第十五話 「鳥使いの憂鬱と一見和やかな古都の宴(上)」
アズルガートの巨船が港に入って来ると、集まった大衆は興奮し、大きな歓声が上がった。
遠くからでも大きい事が見て取れたが、近付いて来ると思っていた以上にどんどん大きくなる青黒く光る巨大な船体は、恐ろしくもあり美しくもあり、大変な威圧感を醸し出している。
青で縁取りとアズルガート王家の紋章が入った大きな純白の帆も優雅で、黒に近い青色の船体には所々に銀色の浮き彫りの飾りや青色の魔石が付き大変豪華である。
高台のシャナン達も、その重厚で威圧的でありつつも優雅な巨船の迫力に感嘆の声を漏らす。
こんな船を造れる国の海軍とは戦いたくは無い、とその場にいた者全員が思った。
港に停泊した船体から、銀色の手摺りの付いた青黒い舷梯が掛けられ、背が高く体格の良い男が姿を現すと、人々の注目が集まった。
長い黒髪を後ろで一つに結び、青い服を身に纏った端正な顔立ちのその男が、アズルガート王国第三王子ヴィーダル・リグアズルガートであると皆が即座に認識する。
シャナンも、標的の観察の為にヴィーダル王子をじっと見詰めた。
(あれが「青き軍神」と呼ばれるアズルガートの第三王子ね。年はテウタテスの一つ上だから、私の4つも年下のはずだけど、見た目は大人ね。いかにも武人って感じ!)
この大陸の国際的な出迎えは、国境線で行うのが決まりとなっている。
ヴィーダルの乗っているアズルガートの船がケルトレア王国海域に入った時点で、実際には既にケルトレア国内にいるのだが、海からの入国の場合、便宜上、海上ではなく陸地で行う。
通常は国境線の手前で、国に入る前にその場にいる身分の一番高い者同士が、お互いに敵意の無いことを確認する形式だ。
賓客を迎える為に造られた港を見渡せる高台の賓客席からテウタテス王子が立ち上がりると、階段を下り、その席にいた者達皆が後に続いた。
(王子の後ろに控えている、カッコイイけど怖い顔した全身黒い服の男は王子専属の護衛かしら? 大きな図体の見目の良い男が二人で、なんだか、テウタテスとショーンの組み合わせに似てるわね。ゴツさは向こうの方が上回ってるけど。ふふふ。護衛の肩に乗っている黒いのは鳥? ……本物の鳥よね? 狩りにでも行く気?)
シャナンは、ヴィーダルの後ろに控えている男の肩に留まっている黒い大きな鳥を訝しげに見た。
船梯の一番下の段に立つ黒髪に灰青色の瞳のアズルガート王子の前に、銀の髪に青緑の瞳のケルトレア王子が立った。
テウタテスはじっとヴィーダルを睨むように見据えた後、仕方なしに口を開く。
「はるばる海を越えて、良くぞ我がケルトレア王国へ。我が名はテウタテス・ケルダーナ。この地ケルトレアを守りしディアン・ケルダーナの第二の子。この地に害をもたらさぬならば、女神ダヌダクアの御名の下に、そなたを友と呼び、そなたから友と呼ばれよう」
暗記してある形式どおりの挨拶は棒読みである。
正直なところ彼にしてみれば、大好きなお姉ちゃんの結婚の為の使者なんか「友」なんて呼びたくはない。
ヴィーダルは、緊張した顔でテウタテスに手を差し伸べた。
「我が友テウタテス・ケルダーナ。我が名はヴィーダル・リグアズルガート。かの地アズルガートを守りしバルバドル・リグアズルガートの第三の子。海神エーギヨルドの御名の下に、友の地へ立つ事をお許し願いたい」
嬉しくなさげにテウタテスがヴィーダルの手を握り、二人は握手をした。
「許そう、我が友ヴィーダル・リグアズルガート」
伝統的な挨拶を交わし終わり、ヴィーダルがケルトレアの地に降り立つと、港に集まった人々から歓声が上がった。
ほっとしたヴィーダルは、テウタテスの斜め後ろにいたシャナンの存在に気付き、ぽっと頬を染めた。
後ろに控えている自分の「鳥使い」の顔が微妙に引き攣ったことには、勿論、全く気付かない。
ヴィーダルの視線を受け、シャナンは優雅に長いドレスの裾を摘み膝を軽く曲げて微笑む。
「ようこそケルトレアへいらっしゃいました、ヴィーダル王子。わたくしが、ケルトレア国王の第一子シャナン・ケルダーナです。海を越えてヴィーダル王子がわたくしを迎えに来て下さったこと、大変嬉しく思っております。お会いできるのを心待ちにしておりました」
可憐な姫君にしか見えない挨拶に、ヴィーダルはどぎまぎしてシャナンを見詰める。
「こ、こちらこそ、お会いできるのを心待ちにしておりました! シャナン王女をお迎えに上がれて光栄です!」
(……な、なんて可憐な!! 青緑の瞳に金の巻き毛にきめ細かな白い肌! あんなに小柄で儚げなのに、素晴らしく立派な胸と女性らしい体つき……! 微笑を湛えた美しく愛らしいお顔! 優しげで可憐で可愛らしくて、まるで騎士物語に出てくる姫そのもの……いや、それ以上じゃないか!!)
