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夢見た烏は、旅に出る 〜旅立ち〜  作者: やまゆり
第二章 旅は道連れ
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峠の夢

 山の稜線から朝日が顔を出し、世界がゆっくりと輝き始める。

 ユリアは一人で歩きながら、出発までの出来事を思い返していた。


「準備は整ったか?」

「お金は懐に入れておかないとだめだよ。盗まれないように、しっかりね」

「うん、大丈夫。みんなにたくさん教えてもらったから!」

「じゃあ、まずどこに向かうの?」

「ふもとの村から峠を下って、まずはティルヴァ湖。そこで薬草を売って、食べ物を買うの。

 それから船に乗って、一日くらいで湖の端っこに着くから、そのティルヴァの町で一泊――」

「メイナ、それもう何回目?もういいよ~、地図にもちゃんと書いてあるし」

「だって、心配なんだもん……」

「ふふ、ありがとう。でも、大丈夫だよ」


 出発の日の朝、ユリアはエルシア村の入り口で、エルネスとメイナに見送られた。

 ふもとの村まで一緒に行こうかと二人が言いかけたのを、ユリアはやんわりと断った。

 そこまで来られたら、別れがつらくなってしまうから。

「ぜったい、ぜったい帰ってきてね」

「うん、待ってて」

「気をつけて行ってこいよ」

「うん、行ってくるね!」


 その夜はふもとの村に泊まり、夜が明けきらぬうちに再び出発した。

 まだ薄暗い道の先、村の入り口に人影が見えた。

 ――あれは、族長?

「おはよう、ユリア」

「おはようございます。どうしてここに……?」

 サピエルは少し笑いながら答えた。

「おまえを見送りに来たのだよ」

「わざわざ……ありがとうございます」

「これを渡しておこうと思ってな」

 そう言って、黒い石のついた紐をユリアの手にそっと載せた。

「……ペンダントですか?」

「ああ。昔、セレイアからもらったものだ。お守りとして持って行ってくれるか?」

「ありがとうございます。大切にします」

「では、気をつけて行きなさい」

「はい。行ってまいります」

 ユリアは深く頭を下げてから、一歩を踏み出した。


 しばらく歩き続けていると、周囲の静けさが、ふと心に染みてきた。

 聞こえるのは、風に揺れる木々のざわめきと、自分の足音だけ。

 エルネスの明るい声も、メイナの心配そうな眼差しも、もうここにはない。

 思っていたより、早く寂しさが押し寄せてくる。

 それでも、立ち止まるわけにはいかない。


「少しずつでもいい。無理をしないで、ちゃんと休んで」


 皆にそう言われた言葉を、ユリアはそっと胸の中で繰り返した。

 一歩一歩、足を前に出すたび、背負った荷物の重みと同じだけ、心にも何かが積み重なっていくようだった。

 でも、歩みを止めなければ、きっと大丈夫。自分で選んだ道なのだから。

 太陽が西の山陰に傾き始める頃、森の中には長い影が伸び始め、辺りの色が少しずつ青みを帯びてくる。

 まだ空は明るいけれど、そろそろ今夜の寝床を探さなくては。

 ユリアは周囲を見渡しながら、歩く速度を少しだけ落とした。昼間が長いこの季節、思ったよりも遠くまで来られた気がする。足にはじわりと疲れがきていたが、悪くない旅の始まりだった。

 やがて、道のわきに一本の木が見えてきた。ほどよく枝葉が茂り、地面もなだらかで石も少ない風を遮ってくれそうな岩のかげ――ここなら、今夜は安心して休めそうだ。

 ユリアは腰を下ろし、荷物をほどいて、小さな布包みを開いた。干した木の実とパンの切れ端、そしてわずかなチーズ。

 それを口にしながら、今日一日を静かに振り返る。先ほどまではまだ夕空の色が残っていた空も、すでに深い藍に変わっている。

 どこかで鳥の鳴き声が聞こえた。

 水筒から水をひと口含むと、喉の渇きがようやく癒えていく。思ったよりも体が疲れていたのか、背を地面につけた瞬間、まぶたが自然と落ちていった。目を閉じると、木の葉が風に揺れる音が心地よく耳に届き、まるで母の子守歌のように眠気を誘ってくる。


 こうしてユリアの旅の最初の夜は、静かに、そのまま深い夢へと滑り込んでいった。


 *


 どれくらいの時が過ぎたのか、わからない。ずっと、長い間こうしてここにいたように思う。

 何かを見守りながら。ここを守らなくていけないという思いと、行かなくてはという思いだけが、ただ、暗闇の中で、「意識だけ」が閉じ込められていた。

 体は重く、冷たく、ひとつの塊になっていた。指先も、足も、まぶたさえも動かない。息も鼓動もなく、ただ内側にだけ思考が潜んでいる。


 ――私は、生きているのだろうか?


