退職の心得
まずは、ご退職おめでとうございます。謹んでお慶び申し上げます。
まさか、辞表を出されてはいませんね。念のため。
退職届が正です。辞表の方はドラマの見過ぎです。今すぐ書き直して下さい。
それはさておき。晴れてあの、人を人とも思わぬ奴隷企業から解放される日がいよいよやってきたのですね。
深く長く降り積もる雪山を彷彿とさせる、寒々しい日々であったことと思います。
まことにお勤めご苦労でした。
……などとねぎらいたいのはやまやまではございますが、喜ぶのは時期尚早。
穏便に、迅速に、後腐れなく会社を辞めるにあたって、留意点が四点ございますので、是非ともお目通し頂きたく思います。
1.準備はお早めに
全く何の準備も出来ぬまま退職の日を迎える方をよく見かけます。
あれは、間違いです。
引き継ぎは勿論、手持ちの資料やパソコンのデータなど全てを事前に整理しておくべきです。
会社に対する恨みつらみが頭をよぎることと思いますが、ここはぐっとこらえましょう。
残された人間に罪はありません。
たとえ罪があったとしても、大事なデータを消すですとか、下衆な報復はあなたという人間の価値を著しく貶めます。それをした所であなたの身元は割れていますし、派遣や業務委託の場合はあなたの所属会社に甚大な迷惑がかかります。
荷物整理を始める目安は、退職の一週間前。
業務の引き継ぎは別とさせて下さい。荷物整理に絞ってお話します。
一週間前より先に片づけ出すと、周りの人間、特に多忙な人間の目には嫌みと映ることでしょう。
あまり遅い場合にも、「あいつ大丈夫か?」と思われかねません。
仮にスタートを早く切るとしたら、こっそりと。人目につかぬよう留意して下さい。
さて、一週間前を迎えたら、パソコン周りの私物を徐々に処分し、ファイルの中身も捨てて行って下さい。
キングファイルはあるけど中は空、など良いですね、このフェイク。
一週間で使う資料など限られていますから、以外をどんどん処分します。
当日、シュレッダーの箱に入りきらない、などみっともない真似はくれぐれもなさらぬよう。
当日の午後一は、ボールペン数本と紙数枚のみ残っているのが理想です。
そうもいかない場合でも持ち物は本当に、必要最低限にとどめて下さい。後で泣きを見ます。詳細は次項にて。
2.当日の行動
さあ、晴れて退職当日を迎えました。
あなたはこの日を喉から手が出るほど待ち望んでいたことでしょう。
お気持ちは察しますが、晴れやかな表情をしてはなりません。
遠い遠い親戚の法事に出るくらいの、やや暗い表情を心がけて下さい。
想像がつきにくいようでしたら、そうですね。――昔好きだったアイドルがウン十年ぶりに出てきたときの容姿の変わり映えに、甘酸っぱさが途端萎えに変わった切なさを思い浮かべてみて下さい。
当日、あなたに過度な仕事を要求する人はいないはずです。
もし頼まれた場合には、今まで出せなかった精力の全てを注ぎこみ、なるべく午前中に片づけます。むしろ「誰も頼むな」オーラを醸し出すくらいが程よいです。
キーは午前中……そう、午前中が勝負なのです。
もしかしたら、あなたに気を遣われて、あなたをお昼に誘う方が現れるかもしれません。「今更何を」と言わず、その場合には乗って差し上げましょう。同僚や先輩などいつも決まった相手と食べている場合には、普段通りに。今後の話を聞かれても、あまり明瞭に答えぬことをお勧めします。
未来に期待を馳せる者の表情は、残された側にとって時に毒になり得ます。
サバイバルクイズ番組で勝ち抜けた勝者を見送る負け犬の表情を思い出してみましょう。
さて、午後からが勝負です。
お色直しの時間到来。
オーラを変えるのです。
「誰も頼むな」から「帰りたい」へと!