儚げ、などという形容詞で修飾されるに値しない中身のシャナンは、可憐な表情を保ったままヴィーダルに恥ずかしそうに微笑み、心の中でにやりと笑った。
(ちょろい。ちょろいわよ、第三王子。頬なんか染めて目をキラキラさせちゃって、可愛いじゃないの。ふふふ。やっぱり武人には「守り甲斐のある儚く可憐な姫」が一番効果的ね)
ヴィーダルがシャナンをうっとり見詰めている事に気付いたテウタテスがヴィーダルを睨みつけると、視線に気付いたヴィーダルは慌ててシャナンへの熱い視線を逸らした。
目を逸らした視界の先には、見目麗しいルクサルド公爵家の令嬢が3人。
シャナンを引き立てる為にやや控えめにではあるが、3人とも美しく着飾っている。
(こ、これは又、可憐な……! 可憐な姫が沢山!!)
その中に、中身を「可憐」と評価されても良さそうな姫がいないことを、純情なヴィーダルは露とも知らずに脳内は大興奮である。
ルクサルド公爵が自己紹介をした後に、賓客のレブラン王子から順にその場にいた者の紹介をした。
ロリーナとイーディスに伴侶がいることを知ってがっかりしたヴィーダルは、自然と一人身のアリスに注目する。
(とてつもなく可憐だ!! 流石、騎士の国ケルトレア王国!! シャナン王女以外の姫ならば、俺にもお相手していただく可能性はあるだろうか? ……いや、ダグ兄がケルトレアと手を結べば、俺が結婚して手を結ぶ必要が無いか……。アリス姫、こんなに可憐なのに……見るだけなんて、酷いではないですか、ダグ兄!!)
中身は可憐から程遠いけれど、シャナンと似た外見はどう見ても可憐なお姫様のアリスを見つめ、ほうっと切ない溜息を吐くヴィーダル。
潤んだ瞳でじっと熱く見詰められたアリスは、ケルトレア王家名物の営業可憐ぶりっこでヴィーダルに微笑んでいたが、彼が視線を外すと、ほっとして婚約者のキリアンを見た。
アリスの婚約者としてではなく今回のルクサルディアの警備責任者としてヴィーダルに紹介されたキリアンと目が合うと、アリスは全身の血が凍る思いがした。
キリアンの自分を見る視線が、いつもとまるで違ったのだ。
いつもは、目が合えば暖かく微笑んでくれる。他の人はキリアンを無表情だと言うけれど、長年観察してきているアリスにはキリアンの微妙な感情表現が良く分かる。
アリスが不安な時は、それを察してくれる。「大丈夫だ、自分が守るから」と言う様に視線をくれて軽く頷いて教えてくれる。
それがどうだろうか。
今、キリアンの瞳には、いつも感じる暖かさなど欠片も見えない。まるで知らない人のように思えた。
赤味がかった金の美しい瞳に映るのは、見たこともない色。
初めて見たその複雑な表情の意味を、アリスは理解出来なかった。
青ざめたアリスが、突き刺されたような痛みを感じる胸を両手で押さえると、キリアンはそっと目を伏せ、その後一度もアリスを見ようとはしなかった。
一通り挨拶を済ませ、城に移動を始める中、昨日キリアンに言われた言葉と、先程の視線だけがアリスの頭の中を回る。
昨日、シャナン達ケルトレアから来た面々がルクサルド公爵夫妻達に挨拶を済ませた後で、アリスは迷わずいつものようにキリアンに抱きついた。
「あ~~ん!! キリアンさまぁ!! お待ちしておりました!! アリス、嬉しい!!」
ぎゅっと抱きつくアリスに、キリアンがされるがままになっているのは見慣れた光景である。
皆が「微笑ましい」と暖かい視線を送る中、二人の姿に不機嫌になる人はいつも決まっていた。アリスを姉のように慕っている為にキリアンに少々嫉妬するテウタテスと、アリスの行為を恥ずかしいと思う羞恥心と常識のあるルクサルド公爵家の末息子ロビン。
「アリス姉さん!! シャナン様とテウタテス様の御前だよ!! いつもいつも何やってるんだよ!!」
べりっと音のしそうな勢いで、騎士隊白部隊で副官を務めるロビンが一歳年上の姉アリスをキリアンから引き剥がした。
アリスは弟に向き直って、大きな青緑色の瞳を見開き、愛らしい唇を尖らした。
「何って、アリスのキリアンさまへの溢れる愛を表現しているのですわ!! 見てわかりませんの? 本当に観察力と理解力に欠ける子ですこと。そんなですからキリアンさまの日常報告書も作れないのですわ!」