 それさえも曖昧だった。ただ、わかるのは、自分の体が石になっているということ。

 それは錯覚ではなく、確かな感覚だった。肉も骨も、血すらもすでに石に変わり、硬く冷たい物質となって、現実にそこに存在している。


 なのに――目は見えていた。閉じているはずなのに、ぼんやりと、景色が映っている。

 白い石の床。古びた柱。祈りのための空間のような、静かな場所。

 それはまるで、小さな神殿の中にいるようだった。


 音も風もない。


 時が止まったような、永遠に近い沈黙の中に、ただ一人、石の像として取り残されている。


 外には月明かりがあった。

 やがて、少し、ほんの少し風が頬にあたった。

 そのときだった。


 ヒビが入るような音が、内側から響く。

 パリ……パリパリ……。

 最初は小さなひとすじ。それが次第に広がり、全身を這うように無数の亀裂が走っていく。


 石の皮膚が、ゆっくりと、しかし確かに崩れていく。

 中から柔らかな肉が、血の通った指先が、ふたたびこの世界に現れはじめる。

 痛みも、冷たさも、まるで初めて知る感覚のように鋭く、強烈だった。


 かすかに息を吸った。

 それは、石の檻の中から解き放たれた、最初のひと呼吸だった。


 よろめくように立ち上がると、そこが高い崖の上であるかに気づいた。

 足元夜の闇で果ての見えない深い谷のように見えている。

 風が吹き抜け、髪をなぶる。

 崖の端に立ち、空を仰いだとき、不思議と恐怖はなかった。


(飛べば、きっと――)


 なぜか、そう思えた。理由もない確信が心に芽生えていた。

 そして、ユリアは足を踏み出した。


 風の中に体が浮かぶ。しかし翼は思うように開かない。

 重力が彼女を引き戻し、地面が遠くから迫ってくる。


 そのとき、水面が広がった。

 銀にきらめく湖か池のような水鏡。その水面に、落ちる自分の姿が映った。


 ――白い。


 髪は、光を反射するほどのプラチナブロンド。

 瞳は青にも紫にも銀色にも見えて、わからない。

 そして背中には、大きく羽ばたこうとする、純白の翼。


 いつもと違う姿、なのに、私の姿だと理解している。

 そう思った瞬間、水面すれすれで意識が跳ね、目が覚めた。

 水の中に入るように引き寄せられるように自分の体に戻っていく。

 鳥の羽ばたく音が、耳の奥で炸裂するように響いた。

 一斉に枝から飛び立った小鳥たちの気配が、辺りの空気をかき乱す。


 ユリアは思わず飛び起きた。あたりはまだ暗い。朝にはなっていないようだ。

 心臓が激しく打ちつける。喉が渇いて、息が荒い。頬には汗のような露がにじんでいた。


(今のは……夢?)


 だが、それは夢にしてはあまりに鮮明で、体に残る感覚が現実のように生々しかった。

 胸の奥に残る冷たさと重み。崖の上を吹き抜ける風。翼の重さ、そして落下する瞬間の恐怖。

 そして――水面に映った、見知らぬ自分の姿。

 ユリアはふと、目にかかる髪を払いのけた。

 月明かりの下で、髪がふわりと光を弾いたその瞬間、彼女の手が止まる。

(……プラチナ、ブロンド?)

 思わず一房を指先に取り、まじまじと見つめた。

 変装も何もしていない自分の髪は、本来なら漆黒のはず。

 けれど今、月光に揺れるその色は――夢の中で見た髪と、あまりに似ていた。


「そんな……馬鹿な……」


思わず漏れた囁きが震える。鏡もなければ、水たまりさえ見当たらない。

それでも、何かが確かに変わってしまった――そんな予感が、じわりと胸に広がっていく。

動揺と混乱の波が押し寄せ、ユリアは思わず頭を抱えかけた。

そのとき、ふいに空からひとつの影が舞い降りる。

それは、小さな鳥だった。

群れからはぐれたように、ふらりと降り立つと、ユリアのそばでじっとこちらを見つめた。


「……はぐれた鳥?」


そう声をかけた瞬間、不思議と胸を締めつけていた緊張がすうっとほどけていった。

さっきまで冴えわたっていた意識が、急に霧のようにぼやけはじめる。

鳥の姿が霞み、ただ風の音だけが、子守歌のように耳に残る。


そしてユリアは、再び静かに、夢の世界へと引き込まれていった。




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