月蝕の晩鐘、十二回目で婚約破棄されましたが――鐘を突くのは私の仕事なので、やめません ~前世は時報係の公務員でした~
「セリア・ヴァント。貴様との婚約を破棄する」
赤く欠けた月の下、大聖堂前広場。
王太子ルトガー・エルネスト・ヴァルドハイムの声が、冷えた石畳を滑っていった。
「聖女の祈りを妨げる不吉な鐘女など、我が王家には不要だ」
民衆がどよめく。
数千の視線が、わたしの擦り切れた灰色の前掛けに刺さる。
わたしは、胸元の懐中時計を開いた。
「かしこまりました。では、本日の第十九打の時刻を確認してもよろしいですか」
「……は?」
「あと四十秒です」
静寂。
ルトガー殿下の端整な顔が、ゆっくりと歪んだ。きっと、泣き縋られるか、取り乱すか、せめて顔色くらいは変わると思っていたのだろう。
申し訳ありません、殿下。
わたし、月蝕の晩は忙しいのです。
「……貴様、私が何を言ったか理解しているのか。婚約破棄だ。王太子の、婚約破棄だぞ」
「理解しております。ですので、引き継ぎの話をしております」
◆
――月蝕の晩。
年に一度、月が赤く欠ける数刻の間、この国を覆う魔物除けの結界が緩み、大地の魔素が暴走する。
それを抑えるのが、王都大聖堂の〈晩鐘〉。月蝕の進行に合わせて、決められた間隔で四十三回突かれる鐘。
聖女が祈り、鐘守が突く。民はそう信じている。
信じているだけだ。
結界を保っているのは祈りではない。鐘の「打刻間隔」のほうだ。月の欠け率に合わせて秒単位で間隔を補正しなければ、結界は綻ぶ。
それを知っているのは、鐘楼に住む地味な事務方――鐘守の娘、ただ一人。
つまり、わたしだ。
「ルトガー様、」
殿下の隣から、蜂蜜色の巻き毛が揺れた。新しい聖女、リィナ。白い祭服が月光を弾いて、それはもう絵になる。
「わたくし、セリア様を責めるつもりはないんです。ただ――古いやり方、もうやめにしましょう? 祈りがあれば、鐘なんて飾りですもの」
柔らかく、無邪気に、彼女は微笑む。
「聖女様。失礼ですが、祈祷中に結界の輪郭をご覧になったことはありますか」
「え? ……祈っておりますので、目は閉じておりますわ」
「左様ですか」
わたしは懐中時計を閉じ、足元に積んだ紙束を持ち上げた。
麻紐で三つに括った、厚さ一尺の塊。
「では、引き継ぎ書をお渡しします」
「……なんだ、それは」
「全四十三打の打刻間隔と、月の欠け率ごとの補正値です。三百七十二ページあります」
前掛けの埃を払って、わたしは両手でそれを差し出した。
「第一打から第十八打までは固定間隔です。第十九打以降は、月の欠け率に応じて〇・五秒刻みで変動いたします。欠け率七割を超えた時点で、補正表の第二章へお移りください。該当ページには付箋を貼ってございます」
誰も、受け取らない。
ルトガー殿下が、鼻で笑った。
「三百七十二……? 鐘を突くだけで、なぜそんな紙が要る。――そんな紙束、必要ない」
「――左様ですか」
「鐘など誰が突いても同じだ。リィナの祈りがあれば、鐘は飾りにすぎぬ」
ああ、と思った。
十二年間、冷えた石段を四百二十段上って、凍えた指で紐を握って、誤差〇・三秒以内で突き続けた四十三打。
それが、飾り。
「まあ、殿下ったら。……でもセリア様、本当に、もう肩の力を抜いてよろしいんですよ。十二も、お一人で大変でしたでしょう?」
「大変ではございません。手順書がありましたので」
「……手順書?」
「手順書があれば、才能のない者でも、凍えた指でも、同じ結果が出せます。わたしの十二年は、そのための十二年でした」
「下らん」
ルトガーが吐き捨てた。
「その十二年とやらで、貴様は一度でも民に感謝されたか? 誰一人、貴様の名を知らぬだろう」
「はい。誰も知りません」
「……ならば」
「誰も褒めません。誰も気づきません。止まったときだけ、怒られます」
わたしは、淡々と言った。
「――ええ、慣れております」
……前世の記憶を思い出してから、ずっと思っていたことがある。
この国の防災意識、監査が入ったら一発アウトでは?
