変化
感動を持たない人間は存在する。例えば、島野陽太がそうだ。
より厳密に言うのであれば、彼は美しいものを美しいと、内なる情動に突き動かされて、肯定することが出来ない人間である。
生物的な感覚はある。故に痛みや不快感に対する怒りはある。悲哀も多少、無い訳ではない。喪失感、というもので、それを感じることが出来る。
ただ、喜びと悦楽に関して、どこかに確かに障害がある。身体的には全き健常者であるから、周囲には気付かれてさえいないだろう。けれども彼には明確な障害が(おそらく)生まれつき備わっていて、たまたまそれは精神に関するものなのだった。
物心ついた時より、彼はよく本を読んだ。児童文学から始まり、ファンタジー、サイエンスフィクション、ミステリ、純文学、哲学書。それぞれのジャンルにおいて、選り好みせずに広く読んだ。これは本というもののどこかに、彼の障害を屈服させてくれる要素があるかもしれない、という希望に基づくものであった。幼い頃の彼はそこまで自分に対する理解が深かったはずも無かったから、きっかけそのものは、本能的に防衛手段を――自分がどうして周りと違うのかを――探していただけなのかもしれない。しかし、残念ながら今迄で、一度たりとてその文言に心を動かされたことは無い。
父が旅行好きである。故に、日本の名所という名所、山紫水明と名高い場所は、あらかた廻った経験がある。湖、山、滝、森、海、沼池、そして砂丘に到るまで。けれど未だ何一つ、心に残る景色だと、胸を張れたためしは無い。
恋愛も何度かやってみた。二十二に届くこれまでに、幾人かと体も重ねている。ある程度の効果を認められそうなことはあった。執着の拠り所、彼と関係を持った相手に対するそれが、美や愛に類するものでないかと考えたことがある。しかし結局彼にはそれが、食欲と睡眠欲を満たす以上の輝きであるとは思えなかった。
すなわち、行為の全ては欲求に支配されている。受容する事物は思考で手垢がつけられている。それがよく透けて見えるからどうというわけでなく、その事実だけが頭上を通り過ぎる。彼の感覚は、ただ通過のみを伝える。
島野陽太の人生は、常にそういうものだったのだ。
そんな彼であったから、こうして今見ている景色、曙光が夜を放逐して、窓の外の海と、そこから広がる世界が急速に色づいてゆく有様に、特別何を感じたわけでもない。ただ手持ち無沙汰に任せて視線を左へ遣っただけの、全く意図の介在しない行動だった。
「陽が昇ったかな? この時間のこの海だけは、何度見ても飽きないよね」
しかし彼が海を眺めているのを感じ取り、右隣で実験器具を弄っていた倉木が、出し抜けにそう呟いた。
「まったくだ」
何を考えていたわけでもなし、無論感じ入っていた筈もないが、陽太の口は自然とそう返している。これは二十余年で培った、彼一流の擬態の一部だ。
「お、綺麗に焼けてるじゃないか」
追従を受けて、実験器具から目を切った倉木が、やや快げに窓の外を見る。陽太もまた見ている。白光が水平線を切り裂くように広がり、空を赤と桃の中間色で染め上げている。風の凪いだ海は殊更に鏡として照り返し、明けの色として青でなく黄金を持っていた。
倉木と陽太は共にとある南国と呼べる大学の学生で、卒業論文の為の実験をしている。今彼らがいる場所は、亜熱帯の小さな離島の一角に建てられた、大学の研究施設である。
島の東南の珊瑚礁に面した場所に、広い敷地を構えるこの実験施設は、生物学に使う大掛かりな水槽やら、化学的な実験室やら、調査のための舟に至るまでが配備されており、海洋に関係する研究室に配属された場合、多くがこの場で実験と調査を行う。
彼らもまたその多数のうちであって、風が冴え始めた近頃は、丁度その追い込みの時期だった。
「おっと、いけない。一寸他所を向いたら、こんなに試薬を入れちまったよ」
失敗失敗と、頭をかいて倉木。
能天気にこちらを見て笑うこの倉木を、少しだけ陽太は評価している。忙しい時期の所為で、こうして徹夜で実験をしていたというに、疲れも険もその顔には見えない。倉木はいつでも健康で、快活な男なのである。
また、彼ほど『善』に近い人間を、陽太は良く知らない。右の頬を張られたら、そこを摩りながら、決まり悪げに笑うような男である。しかもその行為は、その時左の頬を差し出すのが、挑戦的な態度でありはしないかと、いらぬ気を使ってのことなのだ。こと人間関係において、異常なまでに利他的である。
しかし、彼はそんな性癖を持ちながら、一度自分の内で判断した物事を、何があっても曲げない一面も持つ。そうなった時、申し訳なさそうにしながら、けれど絶対に譲らない。
何を言っても謝罪するが、決めたことを決してやめようとはしないのだ。結局、そうなると相手が折れる。あいつがそこまで言うならば、そう思わされてしまう。
利他的であることと自己を譲らないこと。相克する二つを飲み込んで、彼は矛盾しないのである。
それは陽太の知識にある限り、『善』以外の何者でもなかった。その知識との一致を、陽太は評価すべきもの、と判断しているのである。しかし彼はそれと同じくらい、胸中この男の『非合理性』との一致を、ただ馬鹿と蔑んでもいる。
「これで最後の滴定か。サンプルが百以上もあるなんて、全く何を思ったのか自分でも解らないな。後、もう少しだけ待ってくれ」
「時間はまだあるから、焦らずにやればいい」
陽太は毎朝、隣接する海に海水を採取しに行く。その際、実験所の規定として、海に入るには煩雑な手続きと、二人一組であることが要求される。いつもは教授の助手と共に行っていた為に、なあなあでその辺りを適当にしていたのだが、彼は今学会に向かうため空の上である。
