敗戦後
日中戦争と太平洋戦争以後に祀られた英霊は約230万柱。それ以前に祀られていた英霊は約14万柱。比較すると桁違いだ。名前が判明して祀られた戦没者だけでその数である。そしてそれだけの犠牲を払った結果が敗戦であった。
この戦争を境に、参拝者達の胸には感謝よりも哀悼の感情が満ちていく。これは靖国神社が参拝者にそうしろと導いたわけではもちろんない。祀られる英霊が多くなったということは、それだけ国民と祭神の距離が近くなっているということでもある。明治神宮は明治天皇を祀っているが、元々高いところにいた存在がもっと高いところに鎮座したというだけで感情のやり場に迷うことはない。肉親ゆえに向けられる感情とは比較にならない。
さて、敗戦後、日本はGHQに占領されることになるが、GHQは靖国神社こそが軍国主義の象徴だ、これがいけないのだと判断し政教分離の原則で国家と切り離しをさせた。それに伴って宮司も元軍人の鈴木孝雄から元皇族の筑波藤麿へと交代になった。
かと言って軍と靖国神社との縁は切れた訳ではない。なぜなら靖国神社が引き続き戦没者を祀ることに変わりはなく、それには軍からの戦死者の情報が必要だったからだ。この頃、陸軍省・海軍省はGHQの監視下で復員省(後に復員庁)となり海外に出兵した旧日本軍の復員業務を行っており、戦死者の情報を靖国神社に渡していた。
昭和21年から23年にかけて、東京と横浜で軍事法廷が開かれ、多くの日本人が戦犯として被告人となった。A級戦犯(平和に対する罪)の裁判ではほとんどの被告人が極刑や終身刑となり、判決が下される前に獄中死した場合もあった。第二次世界大戦の原因と経緯に関しては様々な主張がなされているが、それらはここでは割愛する。ともあれこの軍事裁判はアメリカの日本への報復措置という面が強く、不公平で理不尽であるものが多かった(ただし、何もかも日本がアメリカに平伏させられていたわけではない。中立の立場で日本を弁護するアメリカ人弁護士もおり、証拠不十分や論理的な弁護で無罪となった件もある)。
昭和26年、サンフランシスコ平和条約が調印され、27年に発効される。その頃にBC級戦犯として収監されていた加藤哲太郎は裁判の不当を訴えた手記を雑誌に投稿する。その内容は反響を呼び、後にテレビドラマの「私は貝になりたい」の原案となった。そして国民の間で戦犯を赦免してほしいという気運を高めた。そして昭和27年から28年にかけて国会で戦犯とされた人々を赦免すること、既に刑死してしまった人々は「公務死」とすることが、与党野党ほぼ全会一致で決定された。だがここでフラットに公務死としたことで個々が見えにくくなってしまったように思う。
一方そのころ、終戦直後から国で管理していた身元不明の戦没者の遺骨を、国が管理する無宗教の慰霊施設に埋葬しようという話が閣議決定された。無名戦没者の墓と仮称されたそれは東京のどこかに作られ、外国人が公式に訪れることができるように無宗教でかつ全戦没者を追悼するものにしたいと計画されていたが、それに対し靖国神社と日本遺族会は猛反対した。日本の神社には分祀という制度があって、A神社の神をB神社でも祀りたいと思った時、A神社に分霊してもらう、というものだ。分霊したからと言って無くなったり弱まったりするものではないのだが、靖国神社にとっては自社の存在意義に関わるために許すことはできなかったようだ。揉めた末に、結局、無名戦没者の墓は身元不明の戦没者だけの慰霊施設となる。昭和34年に千鳥ケ淵戦没者墓苑が創建された。