周囲の片づけを本格的に開始します。
14時からは机を拭き始めましょう。『14時』が最善。これは、統計と経験によって裏打ちされています。午後一から拭くのは先走り。帰るためにお昼を食べに来たのか、と思われかねません。
あなたに仕事を頼む人は激減するはず、いえ、いないはずです。
空気の読めない輩が若干名現れた場合には、エスケーワイ、と内心で黒十字を切りつつ、誠心誠意対応しましょう。
どうせ明日から顔も合わせぬ人間ですから。
大方の会社の定時が17~18時であり、とりかかるのが早いのでは、と思われるかもしれません。
が、そんなことはありません。
机の中の備品、ファイルや資料全般を元の場所に戻したり、処分なりをするのには意外と時間を要します。
あまり考えにくいのですが、万に一つ、時間が余った場合。あなたの職場がどういう雰囲気かにもよりますが、はたきなど持ってパソコンの埃を掃除するまですると心憎いですね。
あなたより先に退職した方がおられれば、その方の言動を思い出し、良かった点を実行しましょう。
悪かった点を実践するのは学習能力のない人間のすることです。
周囲への挨拶回りを始めるのも手ですが、このタイミングではあまりお勧めしません。
私は断言します。
残念ながら、当日あなたは定時で帰ることが出来ません。
3.退職の挨拶
多くの職場の場合、上司はあなたを人前に立たせて挨拶を促す筈です。これも前例を記憶しておいて下さい。
心づもりをしておきましょう。
なんの準備もせぬまま、苦笑いでごまかしふらふら立つ輩を頻繁に目にしますが、業務の手を止めるこちらの気が萎えます。早く終われ、と。
挨拶は手短に、かつポイントを心得て下さい。
伝えるのは三点。職場への感謝、退職後の身の振り方、そして手短な感謝の一言で締めくくります。
これだけで十分、時間は90秒程度で十二分です。
だれもあなたにご大層な演説など期待しておりません。
スクール○ォーズのような暑苦しさも求めていません。
どうぞお気を楽に、肩の力を抜いて深呼吸を。
思ってもない感謝を述べ終え、花束を受け取る頃には、きっと未来への渇望で目頭が熱くなることでしょう。
さて、出来ましたら、定時後は菓子折りを持って挨拶回りをしましょう。
残念ながら、外資系を除けばこれは日本社会の常識です。
また、なにかを頂いて悪く思う者もいないでしょう。
これが、定時ジャストで帰れないと私が申すゆえんです。
挨拶の対象は広ければ広いほど良いです。最低限、苦楽を共にした元・お仲間に幸せオーラをまき散らして下さい。その際、決まり切った感謝の念を是非とも述べましょう。頬の筋肉と喉が疲れた頃には、明日から始まる日々を想像しましょう。自然と笑みがこぼれるはずです。
けどですね、あまりおおっぴらに笑顔を見せつけぬようにも留意して下さい。
どちらなのかと問われましても、匙加減も出来ぬようでは、一社会人とはいえません。
お察し下さい。
4.送別会
就労後に送別会の予定などございましたら、乗って差し上げましょう。
そして、二次会以降は出ぬことをお勧めします。
出たところで、得られるものはなにもありません。時間と金の無駄です。
どうせ明日から顔も合わせぬ人々ですし、周りの方は一刻も早くあなたの陰口を叩きたくてうずうずしていることでしょう。
無理は禁物、我慢は毒。
その結果が、あなたを見送る際の彼らの表情なのですから。
なにより、彼らがカラオケに行く頃には、あなたのことなど跡形もなく忘れ去っていることでしょう。
さあ、笑顔と神妙さのバランスを気に留めつつ、彼らに別れを告げてあなたの任務は完了です。
お疲れさまでした。
また新しい会社に飽きた場合には、この心得にお目通し頂ければと思います。
そうなりませぬよう、地球のマグマの底から深く深く願いつつ、筆を置かせて頂きます。
―了―