今日は、陽太がそのまま規定を無視して海に行ってしまおうと思っていた所で、先程倉木に捕まったのである。彼は書類については兎も角、海に一人で出るのは良くないと譲らなかった。
「しかし、お前のサンプリングは時間が重要なんだろう? 朝まで必要だなんて、本当に大変だよな」
「それはこうして徹夜しているお前もお互い様だ。というより、卒業論文なんて、どれも似たようなものだろう。結局は教授の小間使いの延長に過ぎないさ。昨今、学士なんてそう品位のある物じゃない」
「確かにそういう面もあるけど、俺らが言って良い事でもないな」
倉木は苦笑する。二人はそのまま同じ、この亜熱帯の大学で、修士課程への進学が内定している。
「おはよう、大介。まだやってたんだ」
そこに澤田が入ってきた。整った細面を眠そうに擦りながら、俯き加減にはっきりしない声を出している。
「おはよう」
彼女はここに長期で泊まっている中で、唯一の女性である。が、往々にしてぞんざいな性向であり、基本的に自分が女であることに頓着しない。今もセパレートタイプの水着以外に何も着用しておらず、赤茶けた肩までの髪は野放図に広がっている。大方海に入った後、宿舎にも帰らず、実験所でシャワーだけ浴びてそのまま眠ったのだろう。元来健康美を地で往くような女性ではあるが、流石にこれはだらしないと言った方が当てはまる。
「……ユリ、お前流石にそれはないだろ。ここでお洒落をしろとは言わないが、なんと言うか、もうちょっとだな」
それを見咎めて倉木が言う。
「あら、それって男女差別? 自分だって水着のまま過ごしているじゃない」
からからと笑って、澤田は実験机の横の流しで顔を洗い始めた。確かに倉木はハーフパンツ型の水着に、パーカーを羽織っただけである。少なくとも、人の事をどうこう言える格好ではない。
「そうだけどさ、なんだろうな……」
「いいじゃない。どうせ今は大介だけ。見せる相手もいないんだし」
「陽太もいるぞ」
「え?」
そこで彼女は顔を上げた。顎から雫が滴って、滑らかなうす茶色の肩甲骨辺りに、幾つかの輝きを残す。前髪も何房か濡れてまとまり、そこからも幾条の水滴が落ちて床を濡らした。
「あ……」
そして陽太を見つけ、初めて気付いたと言う体で、ほんの少し頬を染める。
「ごめんね。私無視しちゃったみたいで。おはよう、島野君」
「おはよう。澤田さん」
「私ってちょっと朝弱くて……」
「そう。別に気にしてないよ」
「うん。ありがとう」
それだけ言って二人は黙った。澤田は呆けている。陽太はまた外へと視線を移している。
「顔、洗うんじゃないのか?」
「え、うん」
澤田は倉木に言われて漸くのろのろと動き出した。流れるままにしていた水をもう一度顔に被った後、次に掬ったものは手の隙間から零れ落ちるまま捨てた。
「でもさ、珍しいよね」
「何が?」
「ほら、島野君。この時間は普段なら――」
「ああ。二人一組じゃなきゃ海出られないだろう? 今、いつもパートナーの助手さんがいないんだってさ」
「それで大介を待ってるの?」
「そう。実験が終わらないでいたら、こそこそと外に出ようとする陽太を見かけてね。捕まえてやったわけ」
へえ、とおざなりな相槌とともに蛇口を閉めて、澤田は首にかけていたタオルを顔に当てた。入れ替わりに陽太が、憮然として呟く。
「こそこそした覚えはないんだがな」
「いや、していただろう。あからさまに音立てないようにしていた」
「朝だから当然だ。寧ろ、お前の無遠慮さのほうがおかしい」
「そんな事言ったってここ実験室だぜ? 普通、早朝深夜には人がいないはずじゃないか」
「実際、澤田さんが寝ていただろう」
「それはまあそうなんだけどさ」
結局いつもの様に倉木が折れる。顔を拭う姿勢で黙っていた澤田は、それを合図にしたように頤を跳ね上げた。
「あのさ、私が行こうか?」
視線は陽太に注がれている。
「どこに?」
「だから、島野君のサンプリング。大介、まだかかりそうなんでしょ?」
「うん? どうかな。あと、十五分くらい」
「なら、私が行くよ。潜るわけじゃなくたって、徹夜明けの人が海に入るのは良くないし、島野君の研究は時間も大事みたいだし……何より私、今、暇だしさ」
少しだけ上ずった声だった。しきりに髪を撫で付けている。
「そんな危険なもんじゃないだろ別に。それに、十五分ぐらいなら良いんじゃないのか? なあ」
そう倉木が訊いた瞬間、澤田の握るタオルの皺が、手を中心に窄まったのを陽太は見た。
「……そうだな。いや、澤田さんに同道願おうかな」
「あ、そう?」
「ああ。お前はミスの無いように実験をしていてくれ」
「うん、まあ、わかった」
歯切れの悪い返事だった。倉木は澤田の様子を観察していた。陽太は黙殺して行動を開始する。
「じゃあ、今すぐ行くけど大丈夫?」
「ええと、うん。平気。何も持たなくても良いのなら」
倉木の向いの椅子に掛かっていた、防水性の上着を着けた後、少し思案しながら手をうろうろと体に彷徨わせ、澤田は言った。
「採水に使うポリビンとかは僕が持つから、澤田さんは手ぶらで良いよ」
「解った。ありがと」
「礼を言うのは僕のほうだから」
「確かにそうだね」
他愛のないやり取りをしながら、連れ立って実験室を後にする。まだ薄暗い廊下に差し掛かる辺りで、ふと陽太は実験室に振り返った。
倉木はまだ二人を、正確には澤田を見ていた。だから陽太はその視線が有する意味と、彼が何を考えているかをほぼ推察した上で、それを問うた。
「どうした?」
「……別に。頑張れよ」
目が合った倉木は気まずげに呟いて、
「あ、また入れすぎた」
正面に向き直ると、いつも通りに折れるときの顔で笑んだ。
黙然として二人は歩いた。階段を二つ降りて渡り廊下を行き、生態学の生簀の横を抜けると、海に臨む棟の二階に辿りつく。