わたしは十歳のとき、高熱で前世を思い出した。
日本の地方自治体職員。防災無線と時報システムの保守担当。三十四歳、独身、残業代は出ない。
毎日十七時に流れるあの夕焼けチャイム。あれが誰の手で、どれだけの点検簿の上に成り立っているか、知っている人間はほとんどいない。
誰も褒めない。誰も気づかない。
止まったときだけ、怒られる。
――そう。慣れている。
「……殿下。念のため申し上げますが」
貴賓席の端から、白髪を几帳面に撫でつけた老人が進み出た。宰相ベルンハルト・クヴェレ。脇に三種類の書類ばさみ。
「引き継ぎ書の受領を拒否なさった場合、その事実は記録に残ります」
「構わん。紙の山が国を守るものか、宰相」
「……承知いたしました。では、そのように綴じておきます」
わたしは引き継ぎ書を抱え直し、深く一礼した。
「では、失礼いたします」
「待て。言い残すことはないのか」
罵ってほしかったのだろうか。それとも、泣いてほしかったのか。
わたしは顔を上げた。
「ひとつだけ。第十九打の時刻を過ぎております」
「……なに?」
「十二秒。超過しております」
背後の鐘楼で、あわてたように鐘が鳴った。
ゴーン、と。
十二秒遅れて。
広場の空気が、ほんのわずか――本当にわずかに、ざらついた。
気づいたのは、たぶんわたしだけだった。
「……あら。鐘、今鳴りましたわね。少し遅れたくらい、どうということは――」
「はい。十二秒程度なら、第二十二打で巻き返せます。わたしなら」
「……ならば、突けばよかろう。今からでも」
「いいえ」
わたしは背を向けた。
「わたしはもう、鐘守ではございませんので」
「……おい。なぜ、泣かん」
殿下の声が、背中にぶつかった。
わたしは振り返らずに答えた。
「月蝕の晩は、忙しいのです。――泣くのは、今ではありません」
石段を降りながら、わたしは胸の内で、最後の一行を確認した。
第四十三打の補正値は、この三百七十二ページのどこにも書いていない。
あれは、代々、口伝だから。
◆◆◆
鐘楼の自室は、荷造りを済ませるのに半刻もかからなかった。
着替え二着。前掛け三枚。亡き父の懐中時計。インク壺。安物の帳面。
そして、誰にも受け取ってもらえなかった引き継ぎ書、三百七十二ページ。
「――ヴァント嬢」
扉の前に、宰相が立っていた。
「お見送りに参りました。……と申し上げたいところですが、こちらに署名をいただきたく」
差し出されたのは、鐘守職の退任届。そして、もう一枚。
「『鐘守職廃止令』……?」
「本日付けで、殿下がご署名なさいました。鐘守の職は、本日をもって王国から消滅いたします」
わたしは、その紙をしばらく眺めた。
流麗な筆致。ルトガー・エルネスト・ヴァルドハイム。
自分の名前だけは、本当に美しく書く方だった。
「……わたしの署名は、不要では?」
「受領印です。『被廃止職当人が、廃止の事実を受領した』という記録になります」
「記録に、なりますか」
「なります」
老人は、表情を変えずに言った。
「紙は、覚えております」
わたしはペンを取り、署名した。
インクが滲まないよう、三つ数えてから紙を持ち上げる。癖だ。
「閣下。この束は、宰相府へ置いてまいります。どなたも読まれないでしょうが、綴じていただけますか」
「……綴じます。必ず」
「ありがとうございます。紙は、残りますので」
老人は、二つ目の書類ばさみを軽く叩いた。
「過去十二年分の月蝕記録と、貴女が提出された打刻表の控えも、地下文書庫にすべて保管してございます」
「……あれ、受理されていたんですか」
「毎年、提出されていたでしょう」
「誰も読んでいないものと」
「読んでおりませんでした」老人は正直だった。「ですが、綴じてはおりました」
わたしは、少し笑ってしまった。
前世でもそうだった。月次点検簿は誰も読まない。でも、綴じてある。
綴じてある、というのが、この世のすべての事務方にとっての、最後の砦なのだ。
「――閣下。もうひとつだけ」
「はい」
「第四十三打の補正値は、紙のどこにも書いておりません」
老人の手が、止まった。
「……と、申されますと」
「あれは口伝です。鐘守から鐘守へ、口で伝えるものと決まっております。紙に書くと、読めてしまいますので」
「読めて、困りますか」
「読めたつもりになって、間違えます」
わたしは荷袋を肩にかけた。
「第四十三打を間違えると、結界は閉じ切らずに翌朝を迎えます。そのとき何が起きるかは、建国以来、一度も試されておりません」
「……貴女は、どなたにも伝えずに王都を離れると」
「伝える相手がおりません。鐘守職は、本日消滅しましたので」
沈黙。
老人は、ゆっくりと一礼した。
「お気をつけて。――どちらへ」
「国境の村です。ロゼン、という」
「十二年前、鐘の音が届かなかった村ですな」
わたしは足を止めた。
「ご存じでしたか」
「紙は、覚えております」
石段を降りる。四百二十段。
十二年、毎年この段を上った。数えるのが癖になって、もう考えなくても足が覚えている。
四百二十段目で、わたしは一度だけ振り返った。
鐘楼の上で、晩鐘が鳴っている。
第二十八打。
――間隔、一・八秒超過。
わたしは懐中時計を閉じて、城門へ歩き出した。
どうせもう、わたしの仕事ではない。
◆◆◆
「貴族の娘に、この村で何ができる」
ロゼン村に着いて最初にかけられた言葉が、それだった。
言ったのは、日に焼けた顔の五十代の女性。太い腕、使い込んだ竈。村長代理のマルタ・ロゼン。
「鐘守の娘だかなんだか知らねえが、ここは王都じゃねえ。きれいな手で麦が実るか」
「実りません」
「……あ?」
「麦は実りませんが、洗濯はできます」
翌朝、わたしは井戸端にいた。
