娘の婚約者一家は彼女を「福を呼ぶ子」と喜んでいたのに、婚約者の祖母の病状が悪化した途端、「疫病神」と罵り始めた
普段ほとんどSNSを更新しない娘が、突然一枚の写真を投稿した。
病院のベッドに横になった美月が、生まれたばかりの赤ん坊を抱いている。目を閉じた小さな娘の手が、おくるみの隙間からのぞき、美月の指をぎゅっと握っていた。
添えられていた言葉は短かった。
「無事に生まれました。元気な女の子です。今日から私もお母さんです」
投稿には、すぐに親戚や友人からコメントがついた。
「美月、おめでとう!」
「赤ちゃん、かわいい!」
「真紀も浩司も、とうとうおじいちゃんとおばあちゃんね。こんな大きな話、全然聞いてなかったわよ」
私は病院の廊下のベンチに座りながら、そのコメントを眺めていた。
親戚たちが知らなかったのも無理はなかった。
実の母親である私でさえ、美月の妊娠を知ったのは、ずいぶん後になってからだった。
しかも数か月前、この子がまだ美月のお腹の中にいた頃、相手の母親は美月を指さして「疫病神」と罵った。
挙げ句には、うちにまで押しかけてきて、リビングをめちゃくちゃにしていった。
話をさかのぼると、美月が佐久間翔太との結婚を口にしたところから始まる。
1
「翔太のおばあちゃん、この前、胃がんだって分かったの」
夕食の途中、美月は少し言いづらそうに箸を置いた。
「それで翔太のお母さんが、家に何かおめでたいことがあれば、おばあちゃんも少し元気になるんじゃないかって。だから、結婚式を早めたいって言ってるの」
夫の浩司が箸を止めた。
「病気なら病院で治療するしかないだろ。結婚式をやったからって、がんが治るわけじゃない」
「治るって言ってるわけじゃないよ。今、おばあちゃん、かなり落ち込んでるみたいで。孫が結婚したら、少しは気持ちも明るくなるんじゃないかって」
「気持ちが明るくなるのはいいけど、治療とは別の話よ」
私はそう言いながら、美月の皿に魚を取り分けた。
「それより美月、まだ働き始めて二年でしょう。そんなに急いで結婚しなくてもいいんじゃない? 翔太くんの仕事は落ち着いたの?」
美月の声が小さくなった。
「今、ちゃんと探してるって」
私と浩司は顔を見合わせた。
佐久間翔太は、美月より三つ年上だった。付き合い始めた頃は、少し年上なら落ち着いているだろうし、美月のことも大事にしてくれるかもしれないと思っていた。
ところが、知れば知るほど印象は変わった。大学卒業後に営業の仕事に就いたものの、数か月で「きつい」と辞めた。その後も何度か仕事を変えたが、どこも長続きしない。
手元のお金がなくなれば親を頼り、親に出してもらえなければ美月に泣きついた。
「前から言ってるけど、翔太は結婚向きじゃないと思うぞ」
浩司が箸を置いた。
「もういい大人なんだから、仕事が大変だとか、上司が気に入らないとか、そんな理由で毎回辞めてたら生活できないだろ」
美月は黙ったまま俯いている。
「仕事は続かないのに、美月と会う時間だけはあるんだもんな」
浩司はため息をついた。
「お前も、あいつの言うことを簡単に信じすぎなんだよ」
2
一週間後、美月から「翔太の仕事が決まった」と聞かされた。
小さな物流会社で、給料は高くないものの、一応は正社員らしい。
「今度は本当にちゃんと続けるって言ってるよ。おばあちゃんも病院通いがあるし、家にお金がかかるのは翔太だって分かってるから」
美月はまるで自分のことのように真剣だった。
「今って仕事を見つけるのも大変だし、決まっただけでもすごいと思う」
私は思わず美月の顔を見た。
「前にも何度も仕事を辞めてるのに、それでも翔太のどこがそんなにいいの?」
「お母さんは悪いところばっかり見るからだよ」
美月はすぐに反論した。
「翔太、本当は優しいんだよ。今だって、時間があればおばあちゃんの病院についていってるし。検査の日も薬をもらう日も、一緒に行ってる」
私と浩司は、また目を合わせた。
私たちが仕事ばかりで、美月に寂しい思いをさせてきたのかもしれない。そんなことまで考えたことがある。
美月は昔から勉強もできたし、大学を卒業してからの仕事も順調だった。それなのに恋愛になると、相手のいいところばかり見ようとする。
翔太にあるのは、とにかく時間だった。
仕事をしていない時期なら、一日中LINEを返せる。仕事帰りに迎えに行くこともできるし、美月の愚痴を何時間でも聞いてやれる。
それだけで美月は、「自分を一番分かってくれる人」だと思い込んでいた。
3
もちろん、私たちはすぐに結婚することには反対した。
その日は、昼過ぎから夜まで話し合った。
「翔太の家はもともと余裕があるわけじゃないでしょう。そこにおばあちゃんの治療まで重なってる」
できるだけ感情的にならないよう、私は言った。
「美月は昼間ずっと仕事よね。帰ってから翔太のことをやって、そのうえ向こうのご両親やおばあちゃんの世話まで任されたら、自分の時間なんてなくなるわよ」
美月はカップの縁を指でなぞりながら、黙っていた。
「そういう生活になるかもしれないって、考えたことある?」
しばらくして、美月がぽつりと口を開いた。