ここには小型船が一艘と、私物であろうダイバーグッズがそこここに放置されている。一・二階を大きな吹き抜けにしているため天井が高い。一階唯一の出入り口である、船を出すためのシャッターが閉まっている為、上辺に取り付けられた小さな窓からしか光が入らない。二人が足を踏み入れた時、薄暗い室内は鉄筋コンクリートの外壁に音すらも遮断され、時間を止めたかのようにひっそりと佇んでいた。微かな潮の香りが静かに澱んで、朝の光と闇とが仄青く混じるその趣は、神殿か――いっそ墓地に似ている。
「ごめんね陽太君。大介、変な顔してた」
その沈黙に圧迫されたかのように、やおら澤田が口を開いた。心持俯いて、首にかけたタオルを弄っている。実験室からここまで、彼女は陽太の一歩後ろを歩いていた。
「別に気にしていないし、そうまで気を揉む必要も無いよ」
そちらも見ずに、1階に下りてシャッターを開けながら、陽太が答える。
電動のそれがゆるゆると上がっているのに合わせて、潮風と光が堰を切って流れ込む。途端に生気を失っていた室内が、脈動するように活力を得ていった。新鮮な海の香りが停滞を洗い流してゆく。眼前に広がってゆくのは大パノラマ。船を出すために緩やかな坂となった道の先、珊瑚礁によってできた遠浅の海が、早朝の太陽を緑青の色に透かしている。
「――なにしろ僕らは恋人なんだろう? ユリ」
そう言って、シャッターが開ききった時に陽太が振り返ると、澤田の顔もまた、そのようにして綻んでいた。随分簡単なものだなと、陽太は思う。
彼が澤田百合子との交際を始めてすでに二ヶ月が経つ。しかし未だにその事を知っているのは、当事者二人を除けば誰もいない。所謂告白というものを受けたのは陽太であったが、その際に条件として秘密を要求したのだった。であるから人目がある場所では近づかないし、お互いを名前で呼ぶことも無い。それでもいい、と彼女は言った。
陽太にはその執着も、当然理解できない。
今の彼にとって、男女交際とは気まぐれに類するものでしかない。そもそも興味というものや、感情そのものが乏しい彼にとって、必要以上に近しい他人の存在は、概して重要に思われない。
彼はその隠し切れぬ特異さゆえか、女性には少なからず人気があったのだが、性的欲求と折り合いを付けられる年齢になって以来、もろもろの煩雑さから、そうした関係を持つことは全く無かった。
しかし澤田とは交際を始めた。
研究が佳境に入り、実験所にて起き臥しするようになった頃、頬を染めて彼に向かい合った澤田を見たとき、彼は己の内に確かな、何らかの萌芽を見た。それはとてもか細く小さな残響のようで、寄る辺とするには些か儚いものだったが、彼にとっては充分驚きに値した。そのような己の心の振動など、ついぞ感じたことが無かったからだ。
その芽生えは恐らく予感に類するもの。そしてそれは、もしかすれば欠陥を補うものへの予感かもしれない。いつでも己の心を切開し続けた彼は、仕舞いにそう判断したのだ。それが、空は高いくせに陽射しばかりがきつく、暑さがだらだらと尾を引いている、秋口のことだった。
爾来、すでに二ヶ月間、彼は百合子と共にあることで、己を注意深く見つめている。期待していたほどに情動が励起された訳ではない。百合子を愛しいだとか美しいなどと思うことも無い。だが、あの瞬間に与えられた予感には、欠陥を克服させてくれる手がかりがあるのではないかと未だ期待し続けている。
また沈黙していると、澤田が二歩ほど前へ出た。軽い足取りで、髪を攫う風に身を任せている。そして時々振り返って、陽太を見ては軽く笑んだ。彼はそれに目配せで返す。これは、この二ヶ月で出来始めた、平生の――もちろん二人きりの時の――彼らの形である。
その様に五十メートルほどの距離を潰し、白い浜辺に到達した。リゾート地の殆どがそうであるような、整いすぎた人工ビーチでないこの砂浜は、砂よりも寧ろ礫やサンゴの死骸が多い。歩けばサンダルの下でからからと、楽しげに軽い音が鳴る。
この時間は干潮であった。沖で礁の淵が防波堤のように、海面から露出して陸地を作っている。この島のそれは典型的な裾礁を成す珊瑚礁の為、そこまでの距離はそう遠くない。顔を出した部分はまだ濡れていた。草臥れたヒトデがいくつか見える。そこから先は外洋となり、海の色も水深も急に深くなる。凪いでいる礁池の部分と違い、かなり波が高い。淵に当たってそれらが激しく飛沫を飛ばし、時折水平線近くまで跳ねていた。右手奥に、空へ滲む別の島影が、こちらを鷹揚に見守っている。
そのまま二人、海に足を入れた。
「冷たい」
猫の様に目を細めた澤田がまたこちらを向いた。陽太は「そうだね」とだけ答えて進みだす。確かに水は冷たい。風は肌寒いくらいである。仰げば雲は、実体を持たぬように薄く細かいものが幾つかあるばかり。もう夏の残滓はどこにもなかった。亜熱帯の太陽だけが、まだ辛うじて虚勢を張っている。
採水は滞りなく終わった。海水をビンにつめるだけなのだから、元々大層な仕事ではない。両翼約三百メートルの間に三つの採水ポイントがあるので、移動が大変といえば大変だが、珊瑚礁によって遠浅になっている礁池の中にいる限り、干潮時だと沖でも腰までの深さにもならない。現に今陽太がいるポイントは、彼の膝下辺りを波が弄うだけである。
「よし」
最後に採取したサンプルをネットへと入れて、陽太は周りを見回した。澤田を探している。一人で充分な仕事であるので、海に入るなり自由にしていてくれと伝えたのだ。彼女は少しだけ渋っていたが、すぐに沖へ向けて歩いていった。一度決めてしまえば行動は早く、興味の対象も猫のようにそぞろに移り変わる。その辺りが彼女の美点であると、上気した顔で言った者を陽太は知っている。