千鳥ケ淵戦没者墓苑が創建するまで揉めていた頃、それに並行するような動きで、厚生省は靖国神社に対し、戦犯とされた人たちを合祀してくれないかと要請している。ここで厚生省が出てきたのは、復員庁が廃止され業務は厚生省に引き継がれたからである。つまり旧日本軍からのつながりである。通常の基準から外れるこの合祀は言ってしまえば縁故合祀である。かつて戊辰戦争に関係のない吉田松陰や坂本龍馬を祀ったように、靖国神社にはそういうところがある。ただし、遺族を救済するという意味での合祀でもあったことは留意すべし。この要請に対し、筑波宮司は慎重な姿勢を見せる。BC級戦犯とされて処刑された人たちのうち冤罪であった人を祀るのはいいが、明らかに戦争犯罪者である人やA級戦犯とされた人は保留にしたい、という考えだった。昭和34年から、対象を選びBC級戦犯の合祀が開始される。このことは特に秘密にされていたわけではないがオープンにされていたわけでもなく、マスコミも取り上げることはなかった。
靖国神社と日本遺族会は、国事に殉じた人達を祀っているのだからやはり靖国神社を特別に国家で護持して欲しいという要請を続けてきていたが他の宗教団体の反発もあり、政教分離の原則からそのための法案は国会を通ることがなかった。それが昭和49年の話である。内閣法制局から法案を合憲化するための条件も提示されたが、それは宗教性をほとんど無くしてしまうものであり、神社側が受け入れられるものではなかった。そんな折、昭和50年の終戦記念日に、当時の総理大臣である三木武夫が参拝を行い、これは私人としての参拝だと主張した。実は終戦以後、歴代の総理大臣も靖国神社に参拝しているのだがそれが問題視されることはなかった。上記の靖国神社法案で話題になっていたため政教分離について触れたのだが、それ以降、靖国神社に参拝する総理大臣は「私人」か「公人」かを取りざたされることになった。その影響はこの年の11月の昭和天皇の親拝にも及び、批判されることになった。昭和天皇も戦後、数年おきに親拝しており、特に問題視されていなかったのにも関わらずである。そしてこれが最後の親拝となった。その理由については長らくの間、公式参拝か否かを問われるのを避けたからではないかと囁かれていたが……。
昭和53年に筑波宮司が73歳で亡くなり、次代の宮司に松平永芳が就くと靖国神社は方針を転換し、A級戦犯合祀へと動いていく。その年の10月には合祀が行われたが、反発意見があることを気にしてか、それは秘密裏に行われ、合祀が一般の国民に明らかになったのはその半年後であった。この合祀に関しては、直前に神社から宮内庁に連絡をし打診していたが、侍従長は「そんなことをしたら陛下は行かれなくなる」と返答している。だが松平宮司も『陛下の意向に逆らうとはわかっていたが』確信犯として合祀を行ったと後に発言している。
昭和天皇が親拝をやめた理由は社会的影響を考慮してか、近しい人物以外にはしばらく伏せられていたが、昭和63年の宮内庁長官のメモには、A級戦犯とされた人たちが合祀されたこと、およびそれを決定した松平宮司を非難する心情を吐露したことが書かれていた。このメモが公開されたのは松平宮司が退任し、亡くなった翌年の平成18年である。「A級」という言葉を使ってしまっているが、昭和天皇も戦前・戦中に御前会議等で日本の最上層部の動きを上から見てきた方である。軍事裁判の判決如何に関わらず、思うところもあったであろう。そして以後の天皇・皇族もこの昭和天皇の意思にならうように靖国神社に親拝・参拝は行っていない。日本遺族会もこのメモが公開されて以降は、強いて親拝を求めることはなくなったようだ。
では、靖国神社の天皇への気持ちはどうなったであろうか。平成30年、当時の宮司の小堀邦夫は神社内の定例会議の際、天皇(現在の上皇陛下)の全国への戦没者慰霊の旅に対し「どこを慰霊の旅で訪れようが、そこには御霊はないだろう?(靖国神社にあるから) 」「はっきり言えば、今上陛下は靖国神社を潰そうとしてるんだよ」などとかなりきつい口調で非難した。親拝を願って思い余ったがゆえの発言であろうが、皇室への感情や戦没者の霊の独占欲の溢れる内容である。この発言が外部に漏れると小堀宮司は謝罪し退任した。
このように、宮司が代わると靖国神社のポリシーも結構変わるようだ。靖国を考える際にはその時の宮司にも注目する必要があるだろう。