峠の夢
山の稜線から朝日が顔を出し、世界がゆっくりと輝き始める。
ユリアは一人で歩きながら、出発までの出来事を思い返していた。
「準備は整ったか?」
「お金は懐に入れておかないとだめだよ。盗まれないように、しっかりね」
「うん、大丈夫。みんなにたくさん教えてもらったから!」
「じゃあ、まずどこに向かうの?」
「ふもとの村から峠を下って、まずはティルヴァ湖。そこで薬草を売って、食べ物を買うの。
それから船に乗って、一日くらいで湖の端っこに着くから、そのティルヴァの町で一泊――」
「メイナ、それもう何回目?もういいよ~、地図にもちゃんと書いてあるし」
「だって、心配なんだもん……」
「ふふ、ありがとう。でも、大丈夫だよ」
出発の日の朝、ユリアはエルシア村の入り口で、エルネスとメイナに見送られた。
ふもとの村まで一緒に行こうかと二人が言いかけたのを、ユリアはやんわりと断った。
そこまで来られたら、別れがつらくなってしまうから。
「ぜったい、ぜったい帰ってきてね」
「うん、待ってて」
「気をつけて行ってこいよ」
「うん、行ってくるね!」
その夜はふもとの村に泊まり、夜が明けきらぬうちに再び出発した。
まだ薄暗い道の先、村の入り口に人影が見えた。
――あれは、族長?
「おはよう、ユリア」
「おはようございます。どうしてここに……?」
サピエルは少し笑いながら答えた。
「おまえを見送りに来たのだよ」
「わざわざ……ありがとうございます」
「これを渡しておこうと思ってな」
そう言って、黒い石のついた紐をユリアの手にそっと載せた。
「……ペンダントですか?」
「ああ。昔、セレイアからもらったものだ。お守りとして持って行ってくれるか?」
「ありがとうございます。大切にします」
「では、気をつけて行きなさい」
「はい。行ってまいります」
ユリアは深く頭を下げてから、一歩を踏み出した。
しばらく歩き続けていると、周囲の静けさが、ふと心に染みてきた。
聞こえるのは、風に揺れる木々のざわめきと、自分の足音だけ。
エルネスの明るい声も、メイナの心配そうな眼差しも、もうここにはない。
思っていたより、早く寂しさが押し寄せてくる。
それでも、立ち止まるわけにはいかない。
「少しずつでもいい。無理をしないで、ちゃんと休んで」
皆にそう言われた言葉を、ユリアはそっと胸の中で繰り返した。
一歩一歩、足を前に出すたび、背負った荷物の重みと同じだけ、心にも何かが積み重なっていくようだった。
でも、歩みを止めなければ、きっと大丈夫。自分で選んだ道なのだから。
太陽が西の山陰に傾き始める頃、森の中には長い影が伸び始め、辺りの色が少しずつ青みを帯びてくる。
まだ空は明るいけれど、そろそろ今夜の寝床を探さなくては。
ユリアは周囲を見渡しながら、歩く速度を少しだけ落とした。昼間が長いこの季節、思ったよりも遠くまで来られた気がする。足にはじわりと疲れがきていたが、悪くない旅の始まりだった。
やがて、道のわきに一本の木が見えてきた。ほどよく枝葉が茂り、地面もなだらかで石も少ない風を遮ってくれそうな岩のかげ――ここなら、今夜は安心して休めそうだ。
ユリアは腰を下ろし、荷物をほどいて、小さな布包みを開いた。干した木の実とパンの切れ端、そしてわずかなチーズ。
それを口にしながら、今日一日を静かに振り返る。先ほどまではまだ夕空の色が残っていた空も、すでに深い藍に変わっている。
どこかで鳥の鳴き声が聞こえた。
水筒から水をひと口含むと、喉の渇きがようやく癒えていく。思ったよりも体が疲れていたのか、背を地面につけた瞬間、まぶたが自然と落ちていった。目を閉じると、木の葉が風に揺れる音が心地よく耳に届き、まるで母の子守歌のように眠気を誘ってくる。
こうしてユリアの旅の最初の夜は、静かに、そのまま深い夢へと滑り込んでいった。
*
どれくらいの時が過ぎたのか、わからない。ずっと、長い間こうしてここにいたように思う。
何かを見守りながら。ここを守らなくていけないという思いと、行かなくてはという思いだけが、ただ、暗闇の中で、「意識だけ」が閉じ込められていた。
体は重く、冷たく、ひとつの塊になっていた。指先も、足も、まぶたさえも動かない。息も鼓動もなく、ただ内側にだけ思考が潜んでいる。
――私は、生きているのだろうか?