夜明け前。凍えるような水を桶に汲み、村中の洗濯物を叩いた。指がかじかんで感覚がなくなる。インク染みの残る指が、赤く腫れていく。
午後は薪を割った。斧の重さで手首を持っていかれ、三回に一回しか割れなかった。
二日目。割れる確率が二回に一回になった。
三日目。手の皮が破れたので、布を巻いて続けた。
村人は誰も話しかけてこない。マルタさんは、竈の前からときどきこちらを見ていた。
四日目の朝。
「おい」
竈の前に呼ばれた。
「パンの捏ね方、教えてやる。――その手じゃ、どうせ斧は無理だ」
黒パンの生地は、重い。
前世のパン作りとはまるで違う。ライ麦の生地は粘らず、ただ密で、腕の付け根で押し込むように捏ねる。
「もっと体重かけろ。腕じゃねえ、腹だ」
「腹、ですか」
「あんた、ずっと腕だけで生きてきた顔してんな」
――その通りです。
焼き上がった黒パンは、酸っぱくて、硬くて、噛むほどに甘かった。
わたしは、それを食べながら少しだけ泣きそうになって、やめた。泣くのは、今じゃない。
◆
「おねえちゃん、貴族なんだろ」
五日目、そばかすの少年が井戸端に来た。鼻をすすりながら、警戒した目でこちらを見ている。
赤みがかった癖毛。十一歳くらいだろうか。
「ノア、でしたね。わたしは元・鐘守です」
「元って、なんだよ」
「クビになりました」
少年は目を丸くした。
「……クビになんの、あれ」
「なりました。王都では、鐘より祈りのほうが大事だそうです」
ノアは、しばらく黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
「兄ちゃん、鐘突いて死んだんだ」
桶を置く手が、止まった。
「十二年前。月蝕の夜。王都の鐘の音がここまで届かなくて、魔素が暴れて、村の半分が食われた」
「……ええ」
「兄ちゃん、崩れかけた物見櫓に荷鐘吊るして、朝まで一人で突いてた。聞き覚えだけで。だから間隔なんてめちゃくちゃだったって、マルタさんは言ってる。でも」
少年は、鼻をすすった。
「でも、半分は残ったんだ。村の半分は」
わたしは膝をついて、少年と目の高さを合わせた。
「お兄さんの、お名前は」
「イェルク。十七だった」
「鐘守名簿には」
「載ってない。王都に聞いたら、『該当なし』って返事が来た。一行だけ」
該当なし。
ああ、その四文字は知っている。前世でも、何度も見た。
照会をかけて、該当なし。台帳にない。だから、いなかったことになる。
いたのに。
「ノア」
「なんだよ」
「名簿を、作り直します」
「……は?」
「鐘守名簿は王都の管理台帳ですが、原本は鐘守家が保管する決まりです。鐘守家の職は廃止されましたが、家は残っています。当主は、わたしです」
わたしは荷袋から、安物の帳面を取り出した。インクが滲む、一冊三銅貨の粗い紙。
「ですので、わたしが書けば、それが名簿です」
「そんな、勝手に」
「勝手ではありません。手順通りです」
その夜、わたしは蝋燭の下で、帳面の一ページ目を開いた。
ペン先を、インクに浸す。
――『鐘守名簿(再編) 第一巻』
一行目に、書く。
『イェルク ロゼン村 享年十七 月蝕第十二夜 荷鐘・夜通し 全打数不明』
手が、止まった。
この人は、手順を知らなかった。
打刻表を見たこともなかった。補正値も、欠け率も、何も知らなかった。
それでも、やめなかった。
朝まで。一人で。
――わたしは、十二年間、誰にも見られずに鐘を突いてきたと思っていた。
違った。
わたしより前に、もっと見られずに、もっと報われずに、突いた人がいた。
そして記録にすら、残らなかった。
インクが、滲んだ。
紙の上に、ぽたりと落ちたものがあって、『イェルク』の『ク』の字が、少し歪んだ。
わたしは慌てて前掛けの端で押さえたが、間に合わなかった。
……直さない。
この滲みも、記録だ。
わたしは次のページをめくり、二人目の名前を書き始めた。
宰相府の地下文書庫で書き写してきた、過去十二年分の月蝕記録。その余白に、誰かが鉛筆で走り書きしていた、死亡した鐘番たちの名前。
三十一人分。
一人ずつ。
夜通し。
書き終えたとき、窓の外は白んでいた。
翌朝、ノアが帳面を覗き込んで、一ページ目で固まった。
「……兄ちゃんの名前が、一番上だ」
「一番上です」
「なんで」
「一番最初に、教えてもらったからです」
少年は、ぐしゃぐしゃに顔を歪めて、鼻をすすって、それから言った。
「おねえちゃん。鐘って、どうやって突くんだ」
「手順書があります」
わたしは、三百七十二ページの束を、床にどさりと置いた。
「鐘は、祈りじゃありません。手順書です」
「……読めねえよ、こんなの」
「読めるようにします」
わたしは笑った。たぶん、王都を出てから初めて。
「手順書は、継げます」
◆◆◆
黒鎧の男が村に来たのは、春の終わりだった。
身長六尺を超える巨躯。漆黒の短髪、灰色の瞳。腰に提げた大剣には、魔物の血の跡が黒く残っている。
村人が一斉に家に引っ込んだ。
「〈月蝕狩り〉だ……」
マルタさんが低く言った。
「辺境伯シュヴァルツ・ロートリンゲン。魔物を百でも二百でも斬るが、人の話は聞かねえって評判の男だよ」
その冷酷な英雄は、井戸端にいるわたしの前で立ち止まり、しばらく黙ってから、言った。
「……それは、何だ」
「黒パンです」
「違う。その、紙」
竈のそばの板に、今朝書き上げた打刻表を干していた。インクを乾かしているところだ。
「打刻表です。月蝕の晩に、鐘を突く間隔を書いたものです」
「――ふむ」
男は、無表情のまま紙を覗き込んだ。
「読めん」
「数字ですが」
「数字は読める。意味が読めん」
正直だった。
◆
それから三日、辺境伯は村に留まった。
国境警備の巡回中だという。四十三人の部隊を率いていて、全員が黒い外套を着ていた。
三日目の夕刻、わたしはマルタさんに言われて、部隊に黒パンを配りに行った。
