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探偵は死体を推理しない、爆弾の場所を当てる  作者: 早野 茂


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第31話「記憶を問う設問」

深夜の湾岸道路を、相馬環が運転する覆面パトカーが猛スピードで疾走している。

分厚い冬の雲が月を完全に隠し、東京の海沿いは底知れない暗闇に飲み込まれていた。

等間隔に並んだオレンジ色の街灯だけが、冷たい夜気を切り裂きながら車内を断続的に照らし出している。

巨大な物流倉庫やコンビナートのシルエットが黒い壁のように迫っては、後ろへと流れていく。

車内には重い排気音と、ダッシュボードに固定されたタブレットから漏れ聞こえる篠宮蒼司のタイピング音だけが、乾いたリズムを刻んでいた。


『……駄目です。やはり公式のデータベース上では、五年前のイベント最終会場の図面は、事故直後の日付で上書きされた形になっています』

篠宮の声には、見えない壁を素手で叩き続けているような疲労と抑えきれない焦燥が混じっていた。

『危険区域に繋がる搬入用通路の記述そのものが、最初から存在しなかったかのように綺麗に削り取られている。上層部の承認ラインが関わった可能性もありますが、記録の処理が、あまりにも整っています。物理的に記録が抜かれています』

彼は捜査本部の片隅で、組織が秩序維持のために作動させた処理構造とたった一人で戦い続けていた。

消されたデータを復元し、当時の外部業者のキャッシュや搬入ログの断片をかき集め、本来あるはずだった「五年前の空白の座標」を外側から掘り起こそうと必死にもがいている。

