白き翼の記憶
「詳しい話は明日だ。皆が村でお前の帰りを待っているだろう…」
そう言って、族長は長老たちを見回すと、大きく翼を広げた。
彼が飛び立つのを合図に、他の者たちも次々に空へ舞い上がる。
来たときとは違い、今度は村の広場へと降り立った。
そこにはすでに多くの村人が集まっていた。焚き火のまわりには即席の宴の支度が整えられ、焼かれた果実の甘い香りや、香草を混ぜたスープの湯気が夜の空気に溶け込んでいる。誰かが持ち出した楽器の音色が柔らかく響き、広場に漂っていた。
ユリアが地に降りると、すぐにエルネスとメイナが駆け寄ってきた。
息を弾ませながら、エルネスが嬉しそうに笑う。
「無事に終わったか! 飛翔族以外は行けない場所だから、心配したぞ。」
メイナもにこやかに微笑み、ユリアの肩にそっと手を置く。
「その衣装、すごく似合ってる! 黒い髪と目に、赤が映えてるよ。」
彼らの後ろからは、翼を持つ若者たちが続々と姿を現す。数年前に成人したレナと、その後をついて回るティオも、自在に翼を操りながら舞い降りてきた。
今月、成人の儀を受けたのはユリアただ一人。
儀式は生まれ月ごとに行われるが、候補者がいない月もあり、行われない年も珍しくない。
こんな宴はいつぶりだろう。
今夜の祝祭は、まさにユリアのために開かれていた。
この村に暮らす多くは二十代半ばほどの姿だが、ドワーフや他の種族の中には、年齢を感じさせる者たちもいる。
薬草採りを教えてくれた長老の一人、リヴァは焚き火のそばに腰を下ろしていた。ユリアに気づくと、口元をほころばせて手招きする。
「今日のユリアは素晴らしかったよ。あんなにきれいなの、何年ぶりだろうね。」
族長サピエルや他の長老たちも広場の一角で酒を酌み交わしていた。誰かが持ち込んだ蜜酒が回され、普段は厳格な彼らも、その場では若者のように笑い声をあげている。
サピエルが杯を掲げ、ユリアの方を見やると、朗々とした声が夜空に響いた。
「今夜は祝いだ。村に新たな翼が加わった。よくやったな、ユリア!」
拍手と歓声が湧き起こる。
ユリアは少し頬を染めながらも、誇らしげに翼を広げた。
宴はさらに盛り上がり、やがて誰かが楽器を奏で始めた。
焚き火のまわりに輪ができ、手拍子が重なっていく。誰かが歌い出し、次第に皆もそれに合わせて歌う。
ワタリガラスは嵐を越えて
ワタリガラスは旅に出た
ワタリガラスは雲を越えて
ワタリガラスは旅に出た
山へ 川へ 森へ 谷へ
北へ 南へ 東へ 西へ
海を越えて東へ飛んだ
輪になって手をたたき合い、ステップを踏み、くるくると回りながら、歌は続く。
ワタリガラスは大地を見つけ
ワタリガラスは丘に着いた
ワタリガラスは光を盗んだ
ワタリガラスは丘を去った
山へ 川へ 森へ 谷へ
北へ 南へ 東へ 西へ
海を越えて東へ飛んだ
輪に加わったり抜けたりしながら、空を舞い踊る者も現れる。
ワタリガラスは村の娘と
ワタリガラスは恋に落ちた
ワタリガラスは娘をさらって
子供を連れて帰ってきた
山へ 川へ 森へ 谷へ
北へ 南へ 東へ 西へ
海を越えてここへきた
そして、最後は力強く歌い上げる。
ワタリガラスは盗んだ光を
私たちのもとへ置いていった
ワタリガラスは知恵と光を
歌や踊りを置いていった
山へ 川へ 森へ 谷へ
北へ 南へ 東へ 西へ
ワタリガラスはどこへ行った
ワタリガラスはどこへ行った
最後の一節を、皆が叫ぶように歌い終えると、自然と拍手が起こり、それぞれが少しずつ焚き火の周りを離れていく。
「今日は楽しかったなあ」
「おやすみ、また明日」
「ええ、おやすみなさい。よい夢を」
「次は誰の成人式だったっけ?」
「うーん、誰だっけ?」
「まだ帰りたくな~い!」
「おう、じゃあ飲み直すぞ!」
「おおー!」
賑やかな声が飛び交う中、ユリアは挨拶を終えてエルネスとメイナを探す。すぐに二人を見つけ、一緒に家への道を歩き出した。
メイナが少し躊躇いながら尋ねる。
「ねぇ、ユリアは、いつ旅に出るの?」
「そうだね。蟹の月には出発しようと思ってる。」
「そっかぁ…」
メイナは少し寂しそうに目を伏せる。
「まあまあ、また戻ってくるさ。俺たちは長生きだろ? 十年や二十年旅に出たって、待ってればまた会える。」
「そりゃそうだけどさ。」