「……」
辺境伯は、黒パンを受け取って、じっと見ていた。
「毒は入っておりません」
「そんなことは思っていない」
彼は一口齧り、噛んで、飲み込んだ。
それから、二個目を食べた。
三個目を食べ終わったところで、わたしは気づいた。
この英雄、泣いている。
無表情のまま、灰色の瞳からぼろぼろと涙が落ちている。筋一本動かさずに泣くので、周囲の部下たちも「あ、また始まった」という顔をしている。
「……あの、辺境伯様」
「何だ」
「お口に合いませんでしたか」
「旨い」
「泣いておられますが」
「泣いていない」
「涙が」
「……パンを、もう一個もらえるか」
四個目を渡した。
副官らしき青年が、小声で教えてくれた。
「閣下、家庭の味に弱いんです。母君を早くに亡くされて」
「なるほど」
「あと、記録帳の字が壊滅的に汚いです」
「それは関係あるのでしょうか」
「ないです。でも知っておいてほしくて」
◆
夜。焚き火のそばで、辺境伯が報告書を書いていた。
覗き見るつもりはなかったが、視界に入ってしまった。
……本当に、読めない。
文字の形をしていない。部下が「これは文字ではなく魔法陣では」と言ったという噂は、謙虚な表現だったらしい。
「ロートリンゲン閣下」
「シュヴァルツでいい」
「では、シュヴァルツ様。その『三』は、『五』でしょうか」
「三だ」
「上の横棒が斜めに突き抜けております」
「……三だ」
「来月、この報告書を読む文官が、三と読む保証がありません」
「……」
巨躯の英雄が、無言で紙を裏返した。
わたしはペンを借りて、清書した。
十二年間、誰にも読まれない報告書を書き続けた人間の筆跡は、無駄に読みやすい。
「――助かる」
「職業柄です」
「鐘守だと聞いた」
「元、です。廃止されました」
焚き火が、ぱちりと鳴った。
「……鐘は」
シュヴァルツ様が、低く言った。
「鐘の音は、好きではない。――嫌いだ」
彼は懐から、小さな包みを出した。蜜蝋の塊。耳栓だ。
「月蝕の晩は、これをしている。毎年」
「英雄が、鐘の音に耳栓を」
「笑え」
「笑いません」
わたしは、火に薪を足した。
「鐘の下で、どなたか亡くされましたか」
黒鎧が、びくりと動いた。
「……なぜ分かる」
「鐘の音が嫌いになる理由は、だいたい一つですので。名簿を作っているうちに、分かりました」
長い沈黙。
「六歳のときだ」シュヴァルツ様は、火を見たまま言った。「月蝕の晩。家族で大聖堂に避難した。鐘が鳴っていた。綺麗だと思った。――その直後に、結界が綻びた。父と母が、俺の目の前で」
「……何年前の月蝕ですか」
「二十年前」
わたしは、頭の中で記録をめくった。
「二十年前の月蝕、第三十一打で七秒の遅延が記録されています。父の手記に」
「……七秒」
「鐘守が、高齢で、石段を上るのに時間がかかったと。翌年、父が職を継ぎました」
シュヴァルツ様は、長いこと黙っていた。
それから、言った。
「――鐘のせいでは、なかったのか」
「鐘のせいです」
わたしははっきり言った。
「七秒の遅延は、結界を綻ばせます。ご両親は、鐘の遅延で亡くなりました。鐘は祈りではないので、間違えれば人が死にます」
「……」
「ですが、同時に――間に合えば、死にません。手順さえ合っていれば」
焚き火の向こうで、巨躯の英雄が、また静かに泣いていた。
今度は、わたしは何も言わなかった。
◆
翌朝、出立の前に、シュヴァルツ様が言った。
「願いが、ひとつある」
「はい」
「今年の月蝕。部下を、一人も死なせたくない」
「何名おられますか」
「四十三人だ」
わたしの手が、止まった。
黒パンを包む布の端を、指が離さなかった。
四十三。
鐘の、打数と同じ。
「……セリア嬢?」
「――いいえ」
わたしは顔を上げた。
「シュヴァルツ様。打刻表を、差し上げます」
「俺は鐘を突かんぞ」
「突くのは村です。あなたは、配ってください」
「配る?」
「国境沿いの村を、巡回しておられるでしょう」
わたしは、三百七十二ページの束を指さした。
「写しを、全部の村に」
◆◆◆
「読めねえよ、こんなもん」
村の集会場。
打刻表の写しを前に、老人たちが一斉に首を振った。
「数字がぎっしりで、目が滑る」
「わしは数が二十までしか数えられん」
「月蝕の晩に、こんな紙見てる余裕があるか」
――そうですね。
わたしは、前世の失敗を思い出していた。
防災マニュアル。全戸配布。四十八ページ。
誰も読まない。
読まないまま、災害が来る。
「紙を配れば伝わる」というのは、事務方の最も傲慢な思い込みだ。
「……申し訳ありません。作り直します」
「いや待て」
マルタさんが、紙を引っ掴んだ。
「あんた、ここ。『三・五秒』ってのは、何だ」
「鐘を突いてから、次に突くまでの間です」
「三つ数えて、半分か」
「おおむね」
「じゃあ唄だ」
「……は?」
マルタさんは竈を叩いて、拍子をとり始めた。
「イ、チ、ニ、サン――で、ゴン。
イ、チ、ニ、サン――で、ゴン。
月が欠けたら、イチ、ニ、で、ゴン」
集会場が、しんとした。
「……婆さん、それ」
「覚えられる」
「覚えられるぞ」
わたしは、口を開けたまま固まっていた。
前世で、わたしたちが何年もかけて作れなかったものだ。
「覚えられる防災情報」。
それを、この村の寡婦が、竈を叩いて三十秒で作った。
「マルタさん」
「なんだ」
「天才では?」
「馬鹿言え。唄なんざ、麦刈りと一緒だ。体で覚えるもんは、唄にすんだよ」
◆
それから、村は変わった。
わたしが打刻表を書く。
マルタさんが唄に直す。
ノアが、それを走って届ける。
「おねえちゃん、次どこ!」
「カルナ村です。東に二里。唄を三番まで教えて、鐘の据え方を見てきてください」
「鐘、ない村はどうすんだ」
