光る海、囁く声 3
「おかえり、ロシェ。何かあったの?」
ユリアが問いかけると、ロシェは肩をすくめてみせた。
「ちょっとな。知り合いから少し話を聞いただけだ。帝国の船を避けるようにして南の海域を通った船があったらしい。最短ルートじゃなく、隠れるようにして航行してたってさ」
「それって……やっぱり、ヴァリーノから怪しい荷物を運んでたってこと?」
「たぶん、ヴァリーノ発の船だったんじゃないかって言ってた。帝国の船も同じころ、帝都方面に向けて動いてたみたいで、航路がおかしいから警戒はしてたらしい。でも、これといって魔力の反応もなかったから、結局は放っておいたって話だ」
それを聞いたナディアは、「まあ、私たちも微妙な航路とってるっちゃ、とってるしねぇ」と言いながらも、どこか腑に落ちない様子だった。ロシェも、考えすぎかな、と呟きつつ頬杖をついている。
「まあ、明日も何隻か船が入ってくるみたいだし、様子を見て情報を集めておくよ」
「ユリアは明日、夜明けに出発するんだろ?早く食べて寝たほうがいいぞ」
ロシェにそう言われ、ユリアも気にはなりつつ、明日起きられなかったら困ると思い、早めにベッドに入る。案の定、気になってなかなか寝つけないかと思いきや、いつの間にかすぐに眠ってしまっていた。
そして、朝。まだ陽が昇る前、ルフに起こされたユリアは、まだぼんやりとした頭を冷たい水で洗い、旅支度を整えた。すると、ちょうど扉の外から控えめなノックの音が響いた。
「ユリア様。神殿からの迎えです」
宿の主人の声に続いて、白い衣をまとった若い神官が現れた。まだ外は薄暗く、辺りは静まり返っている。神官は深く礼をすると、言葉少なに歩き出した。
ユリアとルフはそのあとをついていく。向かったのは町の神殿の裏手――普段、一般の参拝者が足を踏み入れることのない、ひっそりとした一角だった。そこには石段があり、霧の中へと沈み込むように続いている。
降りた先には小さな船着き場があった。霧が濃く、すぐ先すら見えない。水面も空も一体となったように、どこまでも白く、静かだった。
その中に、ひときわ目を引く人物が立っていた。青と銀を基調とした長衣をまとう、ネリオン大神官だった。彼の姿はまるで霧の中に灯る灯火のように、くっきりと浮かび上がって見える。
「よく来ました、ユリア。ここから先は少々、特別な道を通ります」
大神官のそばには、小舟――というよりも、椅子がいくつか乗せられただけの、簡素ないかだのような乗り物があった。木の板を並べただけのその姿は、とても神殿へ向かう神聖な船とは思えず、ユリアは少し不安そうに眉をひそめる。
「……この船で行くのですか?」すごく不安だ。
「そうです。見た目は質素ですが、霊水の流れを繋げた道がございます。私たちしか通れぬ水路です」
大神官の言葉にうなずき、ユリアはおそるおそるいかだに乗り込む。ルフはユリアの肩に乗ったままだ。
大神官が後ろに続いて乗ると、不思議なことが起きた。船の周囲を覆っていた霧が、ふわりと引くように晴れていく。まるで道が開けたかのように、濃密だった霧が輪のように退いてゆくのだ。
そして、船は音もなく、まっすぐに、滑るように進み出した。波の揺れも、風の音もない。ただ、どこまでも静かに、水面を滑っていく。
「……これは、水を操っているんですね」
ユリアがそう呟くと、大神官は微笑みながら答えた。
「ええ。神殿の加護によって、水そのものが我々を運んでくれているのです。風ではなく、帆でもなく、意志のある流れ……。この道は、選ばれし者だけに開かれるものです」
ユリアは、前方に広がる白い世界を見つめた。乙女の月に入ったところでまだ暑さがあるはずだが、霧の中は涼しく、季節もわからなくなる。まるで夢の中にいるような感覚。けれど確かに、船は進んでいる。
船が滑るように進む中、静けさに包まれた時間がしばらく流れた。
やがてネリオン大神官はふっと息をつき、ほんの少し、肩の力を抜いたように言った。
「こうしてふたりきりになるのは、初めてですね」
「……そう、ですね。はい。」
急に普通の話し方になったネリオンにユリアが少し驚いたように言うと、ネリオンは肩をすくめて微笑んだ。
「立場上、皆の前ではどうしてもね。でも本当は、あまり堅苦しいのは得意じゃないんですよ。こうやって静かな霧の中を進んでいると、肩の力も抜けるというものです」
ユリアも、その言葉につられるように息を吐いた。
「……ほんとに、どこか別の世界に来たみたい」
「ふふ、あながち間違いではありませんよ」
ネリオンは霧の先を見やりながら、ゆっくりと語り出した。
「この水路は、古の海の民が神と交わした契約によって生まれました。神の加護により霧が道を隠し、今ではこの水路を知る者は神殿のごく一部の者だけ。地図にも記されない、忘れられた道です」
「……どうして、そんなふうに隠される必要が?」
ネリオンは少し表情を変え、ユリアの方をちらりと見た。
「海の怪物の伝説を、聞いたことは?」
「おとぎ話でなら。昔、人を飲み込む巨大な怪物がいたとか……」
「ええ。その“おとぎ話”、あれは完全な作り話というわけでもありません」
ユリアは少し目を見開いた。
「実際に怪物が封じられているのです。正確には、“かつて神々と交わりしもの”の痕跡。それを封じ、見張り、祈りを捧げ続けているのが、この先にある神殿と――その主です」
「……それ、聞いちゃっていいことなんですか?」
ユリアの問いに、ネリオンは小さく笑った。
「真実を知る者は限られています。けれど伝説としては、語り継がれているのです。だから“おとぎ話”の形であっても、誰かが耳にしていれば、それでいい」
「でも、そんな場所に……私が行ってしまって、いいんですか?」
ユリアの声には、わずかにためらいがにじんでいた。
するとネリオンは片目をつむって、子供のように悪戯っぽく微笑んだ。
「内緒ですよ」
その一言で、ユリアの肩の力が少し抜けた。
「主と話してみてください。あなたなら、きっと受け入れてもらえる。……白鳥の姫君も、かつてそこを訪れたことがあるのですから」
「白鳥の姫君も……」
ユリアはそっと呟いた。霧の向こうに、遠い記憶のような気配が感じられる気がした。
「主は、姫君が来たとおっしゃった、人違いだったとしても何かつながりがあるんですよきっと」
船は静かに、しかし確実に進み続けていた。霧の奥に、白く大きな門のような影がゆっくりと近づいている。