「メイナ、私はちゃんと戻ってくるよ。ただ、ちょっと外の世界を見てみたいだけなんだ。」
「そうだそうだ。外にしかないものだってあるんだし、いっぱい見てこいよ。俺たちが知ってること、特訓だけじゃなく、いろいろ教えてやろうぜ。」
「うん、危険が減るならその方がいい。聞きたいこと、どんどん聞いて!」
「じゃあ、そこの切り株に腰掛けて話そうか。」
三人は夜の森の静けさの中、語り合う。
ーーーー
二人から、いろいろな話を聞いた。
どんな食べ物がおいしかったか、海のこと、大きな川のこと、この辺りでは見かけない動物のこと──。
それだけでなく、メイナは宝石の話をよくしてくれた。どの地方ではどの宝石の質が良いか、この宝石はここでしか採れない、など。聞いているだけで、遠い場所の空気が感じられるようだった。
エルネスも、自分の過去について少しだけ話してくれた。
「この村じゃ、若い姿でいるのが当たり前だけど、外の世界じゃそうはいかないんだ。俺はずっと、自分を普通の人間だと思ってた。結婚もしたよ。子供には恵まれなかったけど、それでも幸せだった。」
そこまで言って、彼は少し目を伏せた。
「でもな、俺だけが年を取らなかったんだ。四十を過ぎた頃だった。周りから『何かおかしい』って言われるようになって……。妻は、それが原因で心を病んでしまった。俺は母に問いただして、やっと自分の秘密を知ったんだ。そして……姿を消すしかなかった。」
「もっと早く知っていれば、魔法か何かでごまかせたのにな」と、エルネスは少し寂しそうに笑った。
「私はね、子供の頃に捕まっちゃったの」
と、メイナがぽつりと話し始めた。
「孤児院みたいなところで育ったんだけど、この見た目だから、すぐに変だって気づかれちゃって。土を耕したり、ちょっとした鉱石を見つけたりするのが得意だったから、"金になる"って思われたのかも。鉱山で働かされたの。」
「一日中働いても、ろくな食べ物はもらえなかったし、鉱山で何も出なくなると、次の鉱山を探せって言われて……何ヵ所も連れていかれた。でもね、その中には、鉱山で働く人たちのために食事を作ってくれるおばさんがいて。優しかったの。"かわいそうにねぇ"って、ぎゅって抱きしめてくれて……あったかかったなあ。」
そう言って、メイナは優しく微笑んだ。
ユリアはその笑みに見入ったあと、ふと族長の言葉を思い出し、二人に問いかけた。
「そういえばさ、"白鳥の姫君"って、聞いたことある?」
「あるよ」
とメイナがすぐに答える。
「えっ、ほんとに?」
ユリアが驚くと、今度はエルネスが思い出したように言った。
「ああ、確かに聞いたことある。どこかに行ってしまった姫君の話だろ?でも、俺がその話を聞いたのは……もうだいぶ前だな。村に来たばかりの頃だから……50年くらい前か?」
すると、メイナが首を振った。
「ううん。私がここに来るちょっと前の話だから、100年くらい前じゃないかな」
「昔は時々耳にしたけど、今は全然聞かないなあ」
「そうね。私が来た頃は、けっこう話題にしてたけど」
「へぇ、そうなんだ。私、今日初めて聞いたよ」
――以前はよく知られた話だったのか。
ユリアは思わず感心してしまった。
「さっきの宴で、誰かから聞いたの?」
「ううん、違うの」
「じゃあ、誰から?」
「族長から」
「族長が? そんな昔の話をどうして?」
「旅に出るなら、探してほしいって……そう言われたの」
その言葉に、二人は驚いた。
「でも、100年も音沙汰ないんだよ? もうとっくに……」
「エルネス! 私だって、外から見たら100年くらい行方不明なんだよ?」
「……まあ、確かに」
「姫君のこと、詳しくは知ってる?どんな人だったのかとか」
「実際に会ったことはないけど……族長の親戚、たしか従姉妹とか?昔の王族に連なる人って聞いたよ。だから族長に似てるんじゃないかな?」
「翼は? 白い翼だったの?」
「さあ、見たことないからわからないけど……“白鳥”って呼ばれてたくらいだから、きっと白かったんじゃない?」
「ユリアの真っ黒い羽と、族長の真っ白な羽は、どっちも珍しいもんな。だいたいみんな、茶色とかグレーとか、先だけ白かったり、逆に先が茶色だったり、混ざった色の人が多いし」
「そうだね。ほかにはあまり見たことないけど……そういえば、帝国とか周辺の国で祀られてる神様って、飛翔族に似てるよね? 白い翼でさ」
