角のない鬼
深い深い冥闇に。いつからだろう、一条の光が射していた。
岩屋の入口はとうに崩れ、山の一部となって久しい。分厚い土砂の層によって、天の光は固く遮られていたのに。僅かな穴が、今、空いている。
この間の地震によって地盤がずれたのか。それとも、大雨に土が流されたか。
いずれにしろ、数百年に及ぶ封印が綻んだのは間違いなかった。
行幸である。
天井に空いた、僅かな隙間から降り注ぐ救いの光は、長い月日をどん底で過ごしてきた彼の目を灼く。赤く。眩しく。
尤も、実の肉体は既に朽ち果て、灰のごとく崩れ去ってしまって指先さえも残っていないが。
残されているのは、古き楔に繋ぎ止められた魂だけだった。それさえも長い封印の末に擦り切れ、消えようとしている。
このままであれば。
音もなく、色もなく、世界に溶けて、輪廻の輪に還っていくであろう。
だが、今。
天に穿たれた綻びが、彼に夢と希望を与えていた。
たかだか指一本通る程度の隙間が、数百年ぶりに淀みを動かし、新鮮な空気を穴へ運ぶ。
感じる。
七色に移ろう美しい空を。草木を撫で進む一条の薫風を。
地上は生命に溢れていた。そこは今も昔も変わらないのか。若干、空気に余計なものが混じっているような気もするが、懐かしい世界の気配が微々たる違和感を覆い隠してしまう。
ああ、生きている。肉体は失ったが、彼という存在はまだ消えていない。
朝が来て、夜が来る。
再び朝になり、夜へと変わる。
その、一瞬の翳り。
母親の産道を通って新たな生命が生まれる神秘にも似ている。
だからこそ、狂おしいほどの愛しさを感じる。
会いたい。
彼を楽しませてくれた、あの者たちに。
もう一度会って、抱きしめたい。
この腕で食い込むほどに強く抱きしめ、抱きしめ、抱きしめて、二つになった胴体を愛でたい。千切れた臓物から滴る血を全身に浴びたい。
ああ。
足りない。
悲嘆が、足りない。
ずっと足りなくて、気が狂いそうだ。
しかし、鬱憤を晴らそうにも振り回す手足がない。苛立ちをぶつける相手がいない。
手――そう、手だ。否、手と認識する魂。
天井に空いた綻び。その隙間からなら、魂の一部くらいは外に出せるだろう。代わりに他の全てが犠牲となるが、どうせ何もしなければ果てる運命だ。失敗しても同様。挑戦して生き延びるか、挑戦して死ぬか、挑戦せずに死ぬか。答えは決まっている。
細く、しかと。
上へ。外へ。
そら……もう少し。
……出た。
本当に叶った。
嘘のようだ。信じられない。
遮るもののない生の空気は、燃える枯れ草の匂いがする。無数の負の感情が、地面近くにわだかまっているのがよく見える。
そうか、そうか。世は今もなお嘆きに満ちているのか。
何より感動したのは、血のように真っ赤な夕焼けだ。ここは確かに彼の生まれた国なのだと、強く強く実感する。
いくら時が過ぎようと変わらない、普遍の空。この空を見ていると、己の業も後悔も、全て赦されるような気がするのだ。
さて、この後はどうしようか。どうしようと言っても、すべきことは決まっている。空腹を癒し、力を取り戻さなければ。すなわち、狩りだ。
運の良いことに、こちらへ近づいてくる人の気配を感じる。怒りと悲しみ、諦めと嘆き。心地よい負の情に苛まれた哀れな幼子。
なんと好ましい。
彼に捧げられるに相応しき魂だ。
ならば――悦んでいただこう。
* * *
「やだ……まだ追ってくるっ!」
振り返った木々の合間に熊よりも巨大な影を認め、由良凛音は絶望に声を染めた。
顔は蒼白。濃い疲労の色が張り付いている。ひとつに編んだ三つ編みは何度も小枝に引っ掛かったため解れてボロボロになり、大きな眼鏡は滴る汗のせいで鼻の上を何度も滑り、そのたびに右手で押さえなければならなかった。制服は激しい運動で乱れ、雨で弛んだ足場を突っ切ったために下半身は泥まみれだ。しかも茫々に生えた下草で、あちこちに切り傷ができていた。
そんな少女を追い立てるのは、禍々しい異形。
鬼だ。
基本的には人間に似た骨格でありながら、数倍の背丈と質量を備えた怪物。頭部から生えた角は螺旋を描きながら天を衝き、威嚇するように剥いた牙は地をも噛み砕きそうなほど鋭い。そして、それら凶悪な姿に見合った破壊的な膂力。
日本では、千年以上もの昔から人々の営みを脅かし続けている。
脅威を知らぬ者などいない、人類の天敵だ。
雷が落ちたような轟音が耳のすぐ傍で聞こえる。錯覚だろう。密集する山の木が障害となって、図体の大きな鬼は思うように進めない。それを狙って山に逃げ込んだ訳ではないが、結果的に地形は凛音の逃亡を手助けしていた。
雷か地響きのような音は、鬼が木をへし折った音だ。斧もチェンソーも使わず、素手でいとも簡単に成し遂げる剛力は、華奢な凛音の体などずたぼろに引き裂いてしまうことだろう。
血塗れになった己の姿を想像し、全身に虫が這ったような悍ましさを覚える。
(絶対に立ち止まっちゃダメだッ)
だが鬼も、こちらが逃げれば逃げるだけ追いかけてくる。まるで狂った獣みたいに、時折地獄のような咆哮を轟かせる。獣たちは危険をいち早く察して逃げ出したらしく、山道には鳥の影すらなかった。
聞こえるのは己が発する荒い呼吸。背後から追い立てる死の足音。
追い追われる二つの影を、生い茂る梢の隙間から曇った夜空が見下ろしている。
(どうしてこんな事になっちゃったんだろう)
たった数時間。いや、一時間にも満たないだろうか。穏やかだけど退屈で陰鬱な日常が、一瞬にして死と絶望に塗り替えられたのは。
凛音は深い後悔と共に、帰り道での出来事を思い出していた――。
母が入院している病院を出る頃には、西空はもう既に真っ赤だった。強めの北風が吹き、凛音の三つ編みとセーラー服を揺らして過ぎ去る。
外の空気を吸えば気が晴れるかと思ったが、期待したほど効果がないことに彼女は少しだけ肩を落とした。
学校の鞄がずっしりと重い。毎日教科書を持って帰るせいでもあるが、代わり映えのない日々にうんざりしている心理的要因も大きいだろう。
学校は好きでも嫌いでもない。勉強は得意ではないが苦手でもない。友達はいないわけではないが、付き合いに費やせる時間がない。私生活の都合で部活もやっていないから、人間関係は同年代の中でもかなり狭い方だ。