「でも、翔太は私にすごく優しいの。もうプロポーズもされてるし……今って、翔太の家が一番大変な時期でしょ?」
そこまで言って、美月は視線を落とした。
「そんな時に現実的な理由で離れたら、私、翔太を見捨てたことになる気がする」
聞いているだけで頭が痛くなった。
私は美月のそばまで行き、額を軽く小突いた。
「そりゃ優しくもするでしょうね」
「お母さん」
「美月、翔太にずいぶんお金使ってるじゃない」
「それは……」
「もし美月も翔太と同じで、収入も少ない、貯金もほとんどない、自分の部屋もないって状態だったら、それでも今みたいに毎日迎えに来てくれるかしらね」
美月は口を開いたものの、結局何も言わなかった。
その夜も、美月は翔太に会いに出ていった。
窓から娘の背中を見送りながら、浩司が深く息を吐いた。
「何言っても聞かないな」
「一度、自分で痛い目を見ないと分からないのかもね」
4
どれだけ反対しても、美月は結婚式を挙げると言って譲らなかった。
私たちも、最後には条件つきで折れるしかなかった。
「式を挙げること自体は止めない」
浩司がそう切り出すと、美月は顔を上げた。
「ただし、条件が二つある」
美月の表情が固くなった。
「一つ目。美月名義のマンションと貯金、それから今まで俺たちが美月のために用意したものは、翔太とはきちんと分ける」
浩司はそこで一度言葉を切った。
「同居中の生活費やマンションの使い方も、一度弁護士に相談して書面にしておく」
あのマンションは、美月が大学を卒業した時に私たちが用意したものだった。広くはないけれど、駅にも会社にも近い。
何より、どんなことがあっても娘が戻れる場所を残しておきたかった。
「二つ目。婚姻届は、まだ出さない」
美月の顔色が変わった。
「お父さん!」
「翔太が自分の生活費くらい安定して出せるようになってから考えればいい」
「でも……」
「この二つは譲らない」
結局、美月は翔太に電話をかけた。
財産やマンションの話を出した途端、受話口から翔太の声が響いた。
「何それ。俺、泥棒か何かだと思われてんの? 結婚するのに、そこまで分ける必要ある?」
美月が言葉に詰まった。
浩司が手を伸ばし、電話を代わった。
「一緒に暮らすなら、金のことを先に決めとくのは普通だろ」
電話の向こうが黙った。
「それが嫌なら、無理に式をやらなくてもいい」
さらに少し間が空いた。
「婚姻届も同じだ。仕事を続けられることを見せてからでいい。美月を急がせる理由はない」
翔太は最後まで不満そうだった。
それでも、式そのものを白紙にはしたくなかったのだろう。最終的には受け入れた。
その後、私たちは美月と一緒に弁護士へ相談に行き、マンションや同居中の生活費について書面に残した。
結婚式の準備はそのまま進める。
婚姻届だけは、出さないことになった。
5
式の少し前、佐久間家と食事をすることになった。
式のあと、二人がどこでどう暮らすのかを改めて確認するためだった。
翔太の父親である正夫さんは、席についてからほとんど口を開かず、黙って料理を食べていた。一方、美佐子さんは落ち着きなく私たちの服や持ち物、美月の顔を見比べていた。
住まいの話になったところで、私は翔太に聞いた。
「式のあとは、どこに住むつもりなの?」
佐久間家の三人が一瞬黙った。
翔太が鼻のあたりを触りながら答えた。
「美月のマンションがあるんで、しばらくはそこに住もうかなって。金が貯まったら、その先はまた考えます」
浩司が顔を上げた。
「管理費は?」
「え?」
「マンションの管理費。光熱費も食費もあるだろ。毎月いくら出すつもりなんだ?」
翔太の顔が少し赤くなった。
「美月の部屋に住むのは構わない。でも住むなら、自分が何を負担するのかくらい考えてるんだろ?」
翔太は答えなかった。
すぐに美佐子さんが割って入った。
「翔ちゃん、まだ今の会社に入ったばかりなんです。そんなにお給料も高くないですし、若いうちは少しずつでいいじゃないですか」
にこにこしながら、さらに続けた。
「美月ちゃんのマンションはもうあるんですから、二人で住んだってそんなにお金は増えませんよ」
浩司が笑った。
ただし、目はまったく笑っていなかった。
「つまり、家は美月。生活費も美月が多めに出して、翔太はそのうち頑張るってことですか?」
今度は誰もすぐに返事をしなかった。
やがて翔太が口を開いた。
「北川さん、俺、今度は本当にちゃんと働いてます。貯金もしますし、美月のこともちゃんと支えます」
浩司は料理を一口食べてから聞いた。
「手取り、いくらなんだ?」
翔太はまた黙った。
「まだ働き始めたばかりですから」
美佐子さんが代わりに答えた。
「これから上がっていきますよ。それに家賃がいらないんだから、何とかなります」
浩司は箸を置いた。
「住むのはいい。ただし、翔太が出すべき生活費まで美月に任せるつもりはない」
美佐子さんの表情が目に見えて曇った。
「婚姻届も、前に話した通りです。今は出しません」
さっきまで黙っていた正夫さんまで、目を伏せた。
6
「北川さんたち、ちょっと私たちを馬鹿にしすぎじゃありません?」
