揺らぐ羅針盤 3
部屋の扉が開くと、そこには一人の神官が立っていた。この神殿で最も高位にあるという、大神官様である。
ユリアたちが中へ入ると、彼は柔らかく微笑みながら口を開いた。
「ようこそ、エル=ルカ島へお越しくださいました。あなたが――白鳥の姫君、ですか?」
―――
エル=ルカ島の影が見え始めてからしばらくして、ロシェが言った。
「上陸は、夜が明けてからにしよう。波も穏やかだし、このままここで待つのが賢明だろう。」
海が青白く光ったあの瞬間以来、皆どこか浮き足立っていたが、真っ暗な海での上陸は現実的ではなかった。高ぶっていた気持ちも次第に落ち着き、ユリアたちは翌朝に備えて休むことにした。
――どこだろう、ここは。
夢の中、ユリアはふわりと水の中を漂っていた。かすかにイルカや魚の姿が見える。誰かと話しているような声も聞こえるが、何を言っているのかは分からない。やがて周囲がぼんやりと白んでゆき――ルフに突かれて、目を覚ました。
「よし、そろそろ港に着けるぞ。皆、起きてるか?」
ロシェの声に、ユリアは大きく伸びをしながら立ち上がる。
「うん、バッチリ!」
ナディアが周囲を見渡しながら言う。
「この島、神官が多いって話だったし……外からの船もいないみたい。変装は控えたほうがいいかも。」
「そうだな。ユリア、髪は元に戻していい。翼は隠しておけ。エリンとネイヴはペンダントを外して、預かる。」
二人は素直にペンダントをロシェに渡した。
「それじゃ、いざ出発!」
エル=ルカ島の港が近づくにつれ、岸辺に10人ほどの神官や衛兵らしき人影が見えてきた。皆、こちらを注視している。
「……近くに停泊してたの、気づかれたかな?」
「この島、あまり船の出入りがないって聞いたしね。目立ったんだろう。」
合図に従って船を港に着けると、岸にいた集団の一部がこちらへ向かってきた。歓迎というより、警戒心を含んだ張り詰めた空気が漂う。さっきまでの高揚感はすっかりしぼみ、不安が胸をよぎる。
タラップを降りると、神官の一人が一歩前に出て、穏やかな声で告げた。
「ようこそエル=ルカ島へ。お待ちしておりました。」
「え……お待ちしてた?」とロシェが呟く。
ナディアも「連絡なんてしてないよね……?」と小声で言った。
戸惑いながらも神官の案内に従い、ユリアたちは港の中心部へと向かった。
神殿近くの建物へ案内され、「お疲れでしょう。食事をご用意しておりますので、しばらくこちらでお待ちください」と通されたのは、広々としたエントランスのような空間だった。
「ねぇ、どうなってるの?」
「このまま捕まるんじゃないだろうな……」とロシェが小声でぼやく。
話しかけようにも、神官たちは皆忙しなく動いており、声をかける隙がない。状況がつかめず不安が募る中、ルフだけは建物の中を気ままに飛び回り、まるで遊んでいるようだった。
しばらくすると神官が戻ってきて、「食事の準備が整いました。どうぞ、こちらへ」と案内され、テーブルにつく。
ロシェが丁寧に口を開いた。
「歓迎していただきありがとうございます。ですが……なぜ、我々の到着をご存知だったのでしょうか?」
案内の神官は一瞬驚いたようだったが、すぐに笑顔で答えた。
「昨日、大神官様よりお達しがありました。『明日の朝、翼を持つ者たちが港に現れる。丁重に迎えよ』と。」
その言葉に、ユリアたちは顔を見合わせ、思わず息を呑む。
「え……? 私たち、何の知らせも送っていないのに……どうして飛翔族だと?」
「そのように伺っておりますよ」と、神官は穏やかに笑った。「どうぞ、ごゆっくり食事をお楽しみください。後ほどまたお伺いします。」
神官が去ったあと、ロシェが低くつぶやく。
「……どういうことだ? 昨夜って……海が光って見えた時か?」
「誰かが、あの時に気づいた……ってこと?」
「巡回してた誰かが見たのかも? エルシア村みたいに巡回してる人がいる?」
「ネイヴ、あの時、何か感じた?」
「うーん、ぜんぜん。海が光ってて、見とれてたかも……」
「不思議だけど……とりあえず、食べよ! おいしそう!」と、エリンは気にも留めず食事に夢中だ。
並んでいるのは、海の幸をふんだんに使った料理の数々。干物続きだった最近の食事とは大違いで、ユリアもエリンと同じく、思わず顔がほころぶ。
「そうだな。後で説明があるらしいし、今は食べよう。」
不安な気持ちを抱えながらも、食事はどれも美味しく、いつのまにか緊張もほぐれていた。
ゆっくり食事を味わいしばらくくつろいでいると、再び神官が戻ってきた。
「お食事はお口に合いましたか?」
「うん、すごーくおいしかった!」とエリンが笑顔で答える。
「それは何よりです。」
「こんなにごちそうになって……ありがとうございます。でも、このあとは、もう帰っても?」
「いえ、大神官様がお会いになりたいと仰っています。恐縮ですが、別のお部屋へご移動をお願いします。」
「えっ……大神官様……?」
思わず顔を見合わせるユリアたち。さらに神官は続けた。
「それから、今晩ご宿泊いただけるお部屋もご用意しておりますので、どうぞごゆっくりお過ごしください。」
誰かと勘違いされているのでは……そんな疑問が再び頭をもたげる。とはいえ、神官たちはどこまでも丁寧で、敵意も見えない。ユリアはルフを見やるが、彼も警戒する様子はなく、むしろ少し楽しそうに羽をはばたかせていた。
(……怪しい人たちじゃなさそうだけど、いったい何が起きてるの?)
そうして神殿の奥へと進み、ユリアたちは静かな廊下を抜けていった。壁には海を模した模様が彫られており、光を受けて青くきらめいている。神殿全体に漂う澄んだ空気が、どこか水底にいるような錯覚を与える。
そして案内された部屋の扉が、重々しく開かれた。
中は広く、天井の高い静謐な空間だった。海の光を思わせる淡い青のカーテンが風に揺れ、室内には柔らかな香がほのかに漂っている。その中央に、一人の神官が立っていた。まだ若く、整った顔立ちをした美しい青年で、その衣には他の神官たちとは異なる、繊細な金の刺繍が施されている。
その姿を見て、誰もが自然と歩を緩めた。彼こそ、この神殿の最も高位の存在――大神官に違いなかった。
ユリアたちが部屋に足を踏み入れると、青年はゆっくりとこちらに向き直った。静けさの中で、彼の声が柔らかく響く。
「ようこそ、エル=ルカ島へお越しくださいました。あなたが――白鳥の姫君、ですか?」
ユリアに向かってまっすぐ投げられた言葉に、ひゅっと息をのんだ。