傍から見れば、何かに縛られることもなく自由な人生を送っていると思われるかもしれない。
だけどそれは間違いだ。
凛音の心と体は見えない鎖で雁字搦めに縛り付けられ、今も息苦しさを感じている。
ストレスの原因は考えるまでもない。
母だった。
(お母さん、今日も愚痴ばっかだったな)
慣れた道を行く足取りに淀みはない。この地域にしては比較的本数の多いバス停を通り過ぎ、坂道をてくてくと下る。
古びたコンクリの歩道。隙間からはみ出した雑草。錆びついたポールの根本。擦れたスニーカーの爪先。靴は高校に入ってから一度も買い替えていない。家は貧乏だから、完全に草臥れるまで履き潰すしかない。
無意識に下がった視線が浮上することはなかった。
高校二年に進級した頃、母が急な病で入院することになった。仕事の最中に倒れ、救急車で運ばれたらしい。担当医に病気の説けた時は、先行きの不安でいっぱいだった。
それは今もそうだ。
母と娘の二人暮らし。頼れる親戚もなく、母の同僚は「困ったことがあったらなんでも言って」と声をかけてくれたが、よく知らない他人にそうそう甘えることもできず。クラス担任はこちらの事情を把握しているものの、最初に心配する言葉をかけてきただけで積極的に気にかけてくれたりはしない。たぶん面倒なのだろう。凛音としても、先生に何かできるわけでもないしと冷めた考えを持っている。
外向きには何でもないような顔をして、ギリギリのところで生きていた。
(町に下りたら、スーパーに寄って食材買い足さなきゃ。もうお米なかったよね。野菜も最近高いから、なんとか節約しなきゃ。でも、バイト増やしたらお母さんにまたなんて言われるか……)
頭の中で不満たらたら。こんなのが毎日だ。時々、わーって大きな声で騒ぎたくなる。
嫌いだ。
毎朝、家の門を出たところで声をかけてくる同情心丸出しのおばさんも。
それに対して愛想笑いを返しながら、他人を憐れむ自分が好きなだけなんでしょ、と心の中で蔑んでしまう自分も。
もう嫌だ。
昼休みに、今流行りの話題で盛り上がるクラスメイトに分かるふりをして相槌を打ったり。
放課後に、申し訳ないポーズをとって友達の誘いを断ったり。
部活に向かう同級生たちの楽しげな声を背中で聞くのは。
(惨めだ)
本当は、もっと普通の高校生活を送りたい。
一年の時はまだマシだった。忙しい母に代わって家事に追われていたのは今と変わらないけど、月に一度はなけなしのお小遣いを使って友達と遊べた。
貧しい中、高校に通わせてくれる母に対する感謝もあった。
なのに、今は。
「あんたは健康でいいわよね。若いし、これからだし。恋人だって作りたい放題でしょ。私なんか、一生懸命頑張ったおかげでこんななっちゃった。全部あんたのせいとは言わないけど、半分くらいは責任あるんだから後で返してよね。あーあ。なんであの時、手切れ金断っちゃったんだろう。あっちがその気ならこっちだって、って意地になってたのよねぇ。やっぱり家くらいじゃ割に合わなかったわ。ま、住む場所があるだけマシだけど。ああ、今住んでるのはあんた一人か。羨ましいわ。自分の家だったら口うるさい看護師もいないし、精神的に楽だろうなぁ。ねぇ聞いてよ。あの坂本ってオバさんさ――」
グチグチ、愚痴愚痴。悪口ばっかり。負の感情がとめどなく溢れていく様を見ていると、こっちまでドブ色に染まっていくような気がする。
こんなに愚痴ばかり言う人だったろうか? それとも、病気で変わってしまったのか?
娘の感情なんて知りもせず、ただ憂さ晴らしの道具としてしか見ていない。
だけどそれでも、今や唯一の肉親である母を見捨てたりはできない。そんなことをしたら、わたしも母も可哀想だから。
家に帰れば孤独が待っている。
一人だけの食卓。
一人だけのテレビ。
一人だけの夜。
もう飽いた。
全部終わりにしてしまいたい。
――そんな考えが、雲間から差し込む日差しのように浮かび上がるようになったのは、いつ頃からだったろうか。
「終わってるなぁ」
茜色に輝く雲を見上げて、自分の人生を総評する。
あの子は今頃どうしてるだろう。
泣きじゃくりながら、父親と祖父母に引き取られていった弟。引っ込み思案なお姉ちゃん子で、同い年だと言うのに可愛くて可愛くて仕方がなかった。この子は私が守るんだと、幼心に誓ったこともある。だけどそれは叶わなかった。外部の手により引き裂かれたからだ。ひどく悲しくて腹が立ったが、母の失意は凛音以上だったろう。一時期は食べ物も喉を通らず、頬が痩けるほどに憔悴していたのだから。そんな母を見て、凛音は自分だけはずっと母の傍にいようと決めた。
なのに、今ではこの様だ。
十年で変わってしまったものは数え切れない。
家族、家、生活レベル、学校に友人。犠牲にしたものたち。
わたしも、母も。
母の入院はきっかけに過ぎない。ずっと前から凛音は倦んでいたのだ。誰にも本心を曝け出すことができないまま……。
「あ。ぼうっと歩いてたら、こんなとこまで来ちゃった」
ふと気付くと、やけに西日が強かった。曲がるはずだった十字路を通り過ぎ、人通りの少ない農作地に迷い込んでしまったようだ。周囲はほとんどが畑で、ポツンポツンと平屋が建っている。凛音が立っているのは、車がぎりぎり二台通れそうな畦道だった。田舎なので山が近い。畑の北側はほとんど山だ。確か、桜馬山といったか。
「戻ろう……」
深く溜め息をついて、鬱々と踵を返す。
ただでさえ疲れているのに、余分に歩かなきゃならないなんて。
(今日はとりわけツイてないな)
西日が照らす畦道に、凛音の影が伸びている。細長くて、歪で、どことなく邪悪。じっと見ていると、そのうち影に乗っ取られるんじゃないか、なんて変な考えが浮かんで、凛音は頭を振った。
その時だ。
急に視界が暗くなった。
一瞬、音が途切れる。「え?」と訝しんだ凛音は、反射的に顔を上げる。
その目の前に。
巨大な質量を伴う何かが、砂煙を撒き上げて畦道に墜落した。
「う……っ!?」
悲鳴を上げかけた凛音を大量の砂埃が襲う。もうもうと立ち込める砂煙で視界は奪われ、立っていることすらままならない。
「げほっ、げほっ!」
うっかり開いた口の中に錆の臭いを纏った砂が侵入し、咳き込んでしまう。
(一体なんなの……!?)