果たして澤田は露出した礁の淵で屈んでいた。何かを凝っと見つめているようだ。
「ユリ」
大きめの声で呼んだが、こちらに気付いた気配は無かった。強くなってきた海風と遊ぶ髪や上着の裾のほかは、彫像のように動かない。
何度か呼んでみて、仕方無しに陽太の方から近づいていくことにした。
澤田は礁の淵で、寄せては砕ける波を見ていた。遠目では解らなかったが、飛沫の所為で髪が艶めいている。
「何を見ているの?」
肩に手をかけながら問うと、澤田は大げさに身を震わせた。
「吃驚しちゃった。ごめん。……ここで見るとね、太陽で飛沫が光って面白いの。虹見えないかな、とかさ」
童女のような答えであった。こちらを向いたその顔にもまた、全幅の信頼を簡単に他人へ与えられる、幼さの名残が見て取れた。
特に接ぎ穂が見当たらなかったので、ひとくさり微笑んでそのまま陽太が無言でいると、彼女はまた視線を沖へ遣った。彼も少し距離を開けて彼女の右手に並び、それに倣う。また派手に飛沫が飛ぶ。
「ありがとうね」
そして唐突に澤田は言った。
「さっき。ちょっと嬉しかった」
目を戻すと、彼女は頑なに沖へ顔を背けていた。少しだけ肩の位置が先程より高い。膝を抱く腕が強張っている。意識もまた同じように、視線の先を向いているわけではないようだった。
陽太は真意を問い返そうとして、しかし一度口を噤んだ。それよりも先に出た疑問があった。
「なんで、僕なんだろう?」
今度は陽太が唐突だった。全く言葉も足りていない。微動だにしなかった横顔が、こちらを向いた。乱暴に櫛を入れられた髪が顔中に線を走らせて、表情が今一解らない。けれど前髪の奥に潜む目が、確かに疑問の光を投げかけていた。
「いや、なんで君は僕を好きになったんだろうかと思って。常に隣にいた倉木や、他の誰でもなく。何故僕だったのかとね」
「それは、私を疑っているって事?」
「違うな。単純に今ふと思った。考えてみれば、どうもおかしい気がする」
澤田が煩わしそうに髪を梳いて、少し頬を緩めた。
「今更だよね、それ」
言われて、その通りだと陽太も思った。既に二月が経っている。それを疑問に思うべきは、彼らの関係の最初であるはずだ。彼はその時、倉木の事は良いのかと問うたきり、殆ど二つ返事で彼女を受け入れている。
「……言われて見れば、確かにそうだね」
陽太は追従して、回答を促す。
しかし、彼女はこちらの目を覗き込むだけだった。髪を後ろに流した為に、その富士額がよく見える。瞳はなんとも判じかねる光を持っていた。それが何かを語りかけているのかもしれない。陽太にはわからない。上着の裾の忙しい嘶きや、波の砕ける音だけが、断続的に彼に答えていた。
そのまま暫し見詰め合い、二人は自然にまた水平線を向く。
その段で漸く、なるほどこれは彼女が拗ねるに値する態度だったかもしれない、と陽太は気が付いた。
彼女の動機について何も尋ねない理由といえば、全てを了解しているのか、単にそれに――ひいてはその動機が起こす結果に――興味がないかのどちらかでしかない。明らかに彼の言動は後者である。それは確かに恋人として、不実なのかもしれない。
もしその考えが当たっているのであれば、非は陽太にある。その辺りを問うてみようとして、だが、そう思い至った途端、彼はこの彼女の態度を急に煩わしく感じた。
彼にはその非を事実として認識できても、包括するだけで理解できないのである。ならばそれはどこまで行っても、面倒ごとの範疇でしかない。何事か告げようとした口を陽太は、結局口を噤んだ。沈黙は、そのまま続いた。
「本当のところね」
そして破ったのは澤田だった。
「本当のところ、陽太君が何も聞かないでくれて助かっていたんだ。自分でも、理由が解らなかったから」
声にはなんの含みもなかったので、考えを裏切られた陽太は彼女を見た。また目が合う。彼女は髪を右手で押さえている。やはり感情どころか表情すら読めなかった。苦笑が一番近いのかもしれない。茫洋とした何かを矯めつ歪めつ見るように、眉間に僅かな皺が寄っている。
私ね、と言いながら彼女は立ち上がる。両手を後ろ手にして、大きく胸をそらした。
「ずっとピンと来なかったの。大介は常に一緒にいたし、良い人だし、隣にいてとても楽だし、いずれそんな関係になっても、何の不満もなかったと思う」
出身が同じである彼らは、陽太の記憶にある限り、常に二人一緒だった。この最終学年に至るまで、彼は二人が恋人関係であると漠然と思っていた。学校以外での付き合いが、それまでそう深くなかった所為もある。
「そうでなくても、何が良いのか知らないけど、私に好意を告げてくれた人は何人かいた」
これでももてるんだ、と薄く笑いながらこちらへ近づいてくる。さっぱりとした口調に反して、怖ず怖ずと動くその歩幅は狭い。
「だけどずっと解らなかったし、見えてこなかった。なんだろう、その人達と二人だけでいる意味というか、恥かしい言葉だけど幸せと言うのが」
顔は下げているので、よく見えない。ただ一歩一歩ゆっくりと、彼女は踏みしめる。その度湿った足音が、控えめに波音に割り込んだ。
「なのにさ、気になってたの。ずっと。初めて会ったときから、陽太君のことは」
ついに彼女は目の前まで来て、しかしそのまま歩みを止めず、彼の右手――即ち海側の狭い場所へ逸れた。
「と言ったってそれは皆――さっき言った人達とか、他の親しい人達――と過ごすうちに忘れがちになるような程度のもので、焦がれるという程じゃなかった。暇な休日にふと思い出すのが精々で、実際あれはそういうのじゃなかった気がする」
陽太と海の中間で漸く止まる。二人はすれ違う寸前のような形になった。
「だから全然そんなつもり無かったんだよね。陽太君と同じ研究室になるまでは。だけど、物理的に距離が近くなるって解ったら、すぐああしてた。そうするのが絶対正しいって思っちゃった」
