旅をするには
今日、ユリアは族長に呼び出され、村の中央の崖の上にある神殿を訪れていた。
神殿には長老たちが集まり、村の出来事だけでなく、近隣や各地に滞在する仲間たちからの報告を確認している最中だった。
「族長、ユリアが参りました」
「ユリアか。すまないが、少し待っていてくれ。そこに誰かが持ってきた菓子があるから、食べていていいぞ」
「はい、それではお待ちしています」
族長が指さした方を見ると、外から戻ってきた者たちが持ち寄ったお菓子がたくさん並んでいた。油で揚げた菓子や、ドライフルーツを混ぜて焼いたパウンドケーキなど、この辺では珍しいものばかりだった。
(おいしそう。いただいちゃおう)
族長たちの話は、まだまだ終わりそうにない。
「……帝国の西側がきな臭い……」
「……騎士団が動いているようだ……」
「……東大陸は相変わらずだ……」
「……南大陸で争いが起きているらしい……」
「……ヴァイキングたちは、いまどこに……」
「……砂漠地帯では……」
多くの報告が飛び交っているが、ユリアには内容がさっぱりわからない。
しばらくするとようやく話が終わり、族長がユリアに声をかけてきた。
「よく来た。最近はどうだ?」
今でこそ族長と呼ばれているが、かつて飛翔族が国として栄えていた頃、彼はその王家の末裔だった。すでに200歳を超えているはずだが、見た目は20代半ばの美しい青年にしか見えない。
この日はプラチナブロンドの髪を結わず、まっすぐに垂らしており、神秘的な雰囲気をまとっていた。
ユリアは物心ついた頃から族長に育てられてきた。父母の記憶はなく、村のみんなが家族のような存在だった。
「いつもと変わりません。楽しく過ごしています」
「そうか、それは何よりだ。――ユリア、もうすぐ25歳になるな。ふたごの月には、山の上にある湖で成人の儀を執り行うことになる」
「はい、そうですね」
「成人すれば、この村を出て旅に出ることも許される。考えているか?」
族長の顔は、ふだんより少し真剣だった。
「はい。山の中腹にある村までしか行ったことがありませんし、一度は外の世界を見てみたいと思っています」
「そうか……。もし旅に出るのなら――いや、成人の儀のときに改めて聞こう。旅に出るために必要なことは、わかっているか?」
「はい。まず、翼は完全に隠しておくこと。それから、西大陸では黒目黒髪は珍しいので、これも幻影の魔法で隠すこと。あとは、何が起きるかわからないので、隠匿の魔法をマスターしておくこと。この三つです! 大丈夫です!」
黒い翼を持つユリアは、隠す系統の魔法を難なく使いこなせている。いつでも旅に出られる、そう思っていた。
しかし――
「……それだけか?」
「はい」
(他に何があるの?)
「はははっ。ずいぶん過保護に育ててしまったようだな」
珍しく族長が大きく笑った。ユリアは驚いて目を丸くする。
「え? これだけじゃないんですか?」
「ああ。必要なことは、他にもたくさんある。私も昔は、長い間旅に出たり、一つの地に留まったりしたものだ」
「はぁ、そうなんですね」
「今は“羊の月”だ。もし成人後すぐ旅立つつもりなら、あまり時間はないぞ。早めに準備を進めなさい。村の中で旅に出たことがある者や、外で暮らしたことのある者たち――中腹や麓の村に薬草を運んでいる者たちにも話を聞くといい」
(族長って意外と心配性なんだ。双子の月まで、まだ二ヶ月あるし、大丈夫だと思うけど)
「わかりました。まだ時間もありますし、なんとかなります!」
「ふはは、皆から“合格”をもらったら出発しなさい。努力するのだぞ」
「はい、もちろんです!」
神殿を後にしたユリアは、族長の言葉が気になって仕方がなかった。
そういえば、「旅」とはどうするものか、具体的には考えたことがなかった。
山脈の外を見てみたい――海を見てみたい、砂漠を見てみたい、地域によって違う食べ物を食べてみたい――そういう「見たいもの」ばかりで、「どう旅をするのか」は全然考えていなかった。
確かに、ただ隠れているだけでは旅にはならないかもしれない。
そんなことを考えながら村を歩いていると、道の脇で話し込んでいるメイナとエルネスに出くわした。
「ユリア! どこ行ってたの?」
手を振りながら近づいていく。
「ん、族長のところ。もうすぐ成人の儀があるから、その話」
「もうそんな時期か。双子の月だよね」
「うん、満月の夜に行うって」
エルネスも思い出したように言う。
「そっか。成人の儀……ってことは、村の外に出るかどうかって話だな?」
「えっ、ユリア、どっか行っちゃうの?」
メイナが心配そうに聞いてくる。
「うーん、ずっと外にいるつもりはないけど、村の外には一度も出たことないからね。一番遠くても、麓の村まで。それも急ぎの用事で荷物を届けに行っただけで、村の手前までだったし」
「そうだよなぁ。成人までは外出禁止って決まりだったよな」
「外は危ないよ! 行っちゃダメ!」
「まぁまぁ。危険なことも多いけど、一度くらいは見てみたいもんさ」
「……うん、そうだけど……」
「俺もメイナも外から来たから、いろんな場所を見たことあるけどさ。俺なんて見た目が変わらなくて、同じ場所に住めなくなってここに来たわけで……って、俺の話はいいか。とにかく、一度は外を見てみるのもいいことだよ」
「うん……そうだね。珍しい薬草があったら種を持ち帰るから、育てるの手伝ってよ」
「うん、わかった。それなら行ってもいいかもね。長くここに住むためにも、ってことだよね」
「よし、じゃあ決まりだな。でも、さっきから考え事してたみたいだけど、何かあったの?」
「ああ、族長にね、『旅に必要なことはわかるか』って聞かれたの」
「で?」
「翼を隠すこと。黒目黒髪も幻影の魔法で隠すこと。隠匿の魔法を使えるようにすること。って答えたの」
「……それだけ?」
「うん、そしたら笑われた」
「それだけなら、そりゃ笑うわ」
「え? なんで?」
「だって、旅に必要なのは他にもあるでしょ。何を持っていくかとか」
「食べ物とか水とかでしょ?」
「食べ物がなくなったら買わなきゃいけないだろ? お金は? どれくらい必要か知ってる?」
「お金ってなに?」
「えっ!?」
エルネスとメイナは揃って絶句した。
「食べ物がなくなったら木の実を採るとか、野宿すればいいんじゃないの?」
二人は完全に言葉を失っていた。
「それで十分だと思ったの?」
「え、違うの?」
「違うに決まってるでしょ。ユリア、翼を隠すって意味、ちゃんとわかってる?」
「見えなければいいんでしょ?」
「違う、飛んじゃいけないってことだよ?」
「え? でも隠匿の魔法で……」
「……はぁ……全然わかってないな。外に出てる飛翔族は、滅多に飛ばないんだよ。みんな“歩いて”旅してるの」
「ふーん。じゃあ歩けばいいのか」
「どのくらい歩いたことあるの?」
「村の中をうろうろするくらいかな?」
エルネスとメイナはそろって頭を抱えた。
「まずは訓練だな。成人の儀までは、飛ぶのは最小限にして、基本は全部歩くこと」
「それから麓の村まで行って、お金の使い方とか、物の値段とか、外の状況とか聞いてきなよ。もちろん歩いて、ね」
「わ、わかった。が、がんばってみる!」
思っていたより、やることがたくさんあるみたいだ。ふたごの月までに全部覚えられるかな……。急に、不安になってきた。
――こうして、ユリアのちょっとだけ変わった日常が始まった。
暦の設定、星座をそのまま置き換えています。
1月山羊の月
2月水瓶の月
3月魚の月
4月羊の月
5月牛の月
6月双子の月
7月蟹の月
8月獅子の月
9月乙女の月
10月天秤の月
11月蠍の月
12月弓矢の月