それさえも曖昧だった。ただ、わかるのは、自分の体が石になっているということ。
それは錯覚ではなく、確かな感覚だった。肉も骨も、血すらもすでに石に変わり、硬く冷たい物質となって、現実にそこに存在している。
なのに――目は見えていた。閉じているはずなのに、ぼんやりと、景色が映っている。
白い石の床。古びた柱。祈りのための空間のような、静かな場所。
それはまるで、小さな神殿の中にいるようだった。
音も風もない。
時が止まったような、永遠に近い沈黙の中に、ただ一人、石の像として取り残されている。
外には月明かりがあった。
やがて、少し、ほんの少し風が頬にあたった。
そのときだった。
ヒビが入るような音が、内側から響く。
パリ……パリパリ……。
最初は小さなひとすじ。それが次第に広がり、全身を這うように無数の亀裂が走っていく。
石の皮膚が、ゆっくりと、しかし確かに崩れていく。
中から柔らかな肉が、血の通った指先が、ふたたびこの世界に現れはじめる。
痛みも、冷たさも、まるで初めて知る感覚のように鋭く、強烈だった。
かすかに息を吸った。
それは、石の檻の中から解き放たれた、最初のひと呼吸だった。
よろめくように立ち上がると、そこが高い崖の上であるかに気づいた。
足元夜の闇で果ての見えない深い谷のように見えている。
風が吹き抜け、髪をなぶる。
崖の端に立ち、空を仰いだとき、不思議と恐怖はなかった。
(飛べば、きっと――)
なぜか、そう思えた。理由もない確信が心に芽生えていた。
そして、ユリアは足を踏み出した。
風の中に体が浮かぶ。しかし翼は思うように開かない。
重力が彼女を引き戻し、地面が遠くから迫ってくる。
そのとき、水面が広がった。
銀にきらめく湖か池のような水鏡。その水面に、落ちる自分の姿が映った。
――白い。
髪は、光を反射するほどのプラチナブロンド。
瞳は青にも紫にも銀色にも見えて、わからない。
そして背中には、大きく羽ばたこうとする、純白の翼。
いつもと違う姿、なのに、私の姿だと理解している。
そう思った瞬間、水面すれすれで意識が跳ね、目が覚めた。
水の中に入るように引き寄せられるように自分の体に戻っていく。
鳥の羽ばたく音が、耳の奥で炸裂するように響いた。
一斉に枝から飛び立った小鳥たちの気配が、辺りの空気をかき乱す。
ユリアは思わず飛び起きた。あたりはまだ暗い。朝にはなっていないようだ。
心臓が激しく打ちつける。喉が渇いて、息が荒い。頬には汗のような露がにじんでいた。
(今のは……夢?)
だが、それは夢にしてはあまりに鮮明で、体に残る感覚が現実のように生々しかった。
胸の奥に残る冷たさと重み。崖の上を吹き抜ける風。翼の重さ、そして落下する瞬間の恐怖。
そして――水面に映った、見知らぬ自分の姿。
ユリアはふと、目にかかる髪を払いのけた。
月明かりの下で、髪がふわりと光を弾いたその瞬間、彼女の手が止まる。
(……プラチナ、ブロンド?)
思わず一房を指先に取り、まじまじと見つめた。
変装も何もしていない自分の髪は、本来なら漆黒のはず。
けれど今、月光に揺れるその色は――夢の中で見た髪と、あまりに似ていた。
「そんな……馬鹿な……」
思わず漏れた囁きが震える。鏡もなければ、水たまりさえ見当たらない。
それでも、何かが確かに変わってしまった――そんな予感が、じわりと胸に広がっていく。
動揺と混乱の波が押し寄せ、ユリアは思わず頭を抱えかけた。
そのとき、ふいに空からひとつの影が舞い降りる。
それは、小さな鳥だった。
群れからはぐれたように、ふらりと降り立つと、ユリアのそばでじっとこちらを見つめた。
「……はぐれた鳥?」
そう声をかけた瞬間、不思議と胸を締めつけていた緊張がすうっとほどけていった。
さっきまで冴えわたっていた意識が、急に霧のようにぼやけはじめる。
鳥の姿が霞み、ただ風の音だけが、子守歌のように耳に残る。
そしてユリアは、再び静かに、夢の世界へと引き込まれていった。