地割れ? 自動車事故? それとも隕石?
いずれにしても、こんな至近距離で発生するなんて運が悪い。
(いや、運が悪いなんて言ってる場合じゃない。とにかくここを離れなきゃ!)
右も左も分からない中、勘だけで道を探す。彼女がいるのは畑のど真ん中に横たわる畦道だ。下手に動き回ると用水路に落ちてしまう。ただでさえ目印となるようなものが何もないから、視界不良の中ではどっちが正解か分からない。
――しかし、この時点ではまだ、凛音はそれほど身の危険を感じていなかった。只事でないことは分かる。けれど怪我をしたわけでもないし、警察を呼べばそれで終わりだろうなどと考えていた。
灰色に霞む視界の向こうに、高く峙つ山のごとき影を認めるまでは。
「……は?」
巨人、だ。
詳細は分からないが、輪郭を見る限り、途轍もなく巨大な人間であることは明らか。これがもし2メートル程度の身長であれば、凛音も事実として素直に受け止めただろう。身長2メートルの人間なんて実際には会ったことないけれど、どこかに存在はするのだから。
しかし前方に聳える影は、少なく見積もっても3メートルはある。光の屈折やら何やらでそう見えているのでは、なかった。
土埃が収まり、その全容が露わになっていくにつれ、凛音は体の芯が冷たくなるのを感じた。
「――お、に」
筋骨隆々とした肉体は、全身が青い鋼のよう。見るからに硬く、光沢がある。腕も足も凛音の何倍といった太さがあり、丸太程度なら容易くへし折ってしまうだろう。
岩のような瞼の奥に光る双眸は、目というよりも刃物のように無機質で鋭い。
何よりも目立つのは、小麦色の頭髪を割って伸びる一本の角だった。人間にはありえないその器官は、どういうわけか途中で絶たれ滑らかな断面図を見せている。
だがしかし、間違いなく鬼であった。
「えっなんで? 鬼鈴は……!?」
恐怖よりも動揺、困惑が勝ったのか、凛音は我知らず口走る。
鬼鈴とは、日本国で常時携帯を推奨されている呪具だ。鬼の放つ特殊な氣を検知すると、激しく鳴り響いて教えてくれる――はずなのだが。
「なんで!? なんで鳴らないの!?」
鞄のベルトにつけっぱなしの鬼鈴は、いくら揺すってもうんともすんとも言わない。確かに、小学校で最初に配られた時以来一度も音色を耳にしたことはないけれども、目の前に鬼が立っているこの状況でも動かないなんてあんまりだ。凛音の脳裏に「故障」の二文字が浮かぶ。
一体いつから? 最初から?
この期に及んでは意味のない疑問だ。
現に鬼は目前におり、刃物のような眼が怯える凛音を捉えている。
「……みつ、ケた……」
「ひっ!?」
「ミつ、けタアア!!」
「きゃあああ!!」
鬼は大きく左腕を振りかぶった。その途端、凛音は甲高い悲鳴を上げて踵を返す。
直後、すぐ後ろで地面を揺さぶるような衝撃が起きた。
もう、畦道だ畑だなどと言ってられない。逃げなければ殺される!
(どうしよう。どうしよう。どうしようっ)
凛音はか弱い女子高生だ。格闘経験はおろか、体育の授業以外でスポーツの経験もない。あったとしても、人知を超えた鬼の相手なんて無理だ。
交戦は論外。
かと言って、無事に逃げおおせる自信はない。
つまり――このままでは、確実に死ぬ。
鬼の出没件数が年間1000件を超える日本では、当然ながら、自分が被害者にならないためのマニュアルというものが存在する。だがそれは鬼鈴が正常に作動することを前提としたものがほとんどで、そうではない場合に取れる行動は一つしかない。
(こういう時はっ、102番っ!)
国家鬼対策組織、征鬼隊指令センターに繋がる緊急通報用電話番号である。電話も鬼鈴もなかった時代は、鬼が現れた時点で村一つ、町一つは壊滅を免れなかった。だが鬼鈴のおかげで接触する前に避難でき、電話のおかげで離れたところにいても救援を呼べるようになったのだ。さらに携帯電話の登場によって、人命を守る流れはスムーズになったと言える。
凛音は逃げながら、逸る思いでスマートフォンを取り出した。数年前の機種で、高校入学時に母が買ってくれたものだ。勿論、最安プラン。持っていて良かったと安堵する一方、画面に触れようとする指は恐怖で震える。
「ガぁぁアアア!!」
「きゃあ!」
頭上を何かが物凄い勢いで通り過ぎ、巻き起こった風に煽られて凛音は体勢を崩した。運悪く、そこは黒い土が掘り返されたような窪地で、一メートルほどの高さを為す術もなく転がり落ちた。
幸いにも下は柔らかく、華奢な凛音の体を受け止める。
涙を堪えながら目を開けると、近くの地面に無惨に折れられた道路標識が突き刺さっていた。元からあったわけがない。先程、頭上を通り過ぎていったものの正体だ。
「ヒッ……!」
背筋どころか、頭から爪先までもがゾッとする。
金属の塊を素手でへし折る膂力。それを人に向ける凶暴性。今までは知識でしか知らなかった鬼の恐ろしさが、急に危険な形を伴った。
気配を感じて、振り返る。その拍子にヘアピンで押さえていた前髪がほつれ、目の前に垂れた。
ぶれる視界に、角の折れた鬼がにゅっと現れる。
よく見ると、その瞳は金色だった。
自分でもなんと叫んだか分からない。
手足を四本の足みたいに動かして、這いつくばってその場から逃げ出す。
気付いたら四方八方を木々に囲まれていて、おそらくは山の中なのだろうが、正確な場所は見当もつかなかった。
「はぁッ、はぁッ!」
なんで。
「はぁッ! んっ……うぅッ」