「荷鐘でも、鍋でも、板でもいいです。音が出て、同じ間隔で叩ければ」
「鍋でいいのかよ」
「手順が合っていれば、鍋でいいです」
これが、前世のわたしの仕事だった。
防災無線は、一局の大型スピーカーで町全体に届かせるものだと、昔は思われていた。
違う。
山がある。谷がある。風がある。
大きな音を一か所から出しても、届かない場所は必ず出る。
だから、分散多局にする。
小さな拡声器を、無数に。
同じ信号を、同じタイミングで。
――結界も、同じではないか。
そう思いついたのは、ロゼン村に来て三月目の、洗濯物を干している最中だった。
王都大聖堂の晩鐘は、国で一番大きい。
音は遠くまで届く。だが、国境までは届かない。
十二年前のこの村のように。
なら、中心から張るのではなく。
外から、内へ。
「セリア」
集会場の戸口に、黒鎧が立っていた。
「シュヴァルツ様。巡回は」
「終えた。――写しを配った。十九の村だ」
「十九」
「字が汚いと言われた。全部の村で」
「でしょうね」
「……お前も言うのか」
「はい」
彼は、懐から紙束を出した。
端が黒く焦げている。
「シュヴァルツ様。これは」
「イシュカ村で、魔物が出た。鐘を据える前だった。――間に合わなかった」
「……人は」
「二人。村の若い夫婦だ」
黒鎧の男は、無表情のまま、紙束をテーブルに置いた。
「名簿に、書いてくれるか」
「――はい」
「ヨナスと、ミリィ。苗字は、聞いていない」
わたしはペンを取り、帳面を開いた。
滲みの残る一ページ目を越えて、十四ページ目。
『ヨナス イシュカ村 鐘据付前 魔素暴走時』
『ミリィ イシュカ村 同』
「……苗字を、聞いてこよう」
シュヴァルツ様が、ぽつりと言った。
「次の巡回で、聞いてくる。苗字がないと、名簿が埋まらんだろう」
「はい」
「それから、鐘だ。鐘を先に配る。打刻表より先だ。鳴るものがなければ、表は意味がない」
わたしは、顔を上げた。
この人は、三日前まで打刻表の数字を「意味が読めん」と言っていた。
「シュヴァルツ様」
「何だ」
「順序が、正確です」
「……褒めているのか」
「最大級に」
◆
夏が過ぎ、秋が来た。
ノアの靴が三足潰れた。
マルタさんの鐘拍子唄は、四番まで増えた。
王都から、グレーテ・ホルンという魔術院計測官の手紙が届いた。十二年間、わたしの打刻記録を唯一真面目に読んでいた、万年寝不足の計測官。
『辺境の魔素変動値に、奇妙な規則性を検出。
国境沿い十一地点で、同位相の微弱な安定波。
――あなた、何をしているんですか。
(私も混ぜてください)』
返信を書いた。
『分散多局方式と申します。
中心一局で届かない場合、小規模発信源を面的に配置します。
前世の職場で、十年かけて導入しました。
こちらでは、三月で済みました。村の方が優秀です。』
秋の終わりまでに、鐘は――あるいは鍋や板は――二十七の村に据えられた。
「セリア」
夜、物見櫓の上で、シュヴァルツ様が言った。
十二年前、イェルクが荷鐘を吊るした櫓だ。
「来月、月蝕だ。王都は、どうなる」
わたしは懐中時計を閉じた。
「聖女様が祈られます」
「鐘は」
「誰かが突くでしょう。間隔は、おそらく適当に」
「……止めなくていいのか」
「止める権限が、ありません」
わたしは、彼のほうを見た。
「わたしは、鐘守職を廃止された、ただの村の時計係です」
風が吹いた。
「それに」
わたしは櫓の下を見た。
小さな鐘がひとつ、吊るされている。
ノアが鍛冶屋に頼んで作らせた、手のひらほどの鐘。
側面に、拙い字で一文字ずつ刻んである。
『イェルク』
「今年は、この村の鐘を突く約束をしていますので」
◆◆◆
月が、赤く欠け始めた。
王都・大聖堂前広場。
白い祭服の聖女リィナが、両手を組んで天を仰いでいる。
「星々の恵みと、月の慈悲のもとに――」
美しい祈りだった。
声は澄み、所作は優雅で、民衆は息を呑んで見入っていた。
鐘楼では、臨時に雇われた聖堂の下働きが、鐘を突いていた。
一打。二打。三打。
「まあ適当でいいんだろ、こんなの」
「飾りだって殿下も言ってたしな」
十八打までは、問題なかった。固定間隔だからだ。
――問題は、第十九打からだった。
月の欠け率、六割八分。
本来の間隔は三・五秒。補正後、三・二秒。
実際に突かれた間隔――四・一秒。
誤差、〇・九秒。
ゴーン、と鐘が鳴った瞬間、広場の空気が、わずかに震えた。
「……今、何か」
民衆の一人が、空を見上げた。
赤い月のそばに、細い線が走っている。
髪の毛ほどの、黒い筋。
「星が割れてるぞ!」
「馬鹿、あんなの見間違いだ」
貴賓席で、ルトガー王太子が足を組み替えた。
「リィナの祈りは順調か」
「はい、殿下。大変お美しく」
「ならば問題ない」
◆
第二十二打。欠け率、七割四分。
補正表の第二章に移るべき地点。
付箋が貼ってあったページ。
誰も、補正表を持っていなかった。
第二十三打。
第二十四打。
黒い筋が、三本に増えた。
第二十五打――空が、軋んだ。
「――きゃあああっ!」
広場の端で、悲鳴が上がった。
石畳から、黒い靄が噴き出している。魔素だ。靄の中で、何かが形を成し始めていた。
「衛兵! 衛兵ーっ!」
「結界は!? 結界が機能していないのか!?」
第二十六打。
聖女リィナは、祈り続けていた。目を閉じたまま。
一度も、結界の挙動を見ていない。
「星々の恵みと、月の慈悲のもとに――」
第二十七打。
王都の空が、割れた。
音はなかった。
ただ、天頂から地平まで、一本の巨大な裂け目が走り、その向こう側から、黒い奔流が流れ込んできた。
民衆が逃げ惑う。石畳が砕ける。大聖堂の窓硝子が、内側から弾け飛ぶ。
「な――なんだ、これは!」
ルトガーが椅子から立ち上がった。顔が白い。