美佐子さんの声が大きくなった。
「うちが裕福じゃないからって、翔ちゃんをそこまで警戒しなくてもいいでしょう」
「そこまで嫌なら、式は中止でいいですよ」
私は椅子の背にかけていたバッグを手に取った。
「私たちは、美月を急いで結婚させたいわけじゃありませんから」
席を立とうとすると、美佐子さんの態度が急に変わった。
「北川さん、待ってください。そういう意味じゃないんです」
慌てて私の前まで回り込んできた。
「生活費なら翔ちゃんにも出させます。家のことだって、翔ちゃんがやればいいんです。美月ちゃんは仕事で疲れるでしょうから」
無理に作った笑顔だった。
美月には仕事もある。自分名義のマンションもある。ある程度の貯金もある。
佐久間家にとって、そんな美月を手放す理由はないのだろう。
しばらくすると、美佐子さんは話題を変えた。
「うちのおばあちゃん、最近かなり弱ってるんです。でも美月ちゃんって、なんだか運がいい子でしょう?」
美月に向かって笑った。
「来てくれたら、うちの中も少し明るくなる気がするんですよ」
浩司が顔を上げた。
「そういう言い方は、やめたほうがいいですよ」
「え?」
「おばあさんは胃がんなんでしょう。良くなるかどうかは治療次第です」
浩司の声は低かった。
「良くなった時に美月のおかげだと言うのも、悪くなった時に美月のせいにするのも、やめてください」
美佐子さんの笑顔が一瞬止まった。
「別にそんな深い意味じゃないですよ。縁起を担いでるだけで」
「縁起と治療は別です」
浩司はそれだけ言って立ち上がった。
店を出るまで、美月は珍しく翔太たちをかばわなかった。
帰り道も、ずっと黙っていた。
7
結局、結婚式は予定通り行われた。
親戚と親しい友人だけを呼んだ、小さな式だった。
ウエディングドレスを着た美月は、本当に幸せそうだった。翔太もその日だけは特に問題を起こすことなく、新郎らしく振る舞っていた。
式が終わると、佐久間家から「しばらく青澄町に来ないか」と言われた。
親戚に顔を見せるためらしい。
退院したフミさんも、青澄町の古い家に戻って療養していた。
「おばあちゃん、若い人がいると喜ぶんですよ」
美佐子さんは嬉しそうに言った。
「美月ちゃんが何日かいてくれたら、気分も変わると思うんです」
私は止めなかった。
ただし、毎日家族のLINEに連絡を入れることと、何かあればすぐ電話するように伝えた。
出発する前、浩司は翔太を呼び止めた。
「おばあさんの薬と通院は、きちんと続けろよ」
「はい」
「式をやったから元気になった、なんて本気で思うな。治療は治療だからな」
「分かってます」
青澄町までは車で一時間少しだった。
何かあれば、私たちでもすぐに迎えに行ける距離だった。
8
翌朝、家族のLINEに美月から写真が送られてきた。
六、七人ほどが、古い座卓を囲んで朝食を取っている。
テーブルの上にあるのは食パンの袋とゆで卵、それにインスタントコーヒー。座卓には長年こびりついたような汚れが残り、写真の端に写った床もかなり古びていた。
浩司はしばらく写真を眺めたあと、親指を立てたスタンプをいくつも送った。
それから私に言った。
「美月、思ったより適応力あるな」
昼になると、また写真が来た。
同じ座卓の上に、スーパーの値引き総菜がパックのまま並んでいる。
浩司は再びスタンプを送った。
「美月、本当のこと言え。何か潜入捜査でもしてるのか?」
少し間を置いて、もう一通送った。
「佐久間家に何か秘密があって、証拠を集めるために入り込んでるんじゃないだろうな」
美月からは、笑い泣きのスタンプだけが返ってきた。
午後には、新しい布団の写真が届いた。
「古い布団じゃ寝づらいだろうって、美佐子さんが買ってくれた。お金はあんまりないけど、私にはちゃんと優しくしてくれてるよ」
私は返事に困った。
美月は、こういう暮らしをほとんどしたことがない。
子どもの頃に田舎の祖母の家へ泊まりに行ったことはあるけれど、あの家はむしろ私たちの家よりきれいだった。
それでも美月は、思った以上に早く馴染んでいるらしい。
浩司も少し考え込んだあと、一言だけ返した。
「うちの美月が一番お人よしなんだな」
それから浩司は、ことあるごとに家族LINEへ記事を送るようになった。
無職の彼氏が恋人の家に住み続けた話や、生活費を全部彼女に払わせていた男の話。同棲を始めた途端、相手の家族まで金を借りに来るようになった話まであった。
美月は毎回、見事なまでに無視した。
ある夜、浩司がふと思い出したように顔を上げた。
「そういえば、翔太のおばあさん、最近どうなんだ?」
9
それから間もなく、美佐子さんから電話がかかってきた。
声が大きすぎて、思わずスマートフォンを耳から離した。
「北川さん、やっぱり美月ちゃんって福を運んでくる子ですよ!」
電話の向こうで、美佐子さんはひどく上機嫌だった。
「美月ちゃんが来てくれてから、おばあちゃんが元気になって。最近なんて、ご飯も前より食べるんです」
隣で聞いていた浩司が鼻で笑った。
「誰が栄養のあるもん買ってると思ってんだ。通院費だって美月が立て替えたんだろ」