なんで。なんで、なんで。
ガサガサと草叢を突っ切って進む。泥濘んだ地面を踏むたび、泥がビチビチと足に撥ねる。
いつの間にか空は暗くなっていた。そんなに走った覚えもないのに。
(なんでこんな事になっちゃったんだろう)
眼鏡の奥に涙が光る。水滴は頬の上を滑り、光のない夜の闇へと消えていった。
たかが一本、道を間違えただけ。
たったそれだけで、これからも続くはずだった退屈な日々を逸れ、死へと直行する道をひた走る羽目になった。
不運と呼ぶにはあまりにも災難。
ただの女子高生である凛音には受け入れがたい現実だった。
「あっ」
爪先が何かに取られたかと思うと、あっけなくバランスを崩し肩から倒れる。今まで転ばずに走れていたことが不思議なくらいだ。
乾いた土の感触が掌をざらりと伝う。ヒュオオッ、と嘆く風が鼓膜を叩き、走り続けたことで温まった体を容赦なく冷やした。
そこは崖だった。ドラマで見るような断崖絶壁だ。頭上には雲に覆われた夜空が、木々に遮られることなく広がっている。遠くに見えるのは凛音の暮らす壱美市だ。人口三万人もない片田舎。都会みたいに高い建物はないが、日の入りと共に寝静まるほど原始的でもない。人工の明かりがポツポツと灯っている様はとても平和で、凛音はそこから弾き出されたような感覚を覚えた。
(もう帰れないの)
後方から、鬼が一歩一歩迫りつつある。万が一に賭けて崖から飛び降りたとしても、鬼は容易く追いつくだろう。それでも逃げなきゃと思うのに、体に力が入らない。体力の限界ではなく、絶望に足を取られて。
最後の瞬間だというのに、思い浮かぶのはなぜか母親の顔だった。
ここ数年は他人の悪口ばかり言って凛音をうんざりさせる母だけど、以前は全くそんな人ではなかった。離婚したばかりの頃なんて、幼い凛音のために朝から晩まで外で働き、夜は家で内職をする毎日を送っていたのだ。
それが徐々に。
徐々に変わっていった。
もしかしたら、その頃から母の体に異変が起こり始めていたのかもしれない。だけど凛音は何も気づくことなく、変わってしまった母を鬱陶しい、邪魔な存在に分類した。親子の情を投げ捨てたつもりはないけど、おそらくその寸前まで到達していた。反抗期のせいもあっただろう。
(お母さん……)
今になって、もっと話をすればよかったと後悔が込み上げる。泣かないことを信条としていたのに、涙が溢れてぽたぽたと地面を濡らした。
だが、最後の時間すら敵は満足に過ごさせてくれない。
地面を踏み固めるような振動に気がついて、凛音は山の方向を振り返った。
影の一部が盛り上がり、巨躯が現れる。
月も星もないのにはっきりと捉えた己の目を、凛音は何一つ疑問に思わなかった。
「ようヤく、この時ガ来タ。積年の怨ミ、今こソ晴ラす……!」
興奮による荒い呼吸を抑えきれず、鬼は牙の端から熱い息を吐き出す。赤い炎を幻視するほどだ。争いとはほぼ無縁の人生を歩んできた凛音にも、悍ましいほどの憎悪を向けられているのが理解できた。ただ、理由が全く分からない。鬼の恨みを買った覚えなんて一つもない。
「あ、わ、わたし……あんたなんか、知らない」
「そうカ。ダガ俺は知ってイル。姿形は変ワろうと、忌々しいソノ気配、違えルはずがナイ!」
「きゃっ……!」
咆哮としかいいようのない怒号。風圧でぶわっと生暖かい風が巻き起こり、解けた髪がばらばらと散らばる。凛音は思わず両腕で視界を庇ったが、身体は崖の方へ数センチメートル傾いた。
もう一度悲鳴を上げる。追い詰められた絶望は言葉にならず、ただ喉を切り裂くように叫ぶだけ。みっともなかろうが、凛音には喚くことしかできない。
鬼は大股で近づいてくる。憤怒の表情で。こちらの言い分など聞く耳を持たないだろう。
死にたくない一心で、凛音は這いつくばりながらも鬼から遠のこうと手足を動かした。だが、その先は断崖だ。端っこに辿り着いてしまえば、あとは落ちるしかない。そのことに気付いていないのか、凛音は引き攣った泣き声を上げて這い進む。
土を掻く指が、白く染まる。
空では、風が雲を押し流していた。
まるで舞台の幕が上がるかのように、あるいは波が引くかのように、サアッと暗い帳の向こうへ去っていく。
太陽の消えた空に、丸い月が輝いていた。
「ガアアァッ!!」
突如、耳を塞ぎたくなるような絶叫が耳を劈く。痛みと苦しみ、驚愕の混じった鈍色の響き。
ほとんど同時に、凛音の体は横向きに倒れていた。何か衝撃波のようなものに押され、体勢が崩れたのだ。
何が起きたのか分からないまま、凛音は倒れた体を起こした。
そして、目を瞠る。
鬼が宙を舞っていた。いや、吹き飛んだと言った方が正しいか。戦車の大砲でも跳ね返しそうな鋼の巨体が、車に撥ねられたみたいに弾き飛ばされている。
凛音は驚きのあまりぽかんと口を開けたが、理由はそれだけではなかった。
「何やら騒がしいと訝しみ来てみれば……。あなたが我を忘れて荒ぶるなど、珍しいこともあるのですね」
凛音と鬼の間に、背を向けて立つ着物姿の女。
淡い月明かりに照らされて、艶やかな黒の中に仄かな桜が花を咲かせる。長い黒髪を複雑に結い、瑠璃の玉を髪留めに左耳の後ろから一筋の尾のごとく流している。白い項は艶めかしく、女の凛音でさえもドキリとするほど。丁寧に左右揃えた小さな足が、漆塗りの下駄にちょこんと乗っていた。
女が振り向く。
その瞬間、凛音は呼吸が止まるかと錯覚した。