「リィナ! 祈れ! もっと強く祈れ!」
「祈っております!」
聖女は、本当に困った顔をしていた。悪意は、まるでなかった。
「殿下、きっと皆さんの信仰が足りないのではないでしょうか。わたくし、こんなに祈っておりますのに」
「――そんなわけが」
ルトガーは広場を見回した。
崩れる露店。逃げる民。
そして、叫んだ。
「鐘が悪いのだ!」
広場の喧騒の中で、その声だけが、妙にはっきり響いた。
「鐘だ! 鐘の突き方が悪い! 鐘守を呼べ! 鐘守はどこだ!」
――沈黙。
奇妙なことに、その瞬間だけ、広場が静まり返った。
白髪の老人が、人混みをかき分けて、ゆっくりと前に出てきた。
脇に、三種類の書類ばさみ。
「殿下」
「宰相か! 鐘守を! すぐに呼べ!」
「――おりません」
「は?」
老人は、一つ目の書類ばさみを開いた。
紙を一枚、静かに差し出す。
「鐘守の職は昨年、殿下ご自身が『不要』として廃止されました」
「……なに」
「廃止令、こちらに。――殿下の、ご署名です」
ルトガーは、その紙を見た。
流麗な筆致。ルトガー・エルネスト・ヴァルドハイム。
自分の名前だけは、本当に美しく書く男の、美しい署名。
「こ、これは……形式上のもので」
「形式です」
宰相は頷いた。
「国家とは、形式でございます」
「ふ、ふざけるな! ならば誰でもいい、鐘の間隔を知る者を連れてこい!」
「おりません」
「宰相府に記録があるだろう!」
「ございます」
老人は二つ目の書類ばさみを開き、分厚い束を取り出した。
麻紐で三つに括った、厚さ一尺の塊。
「十二年分の打刻記録と、三百七十二ページの引き継ぎ書。写しでございます」
「ならば――!」
「――昨年、殿下は」
宰相は、束を両手で持ち上げた。
ちょうど一年前、鐘守の娘がそうしたように。
「『そんな紙束、必要ない』と仰せになりました」
「……っ」
「『鐘など誰が突いても同じだ』とも」
老人の声は、最後まで静かだった。
「紙は、覚えております」
◆
裂け目から、黒い奔流が降り注いでいた。
ルトガーは、紙束を奪い取って、震える手でめくった。
「よ、読めば……読めばいいのだろう! どこだ! 第二十八打の間隔は!」
「三百七十二ページございます。該当箇所は、第二章――」
「探している時間があるか!」
「ございません」
「くそ……くそっ! これだけあって、肝心のことが書いていないではないか!」
――そうなのだ。
書いてあるのだ。第二十八打も、第三十五打も、第四十二打も。
ただ一つ、第四十三打の補正値だけが、どこにも書かれていない。
あれは、口伝だから。
「殿下」
宰相が、三つ目の書類ばさみを開いた。
羊皮紙。建国期のもの。金の封蝋。
「もうひとつ、お伝えすべきことが」
「今か!?」
「今でございます。――建国以来の、王家と鐘守家の契約書です」
老人は、ゆっくりと読み上げた。
「『晩鐘維持権は王家が鐘守家に委託するものとし、王家が一方的にこれを破棄した場合、当該権利は鐘守家当主個人に完全帰属する』」
広場が、再び静まった。
「……どういう、意味だ」
「晩鐘を突かせる権限は、もはや王家にございません」
宰相は、羊皮紙を閉じた。
「現在、この国の鐘を鳴らす権利を持つのは――セリア・ヴァント嬢、ただ一人でございます」
◆◆◆
王都からの早馬がロゼン村に飛び込んできたとき、わたしは麦粥を食べていた。
「セリア・ヴァント様! 王都が! 王都の空が割れました!」
使者は泥だらけで、馬から転げ落ちるようにして叫んだ。
「どうか王都へ! 晩鐘を! あなた様でなければ鐘が突けないと、宰相閣下が!」
村の集会場が、しんとなった。
欠けた月の光が、窓から差し込んでいる。
竈の火が、ぱちりと鳴った。
わたしは、麦粥の匙を置いた。
「――行きません」
「は」
「王都の鐘は、王都の方が突いてください」
「し、しかし! 民が死にます!」
「存じております」
わたしは立ち上がり、前掛けの紐を結び直した。
擦り切れた、灰色の前掛け。
「ですが、わたしは今年、この村の鐘を突く約束をしていますので」
「そんな、村の鐘など――」
「村の鐘『など』」
わたしは、微笑んだと思う。たぶん、あまりいい笑顔ではなかった。
「その言い方、去年も聞きました」
使者が言葉を失った。
その横に、太い腕の寡婦が立ちはだかった。
「聞いたか、王都のあんちゃん」
マルタさんが、仁王立ちで言った。
「この子は今年、うちの鐘を突く約束をしてんだ。約束ってのはな、王様の命令より重いんだよ。この村じゃあな」
「……」
「それが嫌なら、自分で突け。唄を教えてやるから、覚えて帰れ」
◆
わたしは櫓に上った。
十二年前、イェルクが荷鐘を吊るした場所。
今はそこに、村の鐘が据えてある。
隣に、ノアが立っていた。
手には、小さな鐘。『イェルク』と刻まれた、手のひらほどの鐘。
「おねえちゃん」
「はい」
「おれ、間違えないかな」
「間違えます」
「えっ」
「人間は間違えます。わたしも、十二年で七回間違えました」
懐中時計を開く。父の形見。
月の欠け率、六割二分。
「ですから、手順書があります。間違えても、戻れるように」
「……うん」
「第一打。――三、二、一」
ゴーン。
夜が、震えた。
◆
同時刻。
カルナ村で、鍛冶屋が鉄板を叩いた。
イシュカ村で、老婆が鍋を叩いた。
ヴェスト村で、子どもが三人がかりで荷鐘の紐を引いた。
『イ、チ、ニ、サン――で、ゴン』
二十七の村。
二十七の鐘と、鍋と、板。
同じ唄で、同じ拍子で。
◆
王都・大聖堂前広場。
裂け目から流れ落ちる黒い奔流の中で、魔術院計測官グレーテ・ホルンが、計測杖を取り落とした。
「……なんですか、これは」
杖の先の水晶が、異常な明滅を始めていた。