組織の手続きの中で見落とされてきた空白のピースを、彼だけが執念で拾い集めようとしていた。

「公式の綺麗な記録は捨てろ。末端の警備スタッフのシフト表や、当日の機材トラブルの報告書、クレームの記録から逆算して、空白になっている区画を特定しろ」

相馬の硬質な指示に、通信の向こうで篠宮が短く息を吸い込む音がした。

『了解しました。記録が存在しないという空白の輪郭から、抜け落ちた中心を特定します』

再び激しいタイピング音が響き始める。


その緊迫した通信音のすぐ横で、助手席の黒瀬透は完全に沈黙していた。

彼は目を閉じ、冷たい窓ガラスに頭をもたせかけたまま、まるで石像のように微動だにしない。

相馬と篠宮が外側から「記録」を掘り起こしている間、黒瀬は自分自身の内側にある「記憶」という名の暗く深い海へ潜っていた。


『最後の問題。正解の外へ出したのは、誰だった?』


出題者から突きつけられた、あの夜そのものを問う設問。

その精緻で冷酷な刃は、黒瀬の脳内に分厚い氷の下で封印されていた五年前の記憶を、静かに抉り出していた。

目を閉じれば、当時の喧騒が鼓膜の奥に鮮明に蘇ってくる。

五年前の秋の夜。イベント本部の巨大なテント。

いくつものモニターが発する青白い光と、無数のトランシーバーが絶え間なく吐き出すノイズ。

黒瀬は当時、その中心で膨大な情報を処理し、何万人もの参加者の動線を論理的に統括していた。

都市の広大なエリアを巻き込んだ巨大なゲーム。

彼が構築した緻密な謎解きの迷路は、整った秩序をもって進行し、参加者たちを熱狂の渦へと導いていたはずだった。

だがあの夜、ある一つの瞬間だけ彼の手元の図面と現場からの報告の間に無視できない「ズレ」が生じた。


『――Cブロックの誘導ルート、一部変更の指示が出ています。関係者用通路への迂回です』


トランシーバーから聞こえた、誰の判断によるものかもわからない、不自然なルート変更の報告。

正規の安全な明るい道から、本来なら一般参加者が通るはずのない裏側の薄暗い通路への誘導。

黒瀬の明晰な頭脳は、その瞬間、確かにその指示の不合理性を察知していた。

論理的に考えて、そこに人を流す必然性はどこにもない。

むしろ参加者を危険に晒すだけのエラーだ。

本来あるべきではない場所に置かれた偽の印。

だが彼はその違和感を「現場の些細なイレギュラー」として処理し、それ以上追及しなかった。

鷹城梓が用意した綺麗な言葉と、イベントを何としても成功させなければならないという巨大な同調圧力。

異常を黙殺し正常を装う大人たちの都合の前に、黒瀬はその違和感を胸の奥へ押し込めた。

途中で途切れた問い。

その先を見ようとしなかった自分。

黒瀬の呼吸が微かに浅くなる。

コートのポケットに突っこまれた彼の手はひどく冷たく、白くなるほど固く握り締められていた。

あの夜、自分が見ようとしなかった「正解の外側」に一人の参加者が立っていた。

その事実の重さが、五年の歳月を経て今まさに黒瀬の内側を軋ませていた。


「相馬」

不意に、黒瀬の低く掠れた声が車内に響いた。

彼がゆっくりと目を開き、前方の深い暗闇を見据える。

「あの夜のルート変更は、ただの誘導ミスではない。意図的に差し替えられたものだった。……出題者は、その事実にかなり近い場所まで辿り着いている」

黒瀬の声には感情の起伏がなかった。

ただその平坦さはいつもの冷たい拒絶とは違った。

過去の曖昧な記憶と逃避の過ちを真っ直ぐに直視する者の、重い覚悟が滲んでいた。


その時ダッシュボードのタブレットが短い受信音を鳴らした。

画面に表示されたのは、篠宮からではなく外部の暗号化された回線からのデータだった。

「久我真尋からだ」

相馬はハンドルから片手を離し、画面を素早くタップした。

先ほどの文書保管倉庫で相馬が真尋に図面の照合を依頼していたデータへの返答だった。

真尋からのメッセージは、いつも通り、ひどく淡々とした事務的な文面で綴られていた。


『照合結果を送ります。ご指摘の通り、警察の公式記録と、私が集めた当時の控え図面との間には、当該区画の記述に明確な差異が存在します。それと――』


相馬の目が、続く一文を読んで鋭く細められた。

黒瀬もまた、無言でタブレットの画面に視線を固定する。


『妹の遺品を整理していた際、当時の状況に関する記述を見つけました。確認のため、共有します』


メッセージの下には、一枚の高解像度の画像データが添付されていた。

それは、真尋が五年間、誰にも触れさせずに大切に保管し続けてきた久我澪のノートの1ページをスキャンしたものだった。

相馬は画面を拡大する。

画面の中の紙面には、薄い折り目と指で何度もなぞられた跡が残っていた。

五年という時間が、その一ページだけを静かに摩耗させていた。

ページの上部には、黒瀬が作った問題の解説や細かな付箋がびっしりと貼られている。

言葉の順序、誤誘導の位置、反転の置き方。

澪がどれほど黒瀬の出題を深く愛し、そこに「必ず正しい答えがある」と信じていたかが、その几帳面で丸みを帯びた文字の並びから痛いほどに伝わってくる。

「……これ、ただのファンノートじゃありません」

通信の向こうで画像を確認した篠宮の声から、いつもの軽さが消えていた。

「僕も黒瀬さんの問題は、かなり追っていたつもりです。でもこれは……作問者の思考の癖を、解答者側からほとんど論理的に分解している。並の洞察力じゃない」

「真尋がこれを五年間手元に置いていたなら」黒瀬が極端に低い声で言った。

「私の思考の型に触れる材料にはなり得る」


だが、二人の視線を引き付けたのはその緻密な分析の記述ではなかった。

ページの下部。

余白を埋めるように、それまでの几帳面な文字とは全く違う筆圧の強い荒々しい走り書きがあった。


『入ってはいけない場所に、人がいる』


車内の空気が、凍りついたように静まり返った。

車の重い走行音すら遠くへ消え去ったかのような、絶対的な沈黙。

相馬は、その短い文字列から目を離すことができなかった。

ただ運悪く不自然な誘導ミスに巻き込まれて、危険な暗がりに転落した参加者。

警察の公式な記録も、世間の認識も、すべてが澪をそのような「無力な被害者」として綺麗に処理していた。

だがこのノートの走り書きは、その前提を揺さぶる記録だった。


「……彼女は、ただ迷い込んだわけじゃない」

相馬の硬い声が、冷たい車内に落ちた。

「五年前のあの夜、澪さんは正規ルートの外側にあった『異常』に気づいていた。だから、その場所へ自分の意思で向かった可能性が高い」


入ってはいけない場所に、人がいる。

澪は大人たちの説明の中で見えなくなっていた現場のノイズを、鋭い洞察力で的確に見つけ出していたのだ。

彼女は目の前にある違和感をそのまま通り過ぎることのできない、能動的で純粋な探求者だった。

その事実を突きつけられた黒瀬の瞳が、青白い画面の光を反射して微かに揺れた。


あの夜、黒瀬は自らの違和感を途中で手放し思考を止めた。

だが正解の外へ弾き出された彼女は、そこで何かを見ようとしていた。

自分が途中で止めた問いの先に、彼女は一人で進んでいた。

黒瀬の薄い唇が、強く真一文字に結ばれる。

内面を吐露する言葉は一言も発さなかったが、彼の中で五年前に凍りついていた何かが、静かに軋みを上げ始めているように見えた。


『相馬さん!出ました!』

通信の向こうで篠宮の弾んだ声が響き、車内の重い沈黙を破った。

『五年前の図面と、真尋さんから送られた控えのデータを照合し、空白の区画を特定しました。イベント最終会場として使用されるはずだった旧施設の裏側。現在、再開発計画から外れ、巨大な廃地下区画として放置されているエリアです!』

ついに外側からの執念の掘り起こしが、一つの座標を割り出した。

「座標をナビに転送しろ」

相馬の迷いのない声に応えるように、ダッシュボードの画面に赤いピンが点滅を始める。

それは出題者が関係者たちを集めようとしている解答の場へ繋がる可能性の高い座標だった。


「行くぞ」

相馬は短く告げ、アクセルをさらに強く踏み込んだ。

助手席の黒瀬は無言のまま、ただ前方の深い暗闇を見据えていた。

もはや過去から逃げる道は残されていない。

記録と記憶の両面から暴き出された五年前の夜の空白が、彼らを真っ直ぐに待ち受けている。

冷たい夜風を切り裂きながら、覆面パトカーは解答の場へ向けて疾走を続けた。

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