私は浩司を睨み、小声で静かにするよう促した。
「翔ちゃんの仕事も決まったし、おばあちゃんも元気になったし、美月ちゃんが来てくれてからいいことばっかりですよ」
美佐子さんはまだ話し続けていた。
そして突然、何でもないことのように言った。
「そうそう。美月ちゃんの妊娠、もう聞いてますよね?」
手にしていたコップを落としそうになった。
「え?」
「うちはみんな大喜びなんですよ。おばあちゃんなんて、聞いた日ずっと笑ってたんですから」
「妊娠って……」
「美月ちゃん、まだ言ってなかったんですか? あら、安定期に入ってから言うつもりだったのかしら――」
最後まで聞かずに電話を切った。
そのまま美月にかけ直した。
10
「お母さん……ちゃんと話そうとは思ってたの」
美月の声は、消え入りそうに小さかった。
私は腹が立ちすぎて、逆に何も言えなかった。
浩司が手を差し出した。
「貸せ」
電話を代わった。
「いつ言うつもりだったんだ? 生まれてからか?」
美月は黙っている。
「今の二人の収入で、子どもを育てられるのか?」
しばらく待ってから、浩司は続けた。
「翔太の手取り、ちゃんと知ってるか?」
「……だいたいは」
「じゃあ、子どもが生まれたあとは?」
また沈黙した。
「美月は仕事を続けるのか。続けるなら、誰が子どもを見る?」
電話の向こうからは、何も返ってこなかった。
浩司もそこで少し声を落とした。
「別に、子どもを産むなって言ってるんじゃない」
しばらく間を置いた。
「ただ、そこまで二人で話したのか?」
やっと美月が答えた。
「……そこまで考えてなかった」
私は額に手を当てた。
すでに妊娠しているのに、その先の生活はほとんど考えていない。
その夜、私と浩司は長いことリビングで話し合った。
途中で浩司が、唐突に言った。
「そういや昔、母親に連れられて占いに行ったことがあるんだよ」
「急に何?」
「五十代で大きな苦労をするって言われた」
私は思わず浩司を見た。
「あなた、占いなんて信じてた?」
「今日から信じる」
浩司は真顔だった。
「たぶん、あの苦労って美月のことだ」
思わず笑ってしまった。
けれど、笑ったあとにはまた不安が残った。
少なくとも、美月と翔太はまだ婚姻届を出していない。
いざとなれば、美月一人で無理でも私たちが一緒に子どもを育てればいい。
佐久間家に任せるよりは、そのほうがずっと安心できた。
11
美月の妊娠を知ってから、佐久間家は宝くじにでも当たったような騒ぎだった。
美佐子さんから何度も電話が来て、「両家でお祝いしましょう」と誘われた。
私はまったく乗り気ではなかった。
「めでたいのは分かるけど、何をそんなに大騒ぎしてるのかしら」
結局、美月に何度も頼まれて、食事会に出ることになった。
数か月ぶりに会った佐久間家は、以前よりずいぶん元気そうに見えた。
正夫さんは少し太り、美佐子さんも新しい服を着ていた。
その手に持っていたバッグを見て、私は目を疑った。
美月が大学を卒業した時、私が贈ったバッグだった。
六十万円以上したものだ。
以前は美月もよく使っていたのに、ここ最近は見かけていなかった。
ほかの人に聞こえないよう、美月をそっと呼んだ。
「美佐子さんのバッグ、あなたのよね?」
美月の目が泳いだ。
「うん。親戚の集まりがあるから、ちょっと貸してって言われて」
「卒業祝いにあげたバッグを?」
「返してもらうつもりだよ」
どうやら会話が聞こえたらしい。
美佐子さんがこちらへやってきた。
「北川さん、違うんですよ。ちょっと借りてるだけです」
バッグを持ち上げてみせた。
「美月ちゃんみたいな若い子がこんな高いバッグを持ってたら、青澄町だと目立つでしょう?」
そこでなぜか得意そうに笑った。
「私くらいの年なら、誰も本物だと思わないから安全なんです」
一瞬、何を返せばいいのか分からなかった。
浩司が湯飲みを持ち上げた。
「佐久間さん、前よりずいぶん話がうまくなりましたね」
美佐子さんは乾いた笑いを浮かべ、そのまま席に戻っていった。
12
食事の途中、またフミさんの話になった。
「おばあちゃん、最近ほんとに機嫌がいいんですよ」
美佐子さんは嬉しそうだった。
「美月ちゃんに赤ちゃんができたって聞いてから、毎日楽しそうで。家に赤ちゃんが増えたら、もっといいことが起きるって」
それまでほとんど黙っていた正夫さんも頷いた。
「母さん、前よりだいぶ元気になったよ。美月ちゃんのおかげだな」
私は眉を寄せた。
「フミさんが少し元気になったのは、ちゃんと治療を受けていたからじゃないですか」
「それだけじゃないですよ」
美佐子さんは手を振った。
「気の持ちようってあるじゃないですか。気持ちが明るくなれば、体だって少しは楽になるでしょう」
「気分がいいことと、がんが良くなったことは別ですよ」
浩司がすぐに聞いた。
「最近、通院してます?」
一瞬、空気が止まった。
その反応だけで嫌な予感がした。
「まさか、調子がいいからって病院に行ってないんですか?」
「薬ばっかり飲むのも体によくないでしょう?」
美佐子さんは少し不満そうな顔をした。
