光る海、囁く声 4
白い門だと思っていたものは、近づくにつれて輪郭を失い、ただの霧であることがわかった。厚く立ちこめた霧の壁を抜けると、突然、静寂に包まれた海が姿を現した。舟が進むと、黒く開いた洞窟の口が目の前に迫る。
「干潮でないと、ここまでは進めないんです」と、ネリオンがさらりと言う。
そのまま舟は、音もなく洞窟の奥へと滑っていく。壁に沿って灯る青白い苔のような光が、揺れる水面に影を落とした。やがて洞窟は広がりを見せ、天井が高くなり、舟が浮かぶ空間そのものが大きなドームのようになっていた。
「――?」
次の瞬間、海水がきらきらと輝きを増し、まるで応えるように舟がふっと沈み始めた。ユリアは驚いて立ち上がり、周囲を見回す。
「な、なに? 船が……沈んで――っ!」
「言い忘れましたね、神殿は海の底なんですよ」と、ネリオンは楽しそうに答えた。
船は音もなく、まるで空気に包まれているかのように水の中へと沈んでいく。しかし、不思議なことに、水は一滴も舟の中に入ってこない。まるで海にぽっかりと穴が開き、滑るように進んでいた船が沈み切るとドームのように船の周りだけが空気に守られている。壁かと思って触ろうとすると、
「触らないで、大きな泡が崩れてしまいます」
「すみません」
「ふふふ、冗談ですよ、触っても大丈夫です」
船が沈んだとこと言い、今と言い、ユリアはムッとしながら、
「……大神官様って、いたずら好きって言われませんか?」
「よく言われますよ。前の大神官様には、もう、何度怒られたことか」
ネリオンは肩をすくめる。この男がどうして大神官になれたのか…。
やがて舟はゆるやかに沈み切り、海底に辿り着いた。直接濡れているわけでもないが、寒さに少し震えていると、置いてあったショールをどうぞと、ネリオンが渡してくれる。
そこからは、静かに前進を始める。光も届かない場所に色鮮やかな珊瑚や淡く光を放つ海藻が連なり幻想的なトンネルのようだ。やがて珊瑚で遮られた場所にたどり着くとネリオンが珊瑚に近づき、何か言葉を低くつぶやくと、珊瑚が音もなく開いていく。
その奥はすでに神殿の中だった、珊瑚や大きなシャコ貝が無造作に置かれた淡い光に照らされた空間の中央――
そこには、大きな貝殻を幾重にも重ねたような玉座に腰かけた一人の女性の姿があった。
見た目は美しいの人間の女性のようだ。肌は青白く、目は閉じられており、まるで石像のように静止していた。表情は闇に沈み、うかがい知れない。
しかし異様だったのは、彼女とその玉座が――背後の大きな岩とともに、太い鎖のような魔法の光で幾重にも縛られていたことだった。
ユリアは言葉を失い、ネリオンを見つめた。
彼はただ、微笑みながらこう言った。
「さあ、主に会いにいきましょう」
船が女性の側に近づくと空気の泡が広がり女性も同じ空間に入る。すると、石像のようだった女性が、わずかにまぶたを持ち上げた。
海の底にあるはずのその瞳は、まるで空を映したように淡く光り、静かにユリアを見つめる。
「……セレイア…久しぶりだな…サピエルは息災か…?」
思いもよらぬその声に、ユリアは一瞬、息を呑み、言葉を失った。
胸の奥で何かが強く脈打つ。
「……あの、私は……白鳥の姫君ではありません」
ユリアはやや慌てながらも、深く頭を下げた。
「飛翔族の村、エルシアから来たユリアと申します。サピエルは、族長をしております」
セリュナの目はわずかに細められた。
その瞳の奥に、懐かしさと、揺らぎが混じる。
「……そうかセレイアではないのか。サピエルは族長になったのだな。ユリアよ……では、セレイアは今どこに?」
ユリアは、ほんの一瞬、心の奥をかすめた痛みを押し殺しながら答える。
「……はい。白鳥の姫君は、およそ百年前に行方が分からなくなったと、族長から聞いています」
「なんと、そうだったのか……それは、心配だな。たがセレイアにはいつも探しているものがあった…いまも…まだ探しているのだろう」
セリュナの声は、海流のように低く柔らかく響く。
「探しているもの…?」
「しかしな……これほど似ている者が、この世にいるとはな……」
「……私が、白鳥の姫君に……似ていると?」
ユリアは自分の胸に手を当てた。今の今まで、そんなことを言われたことはなかった。
「ああ。本人と見まがうほどにな」
セリュナはわずかに笑んだようにも見えた。
「でも……似ているなんて、誰にも……族長にも言われたことがありません」
「髪色は違うが、変装していた時の、セレイアによく似ている」
女神のまぶたが少し伏せられる。
ユリアは小さく息を飲んだ。なぜ族長はそれを言わなかったのだろう。
ユリアは少し視線を落とし、言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。
「……私が“白鳥の姫君”に似ていると、言われたのは、本当に、今日が初めてです、族長のサピエルにも言われたことはありませんでした。」
淡く揺れる海の光が、静かにユリアの顔を照らしていた。
「私は今年、ようやく成人を迎えました。そのとき、はじめて――“白鳥の姫君”の名を聞かされたんです」
セリュナの瞳が、少しだけ細められた。
「族長であるサピエル様が……成人の儀のあと、旅に出る私に言いました。『旅の途中で、できれば白鳥の姫君を探してみてほしい』と」
ユリアは自分の胸に手を当てた。言葉にすることで、ようやく実感が湧いてくるようだった。
あの時はなぜ私にそんなことを頼むのか、わからなかったけれど、海の主に会いようやく少し見えてきた気がする。ついでに頼まれたのではなく、私が探しに行かなくちゃならなかったんだ。
声は震えていないのに、心の奥で波が揺れていた。
まるで自分という存在の奥に、もう一つの声が眠っているような――そんな感覚。
ユリアは白鳥の姫君のことを知りたかった
「セリュナ様、白鳥の姫君、セレイアと最後に会ったのは何時でしょうか。」
「そうだな…最後に会ったのは、私がここにきてから…何年か経っていた。西大陸で戦が始まっている…しばらくこれないかもしれない…と。その時も…まだもう一度私を外に連れ出そうとしていたな」
「え、外?」セリュナはもともとここにいたのではないのだろうか?その疑問に答えるようにネリオンが答える。
「もともとは他の島で巫女をされていたそうです。」
では、なぜ今ここに縛られているのか、セリュナの事情も気になってしまう。
「白鳥の姫君とはいつからの知り合いなのでしょうか、そのなぜ友達に?」
「セレイアは私を救おうとしたのだ………。少し…私の話をしようか」
セリュナはゆっくりと話しはじめた。