「アリス姉さんの欲望を満たす為に僕は騎士隊に入ったんじゃないよ!」
呆れるロビンを振り切って、再びアリスは、ひしっとキリアンに抱きついた。
「ああ、愛しています、キリアンさま!! あーん! 久しぶりの生キリアンさま……! お会いしたかったですわ! お会いしたかったですわ! キリアンさまもアリスに会いたいと思ってくださりましたか?」
「はい」
キリアンがアリスに抱きつかれたまま微動だにせずまじめな顔で答えると、アリスはぽぅっと頬を赤く染めた。
テウタテスは面白くなさそうにむっとして眉を寄せ、アリスの一番上の姉のロリーナが、よしよしとテウタテスの頭を撫でた。
「久しぶりって、姉さん、先週もケルアに来ただろ!」
瞳の中にはキリアンしか映っていないアリスには、ロビンのツッコミも聞こえていない。
「相変わらず、アリスはすっごいわね……」
シャナンが関心すると、シャナンの護衛騎士ターニャも真面目な顔で頷いた。
「ロビン殿を綺麗に振り切られましたね。常々思っているですが、やはりあの動きは只者ではありません」
「いや、そこじゃなくてね……」
「ああ、羨ましい!! 俺もターニャにあんな風に抱きしめられたい!!」
抱きつこうとするテウタテスの護衛騎士ショーンを振り切り、ターニャは心底嫌そうな顔をした。
「気色悪い事を言うな」
「ああ、冷たい!! ターニャ、お前は冷た過ぎる!!」
「くっつくな! 鬱陶しい!」
今度はショーンを振り切ることが出来なかったターニャは、アリスに弟子入りすべきかと考える。
「あの二人は、相変わらず全く進展が無いんですね」
ショーンとターニャの追いかけっこを眺めながら、ルクサルド公爵家長男のエドがシャナンに話し掛ける。
「そうなのよ。一生なさそうでしょ?」
シャナンの溜息交じりの言葉に、ロリーナがほんわかと微笑んだ。
「ショーン君は、奥手ですものねぇ。うふふ」
「……ロリーナ、ちゃんと見えてる? 追い掛け回して抱きついてるけど?」
シャナンの言葉に、エドが首を傾げる。
「いまいち決定打に欠けるのですよね」
「このままでは、ターニャちゃん、他の人に取られちゃいそうですわねぇ」
「ツメが甘いからな、ショーンは」
「まず、攻略方法がなっていないのでしょう。兄さん、ご指導して差し上げたら如何です?」
ロリーナの言葉に、エドのみならず次男のハリーまでもが厳しい意見を言う。
「……ルクサルド兄弟、厳し過ぎ! ショーンが可哀想じゃないの!!」
思わずシャナンが膨れてみせると、エドとロリーナが慈愛の微笑を向け、冷静なツッコミが得意なハリーが真顔で言った。
「シャナン様は相変わらずショーンにお甘いですね」
「そうだ、姉上はショーンを贔屓し過ぎです! 俺をもっと贔屓して下さい!」
ひしっとシャナンに抱きつくテウタテスに、エドとロリーナが慈愛の微笑を向け、ハリーが真顔で溜息を吐いた。
「……テウタテス様も、相変わらずですね」
そんな話をしている間も、アリスのキリアン熱烈歓迎はまだまだ終わらない。
「あーん! お会いできて嬉しいですわ!! アリス、嬉しくて昨夜は中々眠りに就けませんでした! 遠く離れていてもアリスは毎晩、キリアンさまを想っております! キリアンさまもアリスを想って、眠れぬ夜をお過ごしですか?」
「はい」
頬を染め瞳を潤ませ見上げ質問を続けるアリスに、相変わらずキリアンは真顔で「はい」とだけ答え続けている。常人ならば、適当にあしらっている会話だろうが、キリアンはいたって真面目に答えているのだ。
「……そーなのか? そーは見えないぞ?」
首を傾げるテウタテスに、シャナンも頷く。
「キリアンが一人でいる時に悶々とアリスのことを考えているなんて、絶対想像出来ないわよね」
その言葉に、エドが微笑む。
「いやいや、男は大変なのですよ、色々と。あんなに綺麗で真面目なキリアン君だって、夜になれば煩悩の一つや二つ……」
「兄さん。シャナン様にそのような事を仰らないで下さい」
ハリーがエドの言葉を遮り、シャナンは嫌そうな顔をした。
「そうよ! エドの馬鹿! ケルトレア全国の乙女達の夢を壊す気!? キリアンは乙女達の永遠の夢なのよ!」