「病院に行ったって、毎回同じような話ですし。本人も行きたがらないんですよ。ご飯も食べられるし、夜も眠れてるんだから、少しくらい休ませてもいいかなって」
「胃がんですよ」
自分でも声が低くなったのが分かった。
「風邪じゃないんです。勝手に薬をやめたり、通院を減らしたりしたら駄目でしょう」
「家族のことは、私たちが一番分かってますから」
何を言っても、聞く耳を持たなかった。
佐久間家はすっかり、美月の結婚や妊娠がフミさんに幸運を運んできたと信じ込んでいた。
病院へ行く回数は減り、薬も医師の指示通りには飲まなくなった。
それから、それほど時間はかからなかった。
フミさんの病状は悪化し、再び入院することになった。
13
美月のお腹が目立ち始めた頃、フミさんの見舞いに行った。
私と浩司も一緒だった。
病室の前まで来たところで、美佐子さんの声が聞こえてきた。
「何が福を呼ぶ子よ。美月ちゃんが妊娠した頃は、おばあちゃんも元気だったのに。今じゃまた入院じゃない」
足が止まった。
「福どころか、疫病神じゃない」
私はそのままドアを開けた。
「今、誰のことを疫病神って言ったんですか?」
美佐子さんは私を見るなり、声を落とした。
ベッド脇の荷物を触りながら、それでもぶつぶつ言った。
「だっておかしいでしょう。赤ちゃんまでできたんだから、もう少しいいことが続いたっていいじゃないですか」
浩司の顔が険しくなった。
「通院を減らして、薬まで勝手にやめたからでしょう」
「でも、その前までは元気だったんですよ」
「元気に見えたことと、治っていたことは違う」
「それでも、美月ちゃんが妊娠してから悪くなったのは事実でしょう」
こちらが一つ説明すれば、美佐子さんは自分の理屈でまた言い返してきた。
何度話しても、会話がかみ合わない。
そのうち、美佐子さんは美月をじっと見た。
「もう翔ちゃんとは別れたら?」
美月の顔が強張った。
「美月ちゃんと一緒になってから、翔ちゃんの仕事だって別に良くなってないし。今度はおばあちゃんまでこんな状態になって」
私はもう相手にする気をなくし、美月の手を取った。
「帰ろう」
ところが、背後からさらに声が飛んできた。
「お腹の子も、あんまりいい兆しじゃない気がするのよね」
私は振り返った。
「何を言ってるんですか」
「まだ間に合うなら、産まないほうがいいんじゃない? それで翔ちゃんとも別れれば――」
「産むかどうかを決めるのは美月です」
思わず声が強くなった。
「あなたが決めることじゃありません」
美佐子さんは、聞いているのかいないのか分からない顔で続けた。
「それと、今回の入院費。北川さんたちにも少し出してもらわないと困ります」
「は?」
「悪くなったの、美月ちゃんが妊娠してからでしょう?」
美月の顔から血の気が引いていった。
そして、ずっと病室の隅にいた翔太を見た。
「翔太」
翔太はスマートフォンをいじっていた。
「私、まだ妊娠してるんだよ」
翔太が一度だけ顔を上げた。
「お母さんにこんなこと言われてるのに、何も言わないの?」
翔太は何も答えなかった。
すぐに視線をスマートフォンへ戻した。
まるで自分には関係のない話だと言わんばかりだった。
浩司が病室のドアを開けた。
「もういい。帰るぞ」
14
病院を出たあと、美月はそのまま私たちの家へ戻った。
車の中では、ほとんど口をきかなかった。
あまりにも静かなので心配していたが、夜になると突然、私に抱きついて泣き出した。
子どもの頃のような泣き方だった。
「お母さん、分かんないよ」
肩を震わせながら、美月が言った。
「翔太、前はあんな人じゃなかった。ずっと優しかったし、何でも聞いてくれたのに」
浩司が少し離れた場所から娘を見た。
「前は、美月と一緒にいれば、家も生活も何とかなると思ってたんじゃないか」
美月が顔を上げた。
「部屋もある。貯金もある。仕事だって安定してる」
浩司は落ち着いた声で続けた。
「そこに甘えられるうちは、優しくする余裕もあったんだろ」
「でも……本当に優しかったんだよ」
「二人で出かけた時、金を多く出してたのはどっちだ?」
美月は答えなかった。
浩司もそれ以上は責めなかった。
しばらくして、美月が涙を拭いた。
「赤ちゃん、どうしよう」
私は美月の手を握った。
「産みたいなら産めばいい」
美月が私を見た。
「産まないと決めても、私たちは美月の味方よ」
お腹にそっと手を当てながら、美月は長いこと黙っていた。
その夜、三人で遅くまで話した。
寝る前、美月はスマートフォンを手に取った。
翔太へLINEを送った。
「私たち、もう終わりにしよう。明日までに荷物を持っていって。マンションの鍵も返して」
返信が来たのは十数分後だった。
「分かった」
翌朝、マンションの管理人から美月に連絡が入った。
翔太が封筒に入れた鍵を、管理室に預けていったという。
美月はそのメッセージを見ただけで、翔太には何も返さなかった。
15
美月は、子どもを産むと決めた。
私も浩司も反対しなかった。
決めた以上、今度は安心して出産まで過ごせる環境を作るしかない。
美月のマンションへ荷物を取りに行き、しばらくはうちで暮らすことにした。
