揺らぐ羅針盤 2
翌朝、セラド港には柔らかな朝霧がかかっていた。
木々の影がゆらゆらと揺れ、遠くでカモメの鳴き声が響く。
喧騒に包まれた港町も、この時間だけは息を潜めるかのように静まり返っていた。
カモメ号の甲板では、出発に向けた準備が粛々と進められている。
ロシェは帆具を確認し、ナディアは食料と薬草の仕分けに集中していた。
その横では、ネイヴとエリンが樽の中身を点検しながら、小さな言い争いをしていた。
「ねえ、この干し肉、ちょっと色が変じゃない?」
「燻製の種類が違うだけだってば。文句ばっかり言ってたら、何も積めなくなるよ」
「でもね、もしこれでお腹壊したら……エル=ルカ島に着く前に大惨事だからね?」
「わかったわかった、じゃあ疑わしいのは抜こう。でもあんまり減らすなよ、俺の分まで減るのは困る!」
そのやりとりに思わず笑ってしまいそうになりながら、ユリアはナディアのもとへと近づいた。
「ねえ、エル=ルカ島って……本当に“結界”があるの? わたしたち、入れるのかな」
ユリアの問いかけに、ナディアは手を止め、静かに彼女を見つめた。
「入れるわよ。結界があるのは島そのものじゃなくて、沖にある古い神殿の方。
エル=ルカ島自体は、ちゃんと航路にのっていれば辿り着けるわ」
「……でも、その神殿って、普通の人は近づけないんでしょ?」
「そう。でもね、島だって十分に神秘的な場所なの。海の精霊に守られた島だって言われてるのよ」
ナディアの目がわずかに和らぐ。
「夜になると、海が光ることがあるの。水の精が遊んでるんじゃないかって言う人もいるわ。
ネイヴにもいつか見せてあげたいって、ずっと思ってたの」
「ネイヴに……?」
ユリアは意外そうに目を見開いた。
「ええ。あの子、海の民の血を引いてるのに……その世界に触れたことがないのよ。
自分は捨てられたって、どこかで思ってるみたい。だから、ずっと距離を取ってきた。
でも、あの島なら、何かが変わるかもしれない。そんな気がしてるの」
ナディアの言葉を受けて、ユリアは何も言わずに海のほうを見つめた。
澄んだ空の下、水平線は果てしなく続いていて――その向こうに、まだ見ぬ島の影が確かに存在している気がした。
正午を過ぎると、風向きが変わり、カモメ号はゆっくりと港を離れた。
帆が張られ、軋むロープの音とともに船が海へと滑り出していく。
ロシェは舵を握り、真剣な表情で前方を見据えていた。
「風は順風。予定通りなら三日で島の近くに着けるはずだ」
「ほんとに三日で?」
ネイヴが上から身を乗り出して尋ねる。
「天気がもてば、の話だな。でも今日は、海の機嫌は悪くない」
ロシェが肩をすくめると、エリンが「じゃあ、お菓子が残るように祈らなきゃ」と笑った。
港の喧騒はすぐに遠ざかり、代わりに波の音と風のざわめきだけが船を包む。
その静けさの中、ユリアは甲板の縁に手をかけて海を見つめた。
潮風が髪を優しく揺らし、頬をなでていく。朝の海とは違い、午後の海は深く、静かな青に満ちていた。
「不思議な気分だな」
隣に立ったロシェがぽつりとつぶやく。
「この海の下には、何百年、いやそれ以上前の物語が沈んでる。
俺たちは、それを知らないまま、その上を通ってるんだ」
「……じゃあ、エル=ルカ島も、その物語のひとつ?」
「きっとな。お前の旅も、もうその中に入ってる。今さら引き返すことはできないぞ」
ユリアは小さく笑って、風に目を細めた。
「もう戻るつもりなんて、ないよ」
そのとき、帆の上からネイヴの声が響いた。
「おーい! イルカだ! 船の横、見て!」
「ほんとだ!」
エリンが身を乗り出し、指さした方向に、海の中からいくつもの灰銀の背が躍る。
数頭のイルカが、船と並ぶように泳いでいた。
時折、水面を跳ね、尾をひねりながらくるりと宙を舞う。
まるで、彼らがこの航海の案内人であるかのように。
「……縁起がいいな」
ロシェがぽつりと言った。
ユリアは黙って頷いた。
波の向こうに続く見えない道。その先に何があろうとも、いま、心はまっすぐそこへ向かっている。
風が頬を撫でる。
ユリアはそっと目を閉じて、そのぬくもりを胸に刻んだ。
予定通り航路を進んでいたカモメ号だったが、三日目の午後から、空の色にわずかな翳りが差し始めた。
はじめは高く薄い雲だったものが、夕方には低く垂れこめ、風も気まぐれに方向を変えはじめる。波も次第に荒くなり、船体が軋む音が増えた。
「嵐にはならないが……気を抜かない方がいいな」
ロシェが帆の調整をしながら低く言う。
ナディアも眉間にしわを寄せていた。
「空が重いわね。でも進める。ここで立ち止まるほうが危険」
「予定より少し遅れそうだけど、まだ大丈夫だよね?」
ユリアが尋ねると、ロシェは頷いた。
「あと半日ほどずれるかもしれないが、星さえ出てくれれば進路は保てる」
船は慎重に速度を落としながら、じりじりと進んでいった。
四日目の夜。
新月の夜であたりは真っ暗だ、
「そろそろ見えてきてもいいんだが」
「……見えないね」
ネイヴが小さくつぶやく。
ユリアは甲板の縁から身を乗り出し、目を凝らした。
本来ならそろそろ島の影が見えてくるはずだった。だが、あたりは墨を流したような闇で、水平線の境さえわからない。
「星があるだけましだよ。あれがなかったら、今ごろ方向を見失ってる」
ロシェが指差した空には、かすかに瞬く星々が散っていた。
彼はそれを頼りに、細かく舵を調整し続けている。
ユリアも空を見上げる。そしてふと、海の端に目を戻したとき――。
「……あれ、見て」
遠く、海面の一部がぼんやりと淡く、光を帯びていた。
波打ち際ではない。遥か彼方の沖合、まるで誰かが水の下に灯りをともしたかのように、淡く青みがかった光が、じわりと揺れている。
「……これは……」
ユリアは思い出していた。
あの夜、エルシアの湖で見た、精霊のような光。
それは夢か幻のように感じられたが、今――同じような光が、現実の海に漂っていた。
「精霊の光……?」
ナディアがつぶやくように言った。
淡い光は、やがて線のように広がり、やわらかに海面を照らしはじめた。
その向こうに、ついに――島の影が浮かびあがってきた。
最初は輪郭もはっきりせず、霧の向こうにかすむ幻のようだった。
けれど、船が近づくにつれて、それは確かに“島”という形を取り始める。
黒い森のうねり、高くそびえる岩肌、そして白く光る建物の一部が、夜の海に浮かびあがってきた。
「……エル=ルカ島……!」
ユリアが声をあげた。胸が高鳴るのを感じた。
その瞬間、船の下を何かが泳ぎ抜けた気配があった。
青白い尾のようなものが、水の中をかすめていく。するとうっすらと光っていた海の光は消えていった。
「……海の民の精霊、かもしれないね」
ナディアが静かに言った。
ユリアは船縁に手を添えながら、闇に包まれていく海を見つめた。




