寝台を囲っている。
ここはどこだろう。こんな豪華な寝台は普通の人は使わない。こんなものがあるのは、お城か貴族の屋敷だろう。
可能性が高いのは、ディルスクェア家。たまたまわたしを見つけた他の人の可能性もあるけれど、あんな天気の日に崖の下のわたしを見つけることができるのは、あの森のどこかにいると目当てをつけて探しに来た人間くらいだろう。そう、たとえばロイユーグさんとか。
それにしても頭が痛い。関節が痛い。厚い羽根布団を重ねているのに寒いなんて、熱が高いせいだろうか。
助かったのはいいけれど、雨や雪に濡れたわたしは、どうも高熱を出してしまったらしい。
額に乗せられた冷たい布を取ると、わたしはゆっくりと身体を起こした。背中を思いっきり打ち付けた覚えがあるのに、打ち身の痛みはない。幸いなことに骨折もしていないようだ。
紗をかき分けて寝台から降りると、揃えてあった靴を履いた。そのままでは寒いので、布団の間から毛布を引っ張り出す。
寝台の中が薄明るかったのでそうかと思ってはいたけれど、やはり今は昼間のようだった。貴重な窓硝子から差し込む光は明るく暖かい。
「……やっぱり」
窓から見える庭は、見覚えのあるものだった。一週間前に連れてこられた場所。そう、あの人の実家だ。
「逃げ、なきゃ」
あのときはあなたのところに帰りたくて逃げ出したけれど、今はあなたに会いたくなくて逃げ出すとか、おかしな巡り合わせだと思わない?
それにしても、この世界にきてからこちら、こういうお屋敷に連れてこられるたびに逃げ出す羽目になるのはどういうことだろうか。
--縁がなかったんだよ!
ふと耳に蘇る言葉。
あのときはその言葉を拒絶したけれど、どこかで真実だったと自分でも思っていたんだろうか。
認めたくないのに、この状況はどうだろう。
わたしは鈍痛のする頭に手をやり、ため息をついた。
ともかくここにはいられない。わかっているのはそれだけだった。
部屋を見回すと、火の入った暖炉に重そうな机。座り心地のよさそうなソファセットが目に入った。客間というより誰かの部屋のようだ。ロイユーグさんの部屋なんだろうか。
飴色に磨かれた机には、大切に置かれたわたしの鞄があった。濡れていたはずなのに、今はもう綺麗さっぱりと乾いている。よかった、これがあれば逃げられる。
あとは服だけど……さすがにここにはないだろうか。
なにか着られそうなものはないかとクロゼットを開けると、男物の服に混じってわたしが持っていた服が下げられていた。
--この家にこの服を持ってきたのは、きっとあの人だ。
探せばわたしのスマホなんかもここにあるかも知れないけれど、今は探している余裕がなかった。
こみ上げてくる感傷を押し殺して、手早く服を身につける。くらくらするけど、気合いで乗り切った。
厚手の服を身につけ、防寒着を羽織り、鞄を肩にかけると、それだけで支度は終わった。寝癖がついているかもしれないけれど、直している暇はない。
着替えるときに指にしていたあの指輪に気がついたけれど、外す気力がなくてそのままにする。
支度を終えたわたしは、そっと部屋の扉を押して開けた。部屋のあるあたりは静かだったけれど、遠くでざわざわと人の気配がした。
逃げ出すには人に会わないようにしなくちゃダメだ。
ともすれば崩折れそうになる身体を壁で支えつつ、わたしは歩きだした。
「ねぇ、これは持ってっちゃっていいのー?」
すぐ近くで聞こえた女性の声に、びくりとする。
慌てて廊下に飾られていた巨大な花瓶の陰に隠れると、近くの部屋の扉が開いて、メイドさんらしき少女が二人出てきた。
「あー、ダメダメ。それはあの方のよ」
「あ、じゃあ触ったらダメね。そしたらこれだけ持ってくわ」
「そうよ〜。カイアザール様、奥様のことは全部自分でされてるから」
「びっくりよね。どんだけ溺愛してるんだーって話」
飛び込んできた名前に、心臓がぎゅっとなる。震える唇から悲鳴が飛び出しそうで、わたしは両手で口を押さえつけた。
「そういえばロイユーグ様もお客様連れてきてなかった?」
「そうだ、アタシお茶出し頼まれてたのよ! サリ、それじゃまたね!」
ロイユーグさんのお客様……つまりわたしのことだろう。
お茶出しを頼まれていたという方のメイドさんが慌てて部屋に引っ込むと、綺麗に畳まれた洗濯物--寝具だろうか--を抱えたもう一人のメイドさんは、わたしが隠れているのとは逆方向へ歩いて行った。
完全にその姿が消えたのを確認して、わたしは詰めていた息をホッと吐いた。
早くこの屋敷を出ないと、わたしがいないことはすぐバレてしまう。あの人たちは優しいから、熱を出したわたしをそのままにはしない。迷い人でもあるわたしの保護をかって出たなら、その所在を不明なままにすることはないんだから。
この前のように、お屋敷の人たちのいるお勝手からはでられない。すると、部屋から庭に出るのが一番いいだろう。いつかのように木をつたうなんてことは、今のわたしにはできそうもないから、出るなら一階のどこかの部屋からだ。
壁伝いに歩いて行くと、狭い階段があった。非常用かと思ったけれど、そんなものはないだろう。多分メイドさんたちの使う階段だ。
誰にも会いませんように、というわたしの願いは叶えられたようで、どうにか階下に着く。
ああ、頭がぐらぐらする。視界が霞む。
でも逃げなくちゃ。
とりあえずて身近な部屋を覗いてみる。キンと冷えきった空気は、わたしにそこが使われていない部屋だと教えてくれた。
出入りするような掃き出し窓はなかったけれど、もう選んでいる暇はなかった。窓の鍵を開けて落ちるように外に出る。ぶつけた脚が痛いけれど、怪我をしたわけでもないのでそのままにした。
あとは……敷地の外に出るだけだ。
けれど、どこかで気が抜けたんだろう。もしくは体力が尽きたのか。外に出た途端、身体が言うことをきかなくなった。
綺麗に刈り込まれた低木に寄りかかるように、わたしはへたりこんだ。寒い。痛い。気持ちが悪い。
熱い息を吐き出すと、視界が白く煙った。