「うん、確かに。助けてくれた人が飛翔族だってわかったとき、神様かと思ったもん」
「へぇ、それは初耳」
「ふふ、西大陸の常識、まだまだ教え足りないわね」
「その話はまた今度にしてさ……とにかく、白鳥の姫君のことは、私たちが来る前の話だから、あまり詳しくないんだ」
「そうか、わかった。族長が“詳しい話は明日”って言ってたし、明日、聞いてみるね」
「さて、と……ずいぶん話し込んじゃったな。もうかなり遅い時間だ。そろそろ帰ろう」
そう言って、エルネスが切り株から腰を上げる。
「ほんとだ……気づいたら眠たい~」
「ふふふ、それじゃ、また明日ね」
「おやすみ、また明日」
「おやすみ。良い夢を」
三人はそれぞれの家へと歩き出した。夜は静かに、優しく更けていった。
翌朝。
夜更かしのせいで、ユリアはすっかり寝坊してしまった。簡単に朝食を済ませると、まだ少し重たいまぶたをこすりながら、いつもの薬草摘みに出かける。朝の森は清々しく、ひんやりとした空気と緑の香りが、眠気をゆっくりと追い払ってくれた。
薬草摘みはそこそこに切り上げ、昼前には族長サピエルのもとへ向かう。
サピエルは神殿の裏にある静かな場所で、何かの記録を読みながらユリアを待っていた。ユリアが近づくと、彼は本を閉じ、優しいまなざしを向ける。
「来たか、ユリア。……少し話そう」
二人は並んで腰を下ろす。サピエルはしばし遠くを見るような目をしていたが、やがて静かに語り始めた。
「白鳥の姫君――その名は、セレイア。私と同じく、族長候補だった」
ユリアは小さくうなずいた。サピエルは一拍置いてから、懐かしそうに微笑む。
「セレイアは私と同じ年に、同じ“双子の月”に生まれた。血のつながりはなかったが、まるで兄妹のように育ったよ。いつも一緒だった。成人の儀も並んで受けた。……あれほど信頼できる存在は、他にいなかった」
その声には、深い愛情と、どこか寂しげな響きがあった。
「成人後は、それぞれ旅に出るようになった。村に戻ってはまた外の世界へ。時には一緒に旅することもあった。各地に散らばる仲間たちを訪ね、話を聞くのが何よりも楽しかった」
記憶をたどるように、サピエルは目を細める。
「だが、ある時からセレイアはあまり村に戻らなくなった。……あの頃は混乱の時代だった。アルセリオ帝国がまだ王国だった頃で、戦が絶えず、森の民やエルフとの混血の子どもたちが、力を理由に連れ去られるような事件も起きていた」
ユリアは息をのむ。サピエルは静かにうなずいた。
「最後に会ったとき、私は彼女に言った。『しばらくは外に出るな』と。だが彼女は――それでも行くと言った。目に強い意志を宿していた。……まるで、何かに導かれているかのように」
「そのときのセレイアは、どこか焦っていた。『必ず戻る』と約束してくれた。そしてこう尋ねたんだ。『私が戻るとき、人を連れてきてもいいか?』と。私は、麓の村程度なら問題ないだろうと答えた」
「彼女は『ありがとう』と微笑んで去っていった。……その微笑みが、最後になった」
一筋の風が吹き抜ける。サピエルの長いプラチナブロンドの髪が、かすかに揺れた。
「それからしばらくして、西大陸の東部で、『白い翼の女神が現れた』という噂が立った。勝利の女神だと、アルセリオ王国の士気は大きく上がり、そして……国は勝利を収めた」
「だが私は……信じられなかった。セレイアが戦に加担するなど、ありえない。彼女が剣を取るとすれば、それは誰かを守るためだけだ。だからこそ仲間たちに頼んで痕跡を探してもらったが、何一つ見つからなかった」
サピエルの声は淡々としていたが、その奥底には深い無念が滲んでいた。
「セレイアは、白い翼を持っていた。私よりもさらに白髪に近いプラチナブロンドの髪。そして、光の加減でグレーにも青にも、紫にも見える、不思議な色の瞳。……あれほど美しく、気高い存在はいなかった」
語られるたびに、セレイアという存在がユリアの心の中で輪郭を得ていく。
「ユリア……もしお前が旅に出るというのなら、セレイアの行方を探してほしい。痕跡がなくとも、彼女の魂がまだこの世界のどこかにあるなら、お前ならきっと、何かを感じ取れるはずだ」
ユリアはゆっくりと、しかし力強くうなずいた。言葉はなくとも、その決意は、サピエルにしっかりと伝わった。