「姉上! キリアンも贔屓するのですか!? おのれキリアン! アリスだけではなく姉上までに目を掛けられているとは! 羨ましいぞ!! ああ、姉上!! 俺のことをもっと贔屓して下さい!! 寧ろ、俺だけを見て下さい!!」
懲りないテウタテスは、シャナンに抱きつき、また殴られた。
「まぁ。シャナン様も『キリアン君ふぁんくらぶ』の会員だったのですか? 知りませんでしたわ」
うふふ、と嬉しそうにロリーナがシャナンに微笑む。
「ロリーナ……何その『キリアン君ふぁんくらぶ』って? 会長は聞かなくてもわかるけどね……」
「うふふ。わたくし、会員番号7番ですの」
「何その微妙な番号。2番から6番は誰なのよ……」
「私が『シャナン様ふぁんくらぶ』を作ります!」
ショーンから逃れたターニャが、ビシッと挙手をした。
「名案だ、ターニャ! 俺が会長だからな!」
テウタテスの言葉に、ターニャは葛藤の表情を見せた後、泣きそうな顔で言い放った。
「……いくらテウタテス様でも会長の座は譲れません!」
「ターニャ!? まさか俺に刃向かうのか!?」
「まーまー。落ち着いて下さいよ、テウタテス様。俺のターニャを虐めちゃ嫌ですよ?」
「ショーン、いつ私がお前の物になったというのだ!?」
また喧嘩になるショーンとターニャ。
二人を見ながら、シャナンは呟く。
「……っていうか、そんなのいらないし」
「ロリーナ……キリアンの『ふぁん』だったのですか?」
エドは訝しげに2歳年上の姉を見た。
「はい。でも、そろそろキース君に乗り換えようと思っておりますの」
「……キースに?」
エドが眉を寄せてロリーナを見ると、ロリーナは微笑みながら頷いた。
「ええ。キリアン君、大きくなってしまいましたし」
「……ロリーナ、まさか貴女は……」
「ランスロット君も捨て難いのですけれど」
ショックで何も言えないエドの代わりに、ハリーが真顔で一言。
「まさか、姉さん……美少年嗜好が?」
「うふふ。あなた達も小さい時は本当に楽しませてもらいました」
「……」
後退るハリーと対照的に、エドはロリーナに詰め寄る。
「覚えていないですよ!? 何をどう楽しんだのです!? そこのところ詳しく教えて下さい、ロリーナ!! 覚えていないなんて、ああ、勿体無い!! それに、ロリーナ! 大人になってしまった私はもう愛せないということですか!?」
深刻な姉信者がここにも一人。そういえば、エドはもう29歳だというのにまだ結婚もしていない。ケルトレア王国は、もう駄目かもしれない。ちらっと不吉な思いが頭を横切るシャナンとハリー。
周りはお構い無しに、まだ続くアリスのキリアン熱烈歓迎。
ロビンは諦めて自室に引き上げてしまった。
「いやーん! キリアンさまぁ!! アリス、もうだめ……幸せ過ぎますわ! キリアンさまも、アリスに会えて嬉しくお思いですか?」
キラキラ目を輝かして自分を見上げるアリスを、キリアンは黙って見詰め返す。
このお決まりのやり取りでは、アリスが一人で愛を語って、質問をして、キリアンは台詞は「はい」だけなのだが、その「はい」が聞こえず、アリスは不思議そうな顔でキリアンを見上げた。
「……キリアンさま?」
少し不思議そうな顔で首を傾げたアリスに、キリアンは口を開いた。
「分かりません」
その台詞に、その場にいた者全員が驚き、キリアンを見た。
彼の表情は変わらない。
「……アリスと会うのは……嬉しくない、ですか……?」
アリスが呆然とした顔でそう尋ねると、キリアンは少し眉を寄せた。
「……分かりません。申し訳ありません」
予想していなかったキリアンの対応に、アリスは何も言えずに立ち竦んだ。
他の皆も、驚き、言葉が見つからないでいると、キリアンはそっとアリスの体を離し、深く頭を下げた。
「失礼致します」
「……キリアンさま……」
小さくアリスが声を漏らしても、キリアンは振り返らずに部屋を出て行った。
昨日のやり取りを脳裏で繰り返し、混乱したアリスはもう一度恐る恐るキリアンを見詰めた。
キリアンは変わらずに無表情で、アリスとは目を合わせない。
その瞳が、二度と自分を見てくれないような気がして、アリスは冷たくなった指先で口を押さえた。
眩暈と吐き気がした。
嫌われるような事をしたのだろうか?