ところが、玄関を開けた瞬間、三人とも足が止まった。
見覚えのない靴が何足も並んでいる。
リビングには空になった弁当の容器やペットボトルが散らばっていた。
「翔太、昨日鍵返したよね?」
美月が呆然と呟いた。
浩司がスマートフォンを取り出したところで、寝室のドアが開いた。
出てきたのは美佐子さんだった。
私たちを見るなり、美佐子さんも少し驚いたような顔をした。
さらに別の部屋から、正夫さんと翔太まで出てきた。
美月の表情が一気に冷えた。
「何でまだここにいるの?」
「何でって」
美佐子さんは、むしろ不思議そうな顔をした。
「美月ちゃん、お腹に翔ちゃんの子がいるでしょう? 一人じゃ大変だと思って来てあげたのよ」
「頼んでない」
美月は玄関を指さした。
「出ていって」
美佐子さんの笑顔が消えた。
「何よ、その言い方。初めての妊娠で何も分からないくせに」
浩司は玄関周りを見回したあと、翔太に目を向けた。
「昨日、鍵は返したんだよな?」
翔太の目がわずかに泳いだ。
靴箱の上に、一本の鍵が置かれている。
浩司がそれを手に取った。
「合鍵、作ってたのか?」
翔太は答えなかった。
美月も鍵を見たあと、翔太に向き直った。
「昨日、終わりだって言ったよね。鍵も返してって」
「でも赤ちゃんは翔ちゃんの子でしょう!」
美佐子さんが割って入った。
「どうせ生まれたら家族になるんだから」
「家族じゃありません」
美月ははっきり言った。
「婚姻届だって出してない。もう一度言います。出ていってください」
誰も動かなかった。
翔太に至っては、そのままソファへ座り直した。
浩司は迷わず警察へ電話した。
警察が到着してからも、美佐子さんは「妊娠中の美月を心配して来ただけだ」と言い張った。
美月は昨夜のLINEを見せた。翔太が別れを了承したこと、鍵を返すよう伝えたこと、管理室に正規の鍵が返されていること。そして、目の前に残っている合鍵。
美月は、自分は佐久間家が部屋に入ることを許可していないと警察に伝えた。
そのうち口論になり、美佐子さんが浩司を押した。
結局、佐久間家の三人は警察署で事情を聞かれることになった。
翔太は入社時の緊急連絡先に、美月の番号を書いていた。
その後数日、会社が本人に連絡を取れず、美月のところへまで電話がかかってきた。
16
翔太の会社から連絡が来た時、担当者の声には明らかな疲れがにじんでいた。
入社してまだ数か月なのに、翔太はすでに何度も休んでいたらしい。祖母の通院、恋人の妊娠、家族の用事と、理由は毎回違った。
今度は何日も本人と連絡がつかない。
「たぶん、もう長くは置いてもらえないだろうな」
電話を切った美月を見ながら、浩司が言った。
その後、美月から別の話も聞いた。
翔太は会社から給料を前借りしていたらしい。
正夫さんに「金が足りないから何とかしろ」と言われ、断れなかったのだという。
仕事は危うく、会社にも金を借りている。フミさんは入院中だった。
もともと余裕のなかった佐久間家の暮らしは、一気に傾いていった。
17
前の騒ぎからそれほど経たないうちに、佐久間家はまたうちへ来た。
玄関前に三人の姿を見た時、私は本気で呆れた。
口を開いたのは、やはり美佐子さんだった。
「病院で、美月ちゃんのお腹の子、女の子だって聞いたわ」
そう言って、美月を睨んだ。
「だからうちで悪いことばっかり続くのよ」
私は耳を疑った。
「フミはもう長くないって言われてるし。美月ちゃんが妊娠してから、本当に何一つうまくいかない」
「それで?」
私が聞くと、美佐子さんは声を張り上げた。
「そんな子、産むのやめなさいよ!」
美月の顔が固まった。
「佐久間家はその子を認めないから。男の子だったとしても、もういらない」
今度は正夫さんが口を開いた。
「こっちはずっと大変な目に遭ってるんだ。何もなしで終わりってわけにはいかないだろ」
浩司が腕を組んだ。
「そうですね。全部うちのせいですね」
静かな声だった。
「お宅に金がないのも、翔太が仕事を続けないのも、フミさんが病気になったのも」
美佐子さんの顔が引きつった。
「自分たちで通院を減らしたのも、うちのせいなんでしょうね」
声が大きかったせいで、近所の人たちまで様子を見に出てきた。
美佐子さんも周囲の視線に気づいたのか、さっきまでの勢いが少し弱くなった。
「とにかく、こっちが受けた損は払ってもらいますから」
そう言って正夫さんを連れて帰ろうとした時、美月が部屋から出てきた。
手には、何枚もの紙を持っている。
「待って」
美佐子さんが振り返った。
美月は紙の束を差し出した。
「これ、今まで私が翔太に使ったお金」
美佐子さんの表情が変わった。
「食事、旅行、服、スマホ代。うちに住んでた間の生活費も、ほとんど私が出してる」
美月は一枚目に目を落とした。
「細かい分は入れてない。それでも百二十万円以上」
「何よ、それ」
「端数はいらない。百二十万円でいい」
美月は美佐子さんの目を見た。
「翔太に伝えてください。返してって」
一度言葉を切った。
「振込先は、本人に送ります」
それだけ言うと、美月は部屋へ戻った。