「北東から。いえ、東から。南東からも――辺境全域から、同位相の安定波。振幅は微弱ですが、位相が、完全に、揃って――」
眼鏡がずり落ちた。
「誤差〇・三秒以内。……人間の仕事じゃない」
彼女は空を見上げた。
裂け目が、閉じ始めていた。
中心からではなく。
外側から。輪郭が、じりじりと押し戻されるように。
「結界は中心から張るもの、と……私たちは」
グレーテは、震える手で記録板に走り書きした。
『外周多点同期型。――発想が、根本から違う』
◆
国境の丘陵地帯。
黒鎧の男が、剣を振り抜いた。
魔物の首が落ちる。
「閣下! 右翼、押されています!」
「三十秒待て」
「は!?」
「――鐘が鳴る」
ゴーン。
東から、西から、北から、鐘の音が重なった。
魔物の群れが、一斉に動きを止めた。
靄が、薄れていく。
シュヴァルツは、耳栓を外していた。
今年は、していない。
「……セリア」
彼は呟いた。
「全部隊、損害報告!」
「第一中隊、負傷二、死亡なし!」
「第二中隊、死亡なし!」
「第三中隊、死亡なし!」
「――全隊、四十三名、生存!」
黒鎧の巨躯が、剣を杖にして、片膝をついた。
部下たちが慌てて駆け寄る。
「閣下! お怪我が!?」
「……怪我ではない」
「では」
「泣いていない」
「泣いてらっしゃいます」
◆
ロゼン村・物見櫓。
第四十二打が、鳴り終わった。
月は、もう白い。欠け率、一分未満。
「おねえちゃん、次で最後だ」
ノアが、小さな鐘を握りしめた。
「はい。第四十三打です」
わたしは懐中時計を閉じ、膝をついて、少年と目の高さを合わせた。
「ノア。ここからは、紙に書いてありません」
「え」
「第四十三打の補正値は、三百七十二ページのどこにも書いていません。代々、口で伝えるものと決まっていますので」
「なんで、書かないんだ」
「書くと、読めてしまうからです」
わたしは、少年の肩に手を置いた。
「読めると、人は『分かったつもり』になります。最後の一打だけは、誰かから直接、受け取ってほしいのです。――顔を見て」
「……」
「よく聞いてください。一度しか言いません」
夜の風が、櫓を揺らした。
「第四十三打は、間隔を数えません」
「数えない!?」
「待ちます。第四十二打の音が、完全に消えるまで」
わたしは、空を指した。
「音が消えて、辺りが静かになって――その静けさを、三つ数えてから、突きます。
月が何分欠けていても、関係ありません。
必要なのは、前の音が消えたのを、自分の耳で確かめることです」
ノアが、目を見開いた。
「それって、」
「はい」
「それって、誰でもできるじゃんか」
「はい」
わたしは、頷いた。
「誰でも、できます」
十二年。
四百二十段の石段。
凍えた指。
誰にも読まれない報告書。
その果てにある最後の一打は――拍子も、補正値も、才能も要らない。
ただ、前の人の音を、最後まで聴く人間がいればいい。
「お兄さんは、これを知りませんでした」
わたしは言った。
「打刻表も、補正値も、何ひとつ知らなかった。それでも、朝まで突き続けた。――この人は、手順を知らなかった。それでも、やめなかった」
ノアの顔が、ぐしゃりと歪んだ。
「だからわたしは、鐘守という職を、こう定義し直します」
「……なんて」
「『やめなかった人』です」
少年が、鼻をすすった。
「――突きます」
「はい」
「兄ちゃんの鐘で、突く」
「はい」
第四十二打の余韻が、山あいに吸い込まれていく。
細く。細く。
消えた。
静寂。
一つ。
二つ。
三つ。
チン、と。
手のひらほどの鐘が、頼りない音で鳴った。
巨大な晩鐘の轟音とは比べ物にならない、小さな、小さな音。
それでも。
東の空で、裂け目が、音もなく閉じた。
◆◆◆
王都の審問は、三日で終わった。
と言っても、わたしは出席していない。村の洗濯があったので。
経緯は、宰相閣下からの書簡で知った。几帳面な筆跡で、箇条書きだった。
一、魔術院計測官グレーテ・ホルンによる報告。
『聖女リィナ氏の祈祷中、周辺魔素変動値を毎秒計測。
祈祷前と祈祷中の差異――誤差範囲内。
結論:祈祷による結界への寄与、ゼロ』
審問会場で、彼女は眼鏡を押し上げてこう付け加えたという。
「十二年分の打刻記録と照合しました。結界の安定度は、鐘の打刻精度とのみ相関します。相関係数〇・九八。聖女の在任・不在とは、無相関です」
聖女リィナは、きょとんとしていたらしい。
「でも、わたくし、本当に祈っていましたわ」
「存じております。祈っておられました」
「では、なぜ」
「効かなかったからです」
沈黙の後、リィナは首を傾げたという。
「どうして、セリア様は助けてくださらなかったの?」
誰も、答えなかったそうだ。
二、王太子ルトガー・エルネスト・ヴァルドハイム。
廃嫡。
罪状は「国家防災施設の管理義務懈怠」および「正当な引き継ぎ手続きの拒否」。
断罪の根拠になったのは、一年前に本人が署名した廃止令と、受領印の押された退任届、そして受け取りを拒否された三百七十二ページの引き継ぎ書――の、受領拒否記録だった。
紙は、覚えていた。
審問の席で、ルトガーは叫んだという。
「リィナが! リィナが祈りで足りると言ったのだ!」
聖女は、心外そうに答えた。
「まあ。殿下が『鐘など誰が突いても同じだ』と仰ったのですわ」
「貴様が古いやり方はやめようと――」
「殿下が同意なさったでしょう?」
宰相閣下の書簡には、こう記されていた。
『以後、両名の応酬は半刻に及びました。
記録係が三名、交代で書き取りました。
要約いたしますと――互いに責任をなすりつけ合っておられました。
要約以上の価値は、ございませんでした』
ルトガーは北の離宮へ。
リィナは地方の修道院へ。
どちらも、わたしを一度も名前で呼ばないまま去った。
◆
わたしは、その夜、帳面を開いた。
