大日本帝国
新しく誕生した明治政府の方針は富国強兵。幕末に海外から受けた圧力に対抗するため、国を豊かにし軍事力を高めるというものであった。そのため明治6年には徴兵令が発せられ、全国から義務として国民が兵役につくことになった。この兵役で外国との武力衝突に参加し、亡くなった人々は東京招魂社(後の靖国神社)へと祀られることになる。同時期に全国各地に同様のポリシーを持つ招魂社(後の護国神社)も建立された。
靖国神社は明治20年に正式に軍の管轄となる。軍が戦死者の名簿を検証し、祀るのにふさわしくない人物を除外して神社に持ってくる。神社ではその名簿を元に霊を召喚し、既に祀っている英霊と合祀する。そういうシステムである。なお、靖国神社の英霊を日本古来からある祟り神信仰と結びつける人もいるがこれは明確な間違いである。祟り神は、菅原道真や崇徳上皇のように権力闘争の敗者に対して勝者側が恨まないでくれと神として祀ったものである。靖国神社の英霊は国のために戦って命を落とした人々を讃えて慰霊するための神である。
後の時代に、靖国神社の英霊から特定の人物の霊を分霊することはできないか、という問い合わせがなされたが神社側は一度合祀した霊にそんなことはできないと否定している。これは神道的に正しいのかと調べてみたが、何とも言えない。なぜなら、上記のような合祀をしている神社は靖国神社と護国神社しかないからだ。そういう意味で、靖国神社・護国神社の神道は新しい神道、特殊な神道であると言える。
徴兵制は国民を一丸とさせるには便利な制度であるが、同時にそれは同調圧力をも生み出す。それを端的に表しているのが歌人・与謝野晶子の詩であろう。日露戦争のときには出征する弟に対し死なないで欲しいという意味の詩を作りつつ、第一次世界大戦のときには、戦争嫌いの私でもこの戦争にはテンションが上がるという意味の歌を詠み、太平洋戦争時には我が子に向けて国のために勇ましく戦えという意味の歌を詠んでいる。与謝野晶子は奔放な歌人として知られているが、彼女もまた時勢の空気には逆らえず飲まれていたようだ。
日本がかつて国際社会で孤立する原因になった「満州国」を建国したのは、日露戦争において得た利権を守りたいがためだった。それは国民の血で勝ち取ったものであり、簡単に譲歩したり妥協したりできなかったのだ。身内の、あるいはご近所のお父さんお兄さんが死の犠牲と引き換えに手に入れたもの、となれば滅多なことは口にできまい。
戦死した人は靖国神社に祀られるようになる。
お国のためによく頑張ってくださいました。命を落としさぞご無念でしょう。あなたを神としてお祀りします。どうかこれからは英霊として日本の国をお守りください。
だが、日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦と規模の大きい戦争によって死者が増えていくにつれ、日本人の意識が変容し、恐るべき逆転現象が起こる。すなわち、死んだ人を讃えて慰霊するという心が、死んで祀られることが誉れだから死ねという思想に変わっていく。誰が言い出したのかわからない。いつのまにか日本という国の中で自然にそういう空気になってしまったのだ。
昭和7年、上海にて陸軍の空閑昇少佐が戦闘のすえ中国の捕虜となった。しばらくして捕虜交換により空閑は生還するが、仲間の軍人から捕虜になるとはなんたる恥辱か、潔く自決せよと迫られることになる。この話は一般の国民にも漏れ、一部の人間によって空閑の自宅にまで嫌がらせが行われる。追い詰められた空閑は拳銃自殺する。すると今度は世論が空閑を讃え、靖国神社にお祀りしてくれと軍に嘆願したのだ。そしてその通りになった。
この異様さに気付かぬまま(気付いても同調圧力で声を上げられぬまま)、日本はさらなる泥沼の戦争である日中戦争、そして悲惨な太平洋戦争に突入するのだった。