現れた顔右半分の、この世のものとは思えない美しさ。上品に弧を描く真っ赤な唇。雪のように白く陶器のように滑らかな頬。涼やかな金色の瞳。
しかしもう半分には、左目と左頬をすっぽり覆うほど大きな蝶が張り付いてたのだ。
――いや。違う。仮面だ。本物そっくりの揚羽蝶を象った仮面。であっても、リアルな虫の仮面を顔に装着したいとは思わないが、女の感覚は普通ではないのだろう。
しっとりと濡れたように艶のある黒髪を割って、二本の角が生えている。凛音を襲った鬼の折れたそれより短いが、美しい銀色の光沢は芸術的であるとさえ思えた。
また鬼だ。これで二体目。一体だけでも災害指定とされるのに、その倍だなんて。
(でも、助けてくれた……? 見てないけど、大きな鬼を止めたのは間違いなくこのひとだ)
絶望の淵に立たされていた胸に希望の火が灯る。
女の右目はしばらく凛音を見下ろしていたが、やがて興味を失ったかのようにふいっと逸れた。その視線の先にいるのは、蹲り苦悶する巨躯の鬼だ。
透き通るような美しい声が、女の後ろ姿から聞こえた。
「まずは理由を聞きましょうか。なぜこのような騒ぎを起こしたのです? 定住を許す代わりに主様の膝下を荒らさぬ、との約定だったはず。忘れたわけではないでしょう、縹よ」
縹、と呼ばれた巨躯の鬼は、フーッフーッと荒い息を繰り返しながら女鬼を睨んだ。
「ソの女ハ、家族ノ仇ダ。約定を破ッタことは、謝罪スル。しかシ、罰されル覚悟を決めてノコト。ソコを退いてくれぬカ、瑠璃姫」
仇という言葉に、どくんと凛音の心臓が跳ねる。約定だとか主様だとかよく分からない事情があるようだが、それよりも縹の仇という部分が妙に気にかかる。
瑠璃姫の心にも、別の角度で響いたようだった。
「仇、ですか……。そういう話なら、わたくしが出しゃばるのは一旦止めた方が良さそうですね」
「感謝スル、姫よ」
「そ、そんな!」
反射的に声をあげる凛音。鬼、そして瑠璃姫の視線が、ぎろりと彼女を射抜く。その力強さに怯みながらも、凛音は必死に訴えた。
「人違いだよ! わたし何もしてないっ! だってただの高校生だよ!? 仇とか……人殺しとかできるわけないじゃない!」
これでも真っ当に生きてきた。暴力を振るったこともなければ、振るわれたこともない。言葉で誰かを傷つけたことはあるかもしれないが、殺しとは無縁だ。そういった血生臭いこととは、引き離されて生きてきたのだ。
そもそも、鬼の家族を殺せる力が凛音にあるはずもなかった。
叫ぶたび、心臓が張り裂けそうだった。それでも、意味のある言葉になっているだけマシだったろう。
瑠璃姫という鬼は、どうやら中立寄りの立場らしい。巨躯の鬼が言った仇討ちが見当外れだと分かってもらえれば、凛音にも活路はあるかもしれない。
細くて脆い蜘蛛の糸だ。だが、そんなものでも縋らなければならないのだ。
どくん、どくんと、体の奥が脈動する。
二体の鬼の冷たい眼差しが、風を伝い凛音の眼孔に流れ込み、脳を刺激する。
凛音は俯き、唇を噛む。
目の前が翳り、くらりとする。
だんだんと意識が遠ざかっていくような気がする。
耐えなければ。ここで目を閉ざせば、二度と目覚めることはない。
「お願い……。このままじゃ殺されちゃう」
「では、生きて何か為したいことでも?」
「え?」
「目的があるから生きるのでしょう。ないのであれば、生きる意味はない。死んでも構わないではありませんか」
「それは……」
純粋な疑問だという風に小首を傾げる瑠璃姫に、凛音は反論の言葉を飲み込む。
"人生終わってる"
その言葉を幾度繰り返してきただろう。だけどそれは死を目前にして得た実感ではなく、これから先何年経とうとわたしの人生が浮上することなどないのだろうという諦念だ。"終わってる"とはつまり比喩であって、本当に人生を終わらせるつもりなんてない。
だが瑠璃姫は問う。
希望のない生き方に意味はあるのか、と。
あると答えたかった。今は希望が見えなくとも、いつかは頑張って実りある人生を歩めるかもしれない。それこそが希望ではないか。
なのに、あると言えない。
「でも、死にたくないよ……」
――どくん。
縋っていた糸が手の中でぷつりと切れる。
「なんでなの? 理由を教えてよ。なんで私が仇って呼ばれなくちゃいけないのよっ」
――どくん。
瞼が落ちる。暗闇に堕ちる。
「あんたに殺されなきゃならない理由なんて、私にはこれっぽっちもないわよっ! 目的なんか知らないけど、私は生きてる! それじゃダメなの? 何の理由もなくたって、私にだって生きる権利くらいあるはずでしょ!」
「俺ノ家族もソうだッタ! 死ヌ理由がないのは、妻ヤ息子も同ジだっタ! だガお前は殺シた。俺ノ大切な家族ヲ殺シた! なぜダ!? 村を焼キ払ウだけで飽き足らなかっタノカ? なぜ無力ナ女子供まデ手に掛けタ!」
「だから知らないって言ってるでしょ!? 私にも家族はいる、失ったあんたは可哀想だと思うわよ! でも、だからって無関係な私を巻き込まないでっ。そんなの、理不尽じゃない!」
――どくん。
引き換えに、鼓動が嗤った。
冷静でない自覚がある。それでも自分を止められない。この口から紡ぐ言葉が、自分のものではないような気がして。
乖離する体と心が、粘土みたいにどろどろと溶けていく。
手も足も、舌も歯も、どこへ行った?
誰の足で立っている? 誰が口を動かしている?
――誰がわたしを騙っているの?