本当になんでだろうね、と付け加えてこちらへ体を向けた。顔は俯けたままだった。陽太も向き直り、互いを正面で捕らえる。
二人の距離は近い。海風に運ばれる彼女のそう長くない髪が、陽太の鼻先に触れそうである。陽太は彼女の匂いを感じた。それは柑橘系のすっきりとした軽い匂いだった。背景ではいよいよ勢いを増す外海がある。深い青のそれらは、沈殿物のように重苦しい居様だった。
暫時そうして奇妙に二人は向き合っていた。もう言う事もないのか、何かを黙考しているのか、彼女は既に口を開く気配がない。陽太もまた開かない。開けない。
舞台俳優のような澤田の長科白の間、彼はずっと己の内の疼きを感じていた。彼女の口から意味が紡がれる度、彼は分析に躍起になった。度々脈動するそれは、正しく件の芽、克服の予感であった。成長の予兆であった。
そこで彼は先の戸惑いどころか、混乱をさえ覚えていたのかもしれない。このようなことは初めてで、いつでも己の内を見詰める彼にして、平生見据えるそことあまりに色彩が違って見えた。目の前の彼女から立ち上るこの香りのように、軽くシンプルな躍動を持つそれは、落ち着きを簡単に奪っていった。今はよく解らない感覚が、内から彼を責めている。どうしようもなしに、行き場を求めて海を見た。尚息巻くそれはやはり深く重い色だった。
「でも……私、ちょっと変な事言っているけど」
そしてたっぷり時間を空けて、また澤田が言葉を紡ぐ。
「陽太君も、私の事は別に好きじゃないよね」
自然に言ってのけた。気安い雰囲気だったわけではない。彼女はこちらを見ないまま、その表情も読めない。だのになぜか言葉だけが、明日の天気を問うが如く何気ない。
陽太はこの時迷った。即答できなかった。普段の擬態をもってすれば、すぐさま否定を表明しただろうに、そして、それこそが恐らく一番楽な方法であるだろうに、何故かできなかった。ひどく胸が疼いた。喉が異常に渇いた。何度か口を開いて、閉じて、
「解らない」
結局素直に答える他なかった。
己の指先を見ていた彼女の顔が上がる。ゆっくりと。一度陽太の顔を捉え、しかし留めずに空を仰いだ。釣られて自然と陽太の視線も高くなる。上空はどうも風がないらしい。筋雲が幾つか鎮座して、その形を変える節がない。ほぼ快晴と言って良い天気である。蒼穹は高く穏やかだった。陽射しだけは夜明けの勢いのまま、肌を刺して左手前方に居る。一瞬それに網膜を灼かれて、陽太は顔を顰めた。
「うん、そうか」
気付けば彼女はこちらを見ていた。目が眩んだ所為で、瞳を合わせてもその心を斟酌できない。
丁度よく風が吹いた。逆巻いてそれは海風と逆に彼女の髪を攫い、かんばせを日の下へ晒した。
「なら、これでいいよね。お互い様だもん」
そう言い放つ彼女は微笑んでいた。その頬を上気させて、はにかむ様に。唇の端はそう上がらず、目だけが細められている。
不意に陽太は、これがいつかあの男が言った、彼女の魅力的な笑顔なのだろうと思った。
思って、彼を友と呼ぶその者の情けない笑顔が過ぎり、吐き気を催すほどの感覚が神経を焼き、とある閃きが沸き起こっていた。
その意味を考察しようと、陽太が思考を廻らせた瞬間、陽太の内部にて、崩壊にも創造にも値する大きな力が弾けとんだ。
拡散するエネルギーは瞬時に総身駆け巡り、葉を開き茎を伸ばし大樹となった。崩れたバランスによって価値観は尺度を変え、予感は確信に様変わりし、今までの方針決定に関わった幾つかの根源が堪え切れずに模様を変えた。一度変わるとどうしようもない。摩天楼が崩れゆく様に変化は連鎖する。いくら怜悧な思考を取り戻そう取り戻そうと願っても彼はより溺れていく。確信の海に溺れていく。彼の全ての要素が『それを成せ』と一斉に怒鳴った。『それが正しい』とも叫んだ。狂瀾は既倒へ廻ることなくただ荒ぶりを周囲に撒き散らす。その中で彼は途方に暮れたまま流されている。一度だけ間違いなのではないかと、ひとひらの呻きがどこからか聴こえて、けれど貧弱なそれは何も成せず飲み込まれた。いつしか周りを塞がれた圧迫感だけが残り、遠望が全く利かなくなる。悪意さえ感じかねないストレスの中、彼は納得するしか術がない。これこそ、彼が生まれてより感じたことの無かった種類の『情動』なのだと。
目の前に伸びた唯一つの選択肢を、選ぶほか無いのだと。
「どうしたの?」
呆然としていた陽太は、澤田が問うた瞬間抱きしめた。彼女は硬直して、すぐに力を抜いた。だが、僅かもせずにまた強張る。
「ちょっと……」
陽太の手が上着をずらしていた。そのまま肘の辺りまで下げて適当に縛り、彼女の自由を完全に奪う。肩と二の腕が露出する。きめの細かい肌が、陽射しを目も綾に照り返す。棘のある光線が彼女によってやわらかく変換され、しかし網膜でない場所を灼く。光に誘われるまま鎖骨の辺りに口付ける。海の匂いに混じってかすかに、彼女の汗の香りがする。
「何で急に、痛い」
戸惑う彼女を考慮せず、首筋にきつく歯を立てる。思わず竦んだ彼女が、抗議の言葉を言い募る寸前に唇を重ねた。
陽太は反射的に閉じた澤田の瞼を見詰める。長い睫が小刻みに震えていた。緊張だろうか、驚きだろうか、その両方だろうか、陽太にはわからない。ただ蹂躙するように顔の角度と唇の動きを変えて、彼女の感触を味わう。頑なに閉じた蕾から花弁をむしるように、すぐそこで高まる海のように、ひたすら無遠慮で荒々しく。
陵辱に近い口付けは長く続いた。波と別の水音が段々と高くなる。耳の奥で耳鳴りが起こる。僅か唇を離すたび、小さな息継ぎに二人の唾液の匂いが混じって、つんと鼻の奥をさす。いつの間にか澤田の強張りはなくなり、漏れる吐息は熱を帯び、陽太は更に深く彼女を求めてゆく。