『鐘守名簿(再編) 第一巻』
一ページ目。インクの滲んだ『イェルク』。
十四ページ目、ヨナスとミリィ。苗字は、シュヴァルツ様が聞いてきた。ブラント夫妻。
三十九人分の名前。
わたしはページをめくり、最終ページの前に、新しい項目を書いた。
『月蝕第十三夜 王都晩鐘 担当者――』
ペンを止める。
……ここに、誰の名前を書くべきか。
王太子ルトガー。
聖女リィナ。
罵る言葉は、いくらでもある。
十二年分、たっぷりある。
でも。
わたしは鐘守だ。
鐘守の仕事は、名簿を作ることだ。
名簿は、罵倒を書く場所ではない。
わたしはペンを下ろし、二行、こう記した。
『無記載』
『無記載』
それだけ。
記録に、残らない。
該当なし。
――ああ。
あなたたちが、イェルクにしたことと、同じです。
ただし、イェルクには理由がなかった。
あなたたちには、理由があります。
突かなかったから。
帳面を閉じたとき、戸口に黒い影が立っていた。
「セリア」
「シュヴァルツ様。部隊は」
「四十三人、全員生きている」
「それは――」
「お前のおかげだ」
「いいえ。手順書のおかげです」
「……お前のおかげだ」
巨躯の英雄は、譲らなかった。珍しく。
それから、懐から何かを出そうとして、やめて、また出そうとして、やめた。
「どうかなさいましたか」
「いや」
「出しかけたものが」
「……来年だ」
「来年?」
「来年、渡す」
彼は、そう言って帰っていった。
背中が、少し赤かった気がする。
――ちなみに、懐から覗いていたのは紙の端で、見覚えのある壊滅的な筆跡だった。
直すのに三日はかかりそうだと、わたしは思った。
◆◆◆
翌々年の、月蝕の晩。
鐘楼の冷えた石段。
擦り切れた前掛け。
焼きたての黒パン。
場所は、王都ではない。ロゼン村だ。
王都の晩鐘は、今は若い鐘守が突いている。わたしが三月かけて鍛えた、元・聖堂の下働きの青年。初年度は第三十一打で〇・八秒ずらして、泣きながら謝ってきた。
「〇・八秒なら、第三十四打で戻せます」と教えたら、また泣いた。
鐘守職は復活した。ただし、名称が変わった。
『王国晩鐘維持局』。局員、現在十九名。
わたしは、局長ではない。
顧問、という肩書きをもらったが、要するに「手順書を書く人」だ。
前世と同じである。給料は、前世より少し良い。
グレーテさんが、初めて村に来たとき、第一声はこうだった。
「補正値の口伝、私にも教えてください。記録に残したいので」
「記録に残すと、読めてしまいますが」
「読めてもいいです。読んでも分からない書き方をしますので」
「……どういう書き方ですか」
「『前の音が消えるのを待て』とだけ書きます。できる人にしか、できません」
わたしたちは握手した。事務方同士の、固い握手だった。
◆
マルタさんの『鐘拍子唄』は、今や国中で唄われている。
六番まで増えた。五番は「月が真っ赤になったら、イチ、で、ゴン」。六番は、本人いわく「麦刈りの唄から流用した」。
ノアは十三歳になった。
来年から、王都の維持局に見習いとして入る。
「おねえちゃん。おれ、王都でもやれるかな」
「やれます」
「なんで分かるんだ」
「あなたは、前の音が消えるまで待てる人なので」
名簿の第一巻は、村の集会場に置いてある。
一ページ目の『イェルク』の『ク』は、いまも滲んだままだ。
訪れた人は、まずそのページを開く。
そういう習慣になった。
◆
月が、赤く欠け始めた。
物見櫓の上。
わたしは懐中時計を開く。
「――セリア」
黒鎧が、隣に上がってきた。櫓の梯子が、彼の重さで軋む。
「シュヴァルツ様。部隊は」
「配置済みだ。四十三人」
「全員、お名前を控えてあります」
「死なせるつもりはない」
「存じております」
彼は、耳栓をしていない。もう二年、していない。
「……セリア」
「はい」
「これを」
差し出されたのは、紙束だった。
麻紐で括られた、分厚い束。
表紙に、壊滅的な字で何か書いてある。
「……これは」
「打刻表の写しだ。三日かけた」
わたしはめくった。
三百七十二ページ。
全ページ、手書き。
字は、相変わらず汚い。『三』と『五』の区別が、依然としてつかない。第二章の付箋は、貼る位置が二ページずれている。
「シュヴァルツ様」
「……読めんか」
「読めません」
「……そうか」
巨躯が、しょんぼりと縮んだ。本人は無表情のつもりらしいが、肩が下がっている。
「ですが」
わたしは、束を胸に抱えた。
「三日、かかったのですね」
「三日と、二晩だ」
「宝石より、高いです」
「……」
「わたし、宝石をいただいたことがありません。婚約していた三年間、一度も」
黒鎧が、動かなくなった。
風が吹く。赤い月が、少しずつ欠けていく。
「セリア」
「はい」
「――来年も、隣で数えてもいいか」
声が、小さかった。
英雄とは思えないほど。
わたしは、懐中時計を見た。
月の欠け率、二割七分。
第一打まで――。
顔を上げる。
「あと四十秒です」
「え」
「間に合わせてください」
灰色の瞳が、見開かれた。
「……それは」
「三十八秒」
「待て、それは、承諾ということで」
「三十五秒」
「セリア」
「三十二秒。シュヴァルツ様、紐を」
「っ、――分かった!」
巨躯が慌てて鐘の紐を掴み、わたしの隣に立った。
肩が、触れた。
十二年間、冷えた石段を一人で上った。
誰も褒めなかった。誰も気づかなかった。
止まったときだけ、怒られた。
――でも。
今は、隣に誰かがいる。
下の広場では、ノアが小さな鐘を構えている。
マルタさんが唄い始めている。
二十七の村で、同じ唄が始まっている。
手順書は、継げた。
「十秒」
「ああ」
「五、四、三、二――」
赤い月の下。
ゴーン、と。
国中の鐘が、同じ拍で鳴り始めた。