「理不尽ダと? どの口ガ言ってイル? 本当の理不尽ハ貴様自身ダ! 鬼とテ掟はあル。一度交ワした約定ハ違えてはならヌ。破っタ者にハ、然るベキ罰を。だガ、貴様は端から守るつもりナドなかっタだろウ! なぜダ!? なぜあんナ約定を交わシタ? 最初かラ裏切ルつもりナら何故!」
なぜ、なぜと五月蝿い。
ただでさえ体が大きいせいか、腹の底から絞り出した声量は空気を震わせるほどだ。
それにしても憐れだと思う。大切な者を喪う痛みは、人も鬼も変わらないのだ。巨躯の鬼の姿からは、そのことがよく分かる。
――否。
見ていたから知っている。
「その方が楽しいからに決まってるだろう」
「!?」
瑠璃姫が一瞬にして飛び退り、凛音から距離を取った。
右半分だけ見える顔は険しく、厳しい。構えた右手には何も握られていないが、霊気を溜めているのが感じ取れる。
そんな女鬼が可愛らしく思え、凛音はにたりと口を裂いて笑った。
――この女の血はさぞかし美しいのだろうな。
想像するだけで期待に胸が震える。
「あなた……。先程までの少女とは別人ですね。何者です?」
「息吹――という者だよ。ヘマをして、百年ばかし封印されていてね。幸運にも綻びができたから、無理をして脱出したのさ。そのせいで封印された時よりもだいぶ弱ってしまったけど、これまた幸いなことにエサが近くにいたものでね。お陰様で元気になったよ」
おどけた仕草で力こぶを作ってみせる。と言っても、元が非力な凛音の体だ。痩せ気味の肉体にはほとんど筋肉がついていない。
また凛音の記憶を読んだことで、現代の知識を――彼女の知る範囲でだが――取り入れていた。話し方もかつてと異なり、現代風に変えた。人間を漁るには必要なアップデートだろう。
瑠璃姫は冷めたように目を細め、少女の人を食った表情を見据えた。
「なるほど。彼女の心に巣食い、支配権を獲りましたか。余程怖かったのでしょう。可哀想に」
「ふふ、その可哀想なコを見捨てて追い打ちかけたのは君だよね?」
「まあ、確かに。少しはこちらにも責任がありますね」
息吹とて、取り憑いて一日も経たぬうちに宿主の体を奪えるとは思っていなかった。可能となったのは、少女の心が隙だらけだったからだ。
人の心は紐で編んだ籠のようなもの。
怒り。悲しみ。そして恐怖。それらの感情に揺さぶられると、籠はたわんで隙間ができる。感情が強ければ強いほど、隙間は大きく広がる。弱った心に介入するのは容易いというわけだ。
加えて言えば、負の感情は息吹の糧でもある。
凛音は元から負の感情が強かった。だからこそ息吹に目を付けられたわけだが、そこへ縹が命を奪うべく襲いかかった。本当なら、無力な人間など最初の一撃でお陀仏だったろう。そこは息吹が上手く手助けして、凛音を逃がしてやった。生存時間が延びたことで、恐怖は更に増大した。息吹はその感情を食べる。そしてまた凛音を救う。最高のサイクルであった。
こうして急速に力を取り戻した息吹は、たった数時間で凛音の身も心も乗っ取ることに成功したのだ。
(せめて、心を喪う恐怖はなかったと思いたいですね)
感情が生まれる傍から息吹に食われていたということだから、決して良い意味ではない。それでも罪のない少女の最期が安らかであれと願うのは人情だろう。鬼だが、それくらいの情は持ち合わせているつもりだ。
「ん? やる気? 君に私と戦う理由なんてないと思うけどな。もしかして、この人間に同情したの?」
静かに身構える瑠璃姫を見て、息吹は面白がるように言う。
瑠璃姫は淡々と首を横に振った。
「もちろん、それだけではありません。我らが望むのは平穏――人も含めて調和の取れた世です。あなたの存在はどう考えても邪魔ですので。主様に代わり、ここで排除させていただきます」
「主? ああ、それがこの地を治めてるってわけ。聞いたことないな」
「あなたよりも遥かに古い鬼ですよ。――図に乗るな。物知らずの若造が」
息吹の眉がピクッと跳ねる。目はまだ笑っているが、瞳の奥では怒りが抑えきれていなかった。
他の鬼と比較されたことに怒ったのか。それとも、若造扱いに苛ついたのか。どちらにしても地雷を踏んだようだと瑠璃姫は心の中でほくそ笑む。
しかし、息吹も言われたままでは居られなかった。
「あっそう。別に興味ないけどね。下僕にやらせて自分は隠れてる臆病者とか、どうせ狭い世界で粋がってる三下でしょ」
「は?」
「あ。怒っちゃった? いやーゴメンね! 年上相手に生意気言っちゃって! でもさぁ、本当のことってつい口を衝いて出ちゃうじゃん? 悪気はなかったんだ。戯言だと思って許して――よっ!」
瑠璃姫が跳躍する。と同時に、彼女の立っていた地面が爆発した。
飛び散る砂礫。
瑠璃姫はひらりと宙を舞いつつ、土埃から喉を守るため袖で口元を覆う。
月は再び雲に隠れてしまっていた。だが、鬼の目は問題なく息吹の姿を目視できている。
息吹は一歩も動いていなかった。それどころか、腕を振った形跡もない。不可視の一撃がどのようにして繰り出されたのか、初撃で見破ることはできなかった。
「ほらっ。まだまだ行くよっ」
息つく暇を与えず、息吹は次々と攻撃を繰り出していった。瑠璃姫はどうにか隙を見て攻勢に転じようとするが、一向に機会はやってこない。
次第に追い詰められ、瑠璃姫の顔にも焦りが浮かびはじめた。
「アハハ、どうしたんだい? 私のこと、排除するんじゃなかったの? ボサッとしてると食べちゃうよ?」
「くっ、馬鹿の一つ覚えみたいにっ」
「君程度の相手なら、これで十分ってこと。恨むなら自分の非力さを恨みなよ。それと、下僕の危機も助けてくれない主様とやらをさ」
「貴様……ッ」
主君への愚弄に、頭がカッと熱くなる。しかし直後、左肩辺りで強い衝撃が弾け、瑠璃姫の体は横に吹き飛んだ。鮮血が花びらのように夜空に散る。
一滴の赤い雫が、偶然――しかし誘われるように息吹の方へ飛んできた。息吹は小さい口を大きく開けて、真っ赤な舌でその雫を受け止める。閉じた唇が満足そうに弧を描き、口内にぐるりと舌を這わせる。やがてゴクリと小気味よく喉を鳴らすと、瑠璃姫の血を臓腑へと押し流した。
「美味い」
虹彩が黒から金へと揺らめいて。瞳孔は縦長に細くなり、顎の下や首の側面に鱗のような模様が浮かぶ。髪を割って一本の角が伸び――唇を舐める舌は先端が二股に裂け、チロチロと踊った。
『美味い』
一体どうしてその声が聞こえたのか、凛音自身にも分からなかった。
泥が塗りたくられたかのような冥闇の奥底。その更に底へと、凛音の精神は真っ逆さまに沈んでいくところだった。
薄っすらと開いた瞼には何も映らず、ただただ吸い込まれるように昏い。
今や全てを思い出していた。
(そうだ。わたし、あの時食べられちゃったんだ)