どれだけそうしていたのだろうか、最干潮に向かって足場の水気が更に無くなった頃、陽太はようやく彼女を解放した。
「……ふ」
その吐息がとても大きく耳に残った。浅い呼吸を繰り返しながら、澤田は恐る恐る目を開ける。赤らんだ頬、額に張り付いた幾筋もの流れ、二・三本髪を食んでいる口元。順に眺めて、こちらを見詰める瞳を覗く。困惑がある。驚きもある。そして隠せない熾火が奥にある。
とても単純だった。今の彼女は先ほどとは違って解り易い。陽太はほくそ笑む。澤田は自由を奪っている上着を直そうともせず、呆けてこちらを見ている。
暫しそうしていて、強い風が吹いた瞬間、見透かす視線に気がついたのか、かち合った目を決まり悪げに逸らした。逃がさないように陽太は右手で顎を抑え、左手を肩に置く。
逃げ場を失って尚、抗議するように彼女は瞳だけ横向ける。
そんな彼女に陽太は笑いかけると、もう一度首に口付ける。彼女は僅かだけ仰け反って小さく呻いた。
彷徨わせた視線が観念したように彼を向く。陽太は満足げに微笑んで、両手を肩にかける。耳元に口を寄せて、甘く囁く。
「ありがとう」
そして、陽太は彼女を海へ突き飛ばした。微笑んだまま、唐突に。
彼女は瞬間目を見開いた。反射的に右側に体をねじった。左肩を下にして、海に倒れる。顔が浸かってしまうまで、彼女はこちらをずっと見ていた。陽太はそれに目配せで返した。そして、一度沈んだ。
波が、待ち受けていたかのように、盛大な飛沫を散らして爆ぜた。
陽気と言うには厳しすぎる熱気が、とうに緑一色となった緋寒桜を俯かせていた。
昨日は雨模様で、肌寒い程陰鬱な天気であったのに、一夜明けてみればそこかしこが薫風と活力で満ちている。亜熱帯に位置するこの島の四季は常に性急で、あけすけである。冬が過ぎたらすぐにでも初夏の新緑の匂いが立ち込める。それに風情が無いと言う者も多い。だが、事今日に限ってはその能天気なまでの率直さも、新生活の初めとして、寒々しい本土のそれよりは余程相応しいのかもしれない。
順調に季節は巡っていた。めでたく学士の資格を手に入れた陽太は今、更に高い学の道へ踏み出そうとしている。
慌しく行き来するぎこちないスーツ姿を見るともなしに眺めながら、彼もまた慣れない正装で入学式の椅子に腰掛けていた。
「なんだか変な感じだよな。自分がとても老けた気がするよ」
いつかのように、右隣に倉木もいる。彼はどうにもネクタイがしっくり来ないようで、何度もその結び目を弄っていた。
「そうかな?」
「ああ。来る時に学部生の一団とすれ違わなかった? ああいうの見ると、ちょっとな」
右手でネクタイを弄りながら、左手で一センチ程の隙間を作る。
「やっぱりさ、溢れ出すエネルギーって言うの? それとも希望とか前途って言うのかな。違うよね、俺らとは」
「まるで僕らの前途が閉じてしまっているみたいな言い草だな」
「いや、そうじゃなくてさ、あったじゃん一年の頃には。受験終わって、大学に入学して、さあ、これから楽しいことしか待ってないんだ! みたいなさ」
言って、倉木は目を細めた。
「そうかもしれない」
「だろ? あの時も今日みたいに馬鹿げた陽気でさ。構内が広いから体育館に着くまでに汗ダラダラで、しかも体育館空調無くて、たまたま隣に座ってた――」
突然言葉に詰まった。懐かしむような表情が消える。
「隣に座ってた?」
「いや、すまん。なんでもない」
己を恥じるように二・三度頭を振って、話を唐突に打ち切った。
誰の事を話題に出そうとしていたのか、陽太にはそれで察しがついた。いや、そもそもその話自体は、別の当事者から聞いた事があった。ハンカチを差し出した相手が県外からの入学者で、しかも地元にごく近い出身で、それをきっかけに二人は仲良くなったのだと。最後まで続けなかったのは、恐らくは彼なりの気遣いだ。
陽太は苦笑して言う。
「もう彼女のことは気にしていないさ。そういう態度だと、逆にこっちの気が揉める」
「ああ、すまん」
苦虫を噛み潰したような顔で、低く搾り出す。
「だから、そういう態度だよ」
俯いた倉木に指を突きつけて、今度は明るく破顔する。
倉木は、そんな陽太を見て眩しそうに目を細めた。
「お前、なんていうか」
「うん?」
「変わったよな」
「そうかな」
「ああ。少し明るくなったんじゃないか。そう、あの――」
「これより入学式を開始いたしますので、ご着席の上静粛に願います」
尚何かを続けようとしていた倉木を遮る様に、壇上の司会らしき女性が全体に告げた。継ぎ穂を掬われて倉木が口を半開きにする。
そんな彼にもう一度陽太は苦笑して、
「ほら、始まるってさ」
「……ああ、そうだな」
それ以上何も語ることはないと、眼を前方へ固定した。壇上に上った学長が、今まさに話そうとしている。
その「皆さんおめでとう」という言句に混じって、「いいこと、だよな」という呟きが右隣から聴こえたが、陽太は敢えてそれを完全に黙殺することとした。
珊瑚礁が発達する場所で、ある条件が揃うと、リーフカレントと言うものが発生する。
膾炙して言うならば、それは一種の離岸流である。そうでなくても珊瑚礁の外側は波が高くなりがちであるが、リーフギャップと呼ばれる礁の溝の近くでは、礁池と外洋の水量の関係で、引き潮の際に強い沖への流れが発生する。
陽太にその知識はあった。彼らの立っていたあの場所が、絶好の条件であることもわかっていた。
それでも、陽太は随分とあっけないものだと思った。服で縛られ、思うように両腕の使えない彼女が、波に揉まれて沖に流されていくのを冷静に眺めながら、とても簡単に、人は存在を危うくしてしまうものなのだなと。