愛想が尽きたのだろうか?
他に好きな人が出来たのだろうか?
キリアンが自分を見捨てる理由など、いくらでも思い付いた。
そもそも、幼い頃に自分の我侭で、家の権力を使って漕ぎ着けた婚約だ。彼が今まで自分の我侭を聞いてくれて側にいてくれたのだって、奇跡のようなものだ。
何を間違えたのだろう?
熱烈な愛情表現は彼の母親の真似をしたものだったが、弟が言うように迷惑だったのだろうか。
彼にとっては彼の仲の良い両親の愛情表現が「普通」だと思ったけれど、彼の祖父母のような穏やかでもっと一般的に「普通」と思われる愛情表現の方が良かったのだろうか?
不安で良くない想像だけが駆け巡る。
一行が馬車でルクサルディア城に向かう途中、同じ馬車に乗っているロビンが、真っ青になって震えているアリスの肩をそっと撫でた。
「アリス姉さん。顔色が悪いけど、大丈夫?」
「……少し、体調が悪いみたいですの。……城に着きましたら、アリスは部屋で休ませていただきますわ」
「馬車の揺れは平気? 止めようか?」
「大丈夫ですわ。……ありがとう、ロビン」
ロビンが緑の瞳で心配そうにアリスの顔を覗き込むと、アリスは青緑の瞳に涙を溜めていた。
「……アリス姉さん」
「……どうしましょう、ロビン……」
瞬きをすると、金色の長い睫毛に涙が弾かれ、ぽろぽろと白い頬に零れた。
「……キリアンさまに、嫌われてしまいました……アリスが至らないばっかりに、きっと愛想を尽かしてしまわれたのですわ……」
ロビンはその言葉に眉を寄せた。
「……何を言っているんだよ。馬鹿だなぁ、アリス姉さん。そんなわけないだろう? 今更、アリス姉さんの至らなさに愛想を尽かすくらいなら、とっくの昔に愛想を尽かしているよ」
「……ロビン……相変わらず、あなたって失礼な子ですわ」
「真実を言ったまでだよ。キリアン殿の寛大さはケルトレア一だって、アリス姉さんが一番良く知っているだろう?」
「……知っていますわ。キリアンさまの事はアリスが一番良く知っていますわ。世界で一番アリスがキリアンさまを愛しているのですもの」
「知ってるよ、アリス姉さん。大丈夫だよ」
「……ロビンのことも、ちょっとは愛していますわ。もちろん、弟としてですわよ」
「知ってるよ」
ロビンに抱きしめられて、アリスはそっと目を伏せた。
瞼に映るのは、胸に突き刺さったキリアンの冷たい視線。
初めて出会った5歳の時から、キリアンがアリスの世界の中心だった。キリアンが全ての基準だった。
彼を失ったら、どうやって生きて行けば良いのか、まるで見当もつかない。
ヴィーダルの乗った馬車では、ガルムが相変わらず渋い顔をしていた。
「……想像以上だな、ケルトレア王国」
何がですか?
何を見てあなたはそう思っているのですか?
と、ツッコミたい衝動に駆られるガルム。
「シャナン王女もアリス姫も可憐だ……」
他の二人の姫にもぽうっとなっていたくせに、既婚者と分かった途端、どうでも良いのですね?
と、ツッコミたい衝動に駆られるガルム。
「……はぁ」
桃色の溜息を吐くヴィーダルの、その表情はまるで恋する乙女。
デカくてゴツくて「青き軍神」なんて渾名も付いている、恋に恋する乙女。
寡黙な鳥使いは、黙ったまま心の中で溜息を吐いた。
(ああ、本当に早くアズルガートに帰りたい……)