病院の帰り道だった。いつも通りがかる四つ辻で、凛音は誰かに呼び止められた気がしたのだ。他には誰も歩いてないのに。不思議に思って振り返ると、そこには顔の欠けた地蔵がちょこんと座っていて。
「日日を悲嘆に暮れて過ごす哀れなヒトよ。お前の無為な人生を捧げておくれ」
耳元でハッキリと声がした。
あっと驚いた時にはもう、凛音は凛音だけではなくなっていた。あの鬼が、痛みもなく内側に滑り込んでいたのだ。恐怖を育て、体を乗っ取るために。
そのあと縹に襲われたのは、たぶん偶然に近い必然だった。
息吹が凛音の記憶を読み取ったように、凛音もまた息吹の記憶を見ていた。
だから今は全てを知っている。
縹の仇は息吹だ。
昔、縹はとある集落で人間と共存して暮らしていた。彼の妻は人間だった。信じられないことだが、鬼の中には人を襲わない者もいるらしい。
力仕事などして穏やかに暮らしていた彼らの前に現れたのが息吹だ。息吹は集落に手を出さない代わりに、縹と一対一の勝負がしたいと持ちかけた。縹は自分一人が標的ならと、それを了承した。
だが――約束の場所に息吹は来なかった。半日待って仕方なく集落に戻った縹が見たのは、燃える家々から逃げ惑う人々と、家族を手にかける鬼の姿。縹は、愛する家族を目の前で惨殺されたのだ。
当然怒り狂った縹は息吹を殺そうとしたが、向こうには戦う気がなかったらしく、笑いながら逃げていった。
それから百数十年。縹はずっと待って……否、囚われていたのだろう。家族を奪った仇への復讐に。それを無為だと否定する資格は凛音にはない。百年以上も囚われるだけの妄執があることを、むしろ羨ましく思った。
『では、生きて何か為したいことでも?』
『目的があるからこそ生きるのでしょう。ないのであれば、生きる意味はない』
『死んでも構わないではありませんか』
そんなことは、ないだろう。
瑠璃姫は鬼だ。鬼の中には千年生きる者もいるという。瑠璃姫が何歳かは分からないが、おそらく人間の限界よりはるかに長い時を生きている。これは全くの想像だが、長く生きるには目的を糧にしなければならないのではないだろうか。だからこそ、目的がない=死と捉える。
人間の中にも生きる意味を見出そうとしている人はいるし、目的を見失い自死を選ぶこともあるだろう。
しかし、凛音はごく普通の高校生だ。親に庇護され、学校には勉強するために通っている。将来の目標もなく、五年後の自分すら想像つかない。
生きる意味、ましてや目的なんて重すぎる。
(だけど……こんなわたしでも夢ならあるんだよ。到底叶いそうにないけど、ずっと夢見てることが)
それは、生き別れた弟ともう一度一緒に暮らすこと。
十年前。凛音は双子の弟と無理やり引き離されたのだ。弟を連れて行ったのは、実の父親とその実家だ。音無家は有名な討魔の家系で、強い才能を示した弟を欲しがった。反対に、何の力もないと判断された凛音は母と一緒に捨てられたのだ。
立派な車に向かって引き摺られている弟の、おねえちゃん、と呼ぶ声。絶望の涙でぐちゃぐちゃになった顔。必死に伸ばす手を取ってあげられなかったことが、未だに凛音の胸に棘を残している。
あの時の無力感は一生忘れないだろう。
(そうだ。こんなところで終われないよ。勝手に死んだら、またあの子が泣いちゃう)
たとえ離れ離れになっても、繋がりは切れていないと凛音は信じている。
自分には特別な力なんてないけれど、強く想うことはできる。
「――じゃ、ない。無意味なんかじゃ、ない!」
わたしの体で好き勝手するな!
わたしはまだここにいる!
「!?」
逃げる瑠璃姫に追撃を続ける息吹は、一拍外すような鼓動の乱れに驚き、呼吸を止めた。自然、動きも鈍る。
(なんだ? 今、何かの干渉を受けた気がしたけど)
瑠璃姫の攻撃か? 先程から逃げてばかりで拍子抜けだったが、裏で何らかの準備をしていたということか?
彼女が主と呼ぶ存在に覚えがないというのは、半分嘘だった。
息吹がこの世の春を謳歌していた百年よりも前、風の噂に聞いたことがあった。鬼と人、双方を従える異質な鬼神がいたと。しかし、その鬼神は大戦の終わりに命を落としたとも。
瑠璃姫の主がそれかどうかは分からないが、息吹も口で言うほど木っ端だとは思っていない。
(出てこられると厄介かも。早いとこ決着をつけるか。少し遊びすぎちゃったしね)
次の一発で最後にするつもりで、力を溜める。恐怖を糧にして得た霊力はもうほとんど残っていない。それでも、逃げてばかりの女鬼を殺すくらいなら十分だ。瑠璃姫という鬼は大した事ないと、そう息吹は高を括っていた。
「久しぶりだったから、君みたいな雑魚でも楽しかったよ。じゃあね」
息吹の声を通して夜の空気が震えたみたいだった。凛音のそれと声質は全く同じはずなのに、どういうわけか似ても似つかない。
息吹の目がぎらっと光る。鬼の証である金色の瞳。霊力を高めると、その中心に輪が開かれる。輪は自らの尾を噛む蛇のようにぐるぐると回転し、逃げる瑠璃姫を捉えた。
攻撃を察知し、瑠璃姫が身構える。
だがもう遅い。何人もこの邪眼から逃れることはできないのだから。
瑠璃姫が片手を胸の高さに掲げる。ちょうど何かを差し出すみたいに。そしてその掌に顔を近付け、ふっと息を吹きかけた。
息吹の邪眼が発動したのはその瞬間だ。
遠くで爆発音。しかし、息吹が吹き飛ぶ瑠璃姫の姿を見ることはなかった。突如、視界が真っ白に染まったのだ。
「なんだ!?」
小さな花びらの群れだった。それが息吹の両目に貼り付き、視界を奪ったのだ。
「クソッ! 小賢しい真似を!」
掻き毟っても掻き毟っても終わりがない。まるで意思があるかのように、花びらはぴったりと皮膚にへばりついている。
あまりの腹立たしさに邪眼で吹き飛ばしてしまおうかと考えたその時、自分の意志ではなく両腕が固まった。は? と怪訝に思うと、頭上に噎せ返るような荒い息が降りかかった。
もう一体の鬼――かつて息吹が戯れに刈り取った命の身内だ。
カッと頭に血が上った。
「木偶の坊が! 離せ!」
「そのまま押さえておきなさい、縹っ」
両腕をジタバタさせて抵抗するが、か弱い女子高生の肉体であることが徒となる。丸太のような腕に両手を縛られ、半ば空中へ釣り上げられてしまう。
一方の瑠璃姫は地を駆けていた。爆発を完全に避けることはできなかったらしく、頭部からは血を流している。
彼女は走りながら右手に無数の花びらを集め、一振りの匕首を生成した。
狙うは心臓。
息吹の顔が苛立ちと焦りで歪む。見えなくとも、危機が迫っていることは分かるようだ。
「死になさいっ」
「舐めるな!」
くわっと、目を見開いた。
その瞬間、縹が大きく吹き飛ばされる。頸から肩にかけて深く抉られ、肉片と大量の血が夜空を染めた。
「縹!?」
信じられない顔の瑠璃姫。足は止めないが、動揺を隠せていない。
息吹の邪眼は封じたはず。なのにどうして?