彼女が完全に見えなくなってから、さらに陽太は一時間ほど時間を潰し、研究所に「一緒に海に出た澤田さんが居ない」と連絡を入れた。すぐに幾人かが駆けつけた。最初に駆けつけた人々の中に、倉木もいた。それから研究所の人員で彼女を探した。手の空いたものは皆海に来たので、捜索の人員は過剰と言えるほどだったかもしれない。
夕方になって、警察と海保にも漸く連絡が行った。呆れることに、研究所では誰もがそれを必要だと思っていながら、別の誰かがやるだろうとそれを放置していたのである。その所為で本格的な捜索は翌日以降になった。その捜索でも、ダイバーによって三度大規模なものが行われたにも関わらず、何も見つかる事は無かった。履いていた筈の、サンダルの片方でさえ。
彼女は、こうしていなくなった。
当然だが、澤田に一人で行動をさせ、しかも連絡の遅れた陽太は責任を問われた。その頃には、研究所の規律はほぼザルであった事が白日の下に晒されていたので、書類の不備についてはそう責められる事もなかったものの、学校側からは決まっている大学院の内定の取り消しや、事によると無期の停学処分を、彼女の家族からは不手際の多かった研究所と共に、損害賠償請求の話が持ち上がっていた。
けれど、彼には特に申し開きをする様子が見られなかった。諾々と流れに身を任せるのを良しと思っているふしがあった。それを彼の反省と見て、誰もが同情を送った。送ったが、当然として、実際的に手を貸そうという者は誰も居なかった。
そんな彼を助けたのは、やはりと言うべきか倉木大介なのだった。
「陽太、お前!」
事件の後、初めて会った倉木はそう言って彼の胸倉をつかんだ。
大学の教授達に召喚され、弁明をするよう言われたその帰り、生協と研究棟の四つ辻ではち合わせたのである。
「何してるんだよ! お前!」
いたく興奮していた。その瞳に、悲しみと、覆い尽くすような瞋恚と、絶望があった。陽太はまたか、と思った。
はっきりそうと口に出すものはいなかったが、捜索が打ち切られたのと前後して、学内に燎原の火のごとく広がった言がある。
澤田百合子は、島野陽太に殺された。
彼女は社交的な人間だった。であるから、このように怒りをぶつけられたのは、すでに初めてではなかった。殴られた事もある。その時の人間と今の倉木は同じ目をしていた。
「お前……」
それしか言えないように彼はお前、と言う。荒い息が頬を撫ぜる。アルコールの臭いが混じっている。良く見れば目が血走り、うっすらと無精髭が生えている。
激怒のようで、今にも澎湃と涙を流しそうでもあった。渦巻く感情に耐えきれないかのように、腕が細かく震えていた。あまりに強く掴んできたので、シャツのボタンが取れている。陽太は黙ったままそこまで見て、四度目のお前、に合せて言った。
「僕が全て悪かった。言い訳の仕様もない」
陽太はいつもと同じ事を言った。彼がこの件で弁明を求められた際、これ以上の言葉を使ったためしがない。
その瞬間、漸減していた倉木の怒りが、再び頂点に達したようだった。眦を決し、体中を緊張させた。 殴られるだろうと陽太は思った。
「そんなことが、あるわけが、ないだろう」
しかし、彼はすぐに陽太を解放した。俯き、何かを堪えるようにそれだけ吐きだした。
「何?」
「そんなことあるわけがないだろう」
握った拳が真っ白になっていた。先程以上に震えが強くなっている。それでも倉木はもう一度そう告げて、陽太を見た。
「だが、僕は……」
「そんなことがあるわけが無いんだ。お前に落ち度が全くなかったわけじゃない。だが、お前が全て悪かったわけが無いんだ。そんな風に終わっていい話ではないんだ」
言い聞かせるような口調であった。倉木はすでに泣いていた。泣いたまま、洟をすすりながら、けれど強い口調で断言した。
そして、彼は屹然と陽太を見た。
「力になる。行こう」
そうとだけ告げて倉木は歩き出した。決意の固さを表しているかのように、力強い足取りだった。
その日は徹宵、陽太の担当教授と論を交わすこととなった。
こうして、陽太に誰も手を貸さないと解ると、すぐさま彼は行動を始めた。この男はなるほど『善』に近い存在だったのだ。
まず方々へ連絡を取り、謝罪の場を設けた。それが一段落すると法律や判例や学則を徹底的に調べ上げ、教授会で発言権のある者達を次々に説得していった。
元より、なまなかな説得に応じる相手であるはずが無いのである。片方は肉親を失い、片方は事態の落としどころだけを探していたのだから。
しかし、決断した彼はそれ以上にしぶとかった。
陽太に責任を取らせることで事態を収束させようとする者、澤田の存在の喪失で陽太をどうしても許せず、何らかの罰がないと納得できない者達と粘り強く話し合った。謝る時は陽太と共に深く深く頭を下げた。必要な時は恫喝に近いほどの勢いで、論理的に責任の所在を明らかにした。弁護士に相談する際には、その費用の半分を彼が受け持った。
倉木は情熱を持っていた。そして、その情熱がどこから沸いているのか、相手に考えさせたなら、もうそれで倉木の勝ちなのだった。陽太は彼の弁明に対して何も言わない。訊かれた事は答える。しかし、それで終わりだ。倉木も、彼に多くは話しかけない。特に、彼の人となりを褒め称えて、同情を引くようなこともしない。情熱を視線にのせ相手を見据え、彼が間違いだと思う事を余す所なく相手へ伝えるだけなのだ。そしてだからこそ、力を持っていた。倉木は言外に主張していたのである。『この男は罪を受けるべきでない』と。その情熱の在り処は、何を言わずとも、類稀なる倉木の友情を感じさせ、彼の高潔さを感じさせ、その高潔な人間がそうまでする理由を考えさせ、陽太の人格を貴く見せる。そして、相手は説得されるのだ。
