とある魔物と『彼女』
※死ネタ、流血が有ります。軽いものですが苦手な方はご注意下さい。
日の届かない、暗い暗い森の奥。
遠くから微かに聞こえる声に、彼は目を覚ました。
あれから何年が経ったのだろうか? 何十年、何百年?
未だ覚醒しない頭で記憶を辿ってみる。
戦争が、あった。
強大な力を持ちながらも臆病な彼等一族は、抵抗することもせずに次々に殺されていったのだ。
逃げて逃げて、この森に辿り着いた頃には彼は独りになっていた。
森の奥に身を隠し『気』を悟られぬように、今まで眠りについていたのである。
嫌な記憶ばかりが思い出される。彼は暗闇の中で体を丸めた。
…声が聞こえる。
そういえば、この声で目覚めたのだった。
暗闇でも見通せる眼を持つ彼は、迷うことなく欝蒼と茂る森の中を歩き続けた。
その声はやがて、歌声であることに気付いた。
透き通るような美しい歌声が、彼を導く。
ふと頭上を見上げれば、森の中に光が射し込んでいる。どうやらもう随分と歩いて来たようだ。
歌声はすぐ近くから聞こえるようだった。
臆病な彼は物音を立てぬように、そっと木陰から様子を伺った。
そこはひらけた森の湖の畔…色とりどりの花が咲き乱れるその場所に、彼女はいた。
白い雪玉のような小鳥たちが彼女の周りを飛び、鈴のように喉を鳴らせその指に留まる。
小鳥たちと共に歌う彼女は、この世のものとは思えない程に美しかった。
白い肌にサファイアのような蒼い瞳、その瞳にかかる長い睫、白いヴェールから流れる薄桃色の髪も。
派手ではないが、ドレスを纏っているようだ…何処かのお姫様であろうか?
つい、前に出てしまったが、彼は慌てて身を引っ込めた。
歌声に気を取られうっかりしていたが、彼には出て行けない理由があった。
もうこの場所は先ほどの暗闇ではない。日の光で満ち、全てを鮮明に映している。
彼は木陰で自分の身を確認した。
彼は最も醜いと云われた魔物の、最後の生き残りであった。
辛うじて二足歩行であるものの、肌は青く、痩せ細った体は老人のように曲がり、背から露出した鋭い骨は枯れ木のようであった。
不規則に伸びた牙によって口を閉じることが出来ない為、飢えた獣のように唾液が滴っている。
当然人の言葉を話すことは出来ず、彼の言葉は壊れた扉のような、か細く不気味な呻き声だけである。
彼は人食いではないが、人は人食いの魔物よりも自分を恐れる。
とても、人前に出られる姿ではなかったのだ。
くすんだ紫色の髪を地に引きずりながら、彼はそっと森の奥へと踵を返した。
あの笑顔の美しい姫が、自分を見て恐怖する様子を見たくなかった。
翌日も、あの歌声は聴こえてきた。
来る日も来る日も聴こえてきた。
彼は、彼女の歌を聴くのが好きだった。
彼女の歌は、彼の孤独を癒してくれるようだった。
雨の日には彼女は森に来ないようで、寂しくなり、いつも彼女が来る道を歩いてみたりもした。
毎日こそこそと陰から彼女の様子を窺い、彼女のいない日は彼女を探し回る。
気味の悪いことをしていると思う…自覚はあったが、話かけたくてもこの姿ではどうしても無理だった。
間違いなく恐れられ、もう二度と森には近づかないはずだ。
そうなるくらいなら、隠れて見守っていた方がよかったのだ。
ある日、彼女は静かに湖を眺めていた。
彼女の周りには相変わらず白い小鳥たちが飛び交っている。
歌を待っているのかもしれない。彼はそう思っていた。
その時だった。
「そこは冷えませんか? こちらに来て、この子たちと一緒にお話しましょう。」
彼女は湖を眺めたまま、そう口にした。
…誰かいるのだろうか? 彼は周りの様子を見るが、彼女の他に人はいないようだった。
「貴方ですよ。」
彼女に視線を戻すと、彼女は微笑みながら此方をまっすぐ見つめていた。
距離はあるものの、木陰に潜むそれが、人でないことは判るはずだ。
彼は動くことが出来なかった。
何百年、何千年もの間、恐れられ迫害されてきた自分が。
微笑みかけてくれる者など今まで誰一人としていなかったのに。
何故?
しかし彼女には、何故という疑問など意味がない様子だった。
全ての物事を真正面から受け留めてくれる…そんな眼差しをしていた。
その日から彼は、少しずつ少しずつ、彼女の近くで歌を聴くようになった。
彼女の話もたくさん聞いた。
彼は言葉を話せないが、彼女は彼の言いたいことをわかってくれた。
彼の背骨に小鳥が留まると、この子たちとも仲良くなれましたね、と笑ってくれた。
数千年生きて初めて感じた幸せな時間であった。
ある時彼女は、彼に願いを聞いてきた。
ずっと人と同じ姿になりたいと思ってきた彼は、素直にそれを彼女の心に訴えた。
今になって思えば、あの時彼は少しだけ…違和感を感じていたのだ。
その後から、少し前からか、彼女は歌わなくなってしまった。
少し顔色も悪かったかもしれない。
しかし、変わらず湖に来て話をしてくれる。
彼は、気付けなかった。
数日ほど天気が優れず、彼女と会えない日が続いた。
彼は独りで湖を眺めていた。雨の日は彼女が来ないことはわかっていたが、この場所が好きになっていたのだ。
遠くから人の気配がした。
彼女以外の人に姿を見られたくない彼は、急いで木陰に身を隠した。
人影が、おぼつかない足取りで湖に来たのが見えた。
大量の、血の匂い。
血の匂いに良い思い出などあるわけがない。彼は殺されていった仲間たちを思い出す。
手足が震えた。
しかし、彼はもっと恐ろしいことに気付いてしまった。
あの人影には見覚えがあった。彼は木陰から少し身を乗り出し確認する。
体中が血まみれで、俯いた顔はよく見えないが、あれは…
「最期にお話を、しませんか。」
彼女だった。
横たわった彼女から、途切れ途切れに語られた。
自分は特別な力を持った人間であり、その力で人々を救ってきたこと。
救いきれなかったこと。
今日、長い時間をかけて救おうとしていた人を、やっと救えたこと。
彼女は様々なものと戦ってきたのだ。
そしてついに、その力は命と共に失われようといているという。
だから最期に此処に来た、と。
彼は意味が分からなかった。何故、最期にこんな所に来たのか。彼女には家族がいるはずだ。
それなのに雨の中、致命傷を負いながら、いるかもわからない自分の為に何故?
「手を、握ってくれませんか。」
弱々しく微笑みながら手を差し出す彼女の瞳には、何か強い意志を感じられた。
言葉をかけることも出来ない彼はただただ泣きながら、長い爪で彼女を傷つけないように、その手を握った。
「幸せになってくださいね。」
そして一瞬強く握られた手はすぐに地面に滑り落ちた。
彼は慌てて彼女を揺するが、彼女が目を開けることはもう、なかった。
それからはずっと彼女の名前を呼びながら泣き続けた。
どうして彼女がこんな死に方をしなければならなかったのか。どうして。
泣いて泣いて、そして彼は気づいた。
自分が人の言葉を発していることに。
湖で自分の姿を確認した彼の目には、信じられないものが映っていた。
不揃いな牙は消え、顔つきが人間のようになっていた。背中から露出した骨も消えている。
あの醜い魔物の姿はどこにもなかった。
そして彼は思い出した。
以前、彼女が自分に願いを聞いてきたこと。
強く握った手から、彼女の力が伝わってきたことに。
彼女は、彼のことも救おうと考えていたのだ。
ずっとずっと孤独だった彼を。
それが彼女の最期の願いだったのだろうか。
醜い魔物に命をくれた美しい姫は、微笑みを湛えたまま血と雨に濡れて冷たくなっていった。
数千年怯えつづけた彼に訪れた、刹那の幸福と、永遠ともいえる喪失。
それは後悔と共に癒えぬ痛みとなった。
しかし彼は彼女の最期の想いを、決して忘れなかった。
…
懐かしい声が、聞こえた気がした。
夢でも見ていたのだろうか?彼はゆっくりと重い瞼を開く。
あれからまた何年が過ぎたことだろうか。
見渡す景色は、あの頃とは全く違っていた。恐らくまた数百年は眠っていたのだろう。
そんなことをぼんやりと考えていると突然誰かに肩を叩かれ、彼は跳び起きた。
心臓が止まるかと思った。臆病なところは変わっていないのだ。
逃げ腰になりながら肩を叩いた主を見て、彼は固まった。
くすくすと笑う少女が、そこにいた。
オシャレなドレス、赤い瞳、ウェーブのかかった薄桃色の長い髪…
顔つきも『彼女』にそっくりな少女だった。
そして彼は、少女が彼女と同じ魂を持っていることに気付いた。
まさか。
彼が何も言えずにいると、やがて少女は『彼女』の面影のある眼差しで彼に語りかけた。
「初めましてなんだけど…元気にしてた?
なぁんて、変なこと聞いてごめんね!」
「…でもね、何だか…嬉しいんだよ。」
その懐かしい笑顔に、彼の瞳から涙が零れた。
初投稿です!
狙いとしましては、感動系でした。
異種族同士の「絆」を書いたもので「恋愛」ではないのですが、男女なので恋愛という解釈でも有りです。ハッピーエンドとは言い切れません。