迷いの生じた彼女に、息吹が口元だけでニッと嗤う。そして大きく口を開いたかと思うと、夕焼けのように真っ赤な舌をべろんと出した。
――その舌には目玉が生えていた。
蛇の輪が浮かんだ、邪な目玉が。
ギョロリ。
と、瑠璃姫を捉える。
避けられない。
致命傷を直感した。
次の瞬間鮮血が弧を描き、糸のように絡み合いながら宙に棚引く。
くるくると視界が回る。
遠くの山並み。点々と灯る町明かり。丸く夜空に映える月。
最後に、頸を失って倒れていく制服姿の自分が映った。
「…………は?」
――ああ。
分離する頭部と胴体。黒い瞳が、昏い場所でゆっくりと閉じられていく。
落ちていく瞼の合間から、凛音はその男の姿を見ていた。
目も鼻も口もない、ただ真っ白な面を被った長身の鬼。白銀の髪をさらりと揺らし、纏った白装束は染み一つなく美しい。花のように散る返り血も不思議と彼を避けていく。
白面鬼の手には鍔のない刀があった。たった今、凛音の――そして息吹の――首と胴を切り離した刃だ。
命の抜けていく音がした。
サラサラと。まるで砂粒が溢れるようなその音。
最後の息を吐く。長く、細く。できるだけ時間を延ばすように。
雪のような花びらがひらひらと舞っている。
その真ん中に立つ白鬼。
今まで見た景色の中で、一番綺麗だった。
「あーあ。死にたくなかったな」
精一杯の強がりを込めて、凛音は自ら瞼を下ろした。
* * *
本格的な夏が来た。汗ばむを通り越して汗だくになる暑さが続き、外を出歩くなど狂気の沙汰と言わんばかりにニュースやワイドショーでも連日騒がれている。実際、何の耐熱装備もなしに外出するのは危険行為だ。タオルと冷感スプレー、水筒もしくはペットボトルは必ず鞄に入れるべき必須アイテムで、できればハンディファンも欲しい。
「かぜ……少しでいいから、風ほしぃ……」
柔らかい土の斜面をえいこらしょと登りながら、死人のようにぼやく。いや、本当の死人はぼやかないが、一度死んだことのある身として言わせてもらえば、死人だって物言う口さえあれば愚痴りたいものなのである。特に、今日みたいな致死量を超えた暑さの日には。
首筋に涼しい風を感じて虚ろな目を向ければ、百九十センチはありそうな大柄な少年が、一生懸命凛音に向かってうちわを扇いでいた。
思わず感動で目が潤む。
「ううっ、ありがとう。縹さん優しいね……」
「お前、まだまだ弱い。死んだら困る」
「そっか。わたしの監視が縹さんのお仕事だもんね」
約定を破ったことの罰として、縹には三年間の監視業を言い渡されていた。
納得したように頷く凛音に、縹は黒に擬態した瞳を眇めた。背はだいぶ縮み、肌の色も日本人らしい黄色人種の色だが、小麦色の明るい髪と筋肉質なところは変わっていない。
一方、凛音の首には火傷のような引き攣れた痕がぐるりと輪になり残っている。ほとんど肌色と同化していてぱっと見では分からない程度だが、少し注視すれば気付くだろう。スカーフやチョーカーで隠すという手もあるが、首を締めるような不快感が嫌で何も着けていない。最初は学校の友達に質問責めにされたし、今でも時折見てくるが、凛音は気にしないようにしていた。
「わたし、結構図太くなったような気がする。精神的に」
「それはよいことだ」
「だね」
嘘をつかない縹の言葉に、凛音はにっこりと笑顔を返した。
息吹は死んだ。
瑠璃姫と彼女の仲間だという白面鬼が、目覚めた凛音にそう告げた。
凛音は生き返った。
瑠璃姫の術によって奇跡的に蘇生したのだ。場合によっては息吹が蘇生する可能性もあったというから、賭けではあったのだろう。息吹が生き返った場合は即座に殺せばいいし、凛音が生き返っても瑠璃姫たちには何の損もない。ただただ凛音が幸運だったというだけの話だ。
弊害がないわけではなかった。
というのも、息吹は死んだが影響は未だ凛音の中に残っているのだ。
その一つが、鬼化。
なんでも鬼という種族は親から生まれるだけでなく、人などから転身することがほとんどなのだという。強い恨みや怒り、悲しみなどによって魂が変質するのだ。
凛音の場合、完全に鬼となったわけではなく姿形はそのままである。角も生えていない。せいぜい半鬼といったところだろうか。だからこそ、息吹と道連れにならずに済んだとも言える。
そしてもう一つの弊害が、幻聴であった。
『ああ、暑いなぁ。こういう日は血を浴びると気分がサッパリするんだよ。一番美味いのは赤子の血だが、量は大人の方が多いから浴びるなら大人の人間を捌くといい。シャワーなら頸動脈、溜めるなら吊るして足首を切るんだ。どちらにもそれぞれの楽しみ方がある。凛音、君はどちらがいい? 私のおすすめは断然頸動脈だよ』
「…………」
最初は夢の中だけだった。最近ではほぼ二十四時間、起きていようと寝ていようと頭の中で声が響く。凛音の精神を蝕み、その心を乗っ取ろうとするかのように。
この声に呑まれたら終わりだ。これはあくまで残滓に過ぎない。凛音が折れたとしても、息吹が復活するわけではない。ただ凛音が壊れるのみ。
復活だって嫌だが、意味もなく廃人になるなんて断じて容認できない。
だから戦っている。
こうして暑い中山登りしているのも、息吹に勝つために必要だからだ。
「鬼の力を自在に使えるようになれば、残滓も祓えるって白面さんは言ってたけど」
本当だろうか、という意味を込めて呟く。
縹は無言で後をついてくる。もう命を狙われる心配もないので凛音は完全に安心しているが、黙られると別の意味で不安になるのだった。
「いや、白面さんが言うなら間違いないよねっ。はい、頑張ります」
「お前は頑張っている」
「あ、やっぱり優しい……」
散々な目に遭ったが、鬼にも色々いると知れたのはよかったかもしれない。もちろん、知らないままの方が人間として確実に幸せだったろう。
だが、それでは味気ないとも感じていた。
痛い思いも、怖い思いも、悔しい思いもした。それら全てを味わった上で、今の凛音がいる。
知ってしまった以上、元には戻れない。
半鬼になった以上、人間には戻れない。
そして行く行くは……。
「わたし、息吹みたいにはなりたくないよ」
「…………」
「だから頑張る」
「……ああ」
かつて日常に倦んでいた凛音の瞳は、強い輝きを照り返していた。