結果、倉木の尽力があって、陽太は一週間の停学処分だけに落ち着いた。損害賠償請求の話は、研究所とのみ行われることになった。ほぼお咎め無しといって良い。華美に言葉を飾るのであれば、倉木の友情が、陽太を窮地から救い出したのだ。
誰もが倉木を称揚した。そして、何故そこまでするのかと問われて、「友達だから」と答える彼に感心した。それらに照れくさそうにしながら、当たり前だと言ってのけるのが倉木大介という人間なのだった。
陽太は、そんな彼をつぶさに観察していた。
あの時、澤田を海に押し出す寸前に、彼を突き動かしていたのは、『倉木がどうなるのか見てみたい』まさしくそれだった。
倉木は澤田を愛していた。それはもう間違いの無いことだった。酒の席で彼女の美点をひけらかしたのも、女性へのフェティズムの話題で、魅力的な笑顔について語ったのも、全て彼である。よしんばその心情が男女間の関係に向けられたものでなかったとしても、それが愛情の一種である事は解りきっていた。
であるから、見たかったのだ。特に彼、陽太が知る限り『善』に最も近い彼と言う人間が、一番愛する人間を失い、そしてその原因を陽太が持っているとき、彼の行動はどういうものになるのだろうか。
予想通りに動くのであれば、彼はその『善』を遺憾なく発揮するだろう。そして、昔読んだ哲学書の一説にこうあった。「美とは決して届くことがない真理に近しい存在へ、人が共感する感情である」と。
それが本当ならば、彼のその時体現する『善』はとても『美しい』ものであり、陽太でさえ感動せしめるのではないのだろうか。この障害を全て取り払い、自分を美と感動という次元へ連れて行ってくれるのではないだろうか。
自己への分析の果て、沸き起こったその仮説は、陽太にとってはとても優美で、彼に抗うことはできなかった。
そして発作的に行動を起こし、結果として全てが巧くいった。
倉木は、その眼に怒りをありありと浮かべ、恨みと憎しみを上乗せし、しかし、一度も陽太を責めようとしなかったのである。彼は、彼の『正しい』と思う道を決して曲げる事がなかった。彼女を失くしたその現実を、残酷に突きつけられたとしても。
ずっと全てを観察していた陽太には、それがとてもよく解った。彼は深く悲しみ、怒っていた。しかしその二つをむけるべきは残酷な運命であると頭から信じ込んでいて、陽太への怒りに紛らせるのは、卑しさでしかない、と厳しく己を律していた。
思い通り、考えたとおり、彼は『善』をなしているのであった。そして陽太もまた、認識していた。彼のその姿は、とても『美しい』ものであると。
だが、彼のその姿にも、畢竟、陽太は何も感じていないのだった。
これは『美しい』ものなのだろう。その無感情な結果の受容だけを残して、他は全て彼の頭上を通り過ぎていった。倉木の行為も、想いや覚悟も、澤田の生命といったものでさえ。
あの時総身を満たし、体腔をあまさず駆け抜けた確信は、結果を見たときには全て萎んでなくなっていた。
それが何故なのか、彼には解らない。理解できるはずも無い。彼は自分が犯した根本的な間違い――己の異質さの真の姿――にすら、気付いていなかったのだから。
彼があの時感じた『情動』を、彼は好奇心に類するものと位置づけ、それを全ての土台とした。澤田に愛を注がれた彼が、倉木を思い感じた、あの胸の悪くなるような違和感を、そうとしか判断できなかった。
そんなわけが無かったのに。
倉木に感じたあの感情が、何によって引き起こされたのかを真に考える事ができさえすれば、答えはおのずと見えていたはずだった。
その情動を励起した澤田という存在と、自分への働きかけと、倉木に思考が至る前に、彼が既に動揺していた理由と。
そして何より、なぜ彼が感情を全て感じられないのではなく、ただ『感動だけ』感じられないのかを考えさえすれば、彼の持つ障害が、物事の受容そのものに関するそれで無く、次の段階。受容したものの認識、振り分け、カテゴライズにこそあるのだと――。
しかし、そこに到る道は既に閉ざされた。澤田百合子の命と共に、永遠に。
つまり、何も変わらなかったのだ。一つも変わる事ができなかった。彼はただ、いつも通り、彼でしかなかった。
だと言うのに、最近彼は、先ほどの倉木の言った風に、「明るくなった」と評される事がよくあった。彼の心はいつも湖水のように凪いでいるから、その様なバイオリズムがあるわけがない。ならばきっと、それは彼の持つ擬態がまた一つ上の段階へ上った証なのだろう。そう結論付けている。歓迎すべき事なのだ、と陽太は納得している。単なる徒労に思えた先の件で、何も得られなかったわけではないと言う事なのだから。無自覚に掴んでいた全てを投げ出した末、得られたものはそれだけなのだった。
だから、島野陽太にとって、相変わらずこの世界は退屈だった。あれだけの事をしても、特に何も変わっていない。今に至っては、美しいものを探すのも、もう諦めるべきなのかもしれないと思い始めている。
将来性と学問の道とその精神について、西欧の哲学者を引用しながら語る学長の言葉を聞き流し、目を右へ左へと彷徨わせた。黒を基調とした堅苦しい服装の集団が、ずらりと目の前に並んでいる。その先にやはりモノトーンの、顔も知らぬ大学の関係者が座っている。両翼に親族なのか、歳のいった人々がいる。その上で窓から射す光に、埃がゆるりと踊っている。誰かが一つ咳をした。外でも一つ、鳥が鳴いた。粛々と聴いている様で、そこここで呟きが聴こえてくる。右隣を盗み見れば、倉木も退屈そうに欠伸を噛み殺している。彼からは、普段つけない整髪剤の匂いが漂ってくる。そして、変わらない陽太がいる。
全ての要素が告げている。そこは入学式なのだった。かつて行われたそれの延長線上にあたる、再演の入学式。
だから、倉木大介は隣にいる。
澤田百合子は、もういない。