玄関のドアを閉めた途端、外から美佐子さんの怒鳴り声が聞こえ始めた。
誰も、もう開けなかった。
18
明細を渡してから一週間、佐久間家は不気味なくらい静かだった。
さすがに少しは懲りたのかと思った。
八日目、美月のスマートフォンが鳴った。
翔太だった。
「美月、お前よく俺に金返せとか言えるな! 俺だって今まで何も買ってないわけじゃないだろ!」
美月は二秒ほど黙った。
「コンビニの二百円のプリン?」
思わず、私と浩司は吹き出しそうになった。
電話の向こうで翔太が何か怒鳴っている。
けれど美月の声は、むしろ冷静になっていった。
「旅行も外食も、ほとんど私が多く払ってたよね。服も靴も、日用品も」
翔太が何か言い返した。
「じゃあ家賃は?」
美月の声が低くなった。
「私の部屋に何年住んだ? 一円ももらってないよ」
電話の向こうが静かになった。
「そこまで言うなら、近所の家賃相場を調べて、まとめて請求してもいいけど」
翔太は何か言いかけたが、言葉にならなかった。
その時、玄関のドアが激しく叩かれた。
私は立ち上がった。
ほんの少しドアを開けた瞬間、美佐子さんが無理やり体をねじ込んできた。
「全部あの疫病神のせいよ!」
肩を強く押された。
体勢を崩した私は、玄関の棚に肩をぶつけ、そのまま手首も強く打った。
「おばあちゃんが死んだのよ!」
美佐子さんは叫んだ。
「美月ちゃんが来てから、うちはめちゃくちゃ! 今度は正夫まで入院よ!」
翔太もすぐ後ろにいた。
「美月と付き合う前は、こんなんじゃなかったんだよ!」
そこで、この一週間静かだった理由が分かった。
フミさんは亡くなっていた。
美佐子さんの話では、正夫さんも胃の不調で入院し、検査で胃に腫瘍が見つかったらしい。詳しい検査はまだ続いているという。
美佐子さんは興奮したまま、玄関に置いてあった花瓶をつかんだ。
次の瞬間、床に叩きつけた。
翔太まで近くのローテーブルを蹴り倒した。
物が倒れ、ガラスが床に散った。
美月はソファのそばに立ったまま、二人には近づかなかった。
「それ以上こっちに来ないで」
一方の手でお腹を守った。
「防犯カメラ、全部録ってるから。警察にももう電話した」
美佐子さんの動きが止まった。
ほどなくして、玄関の外から慌ただしい足音が聞こえてきた。
警察だった。
19
警察が入ってきたあと、私はすぐに防犯カメラの映像を見せた。
美佐子さんに押されたところ、花瓶を叩き割ったところ、翔太がテーブルを蹴ったところまで、どれもはっきり残っていた。
壊された物の写真や購入履歴も、出せるものはすべて見せた。
それでも美佐子さんは黙らなかった。
「私だって訴えますから! この女のせいで義母が死んだんです。正夫まで病院送りにして!」
警察官は少し困った顔をしただけで、その話には深く反応しなかった。
私はスマートフォンを差し出した。
「この人たち、前にも美月のマンションに勝手に入ってます」
手首はすでに腫れ始めていた。
「今日は私を押して、家の物まで壊しました」
少し離れたところにいる美月を見た。
「娘は妊娠中です。また来られたら、次は何をされるか分かりません」
警察官は一つずつ確認し、あとで病院へ行って診断を受けるよう言った。
すると美佐子さんは急に翔太を自分の後ろへ隠した。
「全部、私がやったんです!」
声が震えていた。
「翔ちゃんは関係ありません。正夫が入院して、お金が必要で……私はただ、少し貸してもらおうと思っただけなんです」
警察官が割れたガラスを見た。
「続きは署で聞きます」
美佐子さんはそれ以上何も言わなかった。
その日、美佐子さんと翔太は警察に連れていかれた。
私はそのあと病院へ行った。
診断は、手首と肩の打撲だった。
診断書を受け取りながら、今回は曖昧に終わらせないと決めた。
20
その後のやり取りは、ほとんど弁護士に任せた。
マンションの件も、今回の押しかけも、私のけがも、壊された家財も、映像や記録が残っていた。
美佐子さんは最後まで、自分が悪いとはほとんど認めなかった。こちらが求めた形での示談にも応じず、そのまま手続きは進んだ。
後になって弁護士から、美佐子さんは起訴され、最終的に実刑判決を受けたと聞いた。
翔太も、テーブルを蹴って壊した件について警察の手続きが続いたそうだ。
美月が請求した金については、翔太がどこかから用意したらしく、一部だけ返してきた。
残りは、美月が弁護士に任せた。
ちょうどその頃、正夫さんも胃がんだと分かった。
発見は早いとは言えず、治療が続くことになったらしい。
治療費を工面するため、佐久間家は住んでいた家を手放した。
正夫さんは退院後、フミさんが残した青澄町の古い家で暮らすことになったと聞いた。
生活はかなり苦しくなったようだった。
それでも翔太は、美月に何度もメッセージを送ってきた。
「ごめん、美月。俺、子どもの父親なんだぞ。そこまで冷たくしなくてもいいだろ」
「母さんが家で暴れた時、俺が止めるべきだった。悪かった」
「父さん、まだ治療が必要なんだ。今まで一緒にいた時間まで全部嘘だったわけじゃないだろ。少し助けてくれないか」
私たち三人で、その画面を見た。
美月は呆れたように笑った。
「私、疫病神なんでしょ? そんな人間のお金でも、今は欲しいの?」
送ると、すぐに「入力中」と表示された。
美月はもう一通送った。
「あなたのお母さんに何を言われても、あなたはずっとスマホ見てたよね」
少し間を置いた。
「子どもを産むなって言われた時も何も言わなかった。今さら父親だからって言われても困る」
また「入力中」と出た。
けれど、何分待っても返信は来なかった。
浩司がスマートフォンを借りた。
「翔太。おばあさんも父親も胃がんになったんだろ」
一度考えてから続けた。
「自分も病院で家族歴のことは伝えて、必要な検査があるなら医者に聞いとけ」
送信した。
しばらくすると、メッセージは送れなくなっていた。
浩司がスマートフォンを美月に返した。
「ブロックだけは早いな」
思わず笑ってしまった。
21
翔太はその後、一度だけ美月の会社まで来た。
事前に事情を伝えてあったので、受付で止められ、そのまま警備員に外へ出されたという。
美月から金を引き出せないと分かると、今度は知人に片っ端から金を借りようとしたらしい。
以前勤めていた会社の社長にまで連絡した。
その社長は、私の知人だった。
そもそも翔太があの会社に入れたのも、私が間に入ったからだ。
あとになって、その社長から事情を聞いた。
翔太は入社後も欠勤が多く、給料の前借りまでしていた。最後は何日も連絡が取れず、会社としても雇い続けられなかったらしい。
翔太のその後については、その社長や青澄町で佐久間家を知る人たちから少しずつ耳に入った。
どこからかまた金を借りたものの、そのすべてを正夫さんの治療には回さなかったという。
知り合いに父親の治療を優先するよう言われた時、翔太はこう答えたらしい。
「ばあちゃんだって、あれだけ治療して結局死んだだろ。父さんも胃がんなんだし、全部突っ込んだってどうなるんだよ」
その話は、すぐ青澄町に広がった。
正夫さんを知る年配の人たちが翔太を諭したこともあったそうだ。
けれど翔太は、そのたびに言い返した。
やがて佐久間家の話は、地元のSNSにも出回るようになった。
それを見た人が、市役所の相談窓口や医療費の支援について正夫さんに教えた。近所の知人が、食料や生活用品を持っていくこともあったという。
ただ、誰も翔太には金を渡さなかった。
正夫さん本人に直接届く形でしか、助けようとしなかったそうだ。
その頃には、翔太には仕事もほとんどなく、貯金も底をつきかけていた。
以前からの欠勤や前借りの話も周囲に知られ、新しい仕事探しもうまくいかなかった。
青澄町と朝凪市の間を、あてもなく行き来している姿を見たという人もいた。
そこまで聞いて、私はもう翔太の近況を尋ねる気にはならなかった。
22
それから数か月後。
美月は、無事に女の子を出産した。
翔太の祖母と父親が続けて胃がんになったことは、妊娠中から担当医に伝えてあった。
医師からは、今の段階で特別な対応が必要なわけではなく、通常どおり健診を受けていけばいいと言われていた。
生まれた娘も、必要な検査を受けた。
特に異常はなかった。
結果を聞いた浩司が、長く息を吐いた。
私もようやく、落ち着いて小さな孫を抱くことができた。
美月は腕の中の娘をじっと見つめていた。
やがて、目元が赤くなった。
「お母さん、ごめん」
私はベッドのそばを片づけていた手を止めた。
「急にどうしたの」
「私、馬鹿だったなって」
美月は赤ん坊を見たまま言った。
「お父さんもお母さんも、ずっと止めてくれてたのに。私は二人が翔太を見下してるって思ってた」
少し鼻をすすった。
「結局、こんなに迷惑かけた」
「迷惑くらい、親にはかければいいのよ」
美月が顔を上げた。
「私、本当に翔太がずっと優しくしてくれると思ってた」
私は娘の髪を軽く撫でた。
「一度くらい、人を見る目を誤ることはあるわよ」
美月は黙って私を見た。
「次は、もう少しだけゆっくり見ればいい」
美月の目から涙が落ちた。
私は指でそっと拭った。
「何があっても、美月が私たちの娘なのは変わらないから」
隣では、浩司が生まれたばかりの孫を覗き込んでいた。
「ほら、もう泣くな」
美月が浩司を見た。
「この子が目を開けた瞬間、お母さんが泣いてたらびっくりするぞ」
「まだそんなに見えてないでしょ」
美月が泣きながら笑った。
認知と養育費のことは弁護士に任せ、美月はもう翔太と直接やり取りしなくなった。
一か月後。
美月は産後ケア施設での滞在を終え、娘を抱いて家へ帰ってきた。
朝凪市は、ちょうど春を迎えたばかりだった。
久しぶりに空が晴れ、庭の木には淡い緑の芽が出始めていた。
玄関の前で、美月が振り返った。
「お母さん、お父さん。ただいま」
浩司がすぐに歩み寄り、美月の荷物を受け取った。
私は玄関のドアを大きく開けた。
「おかえり」
部屋には、もうベビーベッドを用意してある。
美月は腕の中の娘を見下ろしてから、ゆっくり家の中へ入っていった。
浩司が荷物を玄関に置いた。
私はその後ろで、静かにドアを閉めた。
開けた窓から、春になったばかりの風が入ってきていた。




