光る海、囁く声 2
神殿の白い回廊を抜けると、やわらかな夕日が瓦屋根の端を照らしていた。
「こちらへどうぞ」と声をかけてきたのは、先ほどから付き添っていた若い神官だった。
「今夜はこちらでお休みください。明朝、また迎えに参ります」
丁寧に一礼した神官は、部屋の鍵をユリアに手渡すと静かに立ち去っていった。
案内されたのは、神殿に隣接する宿舎の一室だった。
中央に木のテーブルと椅子が置かれた広めの部屋と、両脇には寝室が二つ。質素ではあるが清潔感があり、祭具や巻物が棚に並んでいるのが神官の住まいらしさを感じさせた。
「今日は……なんだか夢みたいだったね」とナディアがぽつりとつぶやく。
エリンは窓辺に座って、指で夜風の流れを追っていた。
ユリアは椅子に腰かけ、髪を軽くまとめ直す。「普通なら……こんな場所に、私たちが通されるなんてないよね」
今までの出来事に少しぐったりした様子で話しながら、本来の目的も大神官様に話したことだし、情報収集をするのに何が聞けるかなどをを話会う。
「帝国の動きも、もっと知りたいな、船で移動してたし結構情報を持っているんじゃないか?港の町なら、きっと何か情報があるだろ」とロシェが言い、みんなが腰を上げかけたその時——
トン、トン。
軽いノック音が扉を叩いた。
ロシェがそっと扉を開けると、そこに立っていたのは短く髪を切り揃えた少女だった。年は十六、七といったところか。海の風に焼けた肌とやさしそうな瞳が印象的だった。
「大神官様の命で参りました。私はディーネと申します」
少女は一礼すると、はっきりとした口調で続けた。
「海の民の血を引く者に、水の力の扱い方を教えるよう命じられました」
ユリアたちが一瞬顔を見合わせると、ディーネは
「これから出かけるところでしたか?それなら街へご案内します」
ユリアたちは頷き、宿舎を後にした。
ディーネの案内で石畳の道を歩き、昼下がりの市場を抜ける。
灯りのともる露店には、異国の香辛料や布、彫刻が並び、ナディアとエリンは目を輝かせて走り回っていた。夢中になっている様子を見て、
「私はちょっと、知り合いに挨拶してくる」とロシェが言って通りを外れる。
ユリアは小声で、ディーネに尋ねた。「ネイヴと一緒について行ってもいい?」
ディーネは頷く。「もちろん。少し歩くけど、いい場所があるの」
道すがら、自分が飛翔族で旅に出た途中でネイヴ達一緒に旅をすることなどを話した。
三人は港を離れ、街の南側に広がる岩場へと向かった。岩場の先は砂浜になっており、潮の香りが風に混じり、静かに波打っている。
「ここなら、波の動きがよくわかるんだ」とディーネは言い、ネイヴを振り返る。
ネイヴはふうん?といった様子で波の動きの違いは判らないようだ。
「ねえ、ネイヴ。水の動きを感じたことある? 動かそうとしたことは?」
ネイヴは少し考えてから答えた。
「天気が崩れるときは、なんとなくわかる。でも、水を動かすなんて、考えたことなかった」
ディーネはふふふ、と笑いながら、
「じゃあ、やってみよう」
ディーネはネイヴの手を取り、海へと差し出すように促した。
「波が手に当たるのを感じて。大きいとき、小さいときの違いも。……ユリアも、どう?」
ユリアもそっと海へ手を伸ばす。冷たい水が指先に触れ、小さな振動のような感覚が腕に伝わる。
「海は波があるから、その流れを少しふくらませたり、しぼませたりするだけで、水は動くの」
ディーネはそう言うと、少しだけ両手を掲げた。
すると、不規則だった波のいくつかが、高さを揃えて岩に打ち寄せ始めた。同じ場所に、三度。
今度は、ゆっくりと、より小さく三度、波が戻ってきた。
「やってみて」と、ディーネがネイヴに促す。
ネイヴは集中するが、うまくいかない。
「さっきの波の感触を思い出して。手に当たってた、あの感じをね」
ディーネの助言に、ネイヴは深く息を吸って再び両手を海に向けた。今度は、波のひとつがわずかに高く、そして同じ場所に。
「できた……?」ネイヴが目を見開く。
「うん! 大丈夫できてる!」そう言われて何度か同じ動きを繰り返すとネイヴは感覚をつかんだようだ。ユリアもやってみるがなかなかうまくいかない。ルフは果敢に波に挑んでいたようだが早々にあきらめ空を飛んでいる。
しばらく練習すると、三人は砂浜に移動した。
「次はこれ」
ディーネがそう言って指を振ると、波打ち際の海水が裂け、短いながらも海面が割れて、砂地が顔を出した。
「この範囲だけ、水を沖に動かしたの。やってみて」
ネイヴはすぐに要領を掴み、同じように水を割ることに成功した。
ディーネはぱっと笑顔を浮かべ、浜の端に向かって駆け出す。
そこには小さな船が引き上げられていた。
「これ、浮かべてないけど乗って。練習になるから」
ディーネに言われた通り、ユリアとネイヴは船に座る、ディーネも船に乗った。波打ち際からは少し離れているが、ディーネが水を引き寄せるように手を動かすと小さな波が寄せ、船体をそっと持ち上げた。
そして波打ち際から少し海の深くなっているところに出ると、ディーネはネイヴに船を動かすように指示を出す。
「右に動かしてみて。……今度は後ろへ」
ディーネの声に、ネイヴが手を広げ、水を導く。船はゆっくりと従い、左右に、そして後退してゆく。
ディーネは満足そうに笑うと、「じゃあ、元の浜に戻してみて」と言われ、ネイヴは波の上で少し戸惑うが、「高さと長さ、両方を意識して」とディーネに言われ、慎重に動かすと、船は無事に元の位置へ戻った。
「すごい! ここまでできるなんて思わなかった!」
ディーネは心底楽しそうに叫び、ネイヴも目を輝かせた。
「明日も朝から練習しよう!」
「うん、すごく楽しい!」
笑顔のまま、三人は再び街へと戻っていった。
夕日に染まる港町を、ユリアたちは石畳の道を踏みしめながら歩いていた。
街はすでに夜市の準備でざわめきはじめ、軒先では明かりが一つまた一つと灯されていく。
「楽しかったね!」とネイヴが顔を輝かせる。
ディーネはその隣で小さく頷き、「明日はもう少し沖まで行ってみようか。ネイヴなら、小舟くらいならもう動かせる」と笑った。
「じゃあ、私はここで」と、ディーネは自分の宿舎へと軽く手を振って別れた。
ユリアとネイヴが宿舎に戻ると、ナディアとエリンがすでに帰っていて、テーブルいっぱいに色とりどりの布や飾り紐を広げていた。
「見て見て! 港の露店で見つけたの。触ってみて、すごく柔らかいの!」
エリンが目をきらきらさせながら布を差し出す。
ユリアはそれを受け取り、「ほんとだ、軽い……絹かな?」と指先でそっと感触を確かめた。
それから間もなく、ロシェが帰ってきた。いつものように穏やかな笑みを浮かべてはいたが、その目の奥には、どこか鋭い光が潜